2025年8月5日火曜日

読書

 高校生の孫がいる。先日「おじいちゃん、夏目漱石の『こゝろ』持ってる?」と聞かれたので「勿論あるよ」と答え、貸してやった時は嬉しかった。高校の夏休みの宿題なのだろう。以前に同じ孫から小川洋子の「博士の愛した数式」があったら貸してくれ、と言われた時は持ち合わせがなくて残念だった。

読み終わって感銘を受け特に印象に残った本は本棚の目立つ場所に並べて、いつか子供達が手に取ってくれたら良いなあと長年思って来たが、悲しく寂しい事にあまり興味を持ってくれなかった。漫画は良く読むから横山光輝の「史記」とか手塚治虫の「火の鳥」や「ブッダ」などに眼を向けてくれても良さそうなものだと思うのだが、時代が違うと興味の向きも異なるのだろうか。

そう言えば、ちばてつやの「キャプテン」や「プレイボール」は貪るように読んでくれたのに。ちばてつやの次は矢張手塚治虫ではなく「スラムダンク」が来るのが自然か。一時息子が東野圭吾に凝っていた時も、結城昌治の「ゴメスの名はゴメス」とか井沢元彦の「暗鬼」にどうして手を伸ばしてくれないかといらついたものだ。

嗜好性や考え方・感じ方というものは人によって千差万別で自分が面白いと思ったからといって他の人にもそうかというと全くそんな事はない。浄土真宗への信心の深い友人がいたので、彼に倉田百三の「出家とその弟子」を薦めたがあまり心に届かなかったようだ。私は中学生の頃初めて読んで感動した部分を手書きでノートに書き写したりした。以来、最低でも三度は読み直した程なのだが。

さて、「こゝろ」を読み終わって、どんな感想を持つか楽しみだ。感想を聞き終わったら鯨統一郎の「文豪たちの怪しい宴」を渡して、こんな読み方もあるよと紹介してやろうと思う。

2025年7月29日火曜日

関税自主権

 学校の歴史の授業で習った事なのだが、明治維新の政府は幕末に結んだ外国との不平等条約によって、関税自主権が認められず大変苦労し、その改訂に全精力を注いだと。具体的には海外から無税で入って来る安い織物で国内の産業が大きな打撃を受けた等があったようだ。

21世紀の大国であるアメリカ合衆国が同じ悩みを持っているとは驚きだ。国内の自動車産業が苦しいから他国からの製品流入を食い止めようと。尤も彼等は不平等条約などに縛られている訳ではなく、自国の関税を自分等で決める権利がある筈だから、彼等が「国内産業を保護するためにこれから関税を25%にします」と言えば、他の国はそれに従うしかないように思える。だが、事態の推移を見ると彼等の主張はあたかも他国を恫喝するかのようで、それが嫌なら何か俺達の利益になるような提案をしろ、とでも言っているかのようだ。

明治の日本政府はまだヨチヨチ歩きで、何より国内の産業育成が大事だったのは分かるが、国内にITなど先端産業や金融など強い産業を抱える大国アメリカまでもが国民が安い製品を手にするメリットを捨てて、国内の一部産業の保護育成を重視するのは如何なものか。

トランプ政権の無理難題に「はい、分かりました。」と言って今まで100万円で売っていた物を125万円にして売ってみたらどうだ。それで彼の国の市場がどういう反応を示すのか。トランプ政権の傍若無人な主張をコントロールできるのは他国の諂いではなく、主権国家としての国内の民意しかない筈だ。

極東の某首相のやけくそのような「なめられてたまるか」などと言うような強がりは何ともお門違い。そんな気持ちで行う交渉は国益を損するだけのような気もするが、さて結果はどうであろうか。

2025年7月22日火曜日

孝の終わり

 身體髮膚受之父母 不敢毀傷孝之始也

西安は碑林博物館の入り口付近の石碑に書かれたこの言葉を「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり」と即座に読みくだいて、そばにいた現地の中国人ガイドを「お主、やるな」という顔つきにさせた事は今でも楽しい思い出だ。

これには続きがあって「身を立て道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕わすは、孝の終りなり」となる事を最近知った。あの石碑にも当然それは刻んであったのだろうが、途中で得意になって続きを読まなかったのは全くの不覚であった。この文言は「仰げば尊し」の「身を立て、名を揚げ、やよ励めよ」の原典になっているそうだが、はて本当にそれは親孝行の究極の目標なのだろうか。

確かに親にとって子の立身出世は何よりも嬉しい事に違いない。そして日本一の立身出世と言えば豊臣秀吉だという事に異論はあるまい。ならば彼の親兄弟は幸福だったのだろうか。秀吉が天下人になってからは、その家族も栄耀栄華を極め、贅沢な衣服に身を包み、多くの人にかしずかれて暮らした。しかしその生活は諸事勝手が違い、言葉使いにも注意を払い、ややもすれば蔑視を感じながらの窮屈なものではなかったか。秀吉の政権安定のため仲睦まじく暮らしていた夫と無理矢理離縁させられて敵国に人質に出されたりした事を度外視しても、決して安穏気楽な生活ではなかったように思う。

それよりか故郷の中村で粗末な小屋でボロ着を着て、方言丸出しで誰に遠慮するでなく、どぶろくを飲んでは大声で笑ったり怒鳴ったりしながら芋の入った鍋をつついている方が幸せだったのではないだろうか。

幸福な家庭の中心に必要なのは富や名誉よりも愛や慈や和などだと思うのは、立身出世とは縁のない身のひがみに過ぎないのだろうか。

2025年7月15日火曜日

イギリスの英語

 6月末から7月初めにかけて一週間程イギリスへ行って来た。色々驚きがあった中、一番の驚きはイギリスで英語が通用しないという事だった。

今回の旅行は旅行会社に航空券やホテルの予約はして貰ったものの、全て自分でやる個人旅行だった。空港からホテルまでは車が手配してあって、運転手が空港で出迎える筈との事、空港出口で探す事数分、やっと見つかった小太りの白人女性との会話が今ひとつスムースにいかない。ちょっとおかしいなと思いながら車に乗り込みホテルに向かった。

時間は午後5時半頃だというのに、外は真昼のように明るい。日没は何時頃になるのだろうかと、運転中の女性に聞いた。What’s the time of the sunset ? よく聞き取れなかったようなので改めて同じ質問をゆっくり発音してみると、548分だとの答えが返って来た。いや、そうじゃなくて、I asked the time of the sunset. sunsetを強調して聞くと、やっと10時頃だとの返事が来た。

しばらくすると彼女は車に備え付けたスマホで誰かと話し始める。その会話が全く聞き取れない。こちらの怪訝そうな様子を見て彼女が「あ、ごめんなさい。今、友達とポルトガル語で話してたの。私、5年前にブラジルから来ました」と言うのを聞いて、ようやく事情が理解できた。

ホテルに着いたら着いたで、受付の男性が強いインド訛りでまくし立てる。もっとゆっくり話してくれ、と頼んで何とか切り抜けたが、イギリスで英語がこんなに通じないとは思わなかった。

数年前やはりイギリスで湖水地方へ行った時も英語が通じなかった事を631回の当コラムで書いたが、イギリスで当たり前に英語が通じる訳ではないようだ。

 

2025年7月10日木曜日

ロンドンなう

 ロンドンなう。

物価の高さに驚く。いつも近くのスーパーで1980円で買っているジャックダニエルが33ポンド、ホテルの売店ではビール小瓶が約1000円。パブでのギネスは1/2パイント2杯で7.7ポンドでした。(羽田での交換レートは1ポンド=213.6円)
2人、飲み物の画像のようです

ロンドン旅行:2

 センターコートの試合が始まる前にコート12でティアフォーの試合を観戦した。日本に帰ってビデオを再生するとちゃんと自分が映ってる。(試合のシーンを早送りして、観客席が出ると一時停止して視るなんて、いけない視方かな?)



