2022年5月3日火曜日

持てる国

 国連改革の一環として常任理事国の拒否権乱用に歯止めをかけるため、拒否権を行使した場合国連総会を自動的に開き、説明を求めるという決議が採択された。結構な事だと思うのだが、その弊害として「拒否した国の意見をアピールする場として総会が利用される」のを危惧する意見があったのには違和感を禁じえなかった。

国連に限らずあらゆる会議は多種多面的な意見を自由にアピールする場であるべきだと思うのだが、国連ではアピールして良い意見と、してはいけない意見があるとでも言うのだろうか。意見を聞く事と、それを認める事とは別次元の問題だ。まさか英米の思惑に沿った意見なら良いが、そうでないものは封殺されるべきだというわけでもあるまいが。

421日発売の週刊新潮に面白い記事があった。片山杜秀氏のコラムで「世界の周縁で『英米本位を排す』と叫ぶもの」との題だった。それによると第一次大戦が終わった時、まだ20代の近衛文麿公爵が「英米本位の平和主義を排す」という論文を書いたそうだ。勝利者の英米は講和会議を前に民主主義、平和主義、人道主義、自由、平等と御託を並べる。だが、英米は世界の海を制し、広大な植民地を持って富と資源を半ば独占し、自分らの欲望を平和的な手段で追及できるアドバンテージを持っている。彼らは野心を正義の包装紙で包んでいるのだ。先に富んだものが「金持ちは喧嘩せずとも別の方法で相手を黙らせられる」との理屈を平和主義にすりかえ、善を独占している、と。

同じ事が今また国連で行われているのだろうか。高校時代、世界史の授業で「持てる国」と「持たざる国」の対比について習った事を思い出す。あの時は友人と「男の場合は『モテる男』と『モテざる男』に分かれるなあ」と冗談を言ったものだった。

2022年4月26日火曜日

ワクチン

 天然痘対策の種痘に始まって結核予防のBCGや幼児の時に受ける三種混合ワクチンなど、ワクチンは人類に多大な貢献をしてきた。それもあってか今度の新型コロナに対してもワクチンこそ最大の武器で、ワクチンさえ普及すればコロナに打ち勝てると言われてきた。ところがどうだろう、国民の大多数がワクチン接種を完了したというのにコロナ感染の勢いは衰えるどころか更に燃え広がっている。コロナワクチンは本当に効いているのか。そういう疑問はどこからも聞こえて来ず、専門家の中には4回目5回目の接種の必要性を説く人もいる。

ワクチンが本当に有効であるなら、その普及前と後とで明らかな違い、有意差がなければならない筈だ。最初に挙げた種痘などはそれがある。だが少なくとも感染者数に関してはワクチンの効果を示す有意差は認められない。そもそもワクチンは体内に免疫を作る事が目的で感染を予防するものではない、という事か。ならば重症化を予防している事に有意差があるというデータを示して欲しいものだ。

毎日発表される感染者の内、無症状が何割、発症した内、軽い症状で回復した人が何割、重症化したのが何割、というようなデータを示し、それらの値がワクチンの普及後で明らかに改善の傾向があるというのであれば納得するし、接種をためらう人の後押しする事にもなる。そういうデータが出てこないのはさほど効果がないからではないだろうか。ならばワクチン崇拝の見直しも必要だ。

今度のコロナ禍では感染症の専門家と言われる人達に大いに失望した。専門家というからには、現状を説明出来る、将来を予測出来る、対策を立案出来る、の三つが出来ないといけない。しかしそのどれも聞いた事がない。昨年末感染が下火になった時も何の合理的説明もなかったし。

2022年4月19日火曜日

大国の驕り

 A国の大統領がB国の大統領について「この男が権力の座にとどまってはならない」と言った。それに対してB国の大統領報道官が「B国の大統領はB国の国民が決める。A国が決めることではない。」と反論した。A国とB国、どちらの主張が民主的かと問われれば普通はB国の方だろうと思うが、実際はA国が民主的と言われるアメリカで、B国が強権主義と批難されるロシアなのだから訳が分からない。

アメリカは自国の国益のために他国のリーダーの首をすげ替える事を何とも思っていないようだ。キューバでは失敗したが、パナマのノリエガ将軍は自国の軍隊を投入して捕縛してしまった。まるで国内の犯罪を取り締まるかのように。ロッキード事件もアメリカから「あの男が権力の座にとどまってはならない」と思われて起きた事なのかも知れない。ロシアもノリエガ将軍の前例に倣おうとしたが、残念でした。

