2023年3月14日火曜日

トマホークか訓練か:808

 日本政府は米国から巡航ミサイル「トマホーク」を400発買う事に決めたそうだ。国防予算増加に賛成の世論の後押しがあっての事だ。400発の内、何発が実際に使われ、何発が使われないまま耐用年数を終えるのだろう。一発でも使われれば相手国は黙っていないだろうからとんでもない事態になりそうだ。400発の全てが無駄になる事を切に願う。

ヨーロッパでは昨今の国際情勢に鑑み、様々な動きがあるようだ。デンマークで国防費を捻出するため国民の休日を一日減らそうという動きがあるのはまだ可愛いほうで、フランスでは負傷した人の傷の手当や止血法など応急処置の訓練を義務化する方向で検討しているというし、ポーランドでは高校生に銃の打ち方を指導しているらしい。もし日本で高校生のカリキュラムに週2時間程度の軍事教練を組み入れようとしたら恐らく大反対の声が沸き起こるだろう。

他国と陸続きになっていないという安心感からか、軍事費増強に賛成意見を表明する人達もまさか自分が武器を持って戦うという覚悟はないように思える。トマホークの購入には賛成だが、軍事訓練に反対するのはちょっと卑怯ではないか。本当に戦争になった時、自衛隊さん、米軍さんお願いしますよ、私は戦いたくありません、というのでは通らない。他国の侵略にあったら、トマホークも一定の役割は果たしてくれるかも知れない。しかし本当に国を守るためには国民自ら武器を持って立ち上がるしかないのだ。

それにしても、時代が進むにつれて段々物騒な世の中になって軍備に回す予算を増やさないといけないようになるのは何かおかしくないか。人類は過去の出来事に学び、反省し、いくらか生き物として賢くもなって、より平和で安全で豊かな世界を作るのではないのか。

2023年3月12日日曜日

死の講義

 「死の講義」



面白く、かつ読みやすいので一気に読めた。死とは何か?死んだらどうなるのか?の疑問に宗教の立場から考察する。

死の恐怖には誰しも一度は襲われた事があるだろう。

私も小学生の頃、死んだらどうなるのだろうかを想像すると怖くて仕方がなかった。死の後にくる無限の時間を思うとそれが怖くて怖くて・・・毎晩布団に入る度にその恐怖に襲われ、自然に涙があふれた。それを見た母は「また誰かと喧嘩して負けたのか」と聞いてきた。

中学生になると「死とは何か」を考える事は「自分とは何か」を考える事なのだと気付いた。死とは自分が無くなる事だ、ならば無くなる自分とは何か。

最初の答えは「つねると痛い部分、それが自分だ」というものだった。「痛みを感じる範囲が自分だ」という定義はそれなりに気に入っていた。例えば妹が虐められているのを見ると僕の心も痛む。家族が拷問されている姿を見れば誰だってどこかに痛みを感じるだろう。という事は妹や家族も僕の一部ではないか。この発想は後に自己と愛と運命が三位一体であるという自論に到るのだがそれはまだ遠い話。

ともかく、痛みが自分を証明する証だとする。そうすると髪の毛はどうだろう。髪の毛を切っても痛くないということは髪の毛は僕の体にくっついてはいるがもう自分ではないのか。爪もそうだ、汗も自分ではない。オシッコはどうか。腎臓で濾される前までは自分だが、膀胱に溜まってるときはもう自分ではないのか?ここまでが自分で、これから外は自分じゃないという境界線って思ってる以上に曖昧ではないだろうか。

食べ物だってそうだ。今目の前にあるホウレンソウ。これは明らかに自分ではない。ところがこれを口に入れ、咀嚼し、飲み込んだ。まだ自分じゃない。だけど胃袋に入って粉々になって、腸に入って分解された栄養素として吸収されるとその時点では自分になっている。ホウレンソウと自分の境界はどこにあるのだろう。

物質的な自分の体はちょっと前までホウレンソウだったり、ちょっと後には汗になったり尿になったりするような物だ。新陳代謝によって自分の体を構成する原子分子は絶えず入れ替わっている。昨日までホウレンソウの一部だった炭素が今日は僕の体の一部になり、昨日まで僕の一部だった酸素が今日は次の宿り木を探して空中をさまよっている。

物質的にみたら自分なんて本当に存在するかどうかすら分からない。ちょうど流れる川の中にザルを入れて「このザルの中の水は俺のものだ」と叫んでいるようなものなのだ。その内ザルが目詰まりを起こし、新陳代謝がなくなってザルの中の水が入れ替わらなくなって確定した時が自分の死なのだから、自分に拘泥するのは滑稽ではないか。

結局自分とはこの宇宙に漂う多くの原子の吹き溜まりに過ぎない。それが一定の秩序をもって集散する時にたまたま自意識が芽生え、自分が意識されているだけで、ある時間が経過するとその秩序が崩れバラバラの原子となって散らばってしまう。そうやって世界が流転しているに過ぎない。


仏教は因果の連鎖によって世界が成り立っていると視るらしい。そしてある出来事はたった一つの原因で起きる訳ではなく、いくつもの出来事が原因となって引き起こされると考える。真理を覚るとはこの世界のあるがまま、すなわち因果関係の連鎖のネットワークを認識する事だ、と仏教は言う。そしてそのネットワークの一部が自分なのだ、という事らしい。ウパニシャド哲学は「梵我一如」という。梵(ブラフマン)とは宇宙の法則、我(アートマン)は本当の自己、それが同一だというのだ。人間は実は人間ではなく、ただの因果関係である。

この発想はいくらかでも死を恐怖を和らげるだろうか?どうかな?

