2026年10月20日火曜日

ヤナ問題

 簗氏と道路予算の問題に関し、国交省は予算策定にあたり簗氏からの働きかけはなかったと回答した。ならば何故あのような劇的な変化があったのか、その事に関する説明責任が生ずるのではないだろうか。前例踏襲が基本の官僚機構にあって、前年度から半分以上予算を削減するなんて、余程の事がない限りあり得ない話だ。代議士からの働きかけがあって仕方なかったと回答した方が変な言い訳を考えるより良かったのでは。

簗氏のヤナ部分は、予算をどこかから引っ張って来た訳ではなく、同じ選挙区に割り当てられた一つのパイの分割に当たって依怙贔屓をしただけだからだ。対立候補を推した那須烏山市と那珂川に仕返しをするのでなく、支援してくれた市町村の予算を増額しただけなら、特に問題になる事はなかったのではないか。だって、総理大臣は自分の政策アピールのために対前年比10倍の予算をつけようとしているのだから(当コラム982回「広報」参照)。自分が大事だと思う事柄に予算を引っ張ってくるのは政治家の仕事だと言って良い。

内閣広報室の予算72億円の内、59億円は総理肝入りの投資戦略を自画自賛するアピール動画の制作を民間委託するものだそうだ。もし簗氏が高市総理との太いパイプを活かして「そんな動画を作るより、現在危険なまま放置されている道路の拡幅に予算を使いたいのですが」と直訴し、自らの選挙区に予算を引っ張って来たのなら、彼の株も上がったろう。話題になった市や町の道路予算は確か数千万円程度だった。72億の一部を回すだけで良かったのに。

ロサンゼルスでは野生動物が高速道路を無事に横断出来るように180億円を掛けて専用の橋が作られるそうだ。野生動物も大切かも知れないが、助けが必要な人も沢山いるだろうに。

2026年10月13日火曜日

ヤナ大臣

 前回の農水大臣は業界団体の保護しか頭になく、農家にも国民にも農業そのものにも役に立たなかったが、今回の農水大臣も変な人、いやヤナ大臣らしい。

最初に不思議に思ったのは小選挙区で敗けても大臣になれるのか、という事だった。かつて小選挙区で敗けて比例復活したが自民党の幹事長を辞任した人がいたが、一国の大臣が某団体の幹部より余程軽い身分で良いのだろうか。

次に不思議なのは本人の本音がどこにあるのかという事だ。支持者の前では「こんな事をするのは当り前だ」と堂々と発言し、問題化された当初はシラを切るつもりだったようだが、自民党内から疑問の声が出始めて反省の言葉を述べるようになった。お偉いさんに睨まれたら平気で自分の信念を曲げるような意気地なしというところか。

一番不思議なのは、彼のやった事の何が問題かという点だ。勿論心象的には「絶対許せん!」という気持ちだが、ではどこが悪いのか何故悪いのか論理的に説明してみろと言われると、ちょっと悩む。

民間企業の営業では「当社の提案・製品を採用してくれたらこんな良い事があります」というのが常套句だ。議員が「私を選んでくれたらこんな良い事(予算を引っ張ってくる)があります」というのは悪い事か。例えば「私が当選したら、毎朝ドブ掃除をして町の美化に努めます」と言えば誰も文句は言わない。予算の私物化が悪いと言われる。それだって自分の懐に入れた訳ではない。限りある予算をどう配分するかは極めて政治的な事柄で、それを決める権利を与えるのが選挙だとも言える。

ここで最初に返るが、その人は小選挙区では落選した、つまり選挙民はその人を選んだ訳ではないのにその人が権利を行使している所に問題があるのではないか。比例復活制度や任命責任が問題なのか。

2026年10月6日火曜日

切り抜き

 10月2日まで東京は37日連続降雨の記録を作った。お陰でテニスの練習も中止が相次ぎ、徒然なるままに部屋の片付けでもしようかと、昔新聞や雑誌を切り抜いてそのままになっていたファイルをひっくり返している。

その中に「トランプの『執行猶予』生活切りつめを条件に銀行は追加融資」という記事が目に入った。1990年7月のNewsWeekの切り抜きだ。トランプとは勿論今のトランプ大統領である。銀行からの借金の返済が滞り、その事業の再建計画をトランプとその弁護団が銀行団と交渉した時の様子を伝えている。銀行は追加融資と利払いの一部繰り延べを認めたが、その条件が「生活を切り詰める」事だった。どれだけ切り詰めるかと言うと、月の生活費を45万ドルまでにしろ、という事らしい。45万ドル、当時のカッコ書きで約6750万円とある。一ヶ月の生活費だ。

