2015年11月10日火曜日

台湾人

シンガポールでの中国と台湾の首脳会談は歴史的握手として報じられた。そんな中、台湾で「貴方は中国人ですか台湾人ですか」とのアンケートが行われ、「台湾人であり、中国人ではない」と答える人が多数を占めたとあるニュース番組が伝えていた。それを見て五年前に福島は会津の近くにある大内宿での経験を思い出した。
三澤屋という老舗の蕎麦屋で名物の高遠蕎麦(会津でどうして高遠なのか、店の主人に聞いたがその謂われをここで書く余裕がない)を食べながら隣の夫婦の会話が気になった。中国語のようであり、どうもちょっと違う。朝鮮語でないのは明らかだ。顔つきは東アジアの顔に間違いない。思い切って覚えたばかりの中国語で話しかけて見た。「ニンシー チュンゴォレン マ」(貴方は中国人ですか?)すると驚いたような戸惑いを見せた後、しばらくの間をおいてゆっくりと明確な答えが返って来た。「ブー シー」(違います)
以下ブロークンな英語で情報交換した内容は、彼等は香港からやって来て、彼等が話していたのは広東語だ、との事。日本で教えられている北京語と広東語とは大きく違う。例えば「玉木」は北京語では「イームー」と発音するが、広東語では「ヨッモッ」だとか。ギョクモクは広東語に近い。
香港人の中にも自分を中国人とは思って欲しくない人がいるらしい。台湾に関しては三十年程前の驚きが忘れられない。
台湾の友人に招かれて台北を訪問し彼の家族と会食をした。その中で彼の姉が盛んに「私たち」という言葉を使う。戦前の生まれとおぼしき彼女は日本語を流暢に話した。文脈からどうも良く理解できないので「私たちってどういう意味ですか」と尋ねると彼女は憤慨したようにこう言い放ったのだった。
「何言ってるの、私たち日本人のことよ!」

2015年11月3日火曜日

杭打ち工事

横浜のマンションで起きた偽装事件、マスコミはすべて「杭打ち工事」とか「杭を打つ」という表現を当たり前のように使っている。そう、元々杭は「打つ」ものであって「挿し込む」ものではなかった。もし従来どおり杭を打っていたなら今回のような問題は起きなかったのではないだろうか。
かつて杭打ち工事は建築工事の象徴的存在で、「カーン、カーン」と杭を打つ音が空き地に響くといずれその辺りの風景が一変するだろう事を予測させた。だがその音はいつしか騒音公害の代表となり、音のしない工法が開発され今日に到っている。
それでも最後は杭が支持層に達した事を確認するため杭の頭を叩くものだと思っていた。音を嫌うなら上からジャッキで押す方法もある。もし上から加力してまだズブズブ沈み込むような状態だったら、いくらなんでもそこで止める事はしなかっただろう。それとも所定の長さの杭を布設すれば良いという契約だったのか。そうならボーリング調査の不備、設計や契約の瑕疵が問題にされなければならない。いずれにしろ発注者や設計者、元請が出て来て真相を明かすべきだ。
現場管理者が責められるべきは書類の偽装もさることながら、支持力の最終確認を怠った事で、即物的に実態を確認する事より、書類の整合性を重視するのは官僚主義の弊害だ。
姉歯の耐震偽装事件以来、関連法規が強化され管理者が処理しなければならない事務作業が大幅に増えたそうだ。そのため元請の社員が書類作りに忙殺され、本来行うべき現場の巡視に時間が取れないという事態もあるらしい。
今回の事件でまた監視と規制が強化されるのだろう。そして一層管理のための書類が増え、本来の実態管理がおろそかになってしまう事を危惧する。