ロンドン旅行:1

 今回のロンドン旅行の目的はウィンブルドンでのテニス観戦。アルカラスの試合を見たくて初日のセンターコートを予約しました。いつもテレビではコートを縦に見ているのでボールのスピードをそれ程感じないが、真横からみると滅茶苦茶速い。あんな球を打ったら手が痺れるよ!サーブのトスは思った以上に前方に挙げている。これは早速まねしなきゃ!!

1人、テニスをしている、アメフトをしている、テキストの画像のようです

ロンドン旅行:3

今ヨーロッパが暑い事が話題になっているが、ロンドンも暑かった。緯度からすると、パリもロンドンも樺太の中部より北なので、普段はエアコンのお世話になる事はないらしい。だから私の泊ったホテルもエアコンなし。それに冷蔵庫もない。フロントで「ここはロンドンだろう!アフリカの原住民部落に来たわけじゃないんだ。なんでエアコンも冷蔵庫もないんだ!」と怒ってみたが、「ロンドンはエアコンは普通いらないんだ。」と取り付く島もない。旅行会社から配られたホテルの備品メモにも確かに冷蔵庫もエアコンもない事になっている。しかし、そんなのは付いてて当たり前と思っているから事前にチェックはしないよなあ。

‎、「‎古がこさいます。 客室設備 テレビ אהיסיררדי 電話 エアコン アイロン インターネット回線 Δ セーフティ セーフティボックス タオル シャワー 歯ブラシ トースター 石鹸/シャンー ドライヤー 電子レンジ!オーブン 炊飯器 バスタブ A ミニバー 調理器具 電源種別 冷蔵庫 ボット BFJ コーヒーメーカー‎」というテキスト‎の画像のようです


ロンドン旅行:4

 大英博物館で世界の歴史に関する本を買った。中を見ると、北朝鮮、韓国が日本から派生したように書いてある。こんなの見たら多くの人が誤解するんじゃないの。日本だってその始まりが清朝の雍正帝のころからボンヤリ始まったみたい。その程度にしか関心がないのね。







ロンドン旅行:5

 科学博物館での飛行機の展示ではJALとTDAの機体が展示してあった。JALはともかく、TDAをこんな所で見るとは!!

出雲空港を利用していた僕には馴染みの機体だけど、今の若い人が見たら、日本の飛行機だとは思わないだろうね。

飛行機、テキストの画像のようです

ロンドン旅行:6

 ロンドン塔の向こうに見える近代ロンドン。この対比が凄い!

タワーブリッジ、ロンドン塔、高層ビルの画像のようです

2025年7月8日火曜日

警察の民営化

「誰も知らない 世界と日本のまちがい」松岡正剛著という本を読んだ。副題に「自由と国家と資本主義」とあるように、国家とは何かについて考える良い本だった。

奥付を見ると初版が20071220日となっているから、丁度小泉政権が終わった頃になる。当時一世を風靡した新自由主義を意識した記述が多い。社会の様々な機能や組織を民営化して自由に競争させようという考えだ。そこで著者は問いかける。「民営化が最も効果的な機能を社会にもたらすのだとしたら『警察』や『裁判』をどうして民間の競争にしないのか」と。

ここで私は本を閉じ、しばらく考え込んだ。警察の民営化は良い事なのか悪い事なのか。警察と郵政は何が違うのか。私の持論は国家すら民営化して、個人が自由に国家を選べるようにしたらどうか、というものだった。税金が安くて、なおかつ治安の良い住みやすい国家があれば誰でもそこに住みたくなるだろう。そうなるように国家間での競争があって、民営化された国家の経営者たる政治家が互いに切磋琢磨するのが理想の姿ではないか、と。

明確な答えを出せないまま本を開いて読み続けると、そこには仮に警察を民営化したらどうなるかが書いてある。民営化された警察はより強い暴力を持とうとする。つまりは民営化した警察とは暴力団に他ならないのだ。

そう思って世界を見渡してみると、その組織の構成員全員が納得して一定の暴力を持たせる事に合意した組織・機能として警察が存在せず、民営化警察が跋扈しているようだ。ある国はNATO警察に頼り、またかつてワルシャワ機構警察もあったがそれは倒産してしまった。最近はアメリカ警察が業績を伸ばしているようだが、今回のイランへの攻撃などを見ると、やはり公的な警察必要性を感じる。

2025年7月1日火曜日

今週とは何か

 今日は71日。では一昨日629日は今週の日曜日か先週の日曜日か。私は当然今週の日曜日だと思っていたが、先週の日曜日だと言う人が現れてちょっと驚いた。

私にとって「今週」とはカレンダーの今日を含む一行であり、だから今日の時点で「今週」は629日から75日を指す。ところがさっきの人にとっての「今週」とは「今日から始まる7日間」を意味しているらしいのだ。

日程に関する言葉として「今日」「今週」「今月」「今年」などがあるが、「今週」だけは定義が曖昧だ。「今日」は真夜中の00分に始まる24時間を指しており、まさか「現時点からの24時間」と思っている人はいまい。午後4時の時点で「今日の昼飯」と言えば約4時間前に食べた飯で、20時間後に食べるであろう飯では決してない。

これは「今日」「今月」「今年」が全て天体の動きを基準にしているのに対して、「今週」だけは天体の動きとは無縁で人間の都合だけで設定されたものだからだろう。

カレンダーの一行が「今週」だとする私の認識が多数派であろう事は「週末」という言葉がある事から推測される。もし毎週「今週」が「今日」から始まるのであれば「週末」の曜日が固定される事はない。しかし世間一般には「週末」とは金曜の夕方から土曜・日曜を指す。

さて、日曜が「週末」だとするとカレンダーで日曜が行の一番左に置かれるのは何故か。これだと「今週」は日曜から始まるようで、ならば「週末」ではなく「週頭」とでも呼ばれるべきではないか。日曜が「週末」なら「今週」は月曜から始まるのか。ならばやっぱり629日は先週の日曜だったか。

「来週の日曜に会おうね」とデートの約束をした貴方、それが76日なのか13日なのか確認しておかないと大変な事になりますよ。

2025年6月24日火曜日

不思議

 テレビや新聞での報道を見ていると、時々とても不思議な事に出くわすが、報道を見る限りではそれに対する答えが提示される訳でもなく、そもそもその事が不思議な事であるとの認識すら無さそうで残念に思う事がある。

今月の初め、経済ニュースで生命保険各社が史上最高の利益を出した事が報じられた。具体的な利益額は忘れたが、そもそも生命保険のサービスを提供する組織が大きな利益を計上する事は倫理上許される事なのだろうか。保険とは本来互助的なもので、大きな損失や悲しみを互いに分散して分かち合おうというものだ。その中で一部の者が大きな利益を出すのはおかしな事で、そういう事のないように保険料が調整されるべきものだろう。それでなくとも生命保険会社は一等地に大きなビルを構え、社員は高給を食んでいる。どこかおかしくないか。