記事には前月の出費が58.3万ドルだったとあり、その内訳はフロリダやマンハッタンにある3つの豪華な住居の維持費、自家用ジェットやヨットの維持費、使用人やボディーガードの給与などだとある。

そんな彼だが交渉の途中、腹ごしらえをしようとなった時「俺はマクドナルドにする」と言ってビッグマックなどを注文したそうだ。しかも同席者によればメニューもちゃんと覚えていて常連だった事を伺わせたとか。

肥満化した生活を維持するために多額のお金を必要とし、食生活はハンバーガーをぱくつくような生活は幸せなのだろうか。そんな事を思いながらある新聞記事に赤いサインペンで傍線を引いた箇所が眼に止まった。平成16年の宮中歌会始の様子を伝える記事だった。その年のお題は「幸」、一般から選ばれたその歌に胸が熱くなった。

 夢に来ていま幸せかと問ひ給ふ

 母の若さの眩しかりけり

2026年9月29日火曜日

自衛隊

 前回は自衛隊員の採用がままならない事を話題にした。実態は我々の想像以上にひどい状況にあるように思える。2024年度の自衛官の数は定員(24.7万人)の90%弱の22万人、これは冷戦終結後で最小の人数だそうだ。しかし、もっと憂慮すべきなのはその内訳で、これを知った時はびっくりした。

自衛官の内訳は①最前線で活動する「士」②部隊の中核となる「曹」③曹士を指揮する「幹部」に分かれるが、この中で「士」は定員(5.3万人)の6割しかいない、つまり約3万人程度しかしないらしいのだ(2025年10月19日付けの読売新聞)。20万人を超える軍隊、と言っても最前線で戦うのはたったの3万人、これで大丈夫なのだろうか。隊員の待遇改善や募集年齢の引き上げなどが行われているらしいが、自衛隊内部からは「幹部ばかりが増え、階級インフレが進むだけだ」との冷ややかな声が聞こえるとか。

国家予算の中での軍事費の増強が進むが、武器や装備品をいくら揃えてもそれを実際に使う人がいなくてはどうしようもないではないか。日清戦争の時、清国は定遠や鎮遠などの軍艦を揃え、恐らく軍備では日本を上回っていたと思うが、それを使う兵士の質の差で日本に軍配が上がった。軍事費をヨーロッパ並みにという掛け声でGDPの3%まで軍事費を上げる予定だそうだが、豊富な軍備と足りない兵員でどう戦うのか、そのシミュレーションは出来ているのだろうか。日本がかつての清国の二の舞にならぬよう祈るばかりだ。

先日は1機200億円もする偵察用のグローバルホークが鳥取県沖で墜落した。その運用・維持費はアメリカに支払う技術支援費の1000億円を含め、20年で3500億円以上にも上るとか。税金の使い道として本当にこれで良いのか疑問が絶えない。

2026年9月22日火曜日

ターミネーター

 自衛隊の求人がままならず、採用計画の半分程度しか埋まらないそうだ。そこで笹川平和財団が自衛隊に外国人を採用したらどうかという提案をしたという記事が9月8日付けの東京新聞に出た。

兵隊さんに一番求められるものは戦闘意欲であり、だから自国で生まれ育った人でさえ長い時間をかけて愛国教育を叩きこまなければいけないというのに、外国人に戦闘意欲を期待できるものなのだろうか。下手に叱咤すればすぐにも銃口が逆方向に向いてしまうのではと心配になる。

しかし一朝有事の際に兵隊さんが必要なのは間違いない訳で、どうしても、となったら人型ロボットの採用に踏み切るのではないか。ウクライナでもイランでも戦争の主役を担うのはドローンである。こんな事を言ったら、知覧などの飛行場から飛び立って散って行った若者達に失礼だが、ドローンはその形態からすれば無人のロボット型特攻機ではないか。遠隔地を攻撃するには飛行機でなければならないが、接近戦を戦うとなると、やはり人型ロボットになりそうな気がする。

中国で開発されている人型ロボットの進化は目を見張るものがある。先日は人型ロボットの運動会が行われた。つい二三十年前までは二足歩行をするのがやっとであったロボットが、今や速く走るのも高く跳ぶのも人間を遥かに凌駕する。ロボット同士によるボクシングも行われた。ロボット相手にボクシングをしようと思う人間はいないと同じように、敵国軍隊にロボットがいたら、殆どの兵隊は戦意喪失するだろう。

そうやってターミネーターの世界が現実化される。あの映画を見たのは何年前だったろうか。こんな事ある訳ない、が第一印象だったが、下手をすると自分自身がその目撃者になりかねないのが怖い。あの映画も2029年の設定だった。

