2024年6月18日火曜日

後進国

 立場の強い者と弱い者が対峙した時、公正さを担保するためには強い側に相応のハンディを課さなければならない。日常生活において、道路という公共の施設を自動車と歩行者が共用している訳だが、立場の強い自動車の方により多くの注意義務を課しているのはその一例だ。

ところが日本の司法制度はどうだろうか。一般市民と司法当局とを比べれば当然後者の方が立場も力も強いのに、注意義務や制約を負うどころか、傍若無人とも思える振舞いが許されているように見える。袴田事件の再審裁判で検察が改めて死刑を求刑したのを見てそう思った。

死刑を求刑する、というのは軽い事ではない。その人を殺して下さいと言っている訳だから。そこまで強い事を言うのは、余程その人が悪い人で、その証拠がはっきりしている場合に限られなければならないし、言う側は、もし間違っていたら私を殺して貰っても構いません、という位の覚悟があって然るべきだ。だが実際は何かランチのメニューを注文するかのような気楽さで死刑を求刑し、それが間違っていたとしても検察官は痛くも痒くもないようだ。こんな事で公正な裁きができるのだろうか。

鹿児島県警で起きた不祥事にも同じような傾向が見える。立場の強い本部長が部下をいいようにあしらっている。内部告発者を保護するための情報源の秘匿努力はどうなったのかと疑問に思ったが、実際は通報を受けた側が別件で警察の家宅捜索を受け、秘匿する余裕がなかったものらしい。家宅捜索にしろ逮捕にしろ裁判所の許可がなければ警察独自の判断では出来ない筈。警察の暴走を抑制すべき裁判所が警察の言いなりになって良いのか。

強い立場の両者が自制せずに一般市民をないがしろにするなんて、日本がそんな後進国だったとは!

2024年6月11日火曜日

CODH

 標題の4文字はCenter for Open Data in the Humanitiesの頭文字を取ったもので「人文学オープンデータ共同利用センター」の英語名である。先日このセンターから「デジタル時代の変体仮名:日本の文字文化の継承と新たな展開」というセミナーの案内が届き、ZOOMで約2時間視聴した。

ちょっと前までセミナーと言えば電車賃を払って都心まで出掛けなくては参加できなかったが、今ではネットを介して家に居ながらにして有用で貴重な情報に接する事が出来るのだから有難い話だ。聴くだけでなく、質問も出来るし、教室で講義を受けているのとなんら変わりがない。デジタル技術の進歩は目覚ましい。

そのデジタル技術が変体仮名をも取り込もうという話がこのセミナーの趣旨だった。

先週原稿を書きながら変体仮名を原稿の中にそのまま表記できず、「者」を崩した「ハ」などと奥歯に物が挟まったようなもどかしさを感じていたが、もうすぐパソコンでも変体仮名を扱えるようになるらしい。既に2017年には変体仮名285文字がUnicodeに採用されいつでも使える状態にある。Googleはその仮名のフォントを開発しアンドロイド15では標準装備するとの事だった。(因みにアンドロイドの現在のバージョンは13)セミナーではLINEでくずし字トークをする、なんて例が紹介された。現代人が変体仮名でトークして楽しいかどうかは若干疑問だが。

変体仮名をAIに学習させて、古文書を解読させようという事も行われている。その成果は既に「みを」というアプリで実現され、スマホにインストールして使えるようになっている。早速古文書講座の教材で試したが、実力はまだ今一の感がある。もっと賢くなって石碑の文字を読む際の助けになってくれたら嬉しい。


2024年6月4日火曜日

変体仮名

 先週原稿を書いた後大河ドラマ「光る君へ」を視ていたら、清少納言が枕草子を著す場面があり、ここでも仮名の表現に疑問を感じざるを得なかった。政争に巻き込まれて傷心の中宮定子を慰めるために着想したという設定で「春はあけぼの」のあの有名な文言が画面に映し出されたが、清少納言が本当にこの仮名文字をつかったのだろうか。

「は」は「波」を崩した字だが、古文書にでてくる「ハ」は「者」を崩した文字が殆どだ。蕎麦屋の暖簾に書かれている変体仮名がそれで、「楚者」を崩した字で「そは」と読ませている。時には「者」に濁点が付いていたりする。「の」も「乃」に派生する現在我々が使っている字が出て来るケースは少なく、「能」を起源としたものが殆どだ。

撮影時に「春はあけぼの」と筆を走らせた人は、その達筆ぶりからして当然変体仮名に通じていてそうした事情は先刻承知の事だろうから、おそらくNHKからの要請でこうした文字を選んだものと思える。せめてもの意地だろうか「ホ」の字だけは「保」を崩した今の「ほ」ではなく「本」を崩した字を書いていた。

変体仮名を覚えると色々楽しい。大東町の須賀神社には素戔嗚命が読んだ例の「八雲立つ」で始まり「その八重垣を」で終わる歌を刻んだ石碑が立っているが、最後の「を」は「越」を崩した字が書かれている。それを知ってるから、熨斗紙に書かれた「御多越留」が素直に「御タヲル」と読めた。

信州の小諸城には島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の石碑が立っているが、これが全て変体仮名で書かれていて、読むのが大変だ。明治5年生まれの島崎藤村は明治政府が定めた今の仮名とは無縁だったのだろう。それにしても明治政府が仮名文字を決める時変体仮名をベースにしてくれていたらもっと古文書が身近になっただろうに。