この本の次の一説が心に残った。



2023年3月7日火曜日

英語:807

 NHKの国際報道を見て思った。英語が世界を席巻している、と。武力や政治力でも英米の力は極めて大きいが、少なくとも言語に関しては間違いなく英語が世界を制したと言って良いのではないだろうか。

ロシアのウクライナ侵攻を西側諸国が非難し経済制裁を加える中、アジア・アフリカ諸国ではそれと一線を画す動きがみられる。特にアフリカ諸国ではヨーロッパの植民地として苦しんだ記憶もあってか、ロシア寄りの立場を取る国が少なくないらしい。そしてアジア・アフリカで欧米のジャーナリズムとは別の道を行くジャーナリストを育成する学校が出来た、とのニュースが流れた。欧米のジャーナリズムとは別の価値観からの報道も大切だ、という訳だ。

日本は欧米のジャーナリズムにどっぷり漬かっている。ウクライナの惨状は毎日のように報道されるが、同じようにイスラエルから攻撃を受けているガザ地区の人々の惨状は殆ど報道される事はない。民間施設が攻撃の対象になっている点からすれば、どちらも戦争犯罪の被害者と言って良い筈なのに。

さて、独自のジャーナリズムを育てようという学校の講義をロシア人講師が行っている様子が放映されたが、その講師は英語を使っていた。価値観は英米と対立しても、言語は彼等のものを使っている。そういえばEUだってイギリスが脱退し、域内に英語を母語とする国がないにも関わらず(アイルランドは英語かな?)、EU首脳は会見を英語で行っている。

かつて私が中学生の頃は、世界共通の言語としてエスペラント語なるものが提案され、それを学ぶクラブすらあった。あのエスペラント語はどうなったのだろう。やはり人工的な言語には血肉が伴わないのか。その言語で書かれた優れた文学作品がない事も普及の阻害要因だったのだろうか。

2023年2月28日火曜日

戦争の長さ:806

 224日ロシアのウクライナ侵攻から一年が経ったが、戦争は全く終わる気配を見せない。自国が戦場になっているウクライナ国民はどんな思いで一年を過ごしたか。時間の長さを実感するため日本が戦った過去の戦争と比較してみた。

日清戦争は189481日に日本が清国に対して宣戦布告をし、翌1895年の417日には下関で講和条約が結ばれている。宣戦布告の前に若干の衝突はあったもののその期間は1年に満たない。ウクライナ戦争に同じ長さを当てはめると、9月か10月には終わった計算になる。日本軍がすばやく旅順や威海衛の主要な港を攻略し、黄海や渤海の制海権を握った事が大きかったようだ。その背景には清軍の士気の低さがある。

日露戦争は1904210日に宣戦布告、ポーツマス条約が締結されたのは190595日だから約一年半の戦争だった。途中、宣戦布告から300日後の1904125日に203高地が陥落し、472日後の1905527日には日本海海戦で日本軍が決定的な勝利を収めた。この戦争でもロシア国内は一枚岩とは言えず、開戦からそろそろ一年を迎えようという1905122日には血の日曜日事件が起きたりしている。ただ、この戦争で戦場になったのは朝鮮半島と満州地方だから、戦争当事国の国民に左程悲惨な実感はなかったのではないだろうか。

日本人が悲惨な思いを経験した第二次世界大戦を見ると、1945815日の終戦まで柳条湖事件からは約14年、盧溝橋事件からは約8年、真珠湾攻撃から4年弱の時間があった。日本本土が初めて空襲されたのは1942418日のドゥーリトル空襲で、それから3年以上も日本国民は空襲に怯える生活をした訳だ。

ウクライナに一日も早く穏やかな時が訪れますように。

2023年2月21日火曜日

自主性:805

 バレンタイン・デー、テレビのニュースで某会社が義理チョコ禁止令を出したと報じていた。そんな事わざわざ明文化せずとも各自の自主性に任せればよいのに。義理チョコと分かっていても貰えば嬉しいもので、こんな馬鹿なお触れをだすのはモテない上司に違いない。

かと思うと、一国の総理が「マスクの着用は今後各自の自主的判断に任せる」と仰る。あれ、今までも自主的判断に任されていたと思っていたのに、違ったのか。なんだか日本人全部が上からの指示がないと自分の行動を決められない指示待ち族になってしまったようだ。その内に箸の上げ下げまで政治が口出しするのではないかと心配になる。

