2024年11月22日金曜日

鰐淵寺

 紅葉の名所鰐淵寺へ行ってきました。



この寺、創建が594年という古刹。杉の木の大木が歴史を物語っています。




木曜日なのに駐車場は殆ど埋まっていて、人も結構いる。大多数が中国人なのは昔は考えられなかったなあ。

もう散った後なのか、まだこれからなのか分からなかった。階段にはたくさんの落ち葉があるところを見るともう散ったのか、でも木を見るとまだ緑の葉が沢山残っていて、これから紅葉する移行期にも見える。



境内から山道を10分弱登ると滝があります。




以下は鰐淵寺の市の観光ホームページから引用

https://izumo-kankou.gr.jp/683

鰐淵寺の名前の由来にもなった浮浪滝は、修験者の守護神「蔵王権現」の聖地とされ、石段の下から谷川沿いの小道を西へ8分ほど進んだ先にあります。

滝の裏は岩窟になっており、滝壺の奥には蔵王堂がはめ込まれるように建っています。
弁慶もこの滝に打たれて修行したと伝えられ、周囲は神秘的な雰囲気に包まれています。
※足場が悪く滑りやすい道のりですので、行かれる際は十分に注意してください。

2024年11月19日火曜日

報道

 当コラム886回でご紹介した「知ってはいけない」(矢部宏治著)に触発されて、「日本はなぜ『基地』と『原発』を止められないのか」(矢部宏治著)、「戦後史の正体」(孫崎亨著)を続け様に読んで目からウロコの落ちる思いをした。いずれも戦後の日米関係を中心に日本政治の問題点を顕わにしたもので、日本の報道の在り方にも考えさせられる事が多かった。

具体的な人名はここでは控えるが、戦後日本の発展の礎を築いた人だと思っていたのが実はアメリカの御用聞きのような人で、自主独立路線を目指す人の排除に動いていたり、疑獄事件で失脚した人達の多くが日本の自主独立のために粉骨砕身していたり。その根底はアメリカの利益を守るためであり、アメリカが日本の検察や報道機関を裏で操作し、その報道で世論がアメリカの意向に沿う方向へ動いていったと筆者は語る。

歴史を語る、というのは常に群盲が象を撫でるようなもので、語る本人が見聞きした範囲内での推察から構築されているから、常に一定の警戒心を持ちながら読む事にしているが、自分の知らなかった背景が書かれていると、驚きもし、今までの不明を恥じたりもする。そして最近の報道も全て裏に陰謀の臭いを感じてしまうので困る。103万円の壁問題もその一つで、玉木代表の不祥事を持ち出したり、減税とは全く逆の106万円の壁を持ち出したり、税収大幅減の不安を持ち出したり。103万円の壁の本来の趣旨はパートタイマーの働き控えの防止にあるのであって、所得税減税ではない筈だから、基礎控除を178万円から段階的に引下げ年収500万円以上は103万円に据え置く等すれば良いではないか。

報道は官僚からの情報をただ横流しするだけではなく、問題の吟味と的確な反論や提案をその役割と思って欲しい。

2024年11月12日火曜日

後悔

 11月6日水曜日の夕刊の一面トップは「米大統領選 大接戦」という見出しだった。この記事は何時に入稿したのだろう。夕刊が届いた頃には大方の形勢は決まってトランプ候補の勝利宣言も時間の問題という感じだった。お陰で前日から酒肴を用意して日の高い内から開票速報を肴に一杯やろうという目論見が台無しになった。

それにしてもあんなに品のない人が大統領になっても良いものだろうか。国を代表する人ともなれば、人々の尊敬に値するだけの礼節を備え、自分と異なる意見や価値観にも寛大さを持っていて然るべきだと思うが、マスコミで報道されるトランプ氏の言動はひどいものだ。政敵を口汚く罵り、呪うような言葉を平気で吐く。アメリカ国民はどうしてそんな人を選んでしまったのだろう。

しかも上院・下院とも共和党が多数となった。少なくとも次の中間選挙までの2年間はトランプ氏へのブレーキが効かない(少なくとも効きにくい)状態が続く。政権中枢には彼のイエスマンしか集まらないだろうという予想もある。ロシアのプーチン大統領やハンガリーのオルバン首相など、独裁的傾向の強いトップが早速祝福を寄せた。仲間が増えたのを喜んでいるようだ。プーチンもオルバンも国内のマスコミを支配し、自分等の都合の良い情報だけを国内に流し、情報の少ない地方の票を固め、独裁体制を築いた。同じ事がアメリカでも起こらなければ良いが。トランプ氏はイーロン・マスク氏とXを利用して世論操作をするのではないかと心配だ。

イギリスのEU離脱を決めた選挙の時は、まさか離脱派が多数になるとは思わず、俺一人くらい離脱に票を入れても大丈夫だろうと高を括った人が多くて番狂わせが起きたというが、あの時のような後悔が起きない事を切に願う。

2024年11月5日火曜日

勝海舟

 明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館へ行って来た。これは明治天皇の遺徳を偲んで建てられたもので、明治天皇誕生から崩御までの様々な出来事を描いた絵画が80枚展示されている。中には平田出身の小村大雲の絵もあった。

歴史についてはそこそこ知識がある積りだったが、今回初めて知って驚いた事があった。その一つが勝海舟と徳川慶喜の関係。皆様ご存知の江戸城無血開城に向けて西郷と勝が薩摩藩邸で会見した様子を描いた「江戸開城談判」という絵を寄贈したのは勝精(くわし)という人で、この人は勝の孫でありかつ慶喜の十男であると注釈があった。これは一体どういう事か。勝の娘が慶喜の側室となって十番目の男の子を産んだと解釈すれば整合性はあるが、そんな事があり得るのか。帰ってネットで調べると、慶喜の十男が勝家の養子に入ったとの事。11代将軍家斉は53人の子をなして次々と大名家へ養子に出したが、まさか将軍の子が下級武士の家の養子になる世が来ようとは思わなかったろう。

ところで「江戸開城談判」の絵を見て不思議に思った。勝が床の間を背にして、つまり上座に座っているのだ。戊辰戦争が始まる前なら幕臣旗本が一介の薩摩藩士の上座に座るのは当然としても、この時は西郷は官軍の代表としてつまり有栖川熾仁親王の名代として会見に臨んでいる筈。その上座に着くとは。お願いする立場の勝の気持ちはどうだったか。それとも西郷が昔馴染みの客を迎える感覚で上座を譲ったか。そう思って良く見ると勝は紋付羽織袴の正装だが、西郷は紋のない普段着のようだ。この会見、二日に渡って行われたらしい。初日は西郷は気楽に会ったが、勝の真剣な様子に驚いて、二日目には正装で臨み、上座に構えたのかも知れない。

あれこれ楽しい想像をしたのであった。

2024年10月28日月曜日

勝海舟

 何年ぶりかに聖徳記念絵画館へ行ってきました。前に行った時には気づかなかったけど、「勝海舟の孫:精(くわし)(徳川慶喜の十男)」という表現がありました。えっ!?勝の孫が慶喜の十男?これってどういう事?勝の娘が慶喜の側室に入ったという事か?と思いながら帰ってネットで調べたら慶喜の十男が勝家に養子で入っているんだね。

ところで、勝と西郷が江戸城無血開城のため会見した図があるけど、これってちょっとおかしいのではないか?だって、これ、勝が床の間を背にして、つまり上座に座っている。確かに西郷と勝を江戸時代の価値観で測れば勝が上座に座っておかしくないけど、この時は西郷は一応官軍を代表して、つまり有栖川宮熾仁親王の名代としてこの会見に臨んでいる訳だ。それが下座に座るのはおかしいじゃないか。
僕の考えは間違っているかなあ?