2024年5月28日火曜日

時代考証

 レンタルショップでDVDを借りてきて「軍師官兵衛」を一気見している所である。大河ドラマと言えばNHKが最も力を入れて製作している番組の一つだろうからよもや間違いはあるまいが、でもちょっと首を傾げたくなるシーンがある。

秀吉がキリシタンの危険性に気付いて禁制令を出す場面、「定」と書かれた命令書がこう映し出された。「日本ハ神國たる処きりしたん國より邪教を授候儀太以不可然候事」最後の方が漢文調になっているところなど如何にもそれらしく見えるが、この文章が書かれた天正15年には絶対に「きりしたん」などとは書かれなかったであろう。今我々が使っている平仮名は明治33年の「小学校令施行規則」で定められたもので、それまでは変体仮名が一般に使われていた。私が月に一回通っている「古文書講座」の文書でも、タの音を表現する文字は「多」を崩したものが殆どで、「太」を崩した「た」に出会う事は全くない。変体仮名に不慣れな視聴者が沢山いる事を考慮しての事と思われるが、ならば「切支丹」と漢字で書けば良かった。

この禁制令を民衆に知らせるための高札が出て来るシーンもあるが、これもおかしい。文字は行書で書かれていて読み取れないのだが、項目が四つになっているのだ。古文書講座で習った所によると、高札には奇数条項と言って項目は奇数にするのが一つのきまりだったそうだ。確かに17条の憲法も五か条の御誓文も奇数だし、家康の武家諸法度も13条、信長が足利義昭に出したのも17か条の意見書だ。時代考証を担当した人が奇数条項を無視したのはどういう理由だろう。

最後の極めつけは秀吉に従わない島津を討つため九州へ出征する官兵衛に対して妻の光(てる)が掛けた言葉、「道中ご無事で」。これから戦争に行こうという人にそれはないだろう。



2024年5月21日火曜日

復仇

 連日ニュースでガザの惨状を眼にすると、イスラエルもいい加減にしたらどうかと思えてならない。そんなイスラエルを支援し続ける政権に対する抗議の意味で、アメリカの外交官や国務省職員が辞職する事例が相次いでいるとか。4月に入ってから20人以上が、平和的手段での解決を提案しても相手にされないとして辞職したらしい。

中東問題に詳しい放送大学の高橋和夫教授はイスラエルとハマスの戦いはニューヨーク・ヤンキースと荒川少年野球団の試合のようなものだと言った。確かに去年の107日ハマスが1回の表の攻撃で数百人の人質を取ったが、その後イスラエルの1回裏の攻撃は二桁得点してもまだ一つのアウトも取れない、というような感じだ。

ナチス・ドイツのホロコーストを記憶する世代はイスラエルに同情的だ、などという指摘もある。確かにあのユダヤ人虐殺は酷かったが、それを行ったのはナチスであって、イスラエルがドイツに仕返しするなら兎も角、どうしてそのツケをパレスチナ人が払わないといけないのだろう。

人間なら「復讐」するようなケースを、国家間では「復仇」というらしい。ある国が不法な行為をした場合、他国が同等に不法な行為で報いる事で、今イスラエルがやっている事はまさにそれに当たる。報復行為を武力でやる場合を「戦時復仇」というらしいが、それが認められるためには三つの条件があるそうだ。「事前通知義務」「過度な懲罰の禁止」「人道的配慮」の三つ。最初の通知義務は確かに避難勧告などを出しているから守っていると言って良いかも知れないが、他の二つはどうだろう。

107日の行為に対する復仇だと思えばあまりに過度な懲罰ではないか。まさかイスラエルは80年前のホロコーストに対する復仇だと思ってないか。

2024年5月14日火曜日

辛抱

 大河ドラマ「軍師官兵衛」は2014年の放映である。その撮影が行われたのは前の年の2013年だから、子役として出ていた今年20歳になる出演者は当時9歳だった事になる。

最近急に歴史に興味を持ちだした息子が借りて来た「軍師官兵衛」のDVDを視た。凶悪事件の実行犯として逮捕された若山耀人は官兵衛の幼少期を、そしてその子長政の幼少期を演じていた。科白もあれば、笑顔も作り泣き顔にもなる。かなりの演技力と見た。週刊誌報道によれば500人のオーディションを勝ち抜いたというから、それも当然だろう。

9歳で大河ドラマの準主役に抜擢されるというのは役者人生として順風満帆な出だし、いや誰もが羨む出だしと言って良い。それがたった10年でこうも暗転するものなのか。ネットで検索すると、彼は数多くのテレビドラマ・映画に出演し、最後の作品は2018年に発表されている。これだけ多くの出演依頼があれば、収入も相当あったろうし、年齢からしてお金の使い道も限られたものだった筈。僅かな金の誘惑で凶悪事件に関与しなければならない程お金に困ったのが不思議に思える。それともあまりに順調で恵まれた出だしに慢心が芽生え、かつての自分の栄光がまぶし過ぎて自暴自棄になったのか。

一生懸命努力しても成功を勝ち取れない人がいる一方で、折角のチャンスを棒に振ってしまう人がいる。成功への階段を踏み外す事なく登り続けるためには思っている以上に辛抱が必要なのだろう。それが出来た人が大河ドラマの主役になる。黒田官兵衛も豊臣秀吉も徳川家康もその人生は辛抱の連続だったに違いない。