2026年9月15日火曜日

広報

 ドナルド・トランプという人はあまり遵法精神がないようだ。映画「アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方」でも描かれていたが、ロイ・コーンという剛腕弁護士に「絶対に負けを認めるな」と教えられ、それが彼の人格形成に大きく影響しているらしい。11月に控える中間選挙では共和党が勝利したら国民に5000ドル(約77万円)を配ると言い出した。票を金で買うなんて、どう考えてもいかんと自制が働きそうなものだが、彼の頭の中は常識と違う。

トランプを崇拝する高市総理の発想も似ている。9月11日付けの東京新聞によると、2027年度予算の概算要求で内閣広報室の経費が前年度(約7億円)の10倍超になる約72億円の要求をしたという。宣伝広告というと私企業が行うものであって、政府が多額の予算を使って宣伝広告をするというイメージがつかないが一体何をやろうというのか。

そもそも誰に向かって、何を宣伝しようと言うのだろう。私企業が宣伝広告を行うのは同業他社との競争に勝つためで、自社の製品がより優れている事を消費者に知ってもらうためだ。競争に勝つという点から言えば、自民党が宣伝広告を行うのであれば分かる。他の政党より優れた政策を立案・実行しようとしていると選挙民に訴える訳だから。しかし、政府には競争相手はいないはずだ。他国の政府より日本の政府が優れているから、皆さん日本国民になりましょう、と移民を推奨しようとでも言うのかと冗談の一つも言いたくなる。

政府がやっている仕事を国民に理解して貰おうというのなら、高市総理が避けていると言われる記者会見をもっと開いたり、国会での質問や批判に応えたりする事の方が肝要ではないか。まさか税金を自党に有利に私的利用するつもりではあるまいな。

2026年9月8日火曜日

法律

 アメリカとイランの戦争に出口が見えない。戦争は始めるのは簡単だが、終わるのは難しいと言われる。第二次大戦は日本とドイツが壊滅的な打撃を受けてようやく終わった。第一次大戦はドイツ国内で兵士や労働者の反乱が起き、皇帝が退位して終わった。アメリカとイランの戦争も、アメリカの中間選挙の結果が出て終わるのだろうか。

思い出すのはこの戦争が始まった時の高市総理の発言だ。「アメリカの挙動に対する法的評価は国益を考慮しながら行う」というものだ。当時の国際世論はアメリカの攻撃は国際法違反ではないかというのが主流だった。私は高市総理の発言を聞いて大変驚いた。法的評価とは本来損得を超越したものだと思うからだ。国益を考慮しながら法的評価を行うというのは、自分にとって得な事なら無法な事でも目をつむる、と言っているように聞こえる。高市氏は神戸大学の経営学部経営学科のご卒業だから法律にはあまり関心がないのかも知れない。

その流れなのだろうか、ICC(国際刑事裁判所)に対するアメリカの制裁にもあまり関心がないようだが、それよりICCとアメリカのいざこざに関してはルビオ国務長官の態度に首を傾げる。ICCに対するアメリカの主張は「非加盟国の国民を裁く権限はない」というものだ。イスラエルのネタニヤフ首相を犯罪者とする事に我慢がならない故の主張だが、これに対してICCは「加盟国の国内(領域内)で起きた事件に関しては非加盟国の国民も捜査対象」と反論する。パレスチナ自治政府はICCに加盟しているから、そこの無辜の市民を殺害するのは犯罪だと言っている。

マイアミ大学で法務博士の学位を取ったルビオ氏なら刑法が一般に属人主義でなく属地主義である事は先刻承知のはず。それをちゃんとトランプさんに教えて欲しいものだ。

2026年9月1日火曜日

誤審と不正

 あるテレビ番組で桑田真澄さんが「たとえ誤審であっても審判の判定を受け入れるのが高校野球なので、ビデオ判定の導入には反対です」と言っていた。こういう発想に私はちょっと馴染めないが強いて例えると、地震や大雨などの災害で苦しむ人達がいて、その理不尽さに神も仏もいないのかと思うような事があるが、それも受け入れざるを得ない、というような感覚なのだろうか。

スポーツの判定を巡っては、野球だけでなくバレーボールでも不思議に思う事があって、ブロックに飛んだ選手の手にワンタッチがあったかどうか、これも当人なら絶対分かる筈なのに決して自己申告はしない。テニスでラケットをボールがかすめた場合など、誰でも「あ、今触っちゃった」と、たとえ自分に不利な場合でも必ず自己申告するのに。