先月、五月の初めにはローマで教皇を選ぶ選挙があった。その選挙をコンクラーベと言うんだとか、選挙結果が煙の色で知らされるとか、興味本位な報道が沢山なされたが、そこで被選挙権を持つのが133人の枢機卿に限られ、しかもそれが全員男性である事の不思議に触れた報道はなかった。

今回のコンクラーベでは地域的な多様性が見られ、候補者はアジアやアフリカ、南米からの出身者もいる事は強調されたが、女性が含まれない事は話題にすらなかった。カトリックという組織を知らない私の無知の問題に過ぎないのかも知れないが、昨今女性の権利を重視する傾向からすると不思議な事だった。

14億人のトップを決める、という表現も不思議だった。仏教界ではトップの人は恐らくいない。イスラム教ならカリフという人がかつてはいたが今は多分いない。宗教の世界で人間に序列が出来ている違和感に言及した報道も全くなかった。

2025年6月17日火曜日

焚書坑儒

トランプ大統領とハーバード大学の争いを見て、秦の始皇帝がやった焚書坑儒を連想した。尤も私自身、個人的にだがトランプ氏はどうしても好きになれないが、始皇帝にはどちらかと言えば肯定的な印象を持っている。

数週間前にご紹介した「ルポ トランプ王国」がなかなかの好著だったのでその続編も読み、棚の近くにあった「トランプのアメリカに住む」を手に取ってみた。「ルポ」の方の著者は新聞記者、こちらは東京大学大学院情報学環教授という立派な肩書で、ハーバード大学へ客員教授として招かれた時の事を書いている。

ところがこれがとても読みにくい。他の著作からの引用が多く、それを頭でこねくり回したような文章が続く。例えば「性」の問題についてはこんな調子。

<ウェーバーが論じたように、ピューリタニズムは神のまなざしの下での「禁欲」の倫理を徹底化し、やがてそれを近代的な資本蓄積に結び付けた。しかしそこでは「性」が思考の外に排除されていたのではない。むしろ事態は逆で「性」は思考の中心に焦点化され、婚姻関係の内部に閉じ込められたのである。だからこそその「性」がむしろ性欲とその対象との合理的な関係から再把握されることも可能だったわけだ。>

頭脳明晰な人ならもっと核心をついた明解な表現が出来るだろうに。頭悪いじゃないの、という言葉が喉の奥まで出かかった。

ともかく、こんな文章に出会うと、トランプ氏のアカデミズムに対する敵愾心や、始皇帝が

焚書坑儒を断行した背景がいくらか理解できるような気持ちにもなるのである。

 

2025年6月10日火曜日

備蓄米

 備蓄米に関する国会でのやりとりを聞いていて思った。野党の人達の主要関心事は国民の生活を良くする事か、与党をけなす事か、どっちなのだろうと。「バナナの叩き売りじゃないんだから」とか「1年経ったら家畜の餌になる」とか、一体どういう発想でそんな発言が出るのだろう。日頃から国民の生活を良くするために何をすべきかを真剣に考えていたら、昨今のコメ騒動に対しても「自分等ならこうするのになあ」というビジョンがあって、そのビジョンと実態との乖離を問題にし、与党のやり方を追求するという方法があるだろうに。他人の揚げ足を取ったり、けなしたりするだけだと、結局自分等のビジョンの無さを曝け出すだけになる。

報道によると、随意契約による備蓄米は想像以上の速さで消費者の手元に届いているようだ。しかし自分の近辺では、スーパーでもコンビニでもまだお目に掛かっていない。そこで私はちょっと不安になった。備蓄米とは本来、コメが凶作で飢饉が起きそうな時のためにある筈だ。もし本当に天明の飢饉のような事が起きて、いくらお金を積んでもコメが買えないような状態になったら、備蓄米はどんな経路で最終消費者に渡って行くのだろう。

今、高いとは言え、5㎏で4000円も出せば手に入る状態でも、備蓄米が出ると長蛇の列が出来てしまう。もし明日には飢えてしまいそうになったら人々が殺到し、ガザのような状況になってしまうのではないか。そんな時、公正かつ公平にコメが行き渡るような仕組みを政府は考えているのだろうか。物があったとしても、それを捌くシステムがないと全体としては機能しないと思う。野党にはそこら辺を問い質して欲しかった。

長嶋茂雄さんが亡くなった。僕の少年時代のヒーローだった。ご冥福をお祈りします。

2025年6月3日火曜日

鳥瞰的視野

 前々回の当コラムでは危うくトランプ派の一味に成り果ててしまいそうになったが、あれから改めて鳥瞰的視野の元、冷静に考え直して、なんとか踏みとどまり非トランプ派の矜持を失わずに済んでいる。

まず反省したのは、報道された内容がどこまで真実なのか、という事である。報道に虚偽はないにしても、こちらの勝手な推測で事態を曲解している事はないか。例えば富士山での遭難者の殆どが規則を守らない外国人であるかのような印象を持ってしまったが、それは事実なのか。手元に確たるデータがないので断定は出来ないが、恐らく登山者の大多数は日本人であり、遭難者が登山者の部分集合である事を考えるとその割合もほぼ同じで、遭難者の大部分は日本人であるに違いない。勿論中には不埒な外国人もいるに違いないが、あくまでそれは極く一部であって、救助の有償化を推進したい自治体が世論を有利に誘導するために特殊事例を誇張しているのではないのか。

アメリカにおける不法移民にしても、その多くが消費税は勿論、所得税も払っており、福祉にタダ乗りしているのは一部に過ぎない。

一部の特例を以て全体を代表するものと誤解すると、「中国人は」「クルド人は」と言った排外的発想につながり大変危険だ。公権力が世論誘導のためにそれをやるとかつてのナチスのような悲劇を生む。確かに極く一部のユダヤ人の中にシェークスピアのベニスの商人に出てくるような悪徳金貸しがいたかも知れないが、それが全てのユダヤ人に当てはまるかのような論調でドイツ国民を間違った方向に導いた。

今眼前にある事例は全体集合の中のどの部分に位置し、それはどんな割合で分布しているのか、という鳥瞰的視野を持つ事は社会の健全性を守るためにとても重要な事ではないだろうか。

2025年5月27日火曜日

失態

 江藤前農水大臣の自民党佐賀県連でのコメに関する発言は誠にみっともないものだった。しかしそれを巡って、周りでは輪を掛けたような失態が繰り返されたように思う。

一つは任命権者である石破総理の対応。どうしてあの発言が報道されて即座に更迭を決意しなかったのだろう。不信任案が可決されそうな雲行きになってからようやく重い腰を上げて解任に舵を切ったのは失態と言っても過言ではない。本能寺の変の情報を入手して即毛利と手を打ち中国大返しを実行した豊臣秀吉ならあんなグズグズした真似はしなかったに違いない。首切りを即断していれば石破総理の評価もいくらか改善に向かったであろうに、折角のチャンスを見逃してしまった。