若山耀人は今頃、荒木村重や明智光秀に自らをなぞらえて、どこで何を辛抱すれば良かったかを反省しているだろうか。

2024年5月7日火曜日

伝統

 先週のコラムでは、男女平等と伝統を測りに掛けて前者が重要である事は論を待たないと言った。でも後で良く考えてみると本当にそれで良いのか不安になって来た。男女共学の問題に関してはそれで良いのだが、それを全ての問題に敷衍した場合にはどうか、と。

男女平等と伝統、この二つのキーワードから連想したのは皇位継承の問題だ。皇室典範の定める所では天皇になれるのは男系男子に限られる。女系に門を閉ざしている点で明らかに男女平等に反している。また、その根拠と言えば、ずっと昔からそうだったから、つまり伝統だからだろう。では伝統より男女平等の方が大事なら今すぐにでも女系天皇を認めるべきなのだろうか。

天皇は男系であって欲しいと願っている私は、自分のダブルスタンダードに悩んでしまった。ダブルスタンダードは最も恥ずべき破廉恥な態度だと思っている私は、当初の論を見直し、男女平等や伝統には色々あって、どちらが重要か一概には言えない、と思う事にした。

男女平等に良い悪いがあるとは思えないから、伝統の方に大事なものとそうでないものがあるのではないか。伝統とは長い年月人々がそれを是として守り続けて来たものだ。どれだけ多くの人に、どれだけ長くの時間に渡って守られたのかが伝統の価値を測る基準になると言って良い。男女別学は明治以降の事だからせいぜい百数十年の歴史で、現在男女共学の学校が殆どである事からそれを是とする人の数も多数とは言い難い。

一方で男系による皇位継承は千五百年程度続き、過去何度か女性天皇は生まれたが、男系だけは守られて来た。その伝統は天皇制そのものであると言っても過言ではなく、それを否定して女系を認めるのは天皇制の存在意義を否定するのと同じように思える。

2024年4月30日火曜日

男女共学

 3週間の帰省を終えて家に帰ると、その間に溜まった新聞に眼を通す。すると埼玉地方版の「共学化2度目の勧告」という見出しが眼に止まった。

男女別学の公立高校が今でも全国に45校(男子校15,女子校30)あって、埼玉県には男子校5,女子校7が残っているが、県の男女共同参画苦情処理委員会が「早期に共同化を実現すべきだ」との勧告を出した、それも2002年についで2度目だ、というのがその記事の概要だ。

勧告を出した組織の名称からも分かるが、その趣旨は男女平等が主眼だが、共同化に反対の声は22年前と同様今も多いというから驚く。生徒会が実施したアンケートでは浦和高校の86%、春日部高校の87%が「反対」「どちらかと言えば反対」と答えたという。OBの中には「長年の歴史・伝統を壊してまで共学化すべきか」という意見もあるらしいが、男女平等と伝統を秤に掛ければ前者の方が重要だと考える方が自然に思える。

この記事を見て高校時代にクラスの担任の先生から出雲高校共学化の際のエピソードについて伺った話を思い出した。共学校としての出雲高校の発足は昭和23年の事だから、担任の先生の年齢を勘案して彼が当事者であった事に疑いはない。旧制簸川中学にルーツを持つ男子校と、女子師範にルーツを持つ女子校の共学化に関し、男子校の生徒会で討論された時、声に出して言う意見は圧倒的に反対が多かったが、いざ無記名の投票を行ったら賛成が圧倒的多数を占めた、と。口では硬派を気取っても、内心は女性と触れ合う機会を求めていたという事か。

女子校の学園祭に男子校の生徒が大勢で押し掛けたりするではないか。男性が女性の魅力に惹かれるのは自然な事で、修道院や禅寺のような禁欲や強がりは時代遅れに思えるが。

2024年4月23日火曜日

カネとの付き合い方

 数週間前だったが、バイデン大統領が資金集めのパーティを開いたという記事を見た。11月の大統領選挙を控え、支持率低迷に苦しむバイデン氏を応援するため、オバマ、クリントンの二人の元大統領が応援に駆けつけ、一晩で39億円を集めたという。その金額の大きさにも驚くが、そうした収入の額を堂々と公表して憚らない風土にも驚く。日本で政治家が資金集めのパーティを開いたとしても、その収入総額がいくらになったかなど、決して報道される事はないだろう。

記事にはチケットの料金も書いてあって250ドルから50万ドルだそうだ。1ドル=150円で換算すると37500円から7500万円だ。家を一軒買ってもおつりが来そうな金額を出そうという人がいるのも驚く。しかも会場の様子を見ると、特に食事や飲み物が用意されている訳でもなく、政治家の演説を聞くだけのように見える。そんな事を日本でやれば、やらずぼったくりだと週刊誌に叩かれるに違いない。

政治とカネの関係についての感覚が日米でこうも違うのはどうしてだろう。そもそも日本人はカネについて言及する事を卑しい事だと思っているフシがある。自然災害や各種事故における個人の損害額やその補償について具体的な金額が表に出たのを見た事がない。

テレビコマーシャルにも日米のカネに関する感覚の違いが現れている。アメリカでは多くの場合その製品の価格が表示され、それが如何にお買い得かが強調されるのに、イメージ重視の日本のCMでは値段を言うのはタブーのようだ。

ユダヤ教の教えに「カネは無慈悲な主人であるが、同時にこれほど優れた召使はいない」というのがあるそうだ。主人なのか使用人なのか友人なのかはたまた悪しき隣人か、日本人もカネとの付き合い方を見直したらどうか。