スポーツ競技における不正と言えば、サッカーでも相手選手のユニフォームを引っ張るなど当たり前にやっている。これも厳格に言えばルール違反なのだろうが、審判にばれない限りやらないのは熱意が足りない、とでも思われているかのようだ。日常生活に例えれば、自動車運転時の軽微なスピード違反に相当するか。強く引っ張り過ぎて相手選手が倒れてしまったりすると、流石にファウルを取られる。スピード違反も30キロ以上になると見逃して貰えないのに似ている。

テニスで不正と紛らわしいものと思われるのはフェイント攻撃で、右に打つと見せかけて左に打つ、強打すると見せかけて弱い球をネット際に落とす、などがある。相手を騙す訳だから日常生活に例えると詐欺まがいに思えるがこれは立派な戦術で、これが上手な選手は名選手と呼ばれる。ワーテルローの戦いでロスチャイルドが大儲けした巨大なフェイントは許容範囲と不正の境界線にあるように見える。

2026年8月25日火曜日

フェアプレイ

 高校野球と言えばフェアプレイ、フェアプレイと言えば高校野球、そう言われて当然だと一般に信じられているし、関係者もそう自認している筈だ。しかし、実際はそうでもないらしい。先の夏の甲子園のある試合で、私は目を疑い、首を傾げた。

二塁にランナーがいる状況で、キャッチャーが絶好の牽制球を投げ、二塁手がタッチしたかに見えた。しかし判定はセーフ。二塁手はすぐさまベンチにビデオ判定をアピールし、監督がそれに応えた。ビデオを見ると明らかにタッチしている。審判の目からは死角に入っていたのだろうが、当の選手、ランナーは自分がタッチされた事ははっきり分かった筈だ。それ程明確な、グラブが折れ曲がる程の接触だった。

こんな場合、自分に有利な誤審を自分から訂正するというテニスでは当たり前の習慣が野球にはないらしい。もし、あの時二塁ランナーが自発的にアウトを認め、ビデオ判定するまでもありませんよと自己申告したら、チームメイトからは裏切り者扱いされたのだろうか。

ビデオ判定は当事者が判断できない場合(例えば内野ゴロで一塁に走り込んだ時、ベースを踏むのが早いか、ボールがミットに入るのが早いかなど)に意味があるのであって、当事者が真相を知っている場合はたとえ自分に不利であっても自己申告するのがフェアプレイだと思うのだが。実際テニスでは億単位の賞金が掛かっている試合でもそれが行われている。

ある人に聞いたら、高校野球ではタッチをしていない場合でも大声で「タッチ」と叫び、あたかもタッチしたかのような印象を醸し出すよう指導をしているらしい。地方大会ではビデオ判定の導入も少ないらしいからそんな時有効なのだろう。テニス愛好家の私からはちょっと信じられないような話だった。

2026年8月18日火曜日

自然への敬意

 熊本の被災地では酷暑の中、未だに水も電気もない生活を余儀なくされている人達がいる。そのご苦労は如何ばかりかとお察しするが、しかし良く考えてみるとつい百年前迄は殆ど全ての人がそういう水道も電気もない状態で日常生活を送っていた事に驚く。

私が小学生だった頃母が良く言っていた事だが、人生で一番嬉しかったのは家に水道がついた時だった、と。一番上の兄が徴兵に取られ、残された三姉妹の末娘として、彼女の仕事は毎朝井戸から水を汲んで台所にある水瓶を満たす事だった。その仕事から解放された事が余程嬉しかったのだろう。私が物心ついた頃には流石に殆どの家に水道は完備していたが、電気は電燈とラジオしか用途がなかった。扇風機はおろか、熱源としての電気利用もなかった。ある時、父がニクロム線の電熱器を買ってきたが、イカや海苔をあぶる程度なら兎も角、とても湯を沸かせる力はなくて、子供心に馬鹿にした記憶がある。

水は井戸から汲み、熱源は薪や炭、そういう生活をつい最近まで我々は送って来たのだ。なのに今では水道が止まった、電気が来ないと言って大騒ぎをする。科学技術は人間を弱くしてしまったのだろうか。

全国の自治体で水道管の経年劣化が進み、災害時の水の確保が問題になっている。法定耐用年数を過ぎた管路の長さは25.4%に上るとか。そんな中、井戸が見直されているらしい。費用も工期も掛らず万が一に備える事が出来る。大変に結構な事ではないか。井戸水は夏は冷たく、酷暑対策にも少しは役に立つだろう。井戸水の恩恵に与る事により、人間が自然の恵みの有難さや、自然に対する敬意を再確認するきっかけになれば良い。

