2022年9月20日火曜日

大河ドラマ:トライアングル第784回

 日本の大河ドラマも面白いが、中国にも似たようなものがあるようだ。日本以上に長くて多彩な歴史を持つのだから題材も山ほどあるに違いない。某有料チャネルでは「太秦賦」と題する連続ドラマが毎週放映され先日の最終話第78話で幕を閉じた。秦の始皇帝が天下統一をする話で、彼が趙で人質として過ごした幼少時代から始まって、斉を滅ぼして統一を完成するまでの内容だった。後に秦を破滅に追い込む趙高も既に出ていて、彼がどのように発言権を高めていったのか注目していたが、その前に終わってしまったのは残念だった。

中国の歴史に関しては陳舜臣の本などである程度予備知識があるが、自分の知っている事と違う視点で描かれているとまた新鮮な気持ちになる。例えば韓非が殺されるのは李斯がその才を妬んで始皇帝に陰口を言ったからだと思っていたが、ドラマでの李斯はそんなケチな男ではなかった。自分の国である韓を滅ぼされたくない韓非がスパイまがいの事をやったため、始皇帝はその才を惜しみながら泣く泣く処分した、という描き方だった。民の幸せのためには天下を統一して戦のない世を作る必要があり、韓がどうの趙がどうの魏がどうのなどと言うなという訳だ。

従来なら民を万里の長城の建設に駆り出したり焚書坑儒をやったり残忍な暴君としての側面だけ強調される始皇帝だが、このドラマでは威風堂々とした風格、高邁な志を持ち、凛々しく英明で民を思う名君として描かれる。朝議では臣下に自由に意見を述べさせ、最終決定は英邁な君主が自分の責任で独断する。それが中国式民主主義だとでも言わんばかりだった。民主主義とは意思決定の過程が大事なのではなく、政策が民の為になっているかどうかこそが問題だ、という中国政府の立場を代弁しているのだろう。

2022年9月13日火曜日

鎌倉幕府:トライアングル第783回

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を楽しみに見ている。鎌倉時代については司馬遼太郎があまり書いてくれなかったせいもあり知識が殆どなかったが、色々本を読むと大変スリリングな時代だった事が分かる。魑魅魍魎が跋扈する鎌倉の舞台を無事泳ぎ切るのはさぞ大変な事だったろう。そもそも北条氏は三浦氏、千葉氏、比企氏などに比べてうんと弱小な家だったらしいから、その家から頼朝の妻を出したというだけの縁でのし上がっていくのは相当の力量があった証拠だ。

だがそこで思うのは、もし北条義時が戦国時代に生まれていたら、一国を乗っ取り、さらに国を広げていく事が出来ただろうか、という事だ。戦国時代の大名には軍事力の他に国を治め国を富ます経済的センスが求められた。信玄堤による治水や農地開拓、楽市楽座による経済の活性化など。権謀術数に長けているだけでは戦国時代は生き残れない気がする。

そしてまた思うのは、もし頼朝ではなく甲斐源氏や摂津源氏が勝利し、彼等が朝廷との交渉の窓口を担う事になっていたら、鎌倉であれほど激しい主導権争いが起きていただろうか。自分等が天下の中心にいる立場にはなく、ただ従うだけの存在であったなら、仲間同志で殺し合う事までしなくて済んだのではないか。

そしてそして最後に思うのは、もし岸田首相が鎌倉幕府の一員だったらあの権謀術数の海を泳ぎ切れたのだろうか。とても否定的に思える。もしあの人が鎌倉幕府でトップを目指そうものならすぐにも寝首を掻かれただろう。国葬の問題にしろ、コロナの全数把握にしろ、その意思決定と合意形成は余りに稚拙だ。国民の多数が賛同しない国葬への参加を躊躇う外国要人も出るのではないか。イギリスの国葬との対比において日本の恥となるような事のない事を祈る。

2022年9月6日火曜日

負け方:トライアングル第782回

 セレナ・ウィリアムスの最後の試合になるかも知れない試合を見逃す訳にはいかなかった。今大会第二シードの選手に競り勝った時にはまだまだと思わせたが、やはりもうすぐ満41歳という年齢のせいか、三回戦で力尽きた。それでもセットを一つ奪い、最後も5回のマッチポイントをしのぐ頑張りには心から拍手を送りたかった。最後の最後まで勝利を決して諦めず全力を尽くす執念を見ると、スポーツの世界には潔い負けというのは理論上存在し得ないのかと思う。

