2023年8月8日火曜日

浪曲

 「はだしのゲン」が広島市の平和教育の教材から削除されるそうだ。いつかは読みたいと思いつつも未読の「はだしのゲン」がどんな内容なのかも、それを教材として問題視する意見の概要も知らないが、NHKのクローズアップ現代の報道を見る限りでは色々問題がありそうだ。

既存教材の問題点を洗い出す検討会では全く話題にされなかったのに、それを踏まえて改訂版を検討する委員会でいきなり削除が決まった経緯の不透明さや、削除を決めた委員達の歯切れの悪さが印象に残った。決定に大義名分があるのならそれを堂々と主張すれば良いのに。

事の是非はともかく、浪曲が不当に扱われている事は残念だった。はだしのゲンが教材として不適である事の一つの理由が、中にゲンが浪曲をうなるシーンがあるからだ、と言うのだ。小学生に浪曲は理解できないから、というのだが、ならば浪曲をもっと教えれば良いではないか。浪曲は落語や講談とならぶ立派な日本文化の一つなのだから。

実は最近浪曲にはまっていて、図書館でCDを借りて来ては聴いている。その音楽性もなかなかのものだと思うし、七五調で語られる箴言めいた文句も面白い。

例えば「紺屋高尾」という演目には以下の台詞があった。「女郎の誠と卵の四角、あれば晦日に月が出る」現代人向けには「あれば西から日が昇る」とでも言うべきか。太陰暦で暮らしていた人々には晦日に月が出る事はそれくらいあり得ない事だった。

太陰暦時代の常識が分かれば、明智光秀が本能寺の変を決行したのが六月一日から二日にかけての深夜であったのは隠密行動を取るのに月明りが邪魔だったからだとか、赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのが十二月十四日であったのは逆に月明りが欲しかったからだという事も理解できるのに。

 

2023年8月5日土曜日

27年前

 WOWOWで放映していたので、トム・クルーズの「ザ・エージェント」を久しぶりに見ました。1996年の映画との事。それから27年の月日が流れ、色んな事が変わったんだなあと思った。

まず、ノートパソコン。エンブレムの文字(ここではSatellite Proとある)がパソコンを開いた状態だと逆さになっている。閉じた状態だとこれが普通と思っていて、たしかアップルが初めて開いている状態で天地が正しくなる方向でマークを印字した時にはそれを奇異に感じた記憶がある。今はそっちが主流。



電話は固定電話もまだ健在だし、携帯電話も大小色々出て来る。一番面白かったのは、トム・クルーズが誰かに電話する際、手帳で番号を確認してダイヤルしていた事。この頃の携帯は番号を記憶する機能はなかったんだなあ・・・








2023年8月1日火曜日

上下関係

 前回紹介した「男の不作法」を読んで気になった事がある。レストランのウェーターに威張り散らす男は会社では上にヘイコラで下にはそのストレスをぶつけている。著者曰く「上に弱く、下に強い」と言うのだが、会社や軍隊なら指揮命令系統の関係で上下の秩序があるのは仕方ないとしても、一般社会までそうだと考えるのは如何なものか。まさか著者はレストランの客が上でウェーターが下だとでも思っているのか。

ウェーターが客に強い態度を取らないのはその立場が弱いからだ。客を怒らせて雇い主に損害を与えたり迷惑を掛けたりするような事態を避けるために大人しくしているだけだ。本質的にはレストランと客はサービスの売り手と買い手、一方が提供する食事サービスとそれに対する対価として支払う金銭が同価値であるという合意の基に取引をしている関係であって、両者に上下はない。もしウェーターとオーナーが同一人物なら、態度の悪い客に退去を求める事が出来るだろうし、客が退去しない場合は住居不法侵入で訴える事だって理論的には可能だ。