昨今の環境保護だとか、地球にやさしくだとか、人間の思い上がりに思えて仕方ない。

2026年8月11日火曜日

信賞必罰

 熊本地震で被災された方々には心よりお見舞いを申し上げたい。ニュースを聞くと、避難所に行きたいが空き巣被害が心配で仕方なく車中泊を続けている人がいるとか。こんな時に空き巣を狙う輩がいるとは。まさか同じ地方の人がそんな事をする筈もないから、遠くからわざわざやって来てそんな悪事をするのだろう。そんな奴には必ず天罰が下って欲しいと願わずにはいられない。陰徳陽報で、陰徳が報われないのには多少我慢できても、悪事に天罰が下らない事には我慢がならない。

こんな心情は神道に特有なのだろうか。神社の境内にある絵馬にしろ、拝殿で柏手を打った時にしろ、願い事は神道と極めて親和性が高い。様々な神様がこの世のシナリオを書いていて、どうかそれが我々の望むストーリーになりますようにとお願いしているかのようだ。

仏教はちょっと違う。仏様の前で唱える「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」とかは「阿弥陀仏に帰依します」のように、自分の意思表明をしている。「貴方を信じて全てをお任せします」と言っている。言外には「だから良い事をして下さいね」とお願いしているかも知れないが、そのお願いも「浄土に生まれ変わらせて下さい」のように、現世とは違うような気がする。

キリスト教ではどうか。ある人に「教会で祈る、って言うけど、祈るって何?」と聞いてみたら「ううん、、、感謝してる、かな」との答えが返ってきた。確かに西部劇などを見ると、家族で夕食を囲んだ時など、感謝の言葉を述べているシーンがよくある。こちらも神様に何かお願い事をしている訳ではなさそうだ。尤も一神教の神様はもの凄く強大だから、こちらの願い事などに耳を貸してはくれないだろうが。

でも、神道の徒である私は信賞必罰を願わずにはいられないのだ。

2026年8月4日火曜日

陰徳陽報

 人知れず善行を積めば(陰徳)、必ず良い報いが目に見えて現れる(陽報)という。もし本当にそうなら、この世はどれだけ住み良いものだろう、それなりに高い確率で実現するとしても、残念ながら「陰徳陽報」は決して100%ではないような気がする。時には陰徳を積んだ人が裏切られる事もあったりして、そんな時私は神の存在を疑ったりしてしまう。

トルストイの散歩道、という本がある。全5巻で市立図書館では児童書の棚にあった。敬虔なキリスト教徒であったトルストイが願いを込めてその理想を描いたのであろう、「陰徳陽報」を絵にかいたような話が載っている。聖地巡礼を思い立ってエルサレムを目指していた人が旅の途中で困っている人に出会い、なけなしの路銀をはたいてその人を助け、それから先の旅を諦めてしまう。勿論、その後その人には沢山の幸福が待っている。まさに陰徳陽報の世界。

だが、もし同じ事が我が身に起きたら私はどうするだろう。自分のやりたい事を諦めてまで、見ず知らずの人を助ける事が出来るだろうか。私には無理だ。自分のやりたい事を諦めずに済む範囲内で出来る事ならともかく。疲れ切って帰宅する際、混雑する電車で運良く座れた時に前に立つ弱弱しいおばあさんに席を譲る事すら出来ない自分なのだから。

陰徳陽報を少し小振りにしたのが人情ではないだろうか。困っている時、人情に助けられると非常に嬉しい。陰徳にしろ人情にしろ受動側にはとてもありがたいが、主動側に立つのは結構難しい。

若者が田舎を捨て、都会を目指すのは雇用機会の多寡もあろうが、この人情の難しさにも一因があるような気がする。人情の機微よりもディールの割り切ったデジタル感覚の方を知らず知らずの内に若者は選んでいるのである。

2026年7月28日火曜日

本能寺は変

 大河ドラマで「本能寺の変」を見た。でも今回のはちょっと変だった。

まず変だと思ったのは、寝間着姿の信長がたった一人で鎧武者数人を相手に立ち回りを演じている。旧暦の6月の事だからその日もそれなりに暑く、就寝中の信長が浴衣に近い装いでいた事は十分想像できる。その彼を複数の鎧武者が取り囲む。そんな馬鹿な、信長の近習はどこにいたのだ。しかし、ドラマでは信長が孤軍奮闘する。はて、武将とは剣術も達者だったのだろうか。そうは思えない。武将の本分は経営者であり戦略家であるべきで、戦術家の能力すら外注していた事を考えると剣術の腕はそれほど要求されなかったのではないかと思うがどうだろう。どう考えても、無防備な信長がバッタバッタと重装備した敵方をなぎ倒すというのは不自然に思えて仕方なかった。