というのはその前にNHKの将棋トーナメントで潔い負けを見ていたからだ。最終盤、相手玉が詰むか詰まないかの局面になった。長手数の詰みがあるかどうか、解説者も頭をひねる。王手を続けて相手の間違いを期待するのも一つの戦術であったろうが、それは相手方に失礼だと思ったのか、大長考の末出口六段が指したのは受けの手だった。相手玉に詰みがない事を読み切ったのだろう。そして相手の次の一手で投了したのだった。実に潔い負け方だった。

同じ日に放送された囲碁の方は、潔さそうで疑問が残った。AIの勝率予想では2%と苦戦が続く後手。しかし大きな石が取られた訳でもなく、盤面は微差らしい。AIは間違いをしないという前提で勝率をはじくから数字上2%でも小さなミスで数目程度はひっくり返る。ヨセを打ち進め、後は駄目詰めかと言う段になって突然投了してしまった。プロなら読み切れる一目二目の差だろうが、素人はそれを知りたい。あそこまで打ったのなら恥を忍んで並べて欲しかった。

さて、スポーツは戦争を模擬したものと言われる。スポーツに潔い負けが存在しないなら戦争にも潔い負けは存在しないのだろう。強いて挙げれば日露戦争の時のロシアはどうか。ウクライナでもロシアが潔い負け方をしてくれればよいのに。

2022年8月30日火曜日

宗教とお金:トライアングル第781回

 二人の宗教家がいたとする。一方はきらびやかで贅沢な服装をし、片方は質素で慎ましやかな服装をしていたらどちらをより偉大な宗教家と見なすだろうか。文鮮明とダライ・ラマを見比べて思いついた設問だ。金満家のイメージは宗教家に胡散臭さを感じさせる効果しかないように思える。イエスは粗末な布切れしか身に纏っていなかったろうし、釈迦は大金持ちの裕福な境遇を敢えて捨て苦行に身を投じた。

元々宗教とお金は縁遠いものの筈なのに、大きなお寺の本堂の中に入ると疑問が湧いて来る。そこでは天井から豪華な金の飾り物がぶら下がり、訪れた人を圧倒する。そもそもお寺の建物そのものが相当にお金の必要な規模と仕様で出来ている。そういえばお葬式にいらっしゃるお導師様の服装は決して質素なものばかりではない。時には金の刺繡の入った威風堂々としたお召し物の方もいらっしゃる。確かに乞食のようなみすぼらしい格好でお経を読まれても有難くないのかも知れない。いやいや、もしイエス本人が来てくれて、たとえ服装はみすぼらしくともその威厳に満ちた面持ちで故人の冥福を祈ってくれたなら、それが一番の供養になりそうだ。

要するに外見でごまかすのは自信のなさの表れではないか。教団を組織化し拡大しようとするのも同じメンタリティーによるものに思える。ミラノやケルンの大聖堂はよほど大きな教団組織を形成し、多くの寄進がなければ不可能だが、そういうことをイエスが望んでいたか甚だ疑問ではある。親鸞は教団の組織化には全く興味がなく「弟子は一人も持っていない」とか「私が死んだら遺体は鴨川に捨てて魚の餌にせよ」とか言ったと伝えられ、浄土真宗の今の隆盛は蓮如に負うところが大きい。東西本願寺の大伽藍を見たら恐らく親鸞は腰を抜かすに違いない。

2022年8月23日火曜日

二人の神様:トライアングル第780回

 811日の新聞は「大谷『神様』並んだ」と大谷の二刀流としての偉業達成を喜ぶ記事が紙面を飾った。日本人として仲間が本場で活躍する姿を見るのは嬉しいに決まっている。だがそこで、アメリカ人はどう感じているのかという思いがよぎった。

異国の選手が神様ベーブ・ルースと並ぶのを見るのは、立場を変えれば我々日本人にとって外国人力士が双葉山の記録と並ぶのを見るようなものだろう。狭量な私はそんな事にでもなれば気もそぞろになって、例えば白鵬の連勝記録が69に限りなく近づいたら彼が土俵で怪我をするとか、食当たりにでもなってくれないかと願ったりしたかも知れない。

大谷の10勝目が何度か足踏みしたのも、アメリカ人のそうした心理が影響したのではないかと邪推をしたが、どうやらそれは下衆の勘繰りに過ぎなかったようだ。1918年のルースの記録と、今年の大谷の10勝を上げた時点での記録を比較して面白い事に気が付いた。試合数は95107,勝利数は13勝と10勝、安打数は95102でほぼ同じ。だがホームラン数は11本と25本で倍以上も違う。そしてホームラン数がそれだけ違うにも拘らず、打点は両者とも66で同じだと言う事だ。つまり大谷が打席に立った時、塁が埋まっているケースが少なかった事を意味する。味方の援護の少なさを考えると大谷のより凄さを感じる。