2024年4月16日火曜日

はした金

 自民党のパーティ券売上キックバック事件ではキックバックの金額が500万円以下の場合は処分の対象から外すという判断がなされた。処分されてる人も沢山いて、それが悪い事であるとの認識はあるようだから、やった事が悪い事ではあっても、その金額が少ない場合には許してあげよう、という事らしい。

実は似たような判断が最高裁判決として出された事件がある。「葉煙草一厘事件」と呼ばれるのがそれで、栃木県の農家の男性(当時63歳)が自分が栽培した葉煙草一厘分(一厘は一円の千分の一)を自分で吸ってしまったため、本来大蔵省専売局に納付すべきものを横領したとして訴えられた。一審では無罪、二審では罰金10円の有罪、最高裁で無罪が言い渡された。違法な行為であったとしても実害がほとんどなく微細な所為であれば罪には問えないというのがその判決理由だった。

事件が起きた明治42年の貨幣価値がどの程度であったか、詳しい資料がないのだが、仮に当時の1円が今の1万円に相当するとして、男性が横領したのは今の価値にして10円程度だったと思われる。10円をはした金と呼ぶのは、1円たりとも無駄にしたくない私にとってはなんとも気まずい事だが、人を罪に問う重要性に鑑みれば敢えてそれも許されるかも知れない。

だが、500万円は如何なものか。庶民にとって500万円はゆうに一年が暮らせようかという大金だ。だが自民党の先生方にとっては罪を問うには値しないはした金のようだ。

そうした金銭感覚や、宴会に露出の多い女性を呼んで浮かれ騒いだりしている姿を見ると、政治家がお金に困っているとは到底思えない。政党交付金は政治にはお金が必要で、政治家がお金に困っているという前提で作られた制度だ。制度の見直しが必要ではないだろうか。

2024年4月11日木曜日

大宰府


 11日は大宰府天満宮と九州国立博物館へ行きました。大宰府天満宮は本殿の改修工事の最中で、その代わりに屋上緑化を施した超モダンな仮本殿が立っていた。

九州国立博物館で一番印象的だったのは釈迦菩薩立像。その顔立ちが西洋人だったこと。パキスタンのガンダーラで出土したものらしいが、これがギリシャ彫刻の影響を受けた仏像の原初の姿なのかなあ。






2024年4月10日水曜日

熊野摩崖仏

 国東半島観光の白眉は熊野摩崖仏。険しい山道を登らないとたどり着けないけど、行って良かった。人間の体と比べてスケール感を実感して下さい



富貴寺

 4月10日は国東半島へ。富貴寺(もとは蕗寺だったらしい)の弥勒堂は国宝。仁王像はやはり国東半島らしく石像でした。






2024年4月9日火曜日

九州旅行1日目

 出雲に帰省して、幼馴染と九州旅行に出掛けました。今日は中津と耶馬渓を回った。中津城は黒田官兵衛の城として売り出しているんだね。確か秀吉が官兵衛に国を与えるにあたって、あまり大きな国を与えるとそれを足場に天下を狙いかねないと心配して中津と言う小さな領国に止めたという話があった。耶馬渓の羅漢寺は残念ながら閉門されていたが仁王門の石像の仁王像は見事だった。耶馬渓橋(オランダ橋)は欄干が崩れて通行禁止は仕方ないね。








依存症

 水原氏は自らをギャンブル依存症だと告白した。そもそも依存症とはその渦中にいる人は自覚が持てる程冷静ではいられないように見えるが、自覚のある水原氏はまだ軽症なのかも知れない。

翻って、自分自身が何かの依存症になった事があるのだろうかと思い起して見ると、どうも特別何かに入れ込んだ記憶がない。それが凡人の性なのだろうが、逆に何か事を成した人は基本的にそれにのめり込み、自分の人生よりその事の方がより大切だという一種の依存症になった人が多いように思える。

大谷選手は言ってみれば野球依存症ではないか。初めて来たニューヨークの印象を尋ねられて「出歩いていないから分かりません」と答えたというエピソードがある。あのニューヨークへ行っても、名所を歩いたり、名物を食べたり、浮かれる事無く、トレーニングや野球のデータ分析に時間を過ごしていたのだろう。一心不乱に野球に専念する姿は野球依存症そのものに見える。

藤井聡太八冠は将棋依存症だ。一番好きなのは何ですかと聞かれて迷うことなく「将棋です」と答え、二番目は、と聞かれると「そうですね・・・・詰将棋ですね」と答える。では三番目に好きなのはと聞かれて、しばらく考え込んだ後「ううん、詰将棋を作る事です」と答えた。まさに将棋一筋の人生は将棋依存症に他ならない。

モーツァルトは音楽依存症だったような気がする。彼は音楽なしでは生きて行けなかったのではないかと思う。

こうした偉人達と水原氏の違いは何か。それは依存症になる対象と相思相愛の関係の関係になれたかどうかではないか。大谷は野球に愛され、藤井は将棋に愛され、モーツァルトは音楽に愛された。水原氏は残念ながらギャンブルに愛される事はなかった。もっともギャンブルはおそらく誰も愛さないだろうが。

2024年4月2日火曜日

塞翁が馬

 人間万事塞翁が馬。水原一平氏の賭博騒動の報に接した時、真っ先に浮かんだ言葉がそれだった。

球界のスーパースターである大谷選手の専属通訳になるという僥倖がなければ、数億円もの借金を背負い込むと言う不幸に見舞われる事もなかったろう。水原氏が普通のサラリーマンだったら、胴元も回収不能なほどの賭けを許すはずがない。

