2025年9月23日火曜日

良い天気

 彼岸が近づくにつれて厳しい残暑も一段落、エアコンの助けを借りずに眠れるようになったのが嬉しい。秋雨前線の南下が北の涼しい空気を運んで来ると思うと、前線に伴う雨ももっと歓迎されても良いが、それでもやっぱり雨の降る日は天気が悪い。

中東のオマーンに在住経験のある友人が「オマーンでは雨が降ると『今日は良い天気ですね』と挨拶を交わすんだよ」と教えてくれた。強烈な日光が降り注ぐ砂漠の地では極くまれに降る雨はまさに恵みの雨、待ちに待った「良い天気」なのだろう。

詳しい統計は知らないが、彼の地で雨が降るのは恐らく年に数回、100日に1回程度だろうか。翻って日本はどうか。こちらも詳細なデータは知らないが、週間天気予報の傘マークの数から推測するに週に一回程度だろうか。510日に1回程度ならそんなに迷惑がらなくても良かろうにと思うが、それでも雨の日を悪い天気だと思うのは人間の我が儘の象徴のように思える。

地球を取り巻く環境が大きく変わって、ほぼ毎日雨が降り、10日に一回程度だけ太陽が顔を出すようだったら、人間はどんな挨拶を交わすのだろう。それこそめったにない晴天に「今日は本当に良い天気ですね」と喜びの声を交わすのだろうか。

私の想像では、そうなったら今度は雨の日を良い天気と呼び、晴れの日を悪い天気と思うのではないか。もし毎日雨が降るような気候であったら、人間は雨の日を前提とした生活様式を編み出し、雨が降らないと都合が悪いような日常生活を送っているに違いないからだ。

生物の進化は地球環境を前提とし、それに順応する方向で進んできた。野に咲く花や植物

は雨が降っても、光合成が出来る晴れの日もどちらも「今日は良い天気だなあ」と思っているに違いない。彼等こそ最適解を編み出した生物なのだ。

2025年9月16日火曜日

殺害

 アメリカでまた銃による暗殺が起きた。標的となったのはトランプ大統領の熱烈な支持者だったそうで、テレビのニュースでは「理由はどうであれ、暴力による殺害は決して許される事ではありません」というお決まりのコメントが流れた。

この当り前の言葉、個人対個人の場合には双方の個人の属性如何に拘わらずいつも発せられるが、国家が個人を殺害する場合には何故か適用されない。イスラエルはハマスの幹部を狙ってドーハを攻撃した。カタールは現在イスラエルが戦っている戦争の仲介役を担っていると言うのに。暴力により他を排除するという恥ずべき行為をイスラエルは何ら恥じる事無く自己の行動を正当化する。その根拠としたのが、アメリカがオサマ・ビン・ラディンらを堂々と殺害した事だった。

あの時アメリカは誇らし気に「ついにオサマ・ビン・ラディンを殺した」と「やったぜ!」と言わんばかりの声明を出した。自国の平和を守るためにやむを得ずした事なら、せめて「今回の行動は万策尽きた最後の手段に訴えたもので、痛恨の極みである。」くらいの事を言えないものか。

国家が個人を殺すのは戦争も同じで、この場合も殺害行為が賞賛される。本来なら非難され罰せられるべき殺傷という行為が賞賛の的になるなんて戦争の異常さの象徴だ。敵の兵士を殺さずに生け捕りにする事は出来ないのか。激しい殺意が交錯する戦場でそんな悠長な事!と思われるかも知れないが、例えば銃は全て麻酔銃にしたらどうか。麻酔で動けなくなった敵を捕獲し、戦争中は自国の収容所に収監するが、戦争が終わったら生きたまま国に返す。

全ての兵器が殺害・破壊ではなく、一定期間使用不能にする事を目指し、平和が回復した時に原状復帰出来るものにしたら、思う存分戦争が出来るだろうに。

2025年9月9日火曜日

戦勝記念日

 さる9月3日はかつての連合国の戦勝記念日だそうで、中国では盛大な軍事パレードが行われた。日本の新聞では「抗日戦争勝利80周年」と報じられたが、中国でも「戦勝記念」という言葉が使われるのかテレビの画面を注視した。

日本では8月15日が「終戦の日」として様々な行事が行われる。本来ならこれは「敗戦記念日」とすべきだろうが、言霊の国・日本ではそんなゲンの悪い言葉は使いたくないらしい。