そもそも江藤前大臣を続投させて職責を全うする力があったかどうか。備蓄米放出に到るまでの過程、競争入札を行って以後も一向に備蓄米が市場に出回らない状況等を見て、あの大臣の力量では今後事態の改善は望むべくもなかった気がする。失言よりもむしろ能力の点からも解任の時期でもあったのだ。

そしてまた、失言を追求すべき野党の対応も失態と言って良いと思った。立憲民主党の議員は国会の委員会で「あの発言のどこがウケると思ったのですか」なんて質問をしていた。失言した相手と同じ土俵で相撲を取るような質問をしてどうする。そうではなくて、今後の対応方針や具体策を問いただし、その任に適格かどうかを問題にすべきではないのか。そうした質問が出来ないのは、結局野党にも担当能力がない事を暗示しているようなものだ。

政策実行能力があって、バリバリ仕事が出来て、ちょっとした失言なんか吹き飛ばしてしまう位の馬力のある政治家はいないのか。そんな人ならあんなみっともない失言はしないだろうが。

2025年5月20日火曜日

トランプ派

 富士山で遭難した人を救助するのに、現在は無料の救援活動を有料化しようという動きがあるそうだ。

遭難者の多くが危険性を軽視し十分な準備もなしに、謂わば自業自得のような形で難にあった人達で、中には一度は救助されながら反省する事なく何度も救援隊のお世話になる人もいるとか。しかもその可成りの部分が外国人であると聞くと、今まで無料であった事に呆れ、有料化は当然だろうと怒りにも似た気持ちになってくる。

そういう自分をフト覚めた目で見ると、今までさんざんトランプ大統領を批判して来たが、やっぱりお前もトランプ派ではないかと呟くもう一人の自分がいる。

トランプ氏を支持する人達の気持ちを理解したくて「ルポ トランプ王国―もう一つのアメリカを行く」(金成隆一著岩波新書)という本を読んでみた。そこに書かれているのはまさに無謀な富士山登山をして当り前のように無料で救援隊の世話になる外国人に怒りを向ける私と同じような人達の姿だった。

著者はアメリカのラストベルトと呼ばれる地域を取材し、その酒場にたむろする人達の話に耳を傾ける。かつてこの一帯の工場で働く労働者だった人達は労組の関係で当然のように民主党支持だったが今トランプ支持に変わっている。印象的だったのは次の発言だ。「かつて民主党は勤労者を世話する政党だった。ところが最近は勤労者から集めたカネを、本当は働けるのに働こうとしない連中に配る政党に変わった。」と。「働けるのに働こうとしない連中」は「出来る筈の遭難対策もしない奴」に重なる。

自分の責任を果たそうとしない奴を、しかも身内なら兎も角赤の他人をどこまで助けるべきなのか。不法移民や規則を守らない無謀な外人登山家にも、人道主義はやはり愛の手を差し伸べるべきなのだろうか。

2025年5月13日火曜日

 ひさしぶりに春が来たような気がする。

ここ数年季節の二極化が進んで、冬からいきなり夏になったり、厳しい残暑がようやく終わったと思ったらすぐさま炬燵が欲しくなるような気候だった。だがここ一か月くらいは暑さも寒さもそこそこで、半袖だと少し肌寒いが薄い長袖が一枚あれば十分という感じ。テニスをしても半袖半ズボンの人と長袖長ズボンの人が混在している。寒がりか暑がりかで着る物が変わるのが春というものだ。朝夕は適度に冷えて、お風呂が有難かったり、冷やした大吟醸が美味しかったり、春を満喫している。こんな気候がずっと続けば良いのにと思う日々である。

この連休は皆様如何お過ごしたでしょうか。私には一つ嬉しい事があった。それはこの「トライアングル」に関してである。

去年七月この連載の中から数編を選んで一冊の本として出版して頂いた。付き合いの古い人達には同窓生やらテニス仲間やらかなりの人達にご購入頂いたが、付き合いの浅い人達にはそうもいかず、去年夏から始めたミニテニスの仲間には回し読みをして貰っていた。そもそも自分が作った作品、本であれCDであれ詩集であれ、それらを他人に鑑賞をお願いするのは結構勇気の要る事である。その人の時間を奪う事でもあるし、何らかの感想を強要している感じもある。尤も今回の「トライアングル」はそれなりの自信もあって、屹度それなりに面白く読めて、暇潰しにはなる筈だと思っていたが、回し読みの終わった内の一人が「買いたい」と言ってくれたのだ。

本を読み終わって、それを手元に置いておきたいと思ってくれる事以上に著者として嬉しい事はない。最高の賛辞と受け止めた。幸い数冊手元に残っているので、次の練習日に持参しようと思う。著者のサインは要るかどうか、万年筆も忍ばせて。

2025年4月29日火曜日

新旧メディア

 先々週の当欄で、トランプ大統領がインサイダー取引をするのではないかとの危惧を書いたが、早速424日号の週刊文春でそれが取り上げられた。池上彰氏のコラム記事によると、トランプ大統領は相互関税の一時停止を発表する直前に、「今が買い時だ」と自身のSNSに投稿したというのだ。池上氏は、それによってトランプ氏が関係する投資ファンドが利益を上げた可能性をほのめかしているが、そんな露骨な事が本当に行われたのだろうか。

以前なら、活字になった事はまず間違いなく本当だろうと信じて疑わなかったが、昨今ではメディアの信頼性が揺らいでいる。特にアメリカでは伝統的メディア(新聞・テレビ等)と新興メディア(ブログ・SNS等)がお互いを批難し、自己の正当性を主張し合っている。新興メディアが言うには「伝統的メディアは今まで国民にウソをついてきた。彼等は自分等が政治的に中立だというフリをしたがる。我々新興メディアは自分等の政治的意見を隠していない。」成程と思うし、実際アメリカ国内で伝統メディアを信頼しているという人は31%にまで低下しているらしい。接戦が予想された先の大統領選挙でトランプ氏が圧勝したのも、そうした事が背景にあるようだ。

私の眼には伝統的メディアが既得権益の上に胡坐をかいているように見える。日本のテレビ界は特にそうで、フジテレビの不祥事も既得権益が原因に見える。暴言かも知れないが、フジテレビは一度倒産してその電波枠を別の会社に譲るべきではないか。より良心的で真摯な番組を作るべく、複数の会社が電波枠を巡って競争する枠組みが欲しい。サッカーJリーグのように毎年入れ替えが行われるとテレビももう少しまともになりそうな気がする。

(次週はお休みを頂き、13日から再開します。)

2025年4月22日火曜日

並ぶ

基本的に並ぶ事が大嫌いで、時々ラーメン店の外に並んで順番を待っている人の列を見ると呆れてしまう。寒い冬に平気で客を店の外に並ばせる店主の気持ちも理解できない。

先日開幕した大阪万博は「並ばない万博」を目指しているとかで、それは実に見上げたチャレンジだと思うのだが、現実はそんなに簡単にコントロールできるものではないようだ。ニュースを見ると、昼食時のある店舗では「292分待ち」のサインが出ていた。292分と聞いてすぐにピンと来る人がいるだろうか。とてつもなく長い時間である事は分かるが、それを60で割って4余り52と計算しないと具体的なイメージがつかない。お昼を食べるために並ぶ事があっても普通なら長くても4050分程度で、1時間を超えるような事はなかろうと、時間表示する事を忘れたのだろう。

