4月10日は国東半島へ。富貴寺(もとは蕗寺だったらしい)の弥勒堂は国宝。仁王像はやはり国東半島らしく石像でした。
2024年4月10日水曜日
2024年4月9日火曜日
九州旅行1日目
出雲に帰省して、幼馴染と九州旅行に出掛けました。今日は中津と耶馬渓を回った。中津城は黒田官兵衛の城として売り出しているんだね。確か秀吉が官兵衛に国を与えるにあたって、あまり大きな国を与えるとそれを足場に天下を狙いかねないと心配して中津と言う小さな領国に止めたという話があった。耶馬渓の羅漢寺は残念ながら閉門されていたが仁王門の石像の仁王像は見事だった。耶馬渓橋(オランダ橋)は欄干が崩れて通行禁止は仕方ないね。
依存症
水原氏は自らをギャンブル依存症だと告白した。そもそも依存症とはその渦中にいる人は自覚が持てる程冷静ではいられないように見えるが、自覚のある水原氏はまだ軽症なのかも知れない。
翻って、自分自身が何かの依存症になった事があるのだろうかと思い起して見ると、どうも特別何かに入れ込んだ記憶がない。それが凡人の性なのだろうが、逆に何か事を成した人は基本的にそれにのめり込み、自分の人生よりその事の方がより大切だという一種の依存症になった人が多いように思える。
大谷選手は言ってみれば野球依存症ではないか。初めて来たニューヨークの印象を尋ねられて「出歩いていないから分かりません」と答えたというエピソードがある。あのニューヨークへ行っても、名所を歩いたり、名物を食べたり、浮かれる事無く、トレーニングや野球のデータ分析に時間を過ごしていたのだろう。一心不乱に野球に専念する姿は野球依存症そのものに見える。
藤井聡太八冠は将棋依存症だ。一番好きなのは何ですかと聞かれて迷うことなく「将棋です」と答え、二番目は、と聞かれると「そうですね・・・・詰将棋ですね」と答える。では三番目に好きなのはと聞かれて、しばらく考え込んだ後「ううん、詰将棋を作る事です」と答えた。まさに将棋一筋の人生は将棋依存症に他ならない。
モーツァルトは音楽依存症だったような気がする。彼は音楽なしでは生きて行けなかったのではないかと思う。
こうした偉人達と水原氏の違いは何か。それは依存症になる対象と相思相愛の関係の関係になれたかどうかではないか。大谷は野球に愛され、藤井は将棋に愛され、モーツァルトは音楽に愛された。水原氏は残念ながらギャンブルに愛される事はなかった。もっともギャンブルはおそらく誰も愛さないだろうが。
2024年4月2日火曜日
塞翁が馬
人間万事塞翁が馬。水原一平氏の賭博騒動の報に接した時、真っ先に浮かんだ言葉がそれだった。
球界のスーパースターである大谷選手の専属通訳になるという僥倖がなければ、数億円もの借金を背負い込むと言う不幸に見舞われる事もなかったろう。水原氏が普通のサラリーマンだったら、胴元も回収不能なほどの賭けを許すはずがない。
大谷選手の会見を見て残念だったのは金の動きに関しての言及が全くなかった事だ。どうして水原氏があれだけ巨額の金を動かす事が出来たのか、それについて皆が納得する説明があったらあの会見は完璧だった。それを言わなかったのは、弁護士からの指示で敢えてそうしたのか、まさか大谷選手側に何か後ろめたい事がある訳ではなかろうが。
普段から車を買ったり家賃を払ったりの実務を大谷選手は代理人に任せていたのだろうから、その代理人が彼の口座からお金を動かすのは可能だったろうが、それにしても送金の実務を行う銀行に何らかの抑止能力はなかったのだろうか。
数年前山口県阿武町で起きたコロナ給付金の誤送金事件の時も思ったが、あの時も町からある特定の個人に数千万円ものお金が振り込まれる不自然さに銀行が気付き、送金元の町に確認を取っていれば防げた筈だった。今回の送金についても銀行は送金先の口座が不動産取引であるとか、金額に見合うそれ相応のものである事の確認や、より厳格な本人確認は行わないものなのか。顧客の利益を守るためにそれ位の事をしても良いだろうに。
水原氏は大谷選手の結婚を公表よりずっと前に知っていたのだろうが、水原氏からその事実が漏れる事はなかった。その事からも大谷選手の彼への信頼が伺える。そんな信頼を裏切られてしまった大谷選手、だがこれも塞翁が馬として次の幸運につなげて欲しい。
2024年3月26日火曜日
客観評価
映画を生業とする者にとってアカデミー賞は科学者にとってのノーベル賞にも匹敵するものだろうし、日本人の作家が芥川賞を受賞する以上の喜びであり誇りであるのだろう。だから受賞の瞬間、感極まってガッツポーズを作ったり、関係者が抱き合って喜ぶのも当然なのだが、それを見ていて素直に一緒に喜ぶ事が出来なかったのは何故かを改めて考え直した。
もしウィンブルドンのテニス大会で日本人選手が優勝したのなら屹度我が事のように喜ぶ事が出来ただろう。ウィンブルドンとアカデミー賞の違いは何なのか。