2024年10月25日金曜日

椿姫

 県立図書館でDVDを借りてきてヴェルディのオペラ「椿姫」を見ました。

①の写真のように、舞台の片側に大きな時計が置かれ、時の流れを暗示しているかのようです。問題はこの時計が何時を示しているか?あ、この問題は私の単なる好奇心だけで、物語の本質とは全く関係がありません。真上が12時だという訳ではなく、長針と短針の関係から合理的に何時何分かを推察しようというのです。


②ヴィオレッタとアルフレートが愛の時間を過ごす時には時計が隠されています。そこへアルフレートの父がやってきて二人を現実の世界へ引き戻す。


③ヴィオレッタは時計の覆いを取り除きます。さて、これは何時か?


④この時計が一番何時かよく分かる。長針の位置が丁度刻みと刻みの中間にあるので、何時か分からないけど30分である事は分かる。だとすれば長針の位置が「6」の位置でないといけないので、これなら9時30分である、という事が分かる。


この調子で過去の例を振り返ると
 ①は5時14分
 ③は6時4分か7時9分か
ってな感じかな。
いやいや、そんな変な事は考えないで、ストーリーに没頭しないといけませんな。
このオペラ、「乾杯の唄」が有名だけど僕はアルフレートの父親が息子を取り戻そうと歌う「プロヴァンスの海と陸」が一番好きだなあ。(写真⑤)これは数あるオペラの中でも一番好きなアリアと言って良い。


それにこのDVD、ヴィオレッタ役のアンナ・ネトレプコが美人で良かった。(写真⑥、⑦)オペラは歌唱力優先でルックスは重要視されないので、あまり美人でもない人が絶世の美女役をやったりして感情移入がしにくいけど、これはその点良かったなあ。惜しむらくは結核で余命いくばくもないのだからもう少し痩せててくれたら良かったけど、それでは流石に声量が出ないもんね。




2024年10月24日木曜日

新宿

 久しぶりに新宿へ行った。西口は毎日通った場所。それがすっかり変わっている。西口広場の天井にわずかにかつての面影が残っていた。

飲み会の時間まで少し間があったのでヨドバシカメラをブラブラしてたら、全自動のオーブントースターや、温度調節付きのオーブントースターがデカデカと宣伝されていた。
全自動のオーブントースターって??食パンを入れたら入れただけで温度設定などしなくてもちゃんと焼いてくれるのかな?
温度調節付きって、温度調節の出来ないオーブントースターってあるの?それって大丈夫なのだろうか?なんかハンドル付き自動車って感じ・・・・



2024年10月22日火曜日

搾る

 先週は火曜日が新聞の休刊とあって連載をお休みさせて頂いた。火曜の朝刊への掲載に向けて日曜の脱稿が条件だが、テーマが決まっている時はさておき土曜の朝になってもテーマが決まらない時の精神的重圧は相当なものである。連載を休むと決めた時の解放感はサラリーマン時代の連休前を思い出した。

毎週木曜日辺りから何をテーマにしようか考え始め、テレビや新聞で情報を集め、本を読んだり、過去のメモを見直したりして、無い知恵を搾るのだがその過程はこの上ない脳トレになっている。そして思った、知恵というものはタオルや雑巾と違って搾れば搾る程湧いて来るものだと。一般には搾れば枯渇するのが普通だが、知恵はその逆で搾るのを止めると出て来なくなるものらしい。一週間休んで英気を養ったつもりが、いざ週末になって机に向かうと筆が進まないのに苦労した。一週間搾るのをさぼっただけでこの有り様だ。筋トレと同じで脳トレも毎日毎週、周期的にやらないといけないと思い知らされた。

世の中では衆議院総選挙が始まった。自民党の過半数割れが囁かれているが、石破首相の世論と党内意見への右顧左眄ぶりを見るとさもありなんと思ってしまう。ご本人は党内基盤の弱さを嘆いておられる。小泉元首相も党内基盤は強くなかった筈だが、良かれ悪しかれ自分の信念を貫いて世論を味方につけた。石破首相もやりたい事をドンとやればいいのに。

それにしても兵庫県の選挙の時にあれ程話題に上った選挙費用の問題が総選挙では全く出て来ないのはどうしてだろう。一つの県で16億とか18億とか言われたのだから全国規模ならその50倍程度はかかるだろうから単純計算だと1000億程度になる。そのお金は一体誰の懐に入るのか。景気刺激に役立て欲しいと祈るしかない。

2024年10月8日火曜日

再選する

 「これだけ不興を買いながら再選するなど、あるはずもないが」週刊新潮のある記事の中の文章である。主語が曖昧なのだが文脈からして齋藤知事であるだろう。(因みに兵庫県の齋藤知事について週刊新潮は「齋藤」と表記しているが、それ以外、例えば読売新聞も週刊文春もサンデー毎日も「斎藤」と表記している)

「当選する」なら「選に当たる」だから斎藤知事が主語で良いが、「再選する」というのは砕いて言えば「再び選ぶ」のだから、主語が兵庫県民ならともかく斎藤知事を主語にするなら「再選される」と言うべきだと思う。

最近こういうおかしな日本語が耳障りでしようがない。NHK7時のニュースでは「大雨注意情報が発令しました。」と言っていた。「発令されました」だろう。「輪島で店を再建させるため、川崎で営業しています。」は、店のオーナーが頑張っているのは「再建するため」であり、誰かに頼んで「再建させる」ためではなかろう。

「今日、授業が再開しました。」は「する」と「させる、される」の問題か助詞の使い方の問題か微妙。「授業が再開されました」か「授業を再開しました」なら分かる。「ビル解体工事現場でコンクリート片が下にいる警備員に直撃する事件が起きた」いつからこんな日本語が許されるようになったのか。どう考えても「警備員を直撃する」が正しいと思うのだが。

敬語の乱れも気になる。災害を受けた畜産業の報道で「良く乳の出る元気な牛になって頂きたい」なんてアナウンサーがいたが、牛にまで敬語を使うのは如何なものか。

単語そのものの乱の例として「ヴォリューミー」なんて言葉を聞いた。量が多い事を言いたかったらしいのだが、こんな英語はあるまいと思って英和辞書を引いたらvoluminousという言葉ならあった。あまり変な造語は聞いてて恥ずかしい。

2024年10月1日火曜日

植民地

 自民党の新総裁が決まった日に「知ってはいけない」(矢部宏治著講談社現代新書)という本を読んでしまった。この本、副題は「隠された日本支配の構造」となっていて、戦後の日本政治の問題点をあぶり出している。

その内容をごくかいつまんで言えば「独立はさせてやる。そのかわり、占領中と同じく米軍への軍事支援は続けると約束しろ」という日米の関係、いわば日本が米軍の植民地であるかのような関係が戦後ずっと続いていて、それを問題視する声がむしろアメリカの方から起きている(例えばブッシュ政権下でのライス国務長官の発言)というのだ。

フィリピンですら「米比軍事基地協定」で米軍がフィリピン国内に基地を置いて良いのは次の23か所であると具体的に明記しているのに、日本の場合は「全土基地方式」と言ってどこにでも米軍を「配備」出来る事になっている。イラクですら、アメリカとの協定で「イラクに駐留する米軍が、イラクの国境を越えて周辺国を攻撃することを禁じる」という条文を加えさせたのに、日米安保条約は米軍が日本の国境を越えて自由に軍事行動できる権利を「国内およびその周辺」という言葉の裏に認めている。と言った事例が書かれている。(先程のライス長官の発言を含め、原典を確認して裏を取らないといけませんが、そこまではしていません。しかし、おそらく本当の事でしょう。)