その信長もついに力尽き、自ら死を選ぶ。自分の死体を敵方に渡すな、とは如何にも彼が考えそうな事であるが、しかし自ら死を選ぶというのはちょっと信長らしくない。最後までわずかな可能性に賭けていたと信じたいが、まあここは譲るとして、そこで作法に則った切腹をするとはどうしても納得できない。

切腹は平安末期から鎌倉初期には既にあったようで、同時代の清水宗治も一定の作法に則った切腹をしているから、戦国時代には既に切腹のプロトコルは完成していたのであろうが、しかし本能寺のあの騒動の中でとてもその手順が踏めたとは思えない。まわりが右往左往する中で、形式的な事が嫌いな信長が、一人のんびりと和服の前を左右に払い、静かに脇差を腹に当てる姿は滑稽にも見えた。

むしろ、自分の遺体を首級を敵方に渡さないためにどういう工夫をして、どういう死に方を選んだのか、その点に関して新しい解釈をして欲しかった。

 

2026年7月21日火曜日

ディールか人情か

 約4か月ぶりの帰省は自然の生命力と人情を実感させた。

生命力とは脅威であり、仮借なさである。庭の雑草の勢いは年を経るごとに強くなっており、除草剤の効力で背の低い可愛げな草しかなかったエリアに、今年は頑強な草が競い合うように縄張りを主張していた。これから数日草との戦いが始まる。シュースポスの神話の山がどんどん高くなっていくようだ。

屋内でも異変があった。洗濯機に給水するホースからポタポタ水が漏れるのだ。ホースの両端は特殊な金具で蛇口と洗濯機に接続され簡単に取り外せない。ホースの交換には専門知識が必要だと、最寄りの家電販売店に相談しに行った。そこの店主さんの親切な事!「まあお掛けなさい」と椅子を勧めてくれる。こちらの状況説明に「ホースに穴が空くのは考えられない。水栓との接続部分が漏れているのでは」と如何にも専門家的な原因究明をして、当該部分の部品を手に構造を説明してくれた。そして、良かったらこれを持ち帰って交換してみたら、と言ってくれる。奥様が出してくれたコーヒーまで御馳走になり、親切な対応に、ただただ感謝感動。

さらには、強風に煽られて網戸がレールを外れ宙ぶらりんになってニッチもサッチもいかなくなり、サッシ屋さんに来てもらった事も。流石にプロ、ホンの数秒でアッと言う間に直してくれた。こちらも当り前のように、「じゃあね」と何の請求もなく笑顔で帰っていかれた。日頃地元で信頼を積み重ねている友人の仲介があったらばこその事であるが、こちらも平田の人情をかみしめた次第。

全ての人間関係をディールと割り切って、マネーの介在なくしては人間関係が成り立たないような風潮がある昨今、人情と信頼の人間関係が生きて

2026年7月14日火曜日

気分損壊罪

 北米で行われているサッカーW杯はまだ終わった訳ではないが、恐らく一番嬉しかった事になるのは決勝トーナメント2回戦でベルギーがアメリカをコテンパンにやっつけてくれた事だろう。大統領がその権威を笠に着て、大会運営に横槍を入れる電話を掛け、それを受ける方も受ける方で、前の試合でレッドカードを受けた選手を出場可能にしてしまった。こういう理不尽がまかり通ると誠に気分が悪い。もし私が当日の審判だったら、キックオフの笛が鳴ったとたんに当該選手に駆け寄り、レッドカードを出してやりたかった。その後徹底的にサッカー界から干されようとも。 

W杯ではもう一つ気分を壊される事件があった。アメリカの国土安全保障長官がイランチームが敗退した事に関し「イランがもう終わって、戻ってこないことがうれしい。」と発言した事だ。かつては何々長官などという地位にいる人は、一定の品位を保っているか、少なくとも保とうとしている人ばかりだった筈だが、トランプ大統領になってからこんな人が次から次へと出て来る。

国旗損壊罪は国旗を「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法」で、損壊・除去・汚損する事を禁じているが、「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させる」事自体は罰せられないのだろうか。国旗損壊罪より気分損壊罪が欲しい。


国旗が焼かれた時に感じる不快感、それは自分が大切に思うものが粗末に扱われた事に起因する。自分が大切に思うもの、それは国旗に限らず人間の尊厳といったものも含まれる。古代より聖人君子が説いて来た、徳とか自制とか寛容とか、そういうものをないがしろにして自己の欲望を露骨に表面に出されると、とても不愉快で気分を害される。