大谷選手の会見を見て残念だったのは金の動きに関しての言及が全くなかった事だ。どうして水原氏があれだけ巨額の金を動かす事が出来たのか、それについて皆が納得する説明があったらあの会見は完璧だった。それを言わなかったのは、弁護士からの指示で敢えてそうしたのか、まさか大谷選手側に何か後ろめたい事がある訳ではなかろうが。

普段から車を買ったり家賃を払ったりの実務を大谷選手は代理人に任せていたのだろうから、その代理人が彼の口座からお金を動かすのは可能だったろうが、それにしても送金の実務を行う銀行に何らかの抑止能力はなかったのだろうか。

数年前山口県阿武町で起きたコロナ給付金の誤送金事件の時も思ったが、あの時も町からある特定の個人に数千万円ものお金が振り込まれる不自然さに銀行が気付き、送金元の町に確認を取っていれば防げた筈だった。今回の送金についても銀行は送金先の口座が不動産取引であるとか、金額に見合うそれ相応のものである事の確認や、より厳格な本人確認は行わないものなのか。顧客の利益を守るためにそれ位の事をしても良いだろうに。

水原氏は大谷選手の結婚を公表よりずっと前に知っていたのだろうが、水原氏からその事実が漏れる事はなかった。その事からも大谷選手の彼への信頼が伺える。そんな信頼を裏切られてしまった大谷選手、だがこれも塞翁が馬として次の幸運につなげて欲しい。

2024年3月26日火曜日

客観評価

 映画を生業とする者にとってアカデミー賞は科学者にとってのノーベル賞にも匹敵するものだろうし、日本人の作家が芥川賞を受賞する以上の喜びであり誇りであるのだろう。だから受賞の瞬間、感極まってガッツポーズを作ったり、関係者が抱き合って喜ぶのも当然なのだが、それを見ていて素直に一緒に喜ぶ事が出来なかったのは何故かを改めて考え直した。

もしウィンブルドンのテニス大会で日本人選手が優勝したのなら屹度我が事のように喜ぶ事が出来ただろう。ウィンブルドンとアカデミー賞の違いは何なのか。

受賞の挨拶をした監督がカンニングペーパーを見ながら下手な英語を喋っていたからだろうか。全て暗記しておくなら兎も角みっともない姿で、しかもあんな英語だと現地の人は殆ど理解できなかったのではないかと思われる。堂々と日本語で臆することなく挨拶してくれたらもっと違う印象を持ったかも知れない。野球のメジャーリーグでMVPを取った大谷選手が堂々と日本語で会見をするのを見て誇りを感じるように。

いやいやウィンブルドンとアカデミー賞にはもっと本質的に違うものがある。ウィンブルドンでの優勝は誰にも文句のつけようがないという事だ。一定のルールの下で技を競い合い、誰にも負けなかったという事実は万人が認めざるを得ない。一方で映画の価値とは多分に主観的な要素が入り、A作品とB作品のどちらがより優れているのかというのは一概には言えない。そうした背景の元での受賞とは、ようするに審査員であるアメリカ人のお眼鏡に適ったというだけの事ではないか。その価値観に屈してしまっているという構図がどうにも素直になれない原因を作っていたのだと思う。

2024年3月19日火曜日

攘夷と自負

 アカデミー賞の受賞が決まった瞬間、歓喜する関係者の姿を見て思わず舌打ちをしてしまった。日本人の活躍を素直に喜べば良いのだが、加齢に伴う頑固さが出たのか「外人に(特に白人に)褒められる事がそんなに嬉しいか」というねじれた思いが湧いてきた。

作品の素晴らしさは認める。特に視覚効果賞を受賞した「ゴジラ-1.0」について、ハリウッド映画の十分の一の予算で、全く引けを取らない映像を作り出したなんて聞くと、胸のすく思いがする。しかしそれとは違う何かが心に引っかかるのだ。

柔道の講道館杯の優勝者は話題にもならないのに、オリンピックのメダリストは矢鱈チヤホヤされる時に感じるのと同じモヤモヤだ。柔道の国際化を目指すというのなら、講道館杯を外人にも開放し、彼等がその伝統と歴史に名を連ねる事に憧れる事を目指すべきだ。丁度テニスプレーヤーが伝統あるウィンブルドンでの優勝を渇望するように。そうすれば柔道がレスリングと見紛うように変貌したり、柔道とジュードーは違うんだなどと言われるような事にはならなかったのではないか。

確たる価値観を持たず、他者の価値観に迎合するような人や民族は尊敬されない。日本人は一体いつから外人所謂白人に劣等感を持つようになったのだろう。少なくとも幕末に攘夷を叫んでいた志士達は外人何するものぞと思っていたはずだ。聖徳太子は煬帝に対等の立場で向かおうとしたし、足利義満は明から日本国王と呼ばれて喜んでいたようにも見えるが、実際は貿易の利益を得るための方便だったのではないかと思える。豊臣秀吉が唐入りと称して大陸に攻め込んだ時も外人への劣等感は微塵も感じられない。