幕末の不平等条約が改正されたのは明治44年だった。来年で戦後80年、サンフランシスコ講和条約からでも74年になろうとしているのに、未だにそうした歪んだ関係を改善しようという動きすらない。朝鮮戦争という休火山が活火山だった頃の名残らしいが、それが死火山になっても改善されないのではないかと不安になる。日本の保守政治家は何をしているのか。

2024年9月24日火曜日

代表戦

 この原稿が紙面に載る頃には立憲民主党の代表は決まっている筈だ。しかし誰がなってもそう大きな影響はなさそうだ。

立憲民主党の各候補は皆が自民党の不祥事を取り上げ我々がとって変わると主張していたが、どこまで本気だったのか。自民党が怪しからんから有権者は自分等に投票する筈だと、本気で思っているとしたら随分選挙民を馬鹿にした話だ。立憲民主党が有権者から選ばれるかどうかは、政権担当能力を認めてもらえるかどうかにかかっていると思うのに。

かつて民主党の幹部達が「一度我々にやらせて下さい」と訴え、国民が彼等に政権を渡した事があった。しかし沖縄の米軍基地の問題や、尖閣諸島での中国との折衝、果てには選挙公約を破る形で消費増税を決めるなど、その政権担当能力に疑問符がついて下野した。その経緯を真摯に反省すれば政権担当能力こそキーワードだと気付くだろうに。例えば地方行政で実績を積み有権者の懸念を払拭するなどの策はないのか。

自民党の総裁選は実質的に日本の舵取りを任せる人を選ぶ選挙だから注目しているが、こちらも疑問が多い。地方活性化を訴える候補が多いが、それなら自分が地方の首長になって持論を実行してみたらどうか。金をやるから具体案は地方が自分等で考えろ、と言っているように見える。賃金を上げる、という主張もある。企業経営者なら即実行できるのだろうが、これも他人任せに見える。賃上げを実施した企業については法人税を減免するとでも言うのか。他人をあてにするのではなく、自分が何をやるかを語って貰いたいものだ。

また、意気込みを語るのに「あらゆる対策を取る」とか「出来る事は全てやる」など言われるが、これは具体的に何から手を付けるべきか分からないと自白しているようなもの。具体策を語って欲しい。

2024年9月17日火曜日

冷静になる

昨今テレビのワイドショーは兵庫県の斎藤知事を糾弾する声一色である。こんな時、斎藤知事を擁護したり、その立場に理解を示すような報道をすればおそらく視聴者から反感を買うだろうし、逆に知事の非道ぶりを暴き立てれば立てるだけ視聴率が稼げるから、各局一斉にその方向に流れる。この傾向は戦前のマスコミが国民の戦意を高揚させる勇ましい記事で発行部数を伸ばしたのにどこか似ている。しかしこんな時こそ少し冷静になる事が必要なのではないか。

ある所で小耳に挟んだ話で学問的信憑性は不明だが、怒りに駆られた時には飴玉を舐めるのが良いそうだ。糖分が脳味噌に作用し、いくらか冷静さを取り戻せるとか。私の場合は100%の白も100%の黒もあり得ない、という信念から世論とは逆の事はないかと考える事にしている。

100%悪だと思っていた林真須美死刑囚だって前々回取り上げたように考え直す余地はいくらかあるし、これ以上の悪はないだろうと思っていた光市母子殺害事件の犯人だってその弁護士が書いた本を読むと、ちょっと待てよと思わされたりする。プーチン大統領でも100%の悪ではない筈だから、彼の行動の背景や心理を考えるのは無駄ではないと思うし、同様の事が斎藤知事の場合にも言えると思う。

そんな事を考えていたら島根県の丸山知事が、斎藤知事は辞任すべきではない、という意見を述べている記事に出くわした。二人も死者が出ているのだから、その真相を究明すべきであって辞任している場合じゃない、と(725日の発言)。成程そういう意見もあるか。

今後斎藤知事に関しては様々報道されようが、怒りに流されず冷静でいたいものだ。

ところで飴玉を舐めた時その効果はどれだけ続くか。とうぶんの間、だそうである。 

2024年9月10日火曜日

ドラマと言葉

 今年の大河ドラマ「光る君へ」は舞台が平安時代で、戦国・幕末・源平・忠臣蔵といった定番とは一味違い、それなりに興味深く視聴している。しかし、あの時代の人権意識はあまりにひどく、時代を忠実に再現すると色々差し障りがあるに違いない。藤原定家は藤原道長の時代から凡そ200年後の人だが、その日記「明月記」には信じられない事が書かれているらしい。例えば天災で都の人々が多数死亡した時の事、町中に死体が散乱し臭くてしようがない、なんて事が書かれているとの事。当時の貴族の一般市民への感覚はそのようなものだったのだ。

だから時代考証に対し苦言を呈しても仕方ないかも知れないが、気付いた事を二三。一つは紫式部が執筆する時の筆運びの遅さ。行書草書は素早くスラスラ書くための書体だろうから、あんなにゆっくりと書いたはずはないのだが、どうだろう。もっと疑問に思うのは内裏の人々が皆現代の標準語で話している事だ。幕末が舞台の大河ドラマでは天皇側近の貴族はみな殊更京言葉で話しているが、今回は言葉だけは現代が舞台であるかのようだ。

ドラマを見て、それはないだろう、と思った言葉の問題は半年程前の「島根マルチバース伝」でもあった。舞台が島根という事で、ズーズー弁が沢山出てくるが、これがひどい。ズーズー弁をネイティブ・ランゲッジにしている私でも字幕をオンにしないと何を言っているのか分からない。アクセントもおかしいし、もっと方言指導を徹底すべきだった。

例えば「あるかね」なんて言ってたが、これは「あーかね」と言うべきだろう。「そげなことしてたら」も中途半端。「そげなことしちょったら」だろう。「子供の紐落とし」もそれを言うなら「帯直し」だろうと思ったが、最近はどうやら帯直しも死語になったらしい。

2024年9月3日火曜日

四人の死因

 先日某テレビ番組で和歌山毒入りカレー事件が話題に登った。過去の映像で印象に残ったものは何かという趣向で、ある出演者は当時有力な容疑者と目された林真須美氏が詰めかけた報道陣に向かって薄笑いを浮かべながら水を掛けるシーンを取り上げた。その過剰な報道の在り方を問題視したのだが、別の出演者は砒素の鑑定に関し、あの事件が冤罪ではないかとの指摘もした。最近の「マミー」という映画でも同じ事が話題になっている。

しかし驚いたのは誰もあの事件を医療過誤として認識していなかった事だ。

平成十年七月末の夏祭りで事件は起きた。当初食中毒とされた報道を見て一人の女子中学生が疑問を感じる。「えっ、カレーで食中毒ってあり?カレーって様々なスパイスを入れ熱帯地方で食中毒を起こさないように考えられた料理なのに」そこから彼女は様々な専門書をあたって考察を重ね、それを「四人はなぜ死んだのか」という本にした。食中毒の次は青酸カリが疑われ、真の原因である砒素にたどり着くまでに一週間以上の時を要した。その間、本来催吐して毒物を吐き出させるべき所を逆に鎮吐剤を投与したり、青酸カリの解毒には有効でも砒素には有害な薬剤を投与したり、そうした過誤が被害者を死に追いやった。謂わば警察・保健所・医療機関・マスコミの恥とも言うべき事件の経過が中三とは思えない筆致で克明に描かれている。