女性の地位向上を訴える人達は政治家や会社経営者の一定割合が女性になるべきだと主張するが、港湾の荷役労働者の一定割合が女性になるべきだとは言わない。ひょっとしてその人達は職業に上下があって、上に属する職業の一定割合に女性が進出すべきだと言っているのではあるまいか。コロナ禍ではエッセンシャル・ワーカーという言葉が流行ったが、そんな英語をわざわざ持ち出さずとも全ての職業が社会が必要とするから存在するのであって、それに上下などあろうはずもない。

強いて言えば闇バイトを指揮する反社会的組織とか、徳のない経営者が率いるブラック企業などが下と呼ばれても仕方ないかとは思うが。

2023年7月25日火曜日

二冊の本

 男女平等を声高に叫ぶあまり、「男らしさ」とか「女らしさ」という言葉を使う事すらいけないという風潮がある。しかし、男性女性それぞれの特質を活かした美徳というものはあっても良いではないか。女性の美徳、というと山本周五郎の「小説日本婦道記」を思い出す。

そこに描かれた理想的な女性達、そのストイックな姿にはついホロリとさせられる。しかしこれはあくまで男性が描いた理想的女性像であって、女性が思い描く理想的女性像にはまた別の姿があるのだろう。それはどんなものなのか、また逆に女性の視点からの理想的男性像はどんな姿をしているだろうか、女性の作者が書いた「小説日本夫道記」はないものかと思いながら図書館の本棚を眺めていたら内館牧子著「男の不作法」という本が眼に入った。

題名からして女性から見た嫌な男が書かれているに違いない。ならばその逆を想像すれば女性から見た良き「男らしさ」が分かるに違いないと思って読み始めたが、すぐその期待は裏切られた。レストランのウェーターに威張り散らす男、相手の名刺の肩書によって態度が変わる男、等が作者の体験談として語られる。そこまで酷いと反面教師にもならない。読めば読む程不愉快になって三つ目のエピソードを読んだ辺りで放り出した。「小説日本婦道記」を読んだ時はそこはかとない幸福感があったのに、この違いは一体何だ。

作者の内館さんはこんな嫌な男達と付き合っているなんて何と不幸な事だろう。少なくとも私の周りにそんな奴はいない。もしいても自然と交友関係の中から弾き出され淘汰されるからだ。あ、そうか。内館さんは体験談を装っているが、実は想像の上で嫌な男を書いたのか。そう言えば山本周五郎が描いた女性達も作者が理想として創り出した人達なのだから。

2023年7月18日火曜日

男女の差

アファーマティブ・アクションの一つなのだろうが、国会議員や企業経営者の一定割合を女性にすべきだとの議論がある。新聞によるとドイツでは現在8%しかいない陸軍の女性割合を15%まで高めたいそうだ。子育てを含めて男女が同じ事をしないといけないという昨今の主張には首を傾げたくなる事が多い。

男女同権、男女平等は当たり前の事であって、女性である事を理由に不当に不利益を蒙る事などが許されないのは当然だ。ソフィ・ジェルマンという19世紀初頭に活躍したフランスの女性数学者は女性であるという理由でエコール・ポリテクニークへの入学を拒否され、男性の偽名で論文を書いた。(アフガニスタンでは未だに女性の就学が禁止されているらしい。そんな事は本当にマホメットが望んだ事なのだろうか。)本人に才能も意欲もあるのに、その道が閉ざされる事はあってはならないし、社会の損失ですらある。しかし、その事と数学者の何割以上は女性でなければならない、というのとは訳が違う。

人にはそれぞれ得手不得手があって、適不適がある。男女の間には生物学的な差異が厳然としてあって、それは善悪を越えた事だ。勿論個体差はあって、五輪の重量挙げで優勝するような力持ちの女性もいるが、一般的には力の要る仕事は主に男性がやって、女性には女性に向いた別の仕事をやって貰う方が良いではないか。経済学の比較優位論は各自が得意な事に専念し、成果を互いに分配する事が全体をより豊かにする事につながると言っている。