アカデミー賞の受賞は素晴らしい事に違いないが、もっと自負を持ちたいと思ったという話。

2024年3月12日火曜日

数学の話題

 YouTubeを見ていると、つい時間を忘れてしまう事がある。将棋対局の解説を視聴している時と数学の面白トピックについての番組を視聴している時だ。

クリフォードの定理、というのがあるらしい。それは以下のようなものだ。

偶数の直線は一つの点に対応し、奇数の直線は一つの円に対応する。但し、いずれの場合も平行な組合せはなく、全ての交点は違う場所にあるものとする。

2本、3本なら簡単に納得できる。2つの線が交わって一つの点になり、3本の線が交わった交点に外接する円が一つに決まるからだ。では4本以上はどうかと言えば、4本の内3本を選んで描いた4つの円が全て一つの点で交わるというし、5本の時はその内4本で決まる5つの点が全て一つの円周上にある、というのだ。以下偶数個の円は1点で交わり、奇数個の点は全て一つの円周上にある、と続く。まるで奇蹟のようだ。

コラッツ予想と言うのも面白い。予想というのは証明済の定理と違い、多分正しいと思われるが証明されていない問題で、その多くはその意味を理解するのすら難しい。例えばリーマン予想とは「ゼータ関数の自明でない零点 s は、全て実部が 1/2の直線上に存在する。」

何の事だかYouTubeで解説を聴くまではチンプンカンプンだった。

だがコラッツ予想は簡単だ。ある数があって、偶数なら2で割る。奇数なら3倍して1を足す。これを繰り返すと最後には必ず1になる。というのだ。

22で割ると1になる。33倍して1を足すと1010は偶数だから2で割って55は奇数だから3倍して1を足して16。以下2で割っていって最後は1になる。その他試して頂ければ7もちょっと回りくどいが最後にはちゃんと1になる。

この問題、証明できたら1億円貰えるそうだ。腕に自信がある方は挑戦してみては如何。

2024年3月5日火曜日

CIA

 226日に放映されたNHKの「映像の世紀」をご覧になった方はどれだけいらっしゃるだろう。「CIA 世界を変えた秘密工作」と題したその内容に驚いた。まるでプーチン大統領の主張を裏付けるかのような内容だったからだ。NHKのホームページに載っている概要は以下の通り。

「アメリカ大統領直轄の情報機関「CIA」は、戦後のアメリカ外交を陰で支えてきた。世界の民主化支援という大義の下、極秘に他国へ工作員を派遣、秘密工作を仕掛けてきた。戦後まもないイランでは、巧みな世論操作で政権を転覆させ、莫大な石油利権をアメリカにもたらした。冷戦の時代、ソ連の衛星国ハンガリーでは、ラジオを使って反体制運動をあおった。南米チリでは、社会主義政権を親米政権に転換させたクーデターに関与した。」

プーチン大統領はアメリカがロシアの政権転覆を狙って画策していると主張し、それを阻止するために反体制派の人々を「外国の代理人」だとして多数検挙投獄している。今現在それが正しいかどうかは知らないが、過去にアメリカがイランやチリでして来た事を見るとその主張にも正当性が見えて来る。チリでアメリカが倒した政権は民主的に選ばれたものだった。アメリカは民主主義のためでなく自国の利益のために他国の内政に干渉したのだ。

そして今のウクライナがハンガリー動乱に重なる。あの時西側はラジオ・フリー・ヨーロッパを通じて反ソ連を煽り、圧倒的な戦力を持つソ連を相手に戦うハンガリー市民に対し「頑張って!あと2週間、3週間頑張れば必ず助けが来るから」と言いながら結局誰も助けには行かなかった。ウクライナがハンガリーの二の舞にならなければ良いが。

こんな内容だとアメリカから横槍が入るのではと思ったが、再放送は6日から7日にかけての深夜にあるらしい。

2024年2月27日火曜日

一つになる

 「心を一つに」とか「ワン・チームで頑張ろう」とか、組織が一つになる事を推奨する言葉をよく耳にする。スポーツの対戦など限られた場面でなら兎も角、無暗に一つになる事を私はあまり好きではない。逆に、ナチスの党大会や北朝鮮のマスゲームなど一糸乱れぬ様子を見ると、嫌悪感が湧いてくる。どんな組織でも様々な意見や価値観が混在し、多様性がある事の方が健全だと思うからだ。

ロシアのプーチン大統領は今こそ国民が一つになる時だと思っているのだろう。そのためには自分に異を唱える人の命を奪う事すら厭わない。彼のやる事を見ていると、戦争を戦い抜くために国民が一つにならねばならないのではなく、国民を一つにするために、つまり自分の意見に従わせるために戦争をしているのではないかとさえ思えて来る。かつてチェチェン紛争の真相を究明しようとした女性ジャーナリストが射殺された事件など、まさに当時まだ無名のプーチン氏が売名のために紛争を起こしたような構図だった。

権力を持つ者が「心を一つに」と言い出したら注意した方が良い。「国体の本義を明徴にし人心の帰趨を一にするは刻下最大の要務なり。政府は崇高無比なる我が国体と相容れざる言説に対し直に断乎たる措置を取るべし」ナワリヌイ氏を断乎排除したロシアの言い分のようだが、実はこれは日本の衆議院での決議案の一文だ。今から約百年前の昭和十年、天皇機関説を糾弾するための決議案が満場一致で可決された。満場一致、まさに一つになったのだ。

組織が一つになるとは要するに団結して外の敵に対するという事だ。組織内での異なる意見を封殺し、寛容さを失っていく。寛容さを失った組織程怖いものはない。アメリカ大統領選挙で、トランプ氏の主張や支持者たちの不寛容さが気になって仕方ない。