イギリスのジョンソン首相がキーウを視察した。一体何のために?かつて東日本大震災の時は菅首相が福島第一原発を視察したのがマスコミに叩かれた。懸命に事故対応に追われる現地スタッフの邪魔をするなというのだ。だが、政府の責任者として現地の実態を把握したいと思うのは当たり前だ。あの時菅降ろしの大合唱をしたマスコミが今度の何の役割もない視察をどうして黙認するのか。ゼレンスキー大統領は毎日寝る間もなく対応に追われている。その疲労度は福島原発の現地スタッフに決して劣らないだろう。他国首相にアテンドして被災地を案内する暇があったら、せめてその時間だけでもゆっくり休ませてあげたかった。来てやったとでも言わんばかりのジョンソン首相の振舞いに大国の傲りを感じるのは小国の妬みに過ぎないか。

2022年4月12日火曜日

ダブルスタンダード

NHKのドキュメンタリー番組「映像の世紀」の新しいシリーズが始まった。第一回は「モハメド・アリ 勇気の連鎖」と題してモハメド・アリの活躍がオバマ大統領の誕生につながったという内容だった。

アリは一番油が乗っている二十代後半ボクシング界から追放されていた。ベトナム戦争への徴兵を拒否したためだ。罪もないベトナム人を殺すのは嫌だ、という彼をアメリカ社会は許さなかった。今もし、ロシアの若者の誰かがウクライナで人を殺すのは嫌だと徴兵を拒否して、それを理由にロシア政府が彼を裁判にかけ刑を課したら、それでも世論はロシア政府を擁護しその若者を責めるのだろうか。

アメリカがベトナムで戦争を始めたのは共産主義の拡大を阻止するためだった。ロシアがウクライナで戦争を始めたのはNATOの拡大を阻止するのが一つの目的だ。ウクライナで民間人が多く殺害されたように、ベトナムでも多くの民間人が殺された。ウクライナの路上に残された遺体はおそらくロシア人の仕業と見て99%間違いないと思うが、それでもまだ確たる証拠がある訳ではない。ベトナム戦争ではアメリカ兵がすぐ横にいるベトナム人男性の頭部を銃で打ち抜く動画が出回った。戦争犯罪の動かぬ証拠があった訳だが、あのアメリカ兵は戦争犯罪で然るべき裁きを受けたのだろうか。

アメリカが始めたベトナム戦争をパリの秘密交渉を通じて終わらせたとしてキッシンジャーはノーベル平和賞を貰った。同時受賞を打診されたレ・ドクトはマッチポンプの平和賞はおかしいと受賞を辞退した。まるでロシアが始めた戦争をプーチン大統領がゼレンスキー大統領との直接交渉で終わらせた事に対して、プーチン大統領がノーベル平和賞を受け、ゼレンスキー大統領が辞退したかのような構図ではないか。

2022年4月5日火曜日

忠臣蔵

 アカデミー賞授賞式でのウィル・スミスの平手打ちを見て忠臣蔵を思い出した。嫌がらせを言ったりしたりする人が居て、それに耐えられなかった相手方が暴力で応える構図がそっくりだ。しかもどちらも晴れの舞台で起きた事で、その主催者と大衆世論を入れた四者の立場から事件を視ると色々な考察が出来そうだ。

まず、冗談はどこまで許されるかという問題がある。今度の事件でも司会者のクリス・ロックは軽い冗談で、彼自身の価値観では許される範囲だと思ったのだろう。相手が少しでも傷つくのはダメだとなると、ポリコレのような事になる。ポリティカル・コレクトネスの略で、ちょっとでも人が不愉快に思う言葉を排除しようという思想らしい。性同一性障害に悩む人に失礼だから、父や母、息子や娘、夫や妻、という言葉を使ってはいけないという運動にまで発展しているとか。流石にそれは行き過ぎと思う。

嫌がらせを受けた側の暴力の程度も問題だ。刀で切りつけるのはやり過ぎだとしても、軽く頭をチョンと小突くくらいならどうか。妻の容姿を侮辱された心の痛みと、平手打ちで受けた頬の痛みと、どちらが大きいかと言われれば前者の方がより後まで尾を引きそうだ。