日本の平安時代、当時の女性は政治などと言う下世話な事は男性に任せ、自らは芸術や思索にふけり、枕草子や源氏物語など後世に残る偉大な仕事をした。彼女らは藤原道長などより遥かに世界的に有名になったではないか。 

2023年7月11日火曜日

暴力

 あれからもう一年も経ったのか。安倍元総理が凶弾に倒れてから一年を報じるテレビ番組ではキャスターやコメンテーター達が異口同音に「暴力はいけない」を連発していた。

暴力がいけないのは当たり前で、そんな事は改めて言うまでもない。当の山上被告だって暴力は本来許されざる手段である事をちゃんと認識していたであろうと思う。だが、彼は追い詰められて最後の最後の手段として暴力に訴えるしかなかったのだ。テレビで能書きを垂れるような人達はそれこそ十指に余る程の手段があって、自分の意見を世に訴える事が出来よう。しかし山上被告は窮乏する家庭の中で自分の道を探し、自衛隊を退官し、自殺未遂を犯し、数少ない手段の全てを試した後の選択だったのだ。謂わば「窮鼠猫を噛む」の状態だったと思う。

綺麗事のように「暴力はいけない」を繰り返す人達が自覚すべきなのは、彼らが絶対悪だと言う暴力が一石を投じたのは間違いない事実である事だ。あの事件がなければ統一教会を巡る様々な問題は何一つ解決されないまま、一部の政治家は韓国の教祖を賛美し続け、洗脳され献金を続ける親を持つ子らは出口のない苦悩を負い続けただろう。

勿論、暴力を肯定する積りはない。だが、テレビを始めとするマスコミがやるべき事は第二の山上被告を出さないよう、社会の中で理不尽さに苦しむ人達の悩みに光を当て、彼等が暴力に訴える前に解決に向けて世論を喚起するなど手を差し伸べる事ではないのか。芸能人の不祥事を追うのも良いかも知れないが、それ以上に、過剰献金問題以外に次の山上被告を産むような問題はないのかを探って、次の山上被告を出さない努力をする事こそジャーナリストのやるべき仕事だと思う。

 

2023年7月4日火曜日

逆差別

 立場の弱い人達を意識的に優遇するのは是か非か。アメリカの最高裁判所は非だとの判定を下した。

アメリカでは過去に酷い黒人差別をした贖罪意識からか、アファーマティブ・アクション(直訳すれば「肯定的行動」)と言って黒人をはじめとする社会的弱者を優遇し、「結果の平等」を目指して格差を是正しようとする動きがある。大学入試の合否判定にもそれを適用し、家が貧しかったり両親が教育熱心でない家庭に育った子は十分な機会が与えられていなかったのだから優遇すべきだとして、黒人やヒスパニックの合格ラインを下げて一定以上の合格者を確保して来た。それが「法の下の平等」を定めた憲法に違反するとの判断がなされたのだ。

日本に例えるなら国立大学の入試において一定割合を低所得者向けの優先枠を設けるようなものだ。学習塾に通わせるだけの収入がない家庭に育った子にも同じような機会を与えるべきだとして、賛同が得られるだろうか。入試願書に親の年収を記入させるのも物議を呼びそうだし、貧しい家庭の合格者の中からは「そんな枠なんかなくても俺は合格できた」と有難迷惑に思う人も出てきそうだ。

今回敗訴したハーバード大やノースカロライナ大チャペルヒル校では受験者の人種をどうやって判断していたのだろう。名前を見ただけではその人が白人か黒人か判断できまいし、もし願書に人種を書く欄があるとすれば、個人の自由を重んじるアメリカ社会の常識に反するような気もする。面接時にその容姿から判断したのか。それにしても人種のるつぼと言われるアメリカ社会の実情を反映していないように思える。もし大坂なおみがハーバード大を受験したら、彼女は黒人枠なのかアジア系の枠なのかどちらで判定されるのだろうか。