それにしても待ち時間を表示するのに有効数字3桁が必要なものか。並んでいる人の数とか、列の長さなどから単純に算出した数字を表示しているものと思うが、まさか4時間52分後に来ればピッタリ席が空いているという事もあるまい。ならば「4.55時間待ち」とでも表現した方がずっと自然だ。

兎に角、そんなに人が並ぶという事は屹度サービスを提供する側の能力が足らないからに違いない。よそへ行こうにもどこも混雑しているから仕方なく並んでいる人が殆どだろう。並ばない万博を目指した事務局は来場者がみんな弁当を持参するとでも思っていたのだろうか。あまりにも稚拙な計画ミスと言わざるを得ない。

そう言えば高速道路でもETCの不具合から、料金を払うためだけに延々と並ばされた人達がいた。素早い移動という果実の対価として支払う料金が、そのために却って遅くなるという馬鹿みたいな事態に大人しく従う人達も不思議だった。

2025年4月15日火曜日

独裁

 「独裁」とは文字通り「独り」で「裁決」する事で、今まさにトランプ大統領はそれをやっている。関税の率を決めたり、その発効時期を遅らせたり、しなかったり。そうした事が政府の高官すら相談なしに裁決され、事後追認せざるを得ないような状況だ。

まさに独裁者と呼ぶに相応しい振る舞いだが、世界のメディアはそれを一切非難しないどころか、その対応に右往左往している様は彼の振る舞いを是としているかのようだ。もし同じ事を中国の習近平主席が行ったら、さぞかし「この独裁者め」という非難の大合唱が起きていただろう。今回それが起きないのが不思議でならない。

金儲けに人一倍関心の強いトランプ氏の事だ、自分の口先一つで株価が大きく上下する様を見て、誰か縁者を通してインサイダー取引をやりかねない。関税を高く設定する発表をする前に空売りを仕掛け、発表後に買戻し、またその関税の発動時期を遅らせる発表の前に買い込んで、発表後に売り抜けたりすれば瞬く間に一財産も二財産も出来てしまう。もしそんな事をしてそれがばれたりしたら、いくら何でもその時は弾劾されるであろう。ウォーターゲート事件以上の破廉恥さなのだから。しかし昨今の様子を見ていると、それでもなおトランプ大統領は続投するのではないかと疑いたくなる程の独裁体制である。

それにしても世界で傑出した軍事力を持つ米中露の3か国がいずれも独裁者によって支配されているのは由々しき事態だと思う。独裁体制には大胆な対策がとれて、しかもそれを素早く行動に移せるなどの長所があるが、それが危険を顧みない事につながる。合議制・分権制は逆に意思決定は遅くとも過激さを回避でき、より常識的な行動につながる。

軍事大国の独裁制は人類滅亡近しを暗示してはいないか。

2025年4月8日火曜日

相互関税

 「相互関税」という言葉は2025年の流行語として記憶されるのではないだろうか、などと言ったら不謹慎だろうか。ここ数日どのチャンネルを回しても「相互関税」という言葉が連呼されている。それにしてもこの件、不思議な事が多い。

まず第一にトランプ大統領が掲げた税率の一覧を示したパネルに並んだ国の順番。一番上が中国で以下EU、ベトナム、台湾、日本、韓国、タイ、スイス、と並んでいる。アジアから順に西回りに並べた訳でもなさそうだし、関税率の高い順でもなさそうだ。ベトナムが日本より上にきているところをみると貿易額の大きい順でもなさそうだし、もちろんアルファベット順でもない。税率の算定方法についてもそうだが、この並び順もトランプ政権の非論理性を象徴しているように思える。

某新聞記事を見ると、この関税措置によって2027年の世界全体のGDP0.6%下がるとの予測(アジア経済研究所の分析)があるそうだが、たった0.6%で済むのだろうか、というのも不思議だった。アメリカを除くそれ以外の国同士、互いに関税を下げて、アメリカを横目に互いの貿易を活発化し、経済を発展させるなんて要素を加味していたりするのだろうか。もし本当にそうやって、アメリカ一人がスタグフレーションに苦しむなか、他の国が一斉に自由貿易の果実を満喫して繁栄して行ったら喝采ものだが。

一番不思議なのは、この政策はトランプ大統領のコアの支持者であるアメリカ国内の低所得白人労働者の利益を願って採用されたものだと思うが、本当に彼等のためになるのか、という点である。GAFAや金融業などで高給を食んでいる人達はそんなに影響は受けないだろうが、一次産業二次産業の人達は却って苦しむ事になるように思えてならない。

2025年4月1日火曜日

政治とカネ

 石破総理による金券配布問題は「政治とカネ」の問題というより「公私の区別」の問題のような気がする。総理総裁といえども私的生活の領域はあるだろうから、その部分で誰かをねぎらうべく私費でもてなしたとしてどこに問題があろうか。いや、自民党の党務に関する事だからと、原資が税金から出された政党交付金であったとしても、一旦党の自由になるカネになったものを党がどう使おうと文句を言えた筋合いではない。

しかし、巷間囁かれるように官房機密費が使われたとなるとこれは大問題だ。そんな事はないと信じたいが、もしそうだとしたら公費を私的に使った事になるから公金横領という刑事罰の対象となるべきものだ。「政治とカネ」どころの騒ぎじゃない。

かつて総理のお友達のために、国有財産が不当に安く払い下げられようとした事件があったが、これも公文書偽造などではなく、本来正しく管理すべく任された仕事を裏切った訳だから刑法第247条背任罪として問われるべきだった。

「政治とカネ」とは政治がカネによって曲げられ正しさを失う事が問題なのだ。選挙の際の買収とか、政策遂行時の贈収賄などが卑近な例だ。しかし最近周りを見渡すと、政治を曲げるのはカネより情報の方が大きいような気がする。フェイクニュースによって世論が操作される例がとても多いように思える。しかもこの場合、事態がより深刻なのは操作されている側に後ろめたさが全くない事だ。カネで買収された時にはいくらかは後ろめたさが残るだろうがフェイクニュースで踊らされても自分の正義を疑わないケースが殆どだろう。

ニュースのネタがどこにあるのか、常に注意しなければならない。これからは「政治とカネ」以上に「政治とネタ」の方がずっと重要になりそうな気がする。

2025年3月27日木曜日

猿島坂東観音開帳

 12年に一度の「猿島坂東観音開帳」

が行われているというので5か所の札所を回ってきました。それぞれのお寺の観音様が拝めるのですが、不思議だったのは観音様が五色の糸を持っている事。3番札所の亀形山延命寺吉祥院は11面観世音菩薩が五色の糸を持っている。5色の糸って、阿弥陀様が我々の臨終の際に浄土に導いてくれるものだと思っていた。確かに2番札所の大龍寺亀見山大悲院はご本尊の阿弥陀様が五色の糸を持っていて、それなら分かるけど、観音様も同じなのかなあ・・・・
吉祥院には墓仕舞いをしたお墓が集めてあって、文化五年(1808年)とか寛政元年(1789年)などの文字が見える。200年以上も前のお墓ならまあこうなっても仕方ないけど、新しいものでは大正八年なんてのもあった。それにしても100年以上前だから仕方ないかな。