最初に読んだのはもう二十以上年も前になるので、確認のため出雲市立図書館から借りて改めて読み直してみた。本を開くと栞の紐は新刊書のように途中に丸まって収まっていた。奥付を見ると1999720日初版、同年920日第8刷とある。二か月で8回も増刷した事以上に、出雲の図書館では25年間誰も手にする事がなかったらしい事に驚いた。

 

2024年8月27日火曜日

雑草

 何か月かに一度帰省する度に庭を見てため息がでる。庭一面に草が我が物顔で繁茂しているからである。その草にもきっと名前があろうが、知らないから不本意ながら雑草と呼ばせてもらう。

それにしてもこれら雑草の生命力には驚かされる。コンクリートの小さな割れ目を見つけてはそこに根を張っている。除草剤を撒いて駆除したつもりでも年が明けると別の種類の草が、今度は俺の番だとでも言うような顔で居座っている。その憎らしいまでの生命力を見て、フト「これは神の大きな慈悲なのかも知れない」と思い当たった。

地球上の生命は大きく植物と動物に分かれる。植物は光合成する能力を持っていて、太陽の光と空気中の炭酸ガスと地中に含まれる水から有機物を合成し、それを栄養分として生きていく事ができる。しかし動物にはその能力がないため、植物や他の動物から栄養分を奪い取らないと生きていけない。小さな虫が草を食べ、その虫を鳥が食べ、その鳥をより大きな動物が食べ、そして食物連鎖の序列が出来た。

人間がその食物連鎖の頂上に君臨し、雑草はいわばその底辺にいる。そこで、どうだろう、もし底辺にいる雑草の生命力がか弱いものでしかなかったら。食べるべき草がなくなれば虫が生きていけなくなり、それを餌とする鳥も生きていけなくなり、そしていずれ地球上に生命がいなくなってしまいかねない。食物連鎖を持続させるためには下位にいる生物ほど強い生命力と繁殖力を持たせることが必須ではないか。

雑草の強い生命力は動物達を飢えさせないための神の御慈悲に違いない。天賦のその生命力に除草剤などと人間の小賢しい浅知恵で立ち向かおうなどとは天に唾するに等しいと思いながら、炎天下草むしりを強いられ「本当にそうかな」などとつぶやいたりするのです。

草刈前



約一時間の奮闘後


2024年8月20日火曜日

不公平さ

 「審判への批判は選手のためならず」に似た文言をかつてサッカーの試合でも聞いた記憶がある。「それも含めて(審判の恣意による不公平な判定がある事も含めて)サッカーだ」と。明らかに不公平な笛が吹かれた場合でも審判への批判は止めましょう、という意味に理解した。こうした審判を絶対視する言葉は多くの場合日本に不利で、西洋人に逆らうのを良しとしないという意味で使われるように思えて、つい感情的にもなってしまうのだが出来るだけ冷静にこの問題を考えてみる。

ゲームは双方に公平である事が絶対条件だが、何らかの蓋然性で不合理な不公平さが生じるのは仕方ない。例えばテニスの場合。土のコートでは選手が激しく動き回って土の表面が乱され、それによってボールのバウンドが不規則に変化する事がある。確かにそれは一方的に不利な状況だがしかし「それも含めてテニスだ」と言うのは納得できる。時々予測不能な現象が起きて選手の能力以上に勝敗を左右するような事態もゲームによっては起こり得る。それを積極的にゲームの面白さとして取り入れたのがラグビーだ。わざわざ球を楕円形にして不規則なバウンドをするようにした。

しかしゲームとは基本的に選手の能力を競うものだから、選手の予測能力を裏切るような不規則な事象はない方が良い。ましてやその不規則性が神ならぬ人間である審判に起因するものならなおさらだ。そう、審判は人間なのだから間違いもする。ならば反省や改善があって当然だろう。審判への批判を許さないような風潮は百害あって一利なしだ。

パリ五輪で見られた開催国有利の判定は、テニスに於いて味方のコートは平滑にならし、相手のコートはわざわざ凸凹にして戦っているように見えた。そこまでしてメダルが欲しいのかと呆れるしかないのだが。

2024年8月13日火曜日

審判

 今回の五輪ではバスケットボールや柔道の試合で審判の不可解な判定が目につく。特に柔道男子60キロ級の永山竜樹選手の負け判定はひどかった。

審判が「待て」の合図を出し、永山選手が力を抜いたのに相手のスペインのガリゴス選手は締め続けた。「待て」の合図が聞こえなかったというが、相手の選手が力を抜いているのだ、素人ならいざ知らず、オリンピックに出場する程の選手なら相手の様子から判断できそうなものだ。審判にしたって、力を抜いている選手を締め続けるなどと言う行為を6秒も放置するなんて!即止めに入らないと下手をすれば永山選手の選手生命が危うくなる事だって考えられた。状況から判断するに、ガリゴス選手は「待て」が掛かっている事を承知で審判が止めに入らないのを良い事に永山選手が落ちるまで締め続けたのではないか。

ワイドショーでは解説者が「審判への批判は選手のためならず」などと言っていたが、こんな審判を野放しにして良い訳がない。能力もなく、公正さもない審判には即刻退場して貰わないとスポーツの存在意義が問われる事になる。総じて柔道の審判は自分では判断できず、イアホンから聞こえる音声で動く操り人形に見える。それで良いのか。

試合が終わって、永山選手とガリゴス選手が仲良く肩を抱く写真が公開されたが、あれにも納得できなかった。謝罪や反省があったのなら兎も角、例えて言うなら、ガリゴス選手の行動は日本がポツダム宣言の受諾をした後も北方から攻め込んで、北方領土を領有してしまったソ連の行動に等しいではないか。日本の首相がソ連の書記長と国後島で肩を抱き合ったらどういう気持ちがするか。主張すべきは主張し、反省すべきは反省し、改善すべきは改善しないと、良い子を気取るだけではスポーツの未来は暗い。

2024年8月6日火曜日

号泣

 柔道女子52キロ級の二回戦で一本負けし、敗者復活戦に回る事すら出来なかった阿部詩選手は、畳を降りコーチの腕に抱かれたとたん辺りを憚らず号泣した。あれだけ感情を顕わにする選手を見たのは初めてだったので、驚きもし興味をそそられたが、まさかそれが沢山の批難を浴びる事になろうとは思わなかった。

ある知り合いがフェイスブックに「日本人として恥ずかしかった」と投稿すると、それに賛同するコメントが相次ぎ、中には「欲しい物を買って貰えない子供がダダをこねているようだ」とか「いい大人が進行の邪魔をしているからUtaコールは早く出ていけの意味だった」や「あんなみっともない姿を晒す事無く、コーチが早くバックヤードに連れて行くべきだった」なんて意見もあった。

人の考えや感じ方はそれぞれだから、色んな意見があって良いとは思うが、それにしてもあの阿部詩選手の号泣が百人が百人ともみっともないと思うようなものであったとは思わない。迷惑系ユーチューバーと呼ばれる人が目を疑うような狼藉をしたのとは訳が違う。反対意見を封じるネットの魔力を感じた。

あの号泣に私が感じたのは喪失感だった。今まで何年間も努力して追い求めて来た物が一瞬にして目の前から消えた。例えば最愛の人を亡くした時のような喪失感、それが詩選手を襲ったのではないか。子供がダダをこねて泣いているなど想像だにしなかった。むしろ我が身を翻って両親を亡くした時にもあんな号泣をしなかったなと反省したものだ。

その後ネットを見ると、辛辣な批判を繰り返す東国原氏に対して「詩ちゃん苦しんでるで… やめとこうよ」「まだ言ってんのかよ あなたもいい大人ならもうおよしなさい」という意見が寄せられているとか。ネットに良心が残っている事に少し安心した。