なんとか気分損壊罪をトランプ周辺に適用して貰えないものか。

2026年7月7日火曜日

国旗損壊罪

 オーストラリアの建国記念日は1月26日で、これはイギリスが植民地統治を始めた日なのだそうだ。それを祝う人々がいる中で、先住民にルーツを持つ人達が抗議の意味を込めて、ユニオンジャックが配された国旗を燃やしてその意思表示をしたそうだ。こうした行動が日本国内で行われたら今後は間違いなく処罰の対象になる訳だが、本当にそれで良いのだろうか。

私は母国の日本を愛しているし、日章旗が燃やされたり、不当な扱いを受けたりする事には不快な思いをする事は事実である。いつだったか名古屋で「表現の不自由展」とか称して昭和天皇の肖像と思われる物が焼かれる映像が流れた事があったが、その時感じた大いなる不快と同じ気持ちに、もし国旗が焼かれたらなるだろう。

しかし国旗に対する思いは人それぞれであるという事も認めなければならない。1987年の沖縄国体では競技場に掲揚されていた国旗が引き下ろされ、焼却された。沖縄の人にとっては、第二次大戦末期の記憶や、未だに続く米軍の占領状態への反発から、国旗に対してオーストラリアの先住民に似た気持ちを持つ人がいてもおかしくないと思う。

一言で「国旗損壊」と言っても、いろんなケースがあって、罪を与えて欲しい案件と、罰する事はないのでは、という事件が混在し、結局裁く側の気分次第になってしまいそうだ。政府にとって都合の悪い人間が裏庭で古くなって使い終わった日章旗を焼却処分したら、それを名目に投獄されたりしても文句が言えないという事になる。

過去の日章旗焼却事件はいずれもが器物損壊罪で裁かれたそうだ。自分の持ち物を壊しても器物損壊罪にはならないだろうから、この罪は他人の物を壊した時限定だろうが、国旗だけは自分の物を壊しても恐らく罪に問われるだろうなあ。

2026年6月30日火曜日

反ユダヤ主義

 ようやくまとまりかけたアメリカとイランの停戦交渉にイスラエルがレバノン攻撃で横槍を入れている。イスラエルは自国の安全を脅かすものは絶対許さないとして、先制攻撃も辞さない事を明言して憚らないが、そんな事が国際社会で許されて良いのか。

そういうイスラエルの姿勢を批判すると、西欧では「反ユダヤ主義」だとして糾弾されるそうだ。特にドイツではナチスによる蛮行への贖罪の意識からイスラエルへの批判に及び腰のようだ。反ユダヤ主義とはユダヤ人に対する差別・偏見・迫害を指し、その極端な例がナチスによるホロコーストだが、ナチス以前からユダヤ人に対する偏見・差別はヨーロッパ社会に根強くあって「屋根の上のヴァイオリン弾き」などで描かれたり、シェークスピアの作品の中に垣間見えたりする。確かに不当な偏見・差別は許されてはならないが、だからと言ってユダヤ人なら何をしても良いという訳ではなかろう。ガザでの惨状などにあまりにも目を背けていると「やっぱりユダヤ人は・・・」と、却って反ユダヤ主義を助長してしまうのではないだろうか。

6月22日NHKで放映された「映像の世紀」はホロコーストを取り上げ、その生存者で歴史家のイェフダ・エルカナの言葉が紹介された。「アウシュビッツの灰燼からイスラエルには二つの国民が生れました。一つは『二度とこのようなことが起きてはならない』と主張する少数派、もう一つは『二度とこのようなことが自分たちに起きてはならない』と主張する多数派です。」今イスラエルを動かしているのはその多数派で「だから我々の先制攻撃は許される」と考えている。パレスティナ人に対して同胞が行っている事に絶望して自ら命を絶ったプリーモ・レーヴィは少数派の一人なのだろう。

2026年6月23日火曜日

AIと遊ぶ

 最近何か分からない事があるとAIに聞く癖がついた。知識という点で言うとAIは世界の誰よりも物知りと言って良いだろう。今まで疑問に思っていて、身近の物知りに聞いても納得できる回答を得られなかった事柄も、実に明解に答え教えてくれる。

例えば、国連の常任理事国の一つが中華民国から中華人民共和国に交代した事。中華民国には拒否権があった筈だから、どうしてその拒否権を行使しなかったのか、ずっと不思議で誰に聞いてもはっきりしなかったのだが、AIは明快な回答をくれた。文科系の疑問だけでなく理科系の疑問でも、可視光の波長が長い赤から次第に短くなって紫になる事と色相環の関係について、色相環で赤と紫が自然な形で繋がっているが、あの自然な変化の途中のどこかで波長の断絶がある筈だが、それはどこにあるのか。そんな疑問にも答えてくれた。