2025年3月25日火曜日

分からない

 政治の事は良く分からないが、石破さんが新人議員に商品券を渡した件も何が悪いのか良く分からない。

聞くところによると、政治資金規正法第212項「何人も、公職の候補者の政治活動(選挙運動を除く。)に関して寄附(金銭等によるものに限るものとし、政治団体に対するものを除く。)をしてはならない。」に違反する可能性があるというが、はて、政治献金に関しては企業・団体によるものを禁止しようという動きがある事を承知しているが、個人によるものまで禁止されたら政治献金が全く出来なくなってしまうのではないか。個人による寄付が禁止されている意味が分からない。

今回の事件は例えて言えば、ある会社の社長が重要案件の成功を祝って、それに貢献した社員とその家族を慰労し、いくらかの金品を渡したような構図だと思うが、そのどこが悪いのか良く分からない。業務の公私で言えば私に属する部分で行われたもので、おそらく自民党内で慣例として行われて来て、石破さんも単純にそれを踏襲したものだろう。歴代総裁はコメントを求められて「法律に則り適正に対処した」と仰るが如何なものか。家族団らんや祝い事など私的な事まで法律に則り行わなければならないとしたらそれは法治国家ではなく監視国家だ。

商品券を返還した議員の気持ちをどう思うか聞かれて、石破さんはあれこれ苦しい答弁を行った。将来の見通しを聞かれた時には「仮定の質問には答えられません」と一蹴するくせに、他人の気持ちや思いにまで言及するのかも分からない。「当の本人に聞いて下さい」で済ませば良いのに。むしろ仮定の質問にこそ、Aの場合はこう、Bの場合にはこう、と責任を持って対処の用意がある事を示して欲しいが、それを追求しないマスコミの対応も全く理解できない。

2025年3月18日火曜日

常識

 トランプ大統領への批判は色々あるが、先日の施政方針演説を見て、いくらか賛同できる点もあった。その一つが「この国の至るところに常識、安全、楽観主義、富を取り戻すため多くの大統領令に署名した」という下りだった。

トランプさんにこそ常識を問いたいがそれは兎も角、バンス副大統領のEUへの批判も常識から離れた極端な政策が標的らしい。「ドイツの失敗に学べ!」という本にその例が書かれていた。著者はドイツ人と結婚してドイツで暮らす日本人女性で、最近話題になっているらしく市立図書館で予約したら5人待ちの状態だった。EU内部でも当然、常識を取り戻そうという動きはあって、それがAfD(ドイツのための選択肢)という政党への支持につながっているとの事。

テレビから流れてくる情報を鵜呑みにすると、AfDは極右でナチスの再来であるかのような印象を持ってしまうが、決してそんな事はなく、EUのエリート達が「こうでなければならない」と押し付けて来る価値観に対して「いや、そうでない別の選択肢もあるでしょう」と言いたいらしいのだ。

エリート達が押し付ける価値観の例が地球環境問題やLGBTQの権利保護であったりする。そのためにドイツでは電力の供給に問題が生じて国民にしわ寄せが来たり、外見は男性に見える自称女性が女性に混じってボクシングで優勝したりする。LGBTQのためにドイツでは「自己決定法」という法律が新しく成立し、自分の性別は自己申告だけで決定でき、医師の鑑定書が不要になったらしい。ある政党では女性の立候補者を優先するというので今まで男性だった人が女性として立候補した例まであるとか。その他、常識的におかしいと思われる例が沢山列記してある。

どちらの言い分が正しいか知らないが、常識だけは持っていたい。

2025年3月11日火曜日

追従(ついしょう)

 先日某政治学者の講演を聴く機会があった。冒頭その人は「最近のニュース、特にホワイトハウスからのニュースを見ると呆れるやら悲しくなるやら兎に角暗澹たる気持ちになります。」というような事を言った。

私も似たような気持ちで、暴走するトランプ大統領に対して民主党はただ手をこまねいているだけなのか。共和党にも良識派はいるのだろうが、彼等の動向がニュースにならないのは彼等が何もしていないからなのか、それともマスコミが取り上げないだけなのか。

色々不愉快なニュースが流れるなかで、特に気持ち悪くなったのはトランプ大統領が初めて開いた閣議の様子を報じたものだ。イーロン・マスクの発言にトランプが称賛の言葉を与え、続けて「反対する奴はいるか。いたらすぐここから追い出すぞ」と言うと、居並ぶ閣僚達は皆、追従の笑いを浮かべ手を叩いて賛同、いや服従の意を表した。

政治家などという職業に就く人は人一倍自尊心の強い人達なのだろうが、そんな人達が何故こうも一人の人に媚び諂うのか。中にはどこかの空港の名をトランプ空港にしようとか、ラシュモア山に彫られた4人の元大統領の彫刻の横にトランプの像を追加する事などを提案している議員もいるとか。

追従をする側の気持ちも良く分からないが、される側の気持ちも分からない。心からの称賛と崇敬なら兎も角、追従の奥には侮蔑の念も隠れている。真の尊敬か、それとも単なる追従か、その違いが判断出来ず悩んだ人の気持ちが菊池寛の「忠直卿行状記」に書かれている。この主人公は他者からの媚び諂いに我慢がならず、真意を確かめんがための悪行を重ね、ついには地位も財産も全て失うが、最後には「悪夢より覚めたらんが如く、ただすがすがしゅうこそ思い候え」との心境になっている。

2025年3月4日火曜日

生物

 学生時代の友人達と飲むといつも数学や物理が話題の中心になるのは皆理系だからだろうか。先日半年ぶりの飲み会は、この宇宙の別の天体に知的生命体がいるとしたら、彼等はどのような学問体系を築いているだろうか、という話題で盛り上がった。

物理学は恐らく我々と同じような形になっているだろう。宇宙のどこでも万有引力は働いているし、物質の成り立ちも原子核の周りを電子が回っている原子が基本で、電荷が動けば磁場が出来るというのも変わらないだろうから物理学は屹度同じはずだ。原子の存在が同じなら、メンデレーエフの周期表も同じで化学も同じ形態になっているに違いない。しかし、生物学が同じであるとは限らないだろうという事で意見が一致した。

太陽系の外にある系外惑星に生物が生存できるかどうかを判断する指標として「ハビタブルゾーン」などという言葉がある。気温・気圧はこの程度で水が固体にも液体にも気体にもなれないといけない云々。しかしこの発想は生物が全宇宙どこでも地球上にあるものと同じでなければならないという前提に基づいている。なんと貧弱な発想だろう。そもそも地球だって今は好気性生物の天下になっているが、元々は嫌気性生物しかいなかった。もし光合成などというとんでもない事を行うラン藻植物が現れなければ地球の大気の構成は今と全く違うものになっていただろう。今の地球上の生物は様々な偶然が重なった希少生物であると考えるべきだ。別の天体の生物はおそらく二重らせんのDNAなど持っていない。

さて、そうした生物は倫理を備えているのだろうか。生命と倫理に必然的なつながりはあるのだろうか。地球上ではライオンなどを見ると正義は持っていないかも知れないが愛情は持っていそうな気がする。中には正義も愛情も持っていそうにないトランプ某などという生物もいるが。