2024年7月30日火曜日

弱きを挫く

 堀井学議員が公職選挙法違反で捜索を受けている。安倍派のパーティ券売上還元問題の捜査の中で堀井議員が違法に香典を渡していた事が発覚したのだとか。捜査の過程で入手した資料を徹底的に洗えば、安倍派幹部からだって埃は出たろうが、そちらは何故か表に出ない。

そして同じ公職選挙法違反で小池百合子氏が告発されているという事は新聞でもテレビでも全く報じられないが、これはどうしてだろう。小池氏が現職知事の立場を選挙活動に利用したとするもので、例えば都知事の定例会見の場で自身の選挙運動について語ったり、都知事の立場を利用して都内市区町村区長に出馬要請文書を書かせたりした事を問題にしている。

こうした事を最初に指摘したのは鳥取県知事も務めた片山善博氏で、実際に告発した二人の内の一人は松江市出身の弁護士郷原信郎氏だというからもっと話題になっても良いではないか。詳しく知りたい方は「小池百合子 公職選挙法違反」とか「郷原信郎 小池百合子」で検索してみて欲しい。検索して出て来るサイトを見ると、かつては小池氏の側近だった若狭勝氏も有罪の可能性が高いと言っている。それでもテレビや新聞で小池氏の公職選挙法違反について報じられたのを見た事がない。

そもそも既存メディアは小池氏が公務に便乗して選挙活動をする事が違法であるとの認識がなかったようだ。「公務優先を理由に該当活動は極力セーブ、各所現場視察を行い、同行するメディアを通じて実績をアピールした」なんて記事が堂々と載っている。「李下に冠を正さず」という言葉は死語になってしまったか。

だが、告発はなされた。司法がどう対応するか、メディアにはちゃんと報じて欲しいものだ。日本の司法もマスコミも強きを助け弱きを挫くのが好きなようで心配ではあるのだが。

2024年7月23日火曜日

年齢

 新聞の将棋欄に初老の男性のにこやかな笑顔の写真が載っていた。71歳で引退が決まった青野九段の局後の感想戦での笑顔だった。将棋界では一定以上の成績が上げられないと本人の意思に拘らず引退を余儀なくされる。青野九段も負ければ引退という一局で優勢を築きながら逆転され惜敗したのだった。負けはしたがその笑顔には自分の将棋人生への満足感が溢れていた。

アメリカでは飛行機のタラップを登る足取りもおぼつかない81歳の老人が「対立候補に勝てるのは俺だけだ。」と頑張っている。周りの人達は何とか引導を渡そうとしているようだが、今頃そんな事を言う位なら、どうしてもっと早く別の候補者が出なかったのか。現職の大統領が再選に手を挙げている時には党内から別の候補が出る事は控えるという暗黙の了解でもあるのかと思ったが、1980年には現職のカーター大統領に対してエドワード・ケネディ上院議員が予備選を戦ったりしている。

私の記憶では大統領選で年齢が問題になった最初の例は1984年のレーガン対モンデールの時だった。討論会で司会者が「年齢について・・・」と言おうとしたらすかさずレーガンは「いや、それは問題にならないと思う。相手がたとえ若くて経験が足りないとしても私はそれを問題にしようとは思わない」とかわしたのを鮮明に覚えている。その時レーガンは73歳、モンデールは56歳だった。

1991年に都知事選を争った鈴木氏も当時80歳だったが舞台で前屈して見せたりして健康をアピールした。しかし今度のバイデン氏はそんな元気はなさそうに見える。

引退が決まった青野九段は弟子から花束を贈られ「もう一局指せると思っていたけどな」と呟いたとか。「もう一期出来るかと思ったが」と言いながらバトンを渡したバイデン氏に笑顔は戻るのだろうか。

2024年7月9日火曜日

出版

 200773日にこのコラムを始めて17年と1週、今回が875回になる。その中から約130編を選んで一冊の本を出版して頂いた。題名はコラムと同じ「トライアングル」。書店に並ぶのも間近と思うが、ご興味ある方は当社までお問合せ願います。

当社社主の菊地氏より出版のお話を頂いて、早速800余編の中から選別作業を始めた。是非とも載せたいもの、これは載せたいと思うもの、余裕があれば載せたいものに分類しながら、過去に書いたものを読み進める。「ああ、こんな事があったなあ」と懐かしさがこみ上げてくるもの、「えっ、こんな事を考えた事もあったのか」と意外さを感じるもの、色んな思いをしながら約130編を選んだ。泣く泣く選に漏れたものもある。それらに再びチャンスを与える意味も込めて、出来ればこの連載が1000回を迎えた時点で改めて130余編を選び直して世に問う機会があればと願っているが、それは一に今回の売れ行きに係っている。皆様どうかご支援お願いします。

ところで、毎週一回コラムを書くという作業で私は随分と脳を鍛えられた。火曜日の掲載から逆算して月曜日中に校正、日曜に原稿送付のため土曜日中には粗方原稿を書き終えないといけない。木曜日になると、今度は何を書こうかと思い始め、その週に起きた出来事、読んだ本にあった面白話、等を思い浮かべて想を練る。時には金曜の夜になってもテーマが決まらず脳味噌に汗をかく程思い悩む事もあるが、それなりに納得のいく仕上がりになって、日曜に原稿を送った後、午後2時間のテニスを楽しんで、その後録画した将棋を見ながら飲むビールは格別だ。今後も頑張って皆様の元に原稿を送り届けたいと思っている次第です。

来週は火曜日が休刊日となるためお休みします。23日からまたお目に掛かります。




2024年7月2日火曜日

経歴

 都知事選への立候補者の一覧が氏名、年齢、職業、所属党派の形で新聞に示された。その人の人となりを表すのに一番適切な指標がそれらの項目なのだろう。それに加えて最終学歴を掲載した新聞もあった。出身地や性別を書いた例が全くないのは、それらが政治的能力を判断するには役に立たないから当然とも言える。

所属党派に関しては主要政党以外は党派名が記されず諸派とされている新聞と、全ての党派名を平等に明記している新聞があるが、私は公正さの観点から後者の立場を是としたい。そうしないと、今話題になっている多数の候補者を擁立した某N党の人も全て諸派では区別が出来ない。

職業に関してはどういう基準で書かれているのか大いに疑問。蓮舫氏は()行政刷新相となっている新聞もあれば、()参議院議員としている新聞もある。出来るだけ直近の職業を優先するなら後者の方が適切か。ひどい例として32歳の()人材会社社員なんて人がいた。定年退職して年金生活している人が()会社員なら仕方ないが、現役世代なら今の職業を書いて欲しい。同じ人の他の新聞を見ると「政治団体副党首」、「接客業」、「ホスト」とまちまちだ。各新聞が独自の調査をして各人の経歴に偽りがない事に関し裏付けを取った上で掲載している訳ではないのは小池氏の例を見ても明らかだから、おそらく各新聞からの問い合わせに対して本人が別々の回答をした結果なのだろう。

NHKの政見放送では各候補者の経歴は本人からの申し出をそのまま放送しますと断りがあった。小池氏は当然のようにカイロ大卒と明言した。石井妙子著「女帝小池百合子」や文藝春秋5月号、その他の状況からすると限りなく黒に近い経歴詐称に思えるが、果たして都民はそれを許すのだろうか。

2024年6月25日火曜日

選挙

 イランやロシアの大統領選挙では名乗りを挙げたくても審査会の承認が得られなければ立候補出来ないそうで、なんと理不尽なと思ったものだが、東京都知事選挙を見るとそんな事前審査の制度も必要かもしれないと思ったりもする。