2024年2月20日火曜日

コロナ

 初めてその事に言及したのは4年前、202024日の第648回だった。前の週の130日に友人との飲み会のため都心に出て、周りの人の殆どがマスクを着用しているのに驚いたのだった。それからピッタリ4年後の今年130日に遅まきながら私もコロナに感染してしまった。

昼間はテニスをする程元気だったが、夕食の頃から喉に違和感があったのでその日が発症だろう。翌日は喉の痛みに加えて鼻水も出たが、熱は左程でもないので一日大人しくしていたが、次の21日は体温が38度を越えてしまったので、かかりつけの医者に行き、そこでコロナ陽性を宣言された次第。

5日間は誰にも会うな、との医者の指示に従った部屋に閉じこもりの生活は人間の欲望について考えるきっかけになった。3食以外に何か欲しいものはないかとLINEで気遣ってくれる息子に最初に頼んだのは水だった。とにかく喉が渇く。おそらく渇きは飢え以上に生命維持の上で切実な欲求なのだと思う。二日目に辛抱できなくなったのが歯を磨きたいという欲求、下着は二日毎には替え、4日目頃にはお風呂に入りたくてたまらなくなったが、5日を過ぎるまでは許して貰えなかった。

総じて食欲は旺盛で味覚の異常もなかったが、不思議だったのは陰性がはっきりするまで閉じこもった12日間お酒を飲みたいという渇望が湧いて来なかった事だ。元気な時なら3日も空ければ我慢できなくなるのに。思うに酒を飲むのは一種の権利だとの錯覚があり、その権利を主張したかっただけなのか。酒への誤った執着を見直すきっかけを作ってくれた事がコロナ感染の一番の収穫だった。

(先週は火曜が休刊日になりこのコラムもお休みしました。手違いで事前のお知らせが出来なかった事をお詫びいたします。)

 

2024年2月6日火曜日

連座

 政治資金規正法を巡り、会計責任者が罪を犯した場合政治家にも連座制を適用すべきだと言うがどうか。いや、政治家の責任を問わないという事ではなく、「連座」という言葉を使うべきかどうかである。

「連座」を広辞苑で引くと「他人の犯罪事件に関係して一緒に処罰を受ける事、巻き添え、連累」との説明がある。昔の隣組や五人組のように、ある集まりの中で一人でも犯罪者が出たらその周りの人も一緒に処罰しよう、というようなそんなニュアンスを「連座」という言葉は持っている。政治資金規正法に関する昨今の不祥事は勿論そんなものではない。本人が何と言おうと、政治家の指示に従って処理を行った会計責任者が罪を一人で負っているように見えてならない。むしろ「巻き添え」を喰っているのは会計責任者の方ではないか。

「経理処理は全て任せていた」と政治家は仰る。もしそれが本当ならこの広い世の中、政治資金を横領する人が一人くらい出てもおかしくないではないか。内部監査が厳しい銀行ですらそうした事件は沢山起きているが、そうならないのは政治家の眼が銀行の内部監査以上に光っているからだろう。彼等が命よりも大事に思っているカネを他人任せにする訳がない。

連座制を導入すると、会計責任者が議員を陥れるためにわざと違反する可能性がある、なんて議論もある。よくそんな事を素面で言えたものだ。厳格な審査と身元確認の上採用され、任せっぱなしにされても横領しないような人がそんな事するものか。仮に百歩譲ってその人が議員を陥れようと出来心を起こしたとしても、その犯罪行為が議員本人の意思ではない事を証明するのは比較的容易な事ではないか。

政治資金規正法違反の責任を議員に問う言葉としては「連座」より「共同正犯」ないし「教唆犯」の方が当たっている。

2024年1月30日火曜日

政治と反社

 読売新聞では120日から4回にわたって「裏金 悪弊の果て」と題して自民党で派閥のパーティ券売上が裏金として使われた問題に関する特集を組んだ。それを読んで暗澹たる気持ちになったのは、政治がまるで反社組織であるかのような印象を持ったからだ。

例えば、「大臣ポスト目指し集金」なんて見出しがあった。多額のキックバックを受けて略式起訴された谷川議員は大臣になりたくて、パーティ券を沢山売って派閥にアピールした、というのだ。組織内での自分の存在をアピールするためお金を集めて上納する、なんて反社組織のやる事ではないか。大臣になりたいのなら、そのお金で情報を集め、見識を高め、政策・構想を提言する事で自分がその任に値する人材である事を示すべきではないか。農水大臣を目指すなら、全国各地の農村を回って実情を調査し、海外の成功事例なども見聞し、農業政策如何にあるべきかビジョンを立案するためにお金を使ったらどうだ。そういうお金なら献金も沢山集まるのではないか。

もっと深刻な問題だと思ったのは、献金額の公表基準引下げが出来ないのは献金する側が公表されたくないと思っているからだという指摘だ。政治家ないし特定の政治団体と親密な関係にある事を世間に知られたくない、なんてまさに反社組織とつながっている事を知られたくない心理と同じではないか。そう言えば、選挙の際に誰か特定の候補者に投票を依頼するのもされるのも何となく後ろめたさを感じてしまうのは何故だろう。アメリカでは特定の候補者への大口献金者が堂々と持論を展開しているというのに。