2025年2月25日火曜日

関税

 関税について詳しくは知らないのだが、トランプ大統領が勝手に決めているように行政の専権事項として設定の出来るものなのだろうか。

例えば、誰か犯罪者に対して「あいつは気に喰わないから死刑にしてしまえ」と言いたくても刑法で量刑が決まっているから勝手に重い罪を背負わすわけにはいかない。どうしてもそうしたければ国会審議の上刑法改正をしなくてはいけないはずだ。

個々の物品について細かく関税の税率が法律で決まっているとは思わないが、それでも何らかの立法上の制限があって、行政が勝手気儘に設定できないのではないかと考えるのが三権分立の思想からすると自然だと思うのだがどうか。

日本の首相とアメリカの大統領では権限に大きな違いがあるのも分かっているが、昨今の米価の高騰ぶりを見ると、なんとか首相の一言でコメの関税を下げて輸入米の流通を図って貰えないものかと思ってしまう。

新米の時期になって、しかも前年以上の豊作だったと言うのに一向にコメの値段が下がらないのは誰かが将来の値上がりを見込んで貯め込んでいるとしか考えられない。そんな投機目的で市場を歪めている不届きな輩に警告を与える意味でも、コメの輸入関税を期間限定で撤廃する、というような宣言を首相が出してくれないものだろうか。

3年前くらいだったか、近くのスーパーではオーストラリア産のコメが51200円程度で販売されていた。試しに買ってみたが味は悪くなかった。カリフォルニアに住んでいた頃は現地のコメに充分満足していたし、帰国する友人達は皆が制限一杯のコメを買い込んでいたものだ。

井上ひさし著の「コメの話」なんて本を読むと、日本のコメ農家を大切にしなければとも思うが、昨今の状況を見ると、コメの関税に一考をお願いしたいと思う次第。

2025年2月18日火曜日

国際政治

 3年続いたウクライナでの戦争は、どうやらウクライナの要求は殆ど通らない状態で終わりそうだ。アメリカから梯子を外されればウクライナも為す術はなかろうし、EUがアメリカに替わって全面的に支援を継続する事もないだろうから、ウクライナは不本意な条件を飲むしかなさそうに思える。

トランプ大統領の「これ以上死者を見るのは忍びない」というのは尤もだし、損得で考えれば戦争は一部の武器商人が儲けるだけで、損ばかりだから辞めるに越した事はないが、こんな形で終わったら戦闘で命を落とした人や、我が家を瓦礫の山にされてしまった人達の気持ちはどうなるのだろう。

今から思うと、欧米はロシアとウクライナに戦争をさせて見たかったのではないだろうか。ロシアが攻め込んだのは2015年に結ばれたミンスク合意の不履行が原因かと思うが、欧米はもっと強くウクライナに履行を求めるべきではなかったか。ひょっとしたら「いざとなれば助けるから安心しろ」というサインを出してウクライナを強気にさせていたのではないかと疑う。

実は第二次大戦の発端となったナチスドイツによるポーランド侵攻も同じような構図だったらしい。独ソ不可侵条約が締結された時、両国は秘密議定書でポーランドの分割を画した。その事をルーズベルトは知りながら、ポーランドにそれを伝えず、むしろその議定書はバルト三国に関するものだと伝え、ポーランドを安心させ、強気にさせるように仕向けた。どうしてもヒトラーを悪者にしたい英米の強硬派がポーランドを敢えて犠牲にした訳だ。

東アジアでは尖閣諸島は安保条約の範囲内だと米国に言って貰って喜んでいる国があるが、本気にして浮かれ調子に乗ったりすると後で泣きを見る事になりかねない。国際政治にお人好しはいないから。

 

2025年2月11日火曜日

MAGA

 トランプ大統領のMAGA(アメリカを再びグレートにする)という主張は、よくよく考えてみると結構意味深だ。

「再び〇〇にする」という事は、かつてそうだった事はあるが今はそうでない、と認めている事になる。ふむ、そういう自覚はある訳だ。「グレート」を我々は直訳して「偉大な」と思ってしまうが、そうすると過去にアメリカが偉大な国だった事があるのだろうか、という疑問が湧く。

「偉大な国」という言葉から連想する事は、国力(経済力・軍事力)が大きくて、その力を背景に周りの国の平和に貢献し、慈悲と徳で周りに幸せをもたらす国というイメージがあるが、そもそも欧米でかつてそんな国が一つでもあったろうか。スペイン・ポルトガルによる大航海時代が始まって以降、経済力や軍事力で他を圧倒する国はいくつかあったが、そのいずれもが行った先の国々を収奪する事に一生懸命で、凡そ徳を以て接した事などなかった。それだけならまだしも、その統治に当たっては現地の人々が相反目するような仕掛けを仕込んで、自分等が去った後も紛争が絶えないよう禍根を残した。アメリカだってベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争と禍をまき散らして来たではないか。せめて思い起こすのは戦後のララ物資が日本を救った事くらいだが、これだって在米の日系人がメインの運動だったそうではないか。

「グレート」を「偉大」と訳すからいけないので、「グレート」に慈悲とか徳とかの概念はないのだ。英英辞典を引いてみると「とても大きい事」という意味が一番に書いてある。トランプの言う「グレート」は要するに「もっと金持ちの国になる」という意味なのだ。だから何かというと「カネ寄こせ」と恫喝する。

そうして見るとかつて朝貢外交という形で近隣諸国に富を分け与えた中国王朝の方がずっと偉大だったように思えてくる。

2025年2月4日火曜日

背中

 誰であれその人の悪い点はその背中に書いてある、というのは私の父が良く言っていた事だが、蓋し名言だと思う。誰でも他人の背中には良く目が行くが自分の背中は見えない。自分の行いを反省する、と言っても鏡に映る自分の前姿を注視するのがせいぜいで、背中に書かれている事を他人から指摘されて初めてハッとする事が殆どだ。時には「そんな筈はない」と強弁して認めようとしない事すらある。

フジテレビも一回目の社長会見は自分の前姿だけを気にして行ったようだ。周りの人なら誰でも分かるその不備に全く気付かなかった。事前に外の眼を借りてチェックすべく例えば社外取締役を集めて予行演習などをすれば良かったのに。

自分の事を棚に上げて他人の欠点や短所をあげつらうのは、しかし悲しいかな人間の性であるようだ。昨今、テレビなどマスメディアの存在意義が問われている最中でもテレビはSNSの批判に忙しい。兵庫県のある県議に誹謗中傷がSNS上で集中した事を盛んに問題にしている。ファクトチェックは行われたのか、ユーチューバー達は事実がどうかより閲覧数を稼いでお金儲けだけに関心がある、等々。

あれっ?半年前はどうだったか。どのテレビ局も齋藤知事の極悪非道ぶりを連日流した。マスメディアが束になって一斉に悪評を流されるのは、恐らくSNSで騒がれる以上の精神的負担に違いない。あの時メディアはファクトチェックを行ったのか。他局の尻馬に乗って、視聴率稼ぎだけに関心が行っていたのではないか。今ワイドショーがSNSに対して行っている批判は、そのまま自分自身が反省すべき事柄なのだ。