それにしても選挙を利用して金儲けをしようとする人が現れるとは思ってもみなかった。選挙ポスターを張る掲示板のスペースを1か所1万円(時期により変動)で売りに出し、14千か所が全て売れれば300万円の供託金を払っても充分儲かると言うのだ。

こんな事、許してはならないと直感的には思うが、どういう理論でそれを禁止すれば良いのかは分からない。被選挙権は全ての人に平等に門戸を開くべきで制限は出来ないので、矢張最後は国民の良識に頼るしかない。先程のビジネスモデルに関しては、応募する人が300人に満たなければ利益は出ない訳で、面白半分で選挙を茶化そうなどと不埒な考えをする人が少なければ良いだけの話だ。

逆に言えば、こんなビジネスを考え実行するのは選挙民を馬鹿にしているからだとも言える。そう言えばイランやロシアの選挙制度も国民を馬鹿にして、候補者を事前審査しないと国民は正しい判断が出来ないからと言う理屈で成り立っている。須らく国民は馬鹿にされないよう、自らを律するべきなのだ。

アメリカの大統領選挙は候補者の乱立を防ぐために、政党内で予選を戦って勝利した人が最後の決勝に臨む形式をとっている。

同じ政党から複数の立候補者が出るのはその政党の内部が統制出来ていない事を物語っており、一つの党派からの立候補者は一人に制限するという規制はありかも知れない。それでも一人の人が複数の党派を作ってしまえば同じ事だ。矢張最後は国民の良識が試される。

2024年6月18日火曜日

後進国

 立場の強い者と弱い者が対峙した時、公正さを担保するためには強い側に相応のハンディを課さなければならない。日常生活において、道路という公共の施設を自動車と歩行者が共用している訳だが、立場の強い自動車の方により多くの注意義務を課しているのはその一例だ。

ところが日本の司法制度はどうだろうか。一般市民と司法当局とを比べれば当然後者の方が立場も力も強いのに、注意義務や制約を負うどころか、傍若無人とも思える振舞いが許されているように見える。袴田事件の再審裁判で検察が改めて死刑を求刑したのを見てそう思った。

死刑を求刑する、というのは軽い事ではない。その人を殺して下さいと言っている訳だから。そこまで強い事を言うのは、余程その人が悪い人で、その証拠がはっきりしている場合に限られなければならないし、言う側は、もし間違っていたら私を殺して貰っても構いません、という位の覚悟があって然るべきだ。だが実際は何かランチのメニューを注文するかのような気楽さで死刑を求刑し、それが間違っていたとしても検察官は痛くも痒くもないようだ。こんな事で公正な裁きができるのだろうか。

鹿児島県警で起きた不祥事にも同じような傾向が見える。立場の強い本部長が部下をいいようにあしらっている。内部告発者を保護するための情報源の秘匿努力はどうなったのかと疑問に思ったが、実際は通報を受けた側が別件で警察の家宅捜索を受け、秘匿する余裕がなかったものらしい。家宅捜索にしろ逮捕にしろ裁判所の許可がなければ警察独自の判断では出来ない筈。警察の暴走を抑制すべき裁判所が警察の言いなりになって良いのか。

強い立場の両者が自制せずに一般市民をないがしろにするなんて、日本がそんな後進国だったとは!

2024年6月11日火曜日

CODH

 標題の4文字はCenter for Open Data in the Humanitiesの頭文字を取ったもので「人文学オープンデータ共同利用センター」の英語名である。先日このセンターから「デジタル時代の変体仮名:日本の文字文化の継承と新たな展開」というセミナーの案内が届き、ZOOMで約2時間視聴した。

ちょっと前までセミナーと言えば電車賃を払って都心まで出掛けなくては参加できなかったが、今ではネットを介して家に居ながらにして有用で貴重な情報に接する事が出来るのだから有難い話だ。聴くだけでなく、質問も出来るし、教室で講義を受けているのとなんら変わりがない。デジタル技術の進歩は目覚ましい。

そのデジタル技術が変体仮名をも取り込もうという話がこのセミナーの趣旨だった。

先週原稿を書きながら変体仮名を原稿の中にそのまま表記できず、「者」を崩した「ハ」などと奥歯に物が挟まったようなもどかしさを感じていたが、もうすぐパソコンでも変体仮名を扱えるようになるらしい。既に2017年には変体仮名285文字がUnicodeに採用されいつでも使える状態にある。Googleはその仮名のフォントを開発しアンドロイド15では標準装備するとの事だった。(因みにアンドロイドの現在のバージョンは13)セミナーではLINEでくずし字トークをする、なんて例が紹介された。現代人が変体仮名でトークして楽しいかどうかは若干疑問だが。

変体仮名をAIに学習させて、古文書を解読させようという事も行われている。その成果は既に「みを」というアプリで実現され、スマホにインストールして使えるようになっている。早速古文書講座の教材で試したが、実力はまだ今一の感がある。もっと賢くなって石碑の文字を読む際の助けになってくれたら嬉しい。


2024年6月4日火曜日

変体仮名

 先週原稿を書いた後大河ドラマ「光る君へ」を視ていたら、清少納言が枕草子を著す場面があり、ここでも仮名の表現に疑問を感じざるを得なかった。政争に巻き込まれて傷心の中宮定子を慰めるために着想したという設定で「春はあけぼの」のあの有名な文言が画面に映し出されたが、清少納言が本当にこの仮名文字をつかったのだろうか。

「は」は「波」を崩した字だが、古文書にでてくる「ハ」は「者」を崩した文字が殆どだ。蕎麦屋の暖簾に書かれている変体仮名がそれで、「楚者」を崩した字で「そは」と読ませている。時には「者」に濁点が付いていたりする。「の」も「乃」に派生する現在我々が使っている字が出て来るケースは少なく、「能」を起源としたものが殆どだ。

撮影時に「春はあけぼの」と筆を走らせた人は、その達筆ぶりからして当然変体仮名に通じていてそうした事情は先刻承知の事だろうから、おそらくNHKからの要請でこうした文字を選んだものと思える。せめてもの意地だろうか「ホ」の字だけは「保」を崩した今の「ほ」ではなく「本」を崩した字を書いていた。

変体仮名を覚えると色々楽しい。大東町の須賀神社には素戔嗚命が読んだ例の「八雲立つ」で始まり「その八重垣を」で終わる歌を刻んだ石碑が立っているが、最後の「を」は「越」を崩した字が書かれている。それを知ってるから、熨斗紙に書かれた「御多越留」が素直に「御タヲル」と読めた。

信州の小諸城には島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の石碑が立っているが、これが全て変体仮名で書かれていて、読むのが大変だ。明治5年生まれの島崎藤村は明治政府が定めた今の仮名とは無縁だったのだろう。それにしても明治政府が仮名文字を決める時変体仮名をベースにしてくれていたらもっと古文書が身近になっただろうに。




2024年5月28日火曜日

時代考証

 レンタルショップでDVDを借りてきて「軍師官兵衛」を一気見している所である。大河ドラマと言えばNHKが最も力を入れて製作している番組の一つだろうからよもや間違いはあるまいが、でもちょっと首を傾げたくなるシーンがある。