2015年10月27日火曜日

賭博

巨人の選手三人が野球賭博に係わったとして大きく報道された。NHKは夜七時のニュースのトップで扱った。この事件がこんなに大きく扱われるのが不思議だった。
ニュースを詳細に追跡したわけではないが、三人が自分の賭けが有利になるように八百長をしたわけではなさそうだ。出場機会も少ない選手だからしようと思っても出来なかったのかも知れないが。野球と言う自分の職業を賭けの対象にする事がけしからん、という事か。ならばもしサッカーJリーグの選手がTOTOの籤を買ったらどうなのだろうか。その時も今回のような大騒ぎが起きるのだろうか。胴元を国家がやっているなら良いが、暴力団のような反社会的グループが胴元を務める賭け事はけしからん、という事なのか。
そもそも賭博は刑法で禁止されていて第百八十五条に「偶然ノ輸贏ニ関シ財物ヲ以ッテ博戯又ハ賭事ヲ為シタル者ハ」罰するとある。輸贏などと難しい言葉が使われているが要するに勝負事。だから本来ならTOTOや競馬も犯罪で文科省や農水省は罰せられなければいけないはず。
そんな事を言ったら刑法の第百八十七条には「富籤ヲ発売シタル者ハ」罰するとあり、宝くじを発売している国や地方自治体は刑法違反をしている事になる。
刑法が禁じていることでも国がやれば許容される事の最たるものが殺人だろう。賭博や富籤は大目に見ても、殺人だけはたとえ国であっても許せないと言う人が多いに違いない。だから戦争は絶対反対。だけど死刑はどうか。死刑廃止論者の根拠が国家による殺人を否定するからなのだが、どうも難しい問題だ。
(宝くじは正式には「当せん金付証票」と言って富籤とは違うそうです。「当せん」を漢字で書くと「当籤」だが、「当選」と間違えて貰うため敢えて漢字にしないのでしょう。)

2015年10月20日火曜日

面倒くさい

財務大臣が軽減税率の導入を「面倒くさい」と仰る。思わず我が耳を疑ってしまう。
財務省の役人の気持ちを代弁しての事だろうか。そもそも財務大臣は財務省という会社の社長に相当する。社員が面倒くさいと思っている事を社長が代弁して顧客に向かって発言したらどうなるのだろう。例えば建設会社の社長が「構造計算は面倒くさいんですよ」と言ったら?確かに構造計算は面倒くさい。一つ一つの部屋の使い方に応じた荷重を算定して、地震の時はどんな力がかかるか、台風の時はどうか、多雪地帯なら大雪の荷重はどの程度になるのかを全て計算して、それに耐えるだけの強度をもった部材を設計していく。それらの作業が面倒くさいから経験値と目分量で柱の太さを決めました、という社長がいたらその会社に建物を発注する人がいるだろうか。財務省に競争原理のない事が問題だが、それについてはまた別の機会に。
大臣の役割は役人の声を代弁する事でなく、国民の声を背景に役人を指導監督し、時には叱咤する事ではないか。かつて役人を敵に回して失敗した大臣もいた。当然両者に信頼関係は必要だ。社員を信頼しない社長がいたらその会社はいずれ駄目になるだろう。しかし信頼関係と甘えの構図は別問題のはず。信頼関係があればこそ叱咤激励もできようというものだ。
同じ日の新聞の読者投書欄にゴミ置き場のカラス対策についての投書があった。生ゴミを牛乳パックに入れたり、袋を二重にしたりしてカラスがゴミをつつけない工夫を見て「ちょっと面倒くさいけど私も工夫してゴミを出すようになった。」と結んである。
面倒くささに負けそうになったら、細部まで手を抜かずに緻密に描く画風の山口晃の作品でも見て、再度自分を奮い立たせるのも一つの方法だろう。

2015年10月13日火曜日

続政治家とモラル

前回のコラムで誤解があるといけないのだが、決してモラルを軽視しているわけではなく政治家にとってモラルも大事だがそれ以上に能力と情熱を問題にすべきだと言いたい。
そもそもモラルは政敵を貶めるためによく持ち出されるもので注意を要す。田沼意次の悪評もその政敵である松平定信らによって捏造された可能性を否定できない。田沼の実像はもっと清廉なものではなかったかというテーマで山本周五郎は「栄花物語」を書いた。
田沼と定信の関係は有能な成り上がり者を既存勢力が妬み追い落としを図るという構図で、菅原道真と藤原時平の関係に似ている。道真の場合はその没後に起きた天変地異が彼の祟りだと恐れられ鎮魂のために天神様に祭り上げられたが、田沼はその在任中に天候不順を原因とする天明の大飢饉が起きたため名誉を失ってしまった。天変地異のタイミングがずれていたら、ひょっとしたら菅原道真もひどい汚名を着せられてしまったかも知れない。
中国では易姓革命を正当化するため前王朝の最後の皇帝はいつも悪者に仕立て上げられる。夏の桀王しかり、殷の紂王しかり、隋の煬帝しかり。流石に皇帝ともなると賄賂ではなく、荒淫が持ち出されるのが常だ。後宮に何千人も女を囲って毎晩一人ずつ訪ねて回った、などと。だがこれは間違いなくウソだと思う。もし本当にそんなに多数の女性がいたのなら、大広間に全員を集めて、一番綺麗で気立ての良い女性を選んで、毎晩その人と一緒に過ごしたいと思うだろう。玄宗皇帝が楊貴妃を愛したように。それとも贅沢が過ぎると「明日はどんな人かなあ」と思いながら気もそぞろにスリルを楽しみたくなるものなのだろうか。
先日亡くなった落語家、入船亭扇橋の句「しあはせは玉葱の芽のうすみどり」こんな世界が僕は好きだなあ。