ある女を罰せよと迫る群衆に対し、イエスは「なんぢら内、罪なき者まづ石を擲て」と言った。人を責める時は自分の背中を再度見よ、という事か。

2025年1月28日火曜日

不安

 トランプ大統領の就任式を見て、いろんな疑問が浮かんだ。

彼はアメリカ第一主義を唱え、アメリカを再び偉大な国にし、世界から尊敬される国にする、と言う。しかし普通に単純に考えるに、自分が第一だと言う謂わば利己的な人が他人から尊敬されるような事があるのだろうか。またそういう人を偉大な人と言うのだろうか。日本語の偉大という言葉と英語のグレートとはニュアンスが違うのかどうか知らないが、日本語で偉大な人、偉大な国とは他者に寛容で、損得勘定よりは徳を重んじ、正義のためなら自分の損を受け入れるような、そんな人や国だと思う。価値の外交からディールの外交へ移行するというに至っては耳を疑う。人と付き合う際に、その人の人格よりも損得勘定を優先させるというに等しいではないか。

まあ変に利口ぶって偽善的な言葉を吐くよりも、正直に自分を丸出しにしているから良いという評価もあるのかも知れない。

就任式にはIT長者達が並んだ。彼等は一体何を望んで式に列席したのだろうか。トランプに取り入って自分等のビジネスをより有利に、要するにもっと金儲けをしたいからなのか。大金持ちになった事がないので分からないが、一定以上のお金を持ったら、それ以上儲ける事より何か後世に評価されるような事をしたくなるのではないだろうか。マイクロソフトのビル・ゲイツは式にいなかったが、彼は自身の莫大な財産を病気の撲滅のために使っている。アップル創業者のスティーブ・ジョブスが存命だったら彼は列席したのだろうか。彼は金儲けより魅惑的な新製品を生み出す事に興味があり、一時追い出されたアップルに復帰する時は年俸1ドルで契約をした。

兎に角これから世界はトランプに掻きまわされる。その混乱が紛争につながらない事を切に祈る。

2025年1月21日火曜日

お上

 私が週に四回テニスを楽しんでいるコートは市の西に位置する西公園の一画にある。その入り口に市と警察による二つの看板が立っていて、市の方は「一.ゴルフは危険ですので絶対にしないで下さい。一.犬のふんは必ず持ち帰って下さい」とあり、警察の看板には「近所迷惑となるため路上駐車は厳禁です」とある。

一つにまとめる事ができなかったのは公園内と周辺道路とで管轄が違うからなのだろう。私が違和感を持ったのは警察の方の看板だ。「路上駐車は控えましょう」とでも書いてあれば格別気にも留めなかった。警察が市民に向かって「厳禁です」などと命令する権利が法的に認められるのか気になる。どうしても駐車が許せなければ、道路交通法に則り一帯を駐車禁止に指定すれば良い。そうすればこんな命令口調の看板を立てる必要もなかった。

もし誰か不埒な人が看板を無視して駐車し、それで迷惑を蒙った住民が警察に通報したら、警察はどういう対応を取るのだろう。水戸黄門の様に「この看板が目に入らぬか」と言って刑罰を加えるのかな。それは冗談として、ゴルフや犬の糞など、路上駐車より遥かに悪質性が高く禁止すべき度合いの強い事項がお願い口調なのに、この温度差は何だろう。

恐らくは市には市民から色んな苦情が沢山来ていて、その対策に日頃頭を悩ましているという事情があるのだろう。片や警察には、敢えて苦情を言いに来る市民はあまりいないから、ついつい上から目線になってしまうのではないか。

法治国家と言いながら日本人がお上の独断に寛容なのは裏返せばお上への信頼が厚い事の証拠でもある。それは中国や西洋の支配層が貪欲であったのに対して江戸時代の武士が多分に禁欲的だった事が影響しているのではと思うのだがどうだろう。

2025年1月14日火曜日

法治国家

 駅伝を見て法治国家に思いを致したのには伏線があって、年末のNHKのドキュメント・映像の世紀「戦後日本の設計者 3人の宰相」を視聴したからであった。それは吉田茂、岸信介、田中角栄の3人が戦後日本の構築に果たした役割がテーマだったが、中でも印象に残ったのが吉田茂の人を喰ったような笑い顔だった。

彼はサンフランシスコ講和条約を結んで、日本の独立を回復した立役者として紹介され、講和条約のすぐ後、日米安保条約を結んだ事を誇らし気に語る時の自慢気な笑顔だった。彼は言う、その条約は国会での審議も了解も取らずに自分の独断で結んだ条約だった、と。さらには、それがワンマンのワンマンたるゆえんでしょうな、などと尾鰭まで付けていた。

日本は第二次大戦後西欧型の民主主義国家に生まれ変わったのではなかったか。一人の独裁者が勝手に外国と条約を結ぶなんて、まるでロシアや中国のようではないか。確かに彼の判断で日本は防衛費を最小に押え、経済発展に注力する事が出来た。(しかし、国民が食うや食わずの時に、駐留米軍の家族の贅沢のために日本の国家予算が使われていた事が孫崎享「戦後史の正体」で述べられている)国民の福祉向上につながるのであれば、意思決定の過程が独裁的であっても良いではないか、というのは中国流の民主主義だ。日本人はそれを是とはしないのではなかったか。

駅伝の運営に関する意思決定も、愚考するに恐らくは警察トップの腹一つでこうした催しが可となり、その決断を下したトップは話の分かる大物だという評価を得ているのだろう。法律がどうの、決まりがどうのと、いちいちうるさい事を言うな、という声も聞こえて来そうである。それで良いのならそれで良いが、ならば中国型の民主主義を批判するのは筋が通らない。

2025年1月7日火曜日

駅伝の疑問

 友人からの便りによれば出雲地方も良く晴れ気持ちの良い元旦を迎えられたようで慶賀の至りである。この一年が皆様にとって幸せな一年になりますように願うと当時に、このコラム並びに当新聞も何卒よろしくお願いします。

さて、関東地方も天候に恵まれ箱根駅伝では好記録が続出した。優勝争いは一方的な展開になっていくらか興味が削がれたが、来年のシードを巡る争いは4校のデッドヒートとなって手に汗を握った。多くの国民がそれぞれの思いで各校の健闘に一喜一憂し楽しい正月を送っているのだから、こんな事を騒ぎ立てるのは気が引けるがしかし、放送を見てある疑問が浮かんだ。

恐らく一校に一台割り当てられていると思われる白バイの数。それは道路を埋め尽くす程で、却って邪魔ではないかと心配だ。そして交差点の角々で交通整理にあたっている警察官の数。箱根駅伝の間は神奈川県警の派出所は空っぽになっているのではないだろうかと心配になってくる。そして何より道路という公共財を一時的にせよ私的な理由で占有してしまう事。道路の通行止めや混雑で買い物に支障をきたす程度で済めば良いが、緊急車両の通行が出来なくなり、その道を通れば救われたはずの命が失われてしまったりしたら、その責任は誰が取るのだろう。

箱根駅伝の過去の映像を見ると、遮断機が下りた踏切で、その遮断機を搔い潜って走り抜ける選手が写っている。そんな違法行為を堂々と放映するのも如何かと思うが、少なくとも昔は駅伝のために一般交通を規制するまでの事はしていなかった事が分かる。信号も赤だったら選手は足止めされたのではないだろうか。

そもそも道路の占有や警官と言う公務員の私的利用に法的根拠はあるのか。日本は本当に法治国家と言えるのか、そんな疑問が浮かんだのである。