もっとびっくりしたのはルースが盗塁を6個も決めている事だ(大谷は11個)。彼の生涯を描いた映画「夢を生きた男、ザ・ベーブ」では深酒も夜更しも当り前の不摂生で、相手チームからは風船野郎と野次られるほど太って、まともに走る事も出来ない選手として描かれていた。「我未だ木鶏たり得ず」と言った双葉山との対比を思ったが、実際はどうだったのだろうか。

2022年8月16日火曜日

思考停止:トライアングル第779回

「統一教会」のキーワードでグーグル検索をしてみて驚いた。地図が現れそこにおびただしい数の家庭教会の所在が図示される。こんな身近に活動拠点があったのか、と自らの不明を恥じた。そして関係のあった議員達の「そんな組織とは知りませんでした」とする臆面もない言い訳の白々しさを思った。

そもそも誰かが無料で何かをくれると言った時、普通の人ならどうするか。タダ程怖いものはない、とばかりにその申し出の背後を必死に探ろうとする筈だ。そして彼等の情報網を以てすれば容易にその正体は判明する筈だ。彼等は全て分かった上で、安倍さんとつながりのある団体なら大丈夫だろうと思考停止し、喜んで選挙協力を受け入れたと見るのが自然だ。

赤信号皆で渡れば怖くない的な身内優先型思考停止は大変危険だ。「統一教会と関係を持つ事の何が問題か分からない」という発言も出た。そんな事を言えば世間から反発を受ける事くらい分かりそうなものなのに敢えてそれを言ったのは派閥の受けを狙ったものとしか思えない。すなわち当該議員にとって国民の目より派閥の目の方が重要だったという事だ。ここにも身内論理優先の思考停止がある。派閥のトップとつながりがありさえすれば、彼等はオウム真理教であっても支援を受け入れたのだろうか。

それにしても岸さんや安倍さんは統一教会の理念・教義をどこまで知っていたのか。日本はエバ国でサタンの国であり、全てをアダムの国である韓国に捧げて当然なのだ、などという主張を知っていて、なおかつあれだけの関係を保っていたとなると、もうこれは私の理解を越えている。安倍さんがビデオメッセージを出したのはトランプ元大統領と歩調を合わせた結果らしい。とすると安倍さんも身内頼りの思考停止に陥っていたのだろうか。

2022年8月9日火曜日

神の言葉:トライアングル第778回

 人はどんな時に神の存在を意識するのだろうか。何か奇蹟を目の当たりにした時だろうか。神の声を聴いた時だろうか。神の声を聴いてアブラハムは我が子を捧げる決心をし、マホメッドは新しい宗教の開祖となった。山上容疑者の母上が多額の献金を決心したのも神の声を聴いたからだろうか。

私は神に何かお願いをする事はあっても、神から何かをしろと言われた事がない。恐らく「お前なんかに声を掛けても仕様がない」と相手にされていないだけなのだろう。だが、聴いた事はなくとも山上容疑者の母上が聴いたのが神の声ではなかった事だけは朧気ながら分かる。何故ならお金は俗世でしか意味を持たず、神が要求する筈もないからだ。

声を聴いた事はなくとも、神の存在を意識する事はある。数学の美しい式や定理を見た時だ。それは一種の奇蹟を見るに等しい。数学の最も基本となる01iとπとeの五つの数値が簡単な一つの式に納まっているオイラーの等式はその代表だ。映画にもなった「博士の愛した数式」でも紹介された。その単純さと完璧さは奇蹟としか思えない。

その他、全ての自然数を足し算で表した式の値が、全ての素数の掛け算で表した式の値に等しい、なんて言う式も不思議を通り越して感動を呼ぶ。ガウスの作図定理は「素数pがフェルマー素数の時、正p角形が定規とコンパスだけで作図できる。」と言うものだ。数字の議論が図形の議論とつながっているなんて神の仕業としか思えないではないか。

神が何かを語るとしたら屹度それは数学の言葉に違いない。残念ながら私はその言葉を理解するだけの能力がない。世の中には数学の難問に挑戦し数学を極めて、精神を病んだ人が沢山いる。ひょっとしたら彼等は神の声を聴き、自らを神に捧げたのだろうか。