マスクの着脱について総理は年度末の学校行事にまで気を配って、こういう場合は着けろ、ああいう場合は要らない、と事細かに指針を出される。そんな事まで総理の指示がないと教育現場は動かないものなのか。卒業式におけるマスク着用の方針など、その地の状況に応じて校長の判断で十分だと思うのだが、それが出来ないのだろう。

愚考するに、各校長は何かあった時の責任を取りたくないのではないか。マスク着用不要の判断をして、結果クラスターを招いたような場合、父兄からの糾弾を浴びてしまう。そんな事態を避けるため何らかのお上からのお墨付きが欲しかった、という構図に見える。お上はお上で、どこかの地方都市のある学校でクラスターが発生したとしても、そこまでは面倒見切れないよと言っていられる。結局誰も傷つくことなく無事治まるという次第。

薄い布切れ一枚でウィルスに対抗するのは、竹槍で米軍に挑むようなものだから、それも一つの知恵なのかも知れない。だが自主性の放棄は自由の喪失につながり、自由には責任の裏書が必要な事を忘れないようにしよう、その思いを強くしたバレンタイン・デーでした。

2023年2月15日水曜日

睡眠の不思議



自転車圏内に県立図書館があるのは有難い事である。

そこで行われた睡眠に関する講演に行ってきた。

前半は睡眠不足がもたらす悪影響について。

睡眠不足が体に悪い事なんて、改めて研究するまでもない事だと思うけど、そういう事をわざわざ金を掛けて調べるのが学者の性なのか。

後半ではレム睡眠とノンレム睡眠など睡眠のメカニズムについての話があって、最後は脳に電極を当て微弱な電波を送って熟睡を促す研究の紹介があった。脳に電波を送るなんて、できればしたくないなあ、と思った。

ところでこの講義を聴いて思った疑問。

1)生物と睡眠の関係

動物はおそらく種を問わず睡眠をしていると思うが、植物はどうか。おそらく植物に睡眠はない。

動物でも単細胞生物、たとえばアメーバーやゾウリムシは睡眠しているのだろうか?なんだかしてない感じがする。

ならば睡眠をするしないの境界はどこにあるのだろうか?

2)細胞レベルでの睡眠

人間でも細胞レベルでみると睡眠という概念は当てはまらなくなるのではないか?

臓器レベルで考えても、心臓は勿論、肺や肝臓や腎臓も個体が眠っている間も休みなく働いているような気がする。

臓器には睡眠と言う概念はなさそうだ。

細胞も睡眠していない気がする。ミトコンドリアでエネルギーを生み出すなんて作業を夜は休むのだろうか?

3)そもそも睡眠とは何か?

個体が眠っている間、臓器は休まず働いている。脳も記憶の整理などをやっていると聞いた。筋肉も寝返りをうったりして動いている。眼球もRapid Eyeというくらいに動いている。睡眠はたんなる休止ではない。何か体を維持するための作業を一生懸命やっているのだ。それは一体何か?

渡り鳥は睡眠ととりながら、ちゃんと飛び続けているらしい。どうしてそんな事が可能なのか?

睡眠の定義でちゃんとしたものがあるのだろうか?夢遊病者が動き回っている間は睡眠と言えるのかどうか?

2023年2月14日火曜日

大気:804

 関東地方の先週の天気はジェットコースターのように変化した。火曜日はテニスをしていると半袖になりたくなるような春間近を思わせる陽気だったが、金曜は一転冷たい雪の日となり、その雪も明くる土曜日の暖かさで一気に解けた。太陽と地球の関係が一週間の内にそれ程大きく変化する筈もなく、この気候・気温の変化は上空の大気の影響だろう。

天気予報で良く「上空の寒気団」という言葉が出て来る。ネットで検索すると上空約5000mの気温が大雪の目安となり、約1500mの気温が雨か雪かを分けるのだとか。5000mと言えば富士山山頂よりもっと高い場所で遥か上空に思えるが、冷静に考えてみるとそんなに遠い話ではない。

出雲平野の地図を頭に思い浮かべて欲しい。一畑電鉄の路線図によると川跡駅と大寺駅の間が1.5km、出雲市駅と川跡駅の間が4.9kmだそうだから地図の上にそれだけの距離の厚みの空気を思い浮かべれば良い。それだけの厚さ(薄さ?)の空気が山陰地方一帯を覆っている姿を想像すれば、それが地上の気候に大きな影響を持つだろうことは容易に理解できる。

そもそも地球を覆って守っている空気層は極めて薄い。太陽に暖められて軽くなった空気が上昇し、上で冷やされてまた降りて来る循環を繰り返している空気の層を対流圏と言っているがそれはせいぜい1516㎞程度だそうだ。そのなかに空気の90%が含まれる。それを地上の距離にすると出雲市駅から園駅までに相当する。地球儀を頭に思い浮かべ、そこに出雲市から園駅までの厚さの層をかぶせて見て欲しい。漆黒の宇宙空間に浮かぶ地球はそんな薄い膜でしか守られていないのだ。

冬には厚手の布団の中で暖を取っている我々だが、地球は煎餅布団より薄いサランラップのような布団にくるまっているだけなのだ。