秀吉がキリシタンの危険性に気付いて禁制令を出す場面、「定」と書かれた命令書がこう映し出された。「日本ハ神國たる処きりしたん國より邪教を授候儀太以不可然候事」最後の方が漢文調になっているところなど如何にもそれらしく見えるが、この文章が書かれた天正15年には絶対に「きりしたん」などとは書かれなかったであろう。今我々が使っている平仮名は明治33年の「小学校令施行規則」で定められたもので、それまでは変体仮名が一般に使われていた。私が月に一回通っている「古文書講座」の文書でも、タの音を表現する文字は「多」を崩したものが殆どで、「太」を崩した「た」に出会う事は全くない。変体仮名に不慣れな視聴者が沢山いる事を考慮しての事と思われるが、ならば「切支丹」と漢字で書けば良かった。

この禁制令を民衆に知らせるための高札が出て来るシーンもあるが、これもおかしい。文字は行書で書かれていて読み取れないのだが、項目が四つになっているのだ。古文書講座で習った所によると、高札には奇数条項と言って項目は奇数にするのが一つのきまりだったそうだ。確かに17条の憲法も五か条の御誓文も奇数だし、家康の武家諸法度も13条、信長が足利義昭に出したのも17か条の意見書だ。時代考証を担当した人が奇数条項を無視したのはどういう理由だろう。

最後の極めつけは秀吉に従わない島津を討つため九州へ出征する官兵衛に対して妻の光(てる)が掛けた言葉、「道中ご無事で」。これから戦争に行こうという人にそれはないだろう。



2024年5月21日火曜日

復仇

 連日ニュースでガザの惨状を眼にすると、イスラエルもいい加減にしたらどうかと思えてならない。そんなイスラエルを支援し続ける政権に対する抗議の意味で、アメリカの外交官や国務省職員が辞職する事例が相次いでいるとか。4月に入ってから20人以上が、平和的手段での解決を提案しても相手にされないとして辞職したらしい。

中東問題に詳しい放送大学の高橋和夫教授はイスラエルとハマスの戦いはニューヨーク・ヤンキースと荒川少年野球団の試合のようなものだと言った。確かに去年の107日ハマスが1回の表の攻撃で数百人の人質を取ったが、その後イスラエルの1回裏の攻撃は二桁得点してもまだ一つのアウトも取れない、というような感じだ。

ナチス・ドイツのホロコーストを記憶する世代はイスラエルに同情的だ、などという指摘もある。確かにあのユダヤ人虐殺は酷かったが、それを行ったのはナチスであって、イスラエルがドイツに仕返しするなら兎も角、どうしてそのツケをパレスチナ人が払わないといけないのだろう。

人間なら「復讐」するようなケースを、国家間では「復仇」というらしい。ある国が不法な行為をした場合、他国が同等に不法な行為で報いる事で、今イスラエルがやっている事はまさにそれに当たる。報復行為を武力でやる場合を「戦時復仇」というらしいが、それが認められるためには三つの条件があるそうだ。「事前通知義務」「過度な懲罰の禁止」「人道的配慮」の三つ。最初の通知義務は確かに避難勧告などを出しているから守っていると言って良いかも知れないが、他の二つはどうだろう。

107日の行為に対する復仇だと思えばあまりに過度な懲罰ではないか。まさかイスラエルは80年前のホロコーストに対する復仇だと思ってないか。

2024年5月14日火曜日

辛抱

 大河ドラマ「軍師官兵衛」は2014年の放映である。その撮影が行われたのは前の年の2013年だから、子役として出ていた今年20歳になる出演者は当時9歳だった事になる。

最近急に歴史に興味を持ちだした息子が借りて来た「軍師官兵衛」のDVDを視た。凶悪事件の実行犯として逮捕された若山耀人は官兵衛の幼少期を、そしてその子長政の幼少期を演じていた。科白もあれば、笑顔も作り泣き顔にもなる。かなりの演技力と見た。週刊誌報道によれば500人のオーディションを勝ち抜いたというから、それも当然だろう。

9歳で大河ドラマの準主役に抜擢されるというのは役者人生として順風満帆な出だし、いや誰もが羨む出だしと言って良い。それがたった10年でこうも暗転するものなのか。ネットで検索すると、彼は数多くのテレビドラマ・映画に出演し、最後の作品は2018年に発表されている。これだけ多くの出演依頼があれば、収入も相当あったろうし、年齢からしてお金の使い道も限られたものだった筈。僅かな金の誘惑で凶悪事件に関与しなければならない程お金に困ったのが不思議に思える。それともあまりに順調で恵まれた出だしに慢心が芽生え、かつての自分の栄光がまぶし過ぎて自暴自棄になったのか。

一生懸命努力しても成功を勝ち取れない人がいる一方で、折角のチャンスを棒に振ってしまう人がいる。成功への階段を踏み外す事なく登り続けるためには思っている以上に辛抱が必要なのだろう。それが出来た人が大河ドラマの主役になる。黒田官兵衛も豊臣秀吉も徳川家康もその人生は辛抱の連続だったに違いない。

若山耀人は今頃、荒木村重や明智光秀に自らをなぞらえて、どこで何を辛抱すれば良かったかを反省しているだろうか。

2024年5月7日火曜日

伝統

 先週のコラムでは、男女平等と伝統を測りに掛けて前者が重要である事は論を待たないと言った。でも後で良く考えてみると本当にそれで良いのか不安になって来た。男女共学の問題に関してはそれで良いのだが、それを全ての問題に敷衍した場合にはどうか、と。

男女平等と伝統、この二つのキーワードから連想したのは皇位継承の問題だ。皇室典範の定める所では天皇になれるのは男系男子に限られる。女系に門を閉ざしている点で明らかに男女平等に反している。また、その根拠と言えば、ずっと昔からそうだったから、つまり伝統だからだろう。では伝統より男女平等の方が大事なら今すぐにでも女系天皇を認めるべきなのだろうか。

天皇は男系であって欲しいと願っている私は、自分のダブルスタンダードに悩んでしまった。ダブルスタンダードは最も恥ずべき破廉恥な態度だと思っている私は、当初の論を見直し、男女平等や伝統には色々あって、どちらが重要か一概には言えない、と思う事にした。

男女平等に良い悪いがあるとは思えないから、伝統の方に大事なものとそうでないものがあるのではないか。伝統とは長い年月人々がそれを是として守り続けて来たものだ。どれだけ多くの人に、どれだけ長くの時間に渡って守られたのかが伝統の価値を測る基準になると言って良い。男女別学は明治以降の事だからせいぜい百数十年の歴史で、現在男女共学の学校が殆どである事からそれを是とする人の数も多数とは言い難い。

一方で男系による皇位継承は千五百年程度続き、過去何度か女性天皇は生まれたが、男系だけは守られて来た。その伝統は天皇制そのものであると言っても過言ではなく、それを否定して女系を認めるのは天皇制の存在意義を否定するのと同じように思える。

2024年4月30日火曜日

男女共学

 3週間の帰省を終えて家に帰ると、その間に溜まった新聞に眼を通す。すると埼玉地方版の「共学化2度目の勧告」という見出しが眼に止まった。

男女別学の公立高校が今でも全国に45校(男子校15,女子校30)あって、埼玉県には男子校5,女子校7が残っているが、県の男女共同参画苦情処理委員会が「早期に共同化を実現すべきだ」との勧告を出した、それも2002年についで2度目だ、というのがその記事の概要だ。

勧告を出した組織の名称からも分かるが、その趣旨は男女平等が主眼だが、共同化に反対の声は22年前と同様今も多いというから驚く。生徒会が実施したアンケートでは浦和高校の86%、春日部高校の87%が「反対」「どちらかと言えば反対」と答えたという。OBの中には「長年の歴史・伝統を壊してまで共学化すべきか」という意見もあるらしいが、男女平等と伝統を秤に掛ければ前者の方が重要だと考える方が自然に思える。

