2017年12月26日火曜日

土地所有

土地の所有権を巡っては隣地とのわずかな境界で争ったり、皆が神経を尖らせている。だが土地の所有に無頓着な人がいるとしたらどう思われるだろうか。
西洋人がアメリカ大陸に渡ってそこに住み着こうとした際、一番困惑したのが原住民に土地を所有するという概念がない事だった、という話を聞いた事がある。イスラエルを旅行して改めてその話を思い出した。農耕民族にとって土地は富を生み出す源泉であり、日本では古代から三世一身法とか墾田永代私有法とか土地の所有権を規定する決め事が出来た。それは土地が肥沃であった事とも関係しているだろう。
一方で中東はグーグル・アースなどで見ても分かる通り、ごく一部に緑があるものの大部分が砂漠の荒地である。そこで彼らはたまに振る雨がもたらした緑を求めて家畜を飼いながら遊牧民として生活した。そうした人達にとっては、どこからどこまでが俺の土地だ、などという考えは思いつかないのではないか。緑があればそこへ行って羊や駱駝に餌を与える。その場所は数年前には別の人が同じ事をした場所かも知れない。そこは俺のものでもなければ彼のものでもない。
彼らの土地に対する感覚を納得するには大気の存在を思い起せばよい。空気はそれを吸っていないと生きていけない大事なものなのに、どこからどこまでの空気が自分のものだなどと思っている人がいるだろうか。空気は皆の共有財産であって、皆が均等にその恩恵に浴していればいい、そう思っているはずだ。アメリカの原住民や中東の遊牧民にとっての土地も同じだったのではないか。近代的な土地所有観は彼等にとっては悪魔のような存在だったかも知れない。
今年一年御愛読ありがとうございました。年明けは九日からお目にかかります。

皆様良いお年を。

2017年12月19日火曜日

誤訳

前回のユダヤ人墓地の話はエルサレムから次の目的地へ向かうバスの中で聞いた。エルサレムについての質問に対する返答だった。同行していた日本人ガイドが最初は「1780年以降作られた墓地だ」というのでその時にどんなエポックメイキングな事件があったのだろうかと再質問したのに対して「70年の間違いでした」と言う。どうすれば701780を間違えられるのか呆れてしまった。
今回のパック旅行は添乗員と現地ガイドの他に通訳係りとして現地に住む日本人ガイドがついた。この日本人ガイドの英語力がひどかった。しょっちゅう誤訳するし、数字は特に苦手のようだった。現地ガイドが153と言ったのを135と訳したり、岩のドームが建設されたのが618年だと訳したのは驚いた。いくらなんでもヒジュラより前のはずがない。現地ガイドに直接確認すると691年と言ったとの事。
この日本人ガイド、大学を卒業してしばらく世界各地を旅行している内にユダヤ人の優秀さに感銘し、親の反対を押し切ってイスラエルのキブツのボランティアに身を投じた。そこで知り合ったユダヤ人男性と結婚し今はもう兵役も終えた子がいるとか。女性の身ながらその勇敢な生き方には敬服する面もあるが通訳ガイドとしては疑問符を持たざるを得なかった。おそらく家庭ではヘブライ語で会話しているのだろう。現地ガイドとの間でも英語よりヘブライ語で話している事が多かった。
さて701780の間違い。後で考えると彼女の犯した最も合理的な間違いである事に気づいた。私の推理では恐らく現地ガイドは西暦70年を70AD、つまりセブンティ・エイディと言ったのだろう。それを彼女はセブンティーン・エイティと聞き間違えたのだ。彼女に歴史の知識があったら防げただろうに。

2017年12月12日火曜日

エルサレム

トランプ発言によって急にニュースの主役に躍り出たエルサレム。テレビに映し出される風景が数週間前に見たばかりのものであるのは感慨深い。
城壁の向こうに金色のドームがあってその回りを石造りの建物が囲んでいる様子は、オリーブ山からエルサレムの旧市街を望んだ風景だ。良く見ると城壁の手前には四角い石棺が沢山並んでいるのが分かる。小さな谷を挟んでオリーブ山に到る斜面にも石棺は並んでいて、これはずっと昔からのユダヤ人墓地なのだそうだ。起源を聞くと西暦七十年にエルサレムがローマ軍によって占領され、旧市街内部にユダヤ人の墓地を建設することが許されなくなってからの事だとか。以来、この地を支配する者が変わっても、墓地は荒らされる事無く存続し続けたと現地ガイドは説明した。二千年近く墓地であり続けるなんて、疑い深い私はにわかには信じられず、機会があればより詳しく調べたいと思った。
ニュースに出てくる地図にもいろいろ面白い事がある。エルサレムの旧市街は四つの地区に分かれている。といっても特別な壁などがあるわけではなく、イエスが十字架を背負って歩いたと伝えられるヴォア・ドロローサは殆どがイスラム地区にあるのだが。四つの地区についてイスラム地区、ユダヤ人地区、キリスト教地区まではテレビで報じられるが、残る一つについては特に言及される事がない。それはアルメニア地区だ。イスラエルに関する本を読むとアルメニアという言葉が良く出てくる。これについても研究課題。
イスラエル全体を表す地図も報道協定のようなものがあるのか、ゴラン高原の扱いは一律にイスラエルともパレスチナ自治区とも違う色で塗られている。日本の報道機関はイスラエルの主張を認めていないようだ。アメリカの報道はどうなのだろうか。

2017年12月5日火曜日

旅行の醍醐味

アラブ人はアラビア語を話してイスラム教を信じている、イスラエル人はヘブライ語を話してユダヤ教を信じている、そういう思い込みがあった。だが世の中そんなに単純なものではない事を今度のイスラエル旅行で知った。
そもそも今度の旅行の現地ガイドは国籍はイスラエルだが人種的にはアラブ人でヘブライ語を話すキリスト教徒だった。それを聞いた時は頭がこんがらがってしまった。前回キリスト教を信じるアラブ人が沢山いる事、ナザレの町の人口の多くがアラブ人である事を書いた。そうした事実を私なりに解釈すると以下のようになる。実際に確かめた訳ではないのであくまで私の推測という事にしておく。
第二次大戦が終わった時、彼の地には様々な人種の人が混在して住んでいた。アラブ人もいればユダヤ人もいた。そこにイスラエルという国が建国されたが、多くの人はそのまま同じ場所に住み続けた。そもそも彼等にとって「国」というものがどれだけ明確に意識されていたのか疑問がある。第一次大戦まではオスマントルコの支配下にあった。トルコが第一次大戦の敗戦で解体され、新しくイギリスを初めとする西欧諸国の支配下に入った。アラブの種族間の争いもあっただろう。そんな中で自分の「国」がどこか、という事に関する意識は極めて希薄だったのではないだろうか。だからイスラエルという国が出来たからといって、いままで通り住んでいればいいのだ、というのが多くのアラブ人の感覚だったのではないか。イスラエル建国によってアラブ人が一斉に難民となってヨルダン方面に流れ込んだような印象を持っていたがそれは教科書やマスコミによるミスリードであった可能性が高い。

これも旅行で現地を見なければ分からなかった事だ。旅行の醍醐