ネットのどこかに載っている知識は全て網羅していると考えて良さそうだ。でもそれが故に注意も必要で、少し前京都府南丹市で小学生が殺害された事件、父親が逮捕される前には様々なデマが飛び交った。その頃AIに「父親は何歳か」と聞いたら「正式な発表はないが、ネットの一部では24歳だとの情報が流れている」と答えていた。

AIに答えられない質問は、何がネットに載ってないかを知る手掛かりになる。幸手市(旧幸手村)には昭和の初め頃まで三河屋という麹屋があった。ある知り合いの御母堂の実家だと言うので調べたら幸手市史にはちゃんと記録がある。だがAIに「旧幸手村の三河屋について教えてくれ」と聞いたら答えられなかった。幸手市史の内容はデジタル化がされていないらしい。拙著「トライアングル」については著者名、発行者、発行日、総ページ数、ISBN番号についてのみ回答があった。

2026年6月16日火曜日

今は昔

ガッツポーズという言葉、当コラムでも当り前のように使っていたが、それがガッツ石松氏に起源があるとは知らなかった。早速AIで確かめてみたら「ガッツ石松が1974年にWBC世界ライト級王座を獲得した際、両拳を突き上げて喜びを表した姿に由来する」とか。それ以前はどう呼ばれていたのかも聞いたら「勝利のポーズ」とか「拳を突き上げる」とか表現されていた、と。

時代の流れに沿って物事も変化すれば言葉も盛衰する。佐藤愛子さんの逝去をきっかけに読んだ「今は昔のこんなこと」というエッセイが面白かった。彼女の若い頃普通にあった事柄が無くなって行くのを惜しんでいる。腰巻に始まって、蚊帳、押売り、五右衛門風呂、居候、火鉢などが続く。言葉だけが見掛けなくなったものとして「巡査」というのもあった。これなど最近は警察官、警官などが主流になっているが、それはどうしてだろうか。

現役の高校生である孫娘に目次を見せて、どれだけ知っているか聞いてみた。知っているどころか、まず殆ど読めない。居候は「きょこう」と読む始末。そんな中「あ、これ知ってる」と言うのがあった。それは「円タク」、丸いテーブルの事でしょう、と言う。円卓と勘違いしたようだが、カタカナ部分はタクシーを略したものだ。当時定額料金の1円でタクシーに乗れたらしい。私が子供の頃にはタクシーどころか、自動車すら滅多に見かけなかったから私には縁のない言葉だった。こうした流れの中で、その内「本屋」という言葉がなくなってしまうのではないかと心配だ。年を追うごとに街の本屋が姿を消していく。

目次の中には良妻賢母という言葉もある。これも死語になってしまったか。今時の女子大生はリョーサイケンボを料裁兼母と書くらしい。

2026年6月9日火曜日

免許返納

 6月1日大分市で起きた自動車事故がテレビの全国ニュースで報道された。88歳の男性が運転する軽自動車が住宅街の道路で歩道に乗り上げ、壁に衝突したというものだ。運転していた男性は病院に搬送後死亡が確認されたが、同乗していた85歳の女性は一命を取り留めた。人的には小さな自損事故に過ぎない。

この報道に接し、私が最初に思ったのは「もし運転手と同乗者が20代であったなら、全国報道される事はなかっただろう」という事だ。

去年の統計では全国で発生した交通事故の内死亡事故は2,495件、つまり毎日約7件の死亡事故が発生している。その内、どれを報道し、どれを報道しないかの選択が行われる。私の見るところ、高齢者が起こした事故は殊更大きく報道される傾向があるようだ。

死亡事故を起こした人の年齢別の統計を見ると、高齢者よりもむしろ20歳未満の人の方が多い。昨今の高齢者に偏重した事故報道は、必要以上に不安を煽り、高齢者に免許返納を促そうという為政者の意向が反映されたものと疑いたくなる。しかし免許を返納してしまったら高齢者は移動手段を何に頼れば良いのか。自転車か。いや自転車は自動車よりもっと危ない。風に煽られて転倒する事もあるだろうし、交差点で自動車に巻き込まれる可能性だってある。そもそも自転車を乗りこなす能力があれば車の運転などたやすい。これから車の安全性能はもっと上がるだろうし、十分に安全運転を心掛ければ良いだけだ。高齢者に免許返納を迫るのは無責任で、貴方達は家でじっとしていなさい、と言ってるのに等しく明らかに高齢者の福祉に反している。

ちなみに私の父は免許返納し83歳の時自転車で移動中に後ろから来た40代の男性が運転する自動車にはねられて死亡した。地方紙の片隅に小さく報道されただけだった。