2015年9月29日火曜日

「が」と「は」

先週「が」が目に付いてしようがないと苦情を呈して数日後、フィリピンで誘拐事件が発生し邦人を含む複数の被害者が出たとのニュースがあった。テレビ画面には「ノルウェー人二人、スェーデン人二人、フィリピン人女性が誘拐」のテロップが流れ、「ああもう犯人が捕まったのか、それにしても変な犯行グループだな」と思ってしまったが、これも最後に「された」が省略されたものだった。こういう表現は誰もおかしいと思わないのだろうか。どうしても「が」を使いたければ「・・が受難」とでも言ってくれるとありがたいが。
「が」ではなく「は」を使ったらどうか。「・・は誘拐」。これだと、複数の被害者がいて全貌は未だ明らかになってはいないが、少なくともこの数人は誘拐された、というニュアンスが伝わる。たった一文字の違いでこれだけの背景情報を伝達できるのだから日本語は素晴らしいではないか。もっとも同じような事は英語でもあるらしい。
日本語での「が」と「は」の違いは英語では「a」と「the」の違いに相当する、という説がある。昔話の書き出しを思い出したらいい。「昔々ある所におじいさんとおばあさんがいました。ある日おじいさんは・・」とまず「が」で紹介し、次に「は」で行動を記述する。同じように英語でも最初に出てくるときは「a man」だが、話題の主が明確になった時点で「the man」を使う。これが逆になると読み手は混乱する。
「オリンピックで日本選手は優勝したよ」といきなり言われると、「えっ、一体誰のこと?」と聞き返したくなる。同じ事が英語でいきなり「the」を使ったときの感じらしい。
数回前「阿波踊り」の稿で「阿呆である事は」にすべきか「阿呆である事が」にすべきか大変悩んだ。今でもどちらが適切なのかよく分からない。

2015年9月22日火曜日

「が」の氾濫

最近テレビや新聞の見出しでの「が」の氾濫は目に余る。しかもその多くが用法を誤っている。
例えば「上海臨時政府庁舎が一般公開」、しばらく前には「ムバラク大統領の息子が解放」なども。皆様はこれをどう読まれるか。私には最初の例で言えば「上海臨時政府庁舎というのが既存であって、そこが何かの資料を一般公開した」と聞えるし、二番目の例では「ムバラク大統領の息子が何かの権限を持っていて誰かを解放した」としか理解できない。実際は二つの例とも最後に「された」を省略した表現なのだ。
そもそも日本語には受身形はあまり似合わない。百人一首を調べてみたが受身形は一つもない。「衣干すてふ天の香具山」という歌も現代語訳では「衣が干されている」と受身で紹介されるが元の歌は能動形だ。受動形で言いたいのなら語尾まで省略せずに言うべきだし、むしろ無人称の主語を想定して能動形で言う方が自然な日本語になる。本来なら「上海臨時政府庁舎を一般公開」とか「ムバラク大統領の息子、解放さる」と言うべきところだろう。
そもそも「が」で主格を表す表現はつい最近の事ではないか。百人一首を調べたが、主格が「が」で表現されている歌は一つもない。そもそも主格を明示しない歌が多いが、はっきり分かるものでは「は」が一番多く十九首あった。俵万智の歌集には時々主格の「が」が出てくる。広辞苑で「が」を調べると大きく分けて格助詞、接続助詞、終助詞とあって、格助詞の中でも主格を表す例は五番目に紹介してあるに過ぎない。
日本語は助詞の使い方で細かなニュアンスを伝える言語で、外国人が日本語を学ぶ際にも「てにをは」が難しいなどと言う。最近の「が」の氾濫は「てにをは」に選ばれなかった「が」の反乱の様に見える。