いずれにしても事件が起きた場所の主催者は、その場を汚された事に怒るから暴力という形で表面化させた者を罰する。江戸幕府もそうしたし、映画芸術科学アカデミーもその方向で検討している。

世論で言えば、アメリカで賛否両論と言われるのに対し、忠臣蔵では吉良の擁護論が全くないのが不思議だ。そもそもあの事件はどうやって大衆の知る所になったのか。幕府だって城内の不祥事を公にはしたくなかったろう。もしロシアのクレムリンで何らかの刃傷沙汰が起きたとしたらそれが外に漏れる事はあるのだろうか。

2022年3月29日火曜日

思考実験

人間が犯した刑事事件ならどんな凶悪事件であろうと必ず弁護士がつく。しかし今度ばかりはロシアの弁護をしようという人が現れない。物事を正しく理解するためには双方の主張を聞くべし、という原則に立って、ロシアを、プーチン大統領を弁護したらどうなるだろうかと考えてみた。以下はあくまで一種の思考実験として論じる事であり、プーチンを弁護するなんて玉木はとんでもない奴だ、などと思わないで頂きたい。

学者の中にはNATOの東進を約束違反だと非難するプーチンに対して「一部の政治家の発言をNATOの総意と見なすのは無理がある」と言う人がいる。それはいくら何でもNATOに肩入れし過ぎだろう。民法に表見代理の規定があるように、それなりに地位のある人の約束ならロシアがあてにするのは当然だしNATOにもそれなりに尊重すべきだ。プーチンはNATOの「見下した姿勢」が我慢ならないと言っている。

ウクライナがミンスク合意を軽視した事も問題だ。ゼレンスキー大統領は国内での人気低迷対策として、トルコから買ったドローンでドンバス地方の親ロシア派に攻撃を仕掛けていたようだ。NATOはウクライナにミンスク合意の遵守をもっと強く勧めるべきではなかったか。ロシアの出方を興味本位で眺めていたという事はなかったか。

ロシアはドンバス地方の二つの「人民共和国」と「友好協力相互援助条約」を締結した。「安全を確保する」との名目で、親露派の支配地域にロシアの軍事基地の建設と使用や相互の防衛義務も規定している。有効期間は10年間で自動延長の規定もあるなんてまるで日米安保条約を参考にしたかのようだ。ロシアは当該地方が自分の領域だと思っているから血を流して戦っているが、アメリカは恐らくそこまでしない。それが日米安保との違いかも知れないが。

2022年3月22日火曜日

逃げる

 戦争ほど努力と報酬、過誤と代償の非対称性がひどいものはない。それによって得をする人間は左程の苦労もせず、何の得もしない人間がとてつもない辛苦を強いられる。ウクライナから命からがら隣国に避難した女性や子供達を見ていると、その不合理を痛感する。

テレビに映るのは避難所に到着して一応の安堵を得た人達だけだが、戦場から「逃げる」過程はさぞ大変だった事だろう。第二次大戦末期、満州から「逃げる」様子を描いた、なかにし礼の「赤い月」という小説を読んだ。小説だから多少眉に唾をしないといけないかも知れないが、実体験を書いた藤原ていの「流れる星は生きている」にも似たような事が書かれているからほぼ真実だろう。読んでいると「逃げる」事の悲惨さと、日本軍人のだらしなさに胸が暗くなる。

小説は昭和二十年八月九日に始まる。異変に気付いた日本人が逃げるため列車に乗ろうと駅に集まるとそこでは「群がる市民を相手に憲兵がわめいている。『避難列車に乗る順番は、まず軍総司令部の将校家族、つづいて佐官家族、尉官家族。その次に満鉄社員家族。一般人はそのあとだ。』」なんと!一般人を置き去りにして軍人が真っ先に「逃げる」算段をしているのだ。その論拠が「軍人は国の宝なのだから、最優先に避難して当然なのだ。」だと。こんな事だから日本は負けるべくして負けたのだ。

主人公の家族は関東軍のツテを頼って何とか軍用列車に乗り込む事に成功するが、途中ソ連軍戦闘機による機銃掃射を受けたり、汽車による逃避行も生易しいものではなかった。便所にまで人が詰め込まれているものだから、男も女も小用を窓からやって済ませたとか。男はともかく、女までもがひどい屈辱を強いられる。その様子がどうであったか、その描写もあるので興味ある方はご一読を。