受賞の挨拶をした監督がカンニングペーパーを見ながら下手な英語を喋っていたからだろうか。全て暗記しておくなら兎も角みっともない姿で、しかもあんな英語だと現地の人は殆ど理解できなかったのではないかと思われる。堂々と日本語で臆することなく挨拶してくれたらもっと違う印象を持ったかも知れない。野球のメジャーリーグでMVPを取った大谷選手が堂々と日本語で会見をするのを見て誇りを感じるように。
いやいやウィンブルドンとアカデミー賞にはもっと本質的に違うものがある。ウィンブルドンでの優勝は誰にも文句のつけようがないという事だ。一定のルールの下で技を競い合い、誰にも負けなかったという事実は万人が認めざるを得ない。一方で映画の価値とは多分に主観的な要素が入り、A作品とB作品のどちらがより優れているのかというのは一概には言えない。そうした背景の元での受賞とは、ようするに審査員であるアメリカ人のお眼鏡に適ったというだけの事ではないか。その価値観に屈してしまっているという構図がどうにも素直になれない原因を作っていたのだと思う。
2024年3月19日火曜日
攘夷と自負
アカデミー賞の受賞が決まった瞬間、歓喜する関係者の姿を見て思わず舌打ちをしてしまった。日本人の活躍を素直に喜べば良いのだが、加齢に伴う頑固さが出たのか「外人に(特に白人に)褒められる事がそんなに嬉しいか」というねじれた思いが湧いてきた。
作品の素晴らしさは認める。特に視覚効果賞を受賞した「ゴジラ-1.0」について、ハリウッド映画の十分の一の予算で、全く引けを取らない映像を作り出したなんて聞くと、胸のすく思いがする。しかしそれとは違う何かが心に引っかかるのだ。
柔道の講道館杯の優勝者は話題にもならないのに、オリンピックのメダリストは矢鱈チヤホヤされる時に感じるのと同じモヤモヤだ。柔道の国際化を目指すというのなら、講道館杯を外人にも開放し、彼等がその伝統と歴史に名を連ねる事に憧れる事を目指すべきだ。丁度テニスプレーヤーが伝統あるウィンブルドンでの優勝を渇望するように。そうすれば柔道がレスリングと見紛うように変貌したり、柔道とジュードーは違うんだなどと言われるような事にはならなかったのではないか。
確たる価値観を持たず、他者の価値観に迎合するような人や民族は尊敬されない。日本人は一体いつから外人所謂白人に劣等感を持つようになったのだろう。少なくとも幕末に攘夷を叫んでいた志士達は外人何するものぞと思っていたはずだ。聖徳太子は煬帝に対等の立場で向かおうとしたし、足利義満は明から日本国王と呼ばれて喜んでいたようにも見えるが、実際は貿易の利益を得るための方便だったのではないかと思える。豊臣秀吉が唐入りと称して大陸に攻め込んだ時も外人への劣等感は微塵も感じられない。
アカデミー賞の受賞は素晴らしい事に違いないが、もっと自負を持ちたいと思ったという話。
2024年3月12日火曜日
数学の話題
YouTubeを見ていると、つい時間を忘れてしまう事がある。将棋対局の解説を視聴している時と数学の面白トピックについての番組を視聴している時だ。
クリフォードの定理、というのがあるらしい。それは以下のようなものだ。
偶数の直線は一つの点に対応し、奇数の直線は一つの円に対応する。但し、いずれの場合も平行な組合せはなく、全ての交点は違う場所にあるものとする。
2本、3本なら簡単に納得できる。2つの線が交わって一つの点になり、3本の線が交わった交点に外接する円が一つに決まるからだ。では4本以上はどうかと言えば、4本の内3本を選んで描いた4つの円が全て一つの点で交わるというし、5本の時はその内4本で決まる5つの点が全て一つの円周上にある、というのだ。以下偶数個の円は1点で交わり、奇数個の点は全て一つの円周上にある、と続く。まるで奇蹟のようだ。
コラッツ予想と言うのも面白い。予想というのは証明済の定理と違い、多分正しいと思われるが証明されていない問題で、その多くはその意味を理解するのすら難しい。例えばリーマン予想とは「ゼータ関数の自明でない零点 s は、全て実部が 1/2の直線上に存在する。」
何の事だかYouTubeで解説を聴くまではチンプンカンプンだった。
だがコラッツ予想は簡単だ。ある数があって、偶数なら2で割る。奇数なら3倍して1を足す。これを繰り返すと最後には必ず1になる。というのだ。
2は2で割ると1になる。3は3倍して1を足すと10。10は偶数だから2で割って5。5は奇数だから3倍して1を足して16。以下2で割っていって最後は1になる。その他試して頂ければ7もちょっと回りくどいが最後にはちゃんと1になる。
この問題、証明できたら1億円貰えるそうだ。腕に自信がある方は挑戦してみては如何。