この記事を見て高校時代にクラスの担任の先生から出雲高校共学化の際のエピソードについて伺った話を思い出した。共学校としての出雲高校の発足は昭和23年の事だから、担任の先生の年齢を勘案して彼が当事者であった事に疑いはない。旧制簸川中学にルーツを持つ男子校と、女子師範にルーツを持つ女子校の共学化に関し、男子校の生徒会で討論された時、声に出して言う意見は圧倒的に反対が多かったが、いざ無記名の投票を行ったら賛成が圧倒的多数を占めた、と。口では硬派を気取っても、内心は女性と触れ合う機会を求めていたという事か。

女子校の学園祭に男子校の生徒が大勢で押し掛けたりするではないか。男性が女性の魅力に惹かれるのは自然な事で、修道院や禅寺のような禁欲や強がりは時代遅れに思えるが。

2024年4月23日火曜日

カネとの付き合い方

 数週間前だったが、バイデン大統領が資金集めのパーティを開いたという記事を見た。11月の大統領選挙を控え、支持率低迷に苦しむバイデン氏を応援するため、オバマ、クリントンの二人の元大統領が応援に駆けつけ、一晩で39億円を集めたという。その金額の大きさにも驚くが、そうした収入の額を堂々と公表して憚らない風土にも驚く。日本で政治家が資金集めのパーティを開いたとしても、その収入総額がいくらになったかなど、決して報道される事はないだろう。

記事にはチケットの料金も書いてあって250ドルから50万ドルだそうだ。1ドル=150円で換算すると37500円から7500万円だ。家を一軒買ってもおつりが来そうな金額を出そうという人がいるのも驚く。しかも会場の様子を見ると、特に食事や飲み物が用意されている訳でもなく、政治家の演説を聞くだけのように見える。そんな事を日本でやれば、やらずぼったくりだと週刊誌に叩かれるに違いない。

政治とカネの関係についての感覚が日米でこうも違うのはどうしてだろう。そもそも日本人はカネについて言及する事を卑しい事だと思っているフシがある。自然災害や各種事故における個人の損害額やその補償について具体的な金額が表に出たのを見た事がない。

テレビコマーシャルにも日米のカネに関する感覚の違いが現れている。アメリカでは多くの場合その製品の価格が表示され、それが如何にお買い得かが強調されるのに、イメージ重視の日本のCMでは値段を言うのはタブーのようだ。

ユダヤ教の教えに「カネは無慈悲な主人であるが、同時にこれほど優れた召使はいない」というのがあるそうだ。主人なのか使用人なのか友人なのかはたまた悪しき隣人か、日本人もカネとの付き合い方を見直したらどうか。

2024年4月16日火曜日

はした金

 自民党のパーティ券売上キックバック事件ではキックバックの金額が500万円以下の場合は処分の対象から外すという判断がなされた。処分されてる人も沢山いて、それが悪い事であるとの認識はあるようだから、やった事が悪い事ではあっても、その金額が少ない場合には許してあげよう、という事らしい。

実は似たような判断が最高裁判決として出された事件がある。「葉煙草一厘事件」と呼ばれるのがそれで、栃木県の農家の男性(当時63歳)が自分が栽培した葉煙草一厘分(一厘は一円の千分の一)を自分で吸ってしまったため、本来大蔵省専売局に納付すべきものを横領したとして訴えられた。一審では無罪、二審では罰金10円の有罪、最高裁で無罪が言い渡された。違法な行為であったとしても実害がほとんどなく微細な所為であれば罪には問えないというのがその判決理由だった。

事件が起きた明治42年の貨幣価値がどの程度であったか、詳しい資料がないのだが、仮に当時の1円が今の1万円に相当するとして、男性が横領したのは今の価値にして10円程度だったと思われる。10円をはした金と呼ぶのは、1円たりとも無駄にしたくない私にとってはなんとも気まずい事だが、人を罪に問う重要性に鑑みれば敢えてそれも許されるかも知れない。

だが、500万円は如何なものか。庶民にとって500万円はゆうに一年が暮らせようかという大金だ。だが自民党の先生方にとっては罪を問うには値しないはした金のようだ。

そうした金銭感覚や、宴会に露出の多い女性を呼んで浮かれ騒いだりしている姿を見ると、政治家がお金に困っているとは到底思えない。政党交付金は政治にはお金が必要で、政治家がお金に困っているという前提で作られた制度だ。制度の見直しが必要ではないだろうか。

2024年4月11日木曜日

大宰府


 11日は大宰府天満宮と九州国立博物館へ行きました。大宰府天満宮は本殿の改修工事の最中で、その代わりに屋上緑化を施した超モダンな仮本殿が立っていた。

九州国立博物館で一番印象的だったのは釈迦菩薩立像。その顔立ちが西洋人だったこと。パキスタンのガンダーラで出土したものらしいが、これがギリシャ彫刻の影響を受けた仏像の原初の姿なのかなあ。






2024年4月10日水曜日

熊野摩崖仏

 国東半島観光の白眉は熊野摩崖仏。険しい山道を登らないとたどり着けないけど、行って良かった。人間の体と比べてスケール感を実感して下さい



富貴寺

 4月10日は国東半島へ。富貴寺(もとは蕗寺だったらしい)の弥勒堂は国宝。仁王像はやはり国東半島らしく石像でした。






2024年4月9日火曜日

九州旅行1日目

 出雲に帰省して、幼馴染と九州旅行に出掛けました。今日は中津と耶馬渓を回った。中津城は黒田官兵衛の城として売り出しているんだね。確か秀吉が官兵衛に国を与えるにあたって、あまり大きな国を与えるとそれを足場に天下を狙いかねないと心配して中津と言う小さな領国に止めたという話があった。耶馬渓の羅漢寺は残念ながら閉門されていたが仁王門の石像の仁王像は見事だった。耶馬渓橋(オランダ橋)は欄干が崩れて通行禁止は仕方ないね。








依存症

 水原氏は自らをギャンブル依存症だと告白した。そもそも依存症とはその渦中にいる人は自覚が持てる程冷静ではいられないように見えるが、自覚のある水原氏はまだ軽症なのかも知れない。

翻って、自分自身が何かの依存症になった事があるのだろうかと思い起して見ると、どうも特別何かに入れ込んだ記憶がない。それが凡人の性なのだろうが、逆に何か事を成した人は基本的にそれにのめり込み、自分の人生よりその事の方がより大切だという一種の依存症になった人が多いように思える。

大谷選手は言ってみれば野球依存症ではないか。初めて来たニューヨークの印象を尋ねられて「出歩いていないから分かりません」と答えたというエピソードがある。あのニューヨークへ行っても、名所を歩いたり、名物を食べたり、浮かれる事無く、トレーニングや野球のデータ分析に時間を過ごしていたのだろう。一心不乱に野球に専念する姿は野球依存症そのものに見える。

藤井聡太八冠は将棋依存症だ。一番好きなのは何ですかと聞かれて迷うことなく「将棋です」と答え、二番目は、と聞かれると「そうですね・・・・詰将棋ですね」と答える。では三番目に好きなのはと聞かれて、しばらく考え込んだ後「ううん、詰将棋を作る事です」と答えた。まさに将棋一筋の人生は将棋依存症に他ならない。

モーツァルトは音楽依存症だったような気がする。彼は音楽なしでは生きて行けなかったのではないかと思う。

こうした偉人達と水原氏の違いは何か。それは依存症になる対象と相思相愛の関係の関係になれたかどうかではないか。大谷は野球に愛され、藤井は将棋に愛され、モーツァルトは音楽に愛された。水原氏は残念ながらギャンブルに愛される事はなかった。もっともギャンブルはおそらく誰も愛さないだろうが。