どちらが卵でどちらが鶏なのか分からないが、国民と政治の関係を根本的に見直さないと、政治と金の問題は永遠にこの国の宿痾として残るのではないだろうか。

2024年1月23日火曜日

誕生日

私事で恐縮だが、今日123日は私の誕生日である。年男として誕生日を迎えるのはこれで6回目、還暦を過ぎて丁度一回りした事になる。皆様、誕生日はそれぞれの思いで迎えられる事と思うが、私はいつも両親が話してくれた私の誕生秘話を思い出し、私を無事生んでくれた両親やこの世界に感謝の気持ちを新たにするのである。

72年前の今日、外は雪が降っていた。急に産気づいた母に、当時30歳の父はうろたえ、近所から借りて来た大八車に母を乗せて産院へ急いだ。大八車の詳しい構造を私は知らないが、なんでも車輪を固定するために楔のようなものを嵌めこむ必要があるそうだが、慌てていた父はそれを忘れてしまった。父が語るに、いつ車輪が外れてもおかしくなかった。そんな事になれば、母体はともかく胎児の命は間違いなく失われていただろう。

産院について母は帝王切開の手術を受ける事になる。逆子であったのか、それは以前から分かっていて父が慌てた理由もそこにあるのか、そうした経緯についてはあまり聞かされなかったが、手術の前に医師が言った事は何度も何度も聞かされた。「まず、お母さんの命が一番ですからね。赤ちゃんはまた出来ますから。」子供は死産となっても仕方ない、母体の安全のためなら他を犠牲にする覚悟で処置を行う、というのだ。だが、幸いここでも私の命は救われた。

生まれて来た私は未熟児で痩せ細り、大きな泣き声を上げる事もなく、母の胸に腹ばいになったまま乳首を口にくわえていたらしい。娘の容体を心配して見舞いに来た祖母が「こぎゃん子がホンネ育つだらか」とつぶやいた事も何度も何度も聞かされた。おばあちゃん、大丈夫、ちゃんと育ったよ。しかも72歳になってもピンピンしてて、毎週テニスで飛び跳ねてるよ。

 

2024年1月16日火曜日

メール

 関東地方は年末・年始と穏やかな好天に恵まれ、能登の被災地の皆さんには申し訳なく思う程だ。年末最後のテニスは年の瀬も押し詰まった29日に行ったが、隣のコートでは大学生と思しき若者達が半袖でプレーしていた。雪も降るなら平穏無事な生活をしている場所に降れば良いものを。何も、住む場所をなくし暖房のすべも乏しいなか震えながら不安な時を過ごす人々の上に降る事はないだろうに。

時が経つにつれ地震の被害の実態が明らかになり、今回の地震の大きさと特異性に驚かされる。約30年前、阪神淡路大震災の時は自分の生涯の内、二度とこんな大きな震災には合わないだろうと思った。だがその後、東日本大震災があり、熊本地震では大きな揺れの後にそれに劣らぬ大きさの余震が来るという事を経験し、そして今度の地震では今まで見た事もない地盤の隆起があった。阪神淡路以前には耐震工学の進歩を誇らしく思っていたが、人間の慢心に警告を発するかのような地震が続く。

そんな中こんな呑気な事を書くのは少し気が咎めるが、この正月に気付いた事の一つがメールによる賀状交換のメリットについてである。数年前から親しい人を中心に葉書でなくメールに添付する形で年賀状のやり取りをする事を提案しているが、今年はだいぶそれが定着して来た。ある人は直ぐに返事をくれ、その時思ったのだ。メールのメリットは直ぐに返事が出せる事だ、と。

年賀状に近況について何か気になる事が書いてあった時、勿論葉書でも問い合わせをする事は理論的には可能だが、結構ハードルが高い。だが、メールならクリック一つですぐに様子を聞ける。通信の目的は互いの状況を知る事なのだから、その垣根がうんと低いメールがもっと使われて良いのではないかと思った次第。

2024年1月9日火曜日

地震

 元日、朝方強かった風も収まり午後になって好天気の中、窓際の日溜りに脚を投げ出しウトウトしていると突然のけたたましいアラーム音に叩き起こされた。緊急地震速報、慌ててテレビのスイッチを入れ情報を確認しながら揺れに備える。しばらくすると船に乗っているかのようなゆっくりとした揺れが襲ってきた。

テレビの地震情報が伝える各地の震度情報に驚いた。震源地の能登半島を中心に震度3以上の場所がほぼ本州全域に広がっているではないか。北は青森から南は山陰地方や四国まで。これ程広範囲に影響を与えた地震が今まであったろうか。東日本大震災でも大きな揺れは関東平野の西までだったように記憶する。M7.6だから地震の大きさそのものはM9だった東日本大震災の約百分の一程だが、揺れの周期の長さと範囲の大きさについて何らかのコメントがある筈と思ったのになかったのが不思議だった。

津波に関する報道も不思議だった。各地の津波到達予想時刻とその高さが報道される中「津波到達か」との文字が見える。津波って到達したかどうか分からない状態があるのだろうか。高さ10㎝の津波、と言うのも不思議だった。10㎝なんて台風で荒れ狂う海に比べれば可愛いものだ。それも津波というのか。一般庶民の感覚と気象庁の感覚にどこかずれがあるのではないか。「逃げて下さい」と絶叫するアナウンサーの声を聴きながら、そのずれが気になって仕方なかった。

大きな余震が何度も続く事は2016年の熊本地震で経験済みだが、「こんな事は今回が初めてです」というコメントを何度か聴いた。地球が誕生して数十億年の間には同じ事が何度も繰り返さているのだろうが、我々のせいぜい千年の記録では初めてというだけだ。これからもきっと初めての事が沢山起きるに違いない。