さて、戦勝、終戦、敗戦と並べると不思議な事に気付く。この中でまともな言葉は敗戦だけではないか、と。誤解しないで頂きたいが、勝ち負けを問題にしている訳ではない。語順が問題なのである。漢語において動詞と名詞を並べる時、名詞が主語ならば名詞を先に、名詞が補語・目的語ならば動詞を先にするのが本来の在り方である。日本では「券売機」などと変な漢語が使われるが、中国では切符売り場には「売票所」と表示されていた。「券売機」などと言うのは「I school to go」と言っているようなものなのだ。

だから、「戦に敗けた」のだから「敗戦」は正しいが、「戦に勝った」なら「勝戦」でなければならないし、「戦が終わった」なら「戦終」でなければならない。

漢語が母国語の中国ならその点はきっちりしている筈だと、目を皿のようにして軍事パレードを見つめたが、残念ながらその証拠を発見する事は出来なかった。その替わりに凄い事が分かった。一糸乱れず行進する兵士の頭の位置が全て同じ高さだったのだ。良くもまああれだけ同じ背丈の人を集めたものだ。若干の身長差は靴底の厚さで調整したのだろうが、それでもせいぜい5㎝程度だろう。同じ日にハバロフスクで行われたパレードでは頭の位置はバラバラだった。

(毎週火曜日掲載を原則としていますが、来週は火曜が休刊日のため水曜掲載となります。よろしくお願いします。)

2025年9月2日火曜日

役員報酬

 3か月程前になるが、日産が退任する社長や役員計4名に対して総額6億4600万円の報酬を支払ったというニュースにはびっくりした。日産の経営不振に何ら対策を打てなかった人達に対し、まるで泥棒に追い銭ではないか。

業界通によると「内田氏は社長として意思決定が遅く、坂本氏は生産担当として過剰生産能力の対策を先送りし、開発担当の中畔氏は売れるクルマを出せなかった。星野氏はブランド戦略の責任者でありながら、日産車のブランド力が低下して値引きしないと売れないブランドになったことに抜本的な対策が打てなかった」とか。実際にデータを見ると内田社長の就任以来販売台数はずっと下がり続けている。報酬を渡すどころか職務怠慢、又は善管注意義務違反で損害賠償を求めたって良いくらいだ。

そう思っていると、7月にはスタバのCEOが従業員の給与の中央値(約220万円)の6666倍の年間報酬(約144億円)を受け取ったというし、8月にはテスラのイーロン・マスクの暫定報酬が4.4兆円だというニュースがあった。暫定というのは株主総会で示された報酬額について裁判所が承認の過程に問題ありとして差し止めた事情があるからだ。年棒4兆円!400で割って100億円だから、毎日100億円使っても使い切れない。恐らく個人の消費としては一生使い切らない金額だろう。(マスク氏は火星に行きたいみたいだから、そのためには多額の費用が必要だろうが、それは企業としての支出だ)

役員報酬は従業員給与の中央値(平均値では底上げにつながらない)の100倍を超えてはならないという法律を作ったらどうだろう。経営者が自分の取り分を増やすためには従業員の給与も上げなくてはいけなくて非常に良い賃上げのインセンティブになると思うのだが。

2025年8月26日火曜日

体育会系

 甲子園の準々決勝、県立岐阜商業対横浜戦を見始めたのは丁度延長10回、3点差を追う県岐阜商が1アウト満塁のチャンスを迎えた時だった。そこから劇的なサヨナラ勝ちまでまさに高校野球ならではのハラハラドキドキを楽しませて貰った。

感動ものだったのは試合の内容に加え後で知った事だが、県岐阜商には生まれつき左手に障害を持つ選手がいたとか。しかもその選手は健常者となんら変わる事なく美技でチームの勝利に貢献していたというから、心から拍手を送った。

県岐阜商はそうじゃないと勝手に想像しているのだが、いわゆる野球の名門校には広陵高校のようにシゴキが当り前の体育会系が多いらしい。イチロー選手がいた愛工大名電もご多分に洩れずそうだったらしく、彼がアメリカの野球殿堂入りした際の記者会見で野球人生における一番の思い出は何かと聞かれ、地獄のような高校の寮生活だと答えたそうだ。シゴキに加え、1年生は食事の際に醤油を使ってはいけないとか、風呂もシャワーも使えないとか。もっとも彼はそれを肯定的にとらえ、それがなかったら社会人になって壁を乗り越えられなかっただろうと言っている。

地獄のような辛さを経験する事でその後の人生の艱難辛苦を乗り越える力がつくからと言って、上級生による下級生のシゴキが正当化されるものなのだろうか。私には屁理屈に思えて仕方がない。シゴキに教育的な意味を持たせるのであれば、少なくとも事前にその方針を伝えるべきであろう。そしてまたそのシゴキが許容範囲を超えた時にはいつでも別の選択肢を選べる自由があるべきだろう。地獄に入るのも耐えるのも、全て本人の納得づくなら文句はない。

そうした民主的な運営がなされて、過度な体育会系が自然淘汰され、県岐阜商のような学校が増えて欲しい。

2025年8月19日火曜日

広陵高校問題

 広陵高校が甲子園を辞退した問題、どうも良く分からない。

分からないのはこの事件に対する報道機関の姿勢である。事件の概要は「野球部の寮で下級生の規則違反に端を発した上級生による暴力事件が発生し、一旦は高野連の裁定が下って一件落着したが、SNSでの騒動が激化したためそれを鎮静化させるべく、高校が自主的に自らを罰する意味で辞退を決めた」というものだった。

不思議の一つは、下級生の規則違反がカップラーメンを食べる事だったと実に具体的なのに、それに対して上級生が懲罰の意味で加えた暴行の内容が全く具体性を欠いている事だ。某全国紙には「複数の2年生部員(当時)が殴るなどの暴力行為を行った」としか書いてない。

この問題の前半部分を寮内の違反行為とそれに対する懲罰の問題と考えると、その両方のバランスが気になる。もし下級生が大麻を吸っているのが見つかって、それを罰するべく上級生が平手打ちしたというケースだったらどうか。カップラーメンを食べた事に対する懲罰だと、どんな微細な暴力でも釣り合いが取れないから深く追求しなかったのか。

新聞に書いてないので、仕方なくネットで検索すると、被害者側からの訴えによればかなりひどい事が行われたようだ。もしそれが事実ならどうして高野連はあんな甘い裁定を下したのか。問題の後半部分は寮内で起きた事の事実認定と高野連の裁定の妥当性の問題になる。

被害者家族にしてみれば、事実認定と裁定の過程に納得がいかないからSNSで訴えたくもなるのだろう。マスコミは学校の発表だけを記事にするのではなく、関係者への取材を通して真相を探る等の努力をすべきだろう。

新聞には「今後SNS対策が急務だ」などとピンボケのコメントが載っている。自身による真相究明の姿勢こそ急務だろう。

2025年8月5日火曜日

読書

 高校生の孫がいる。先日「おじいちゃん、夏目漱石の『こゝろ』持ってる?」と聞かれたので「勿論あるよ」と答え、貸してやった時は嬉しかった。高校の夏休みの宿題なのだろう。以前に同じ孫から小川洋子の「博士の愛した数式」があったら貸してくれ、と言われた時は持ち合わせがなくて残念だった。

読み終わって感銘を受け特に印象に残った本は本棚の目立つ場所に並べて、いつか子供達が手に取ってくれたら良いなあと長年思って来たが、悲しく寂しい事にあまり興味を持ってくれなかった。漫画は良く読むから横山光輝の「史記」とか手塚治虫の「火の鳥」や「ブッダ」などに眼を向けてくれても良さそうなものだと思うのだが、時代が違うと興味の向きも異なるのだろうか。

そう言えば、ちばてつやの「キャプテン」や「プレイボール」は貪るように読んでくれたのに。ちばてつやの次は矢張手塚治虫ではなく「スラムダンク」が来るのが自然か。一時息子が東野圭吾に凝っていた時も、結城昌治の「ゴメスの名はゴメス」とか井沢元彦の「暗鬼」にどうして手を伸ばしてくれないかといらついたものだ。

嗜好性や考え方・感じ方というものは人によって千差万別で自分が面白いと思ったからといって他の人にもそうかというと全くそんな事はない。浄土真宗への信心の深い友人がいたので、彼に倉田百三の「出家とその弟子」を薦めたがあまり心に届かなかったようだ。私は中学生の頃初めて読んで感動した部分を手書きでノートに書き写したりした。以来、最低でも三度は読み直した程なのだが。

さて、「こゝろ」を読み終わって、どんな感想を持つか楽しみだ。感想を聞き終わったら鯨統一郎の「文豪たちの怪しい宴」を渡して、こんな読み方もあるよと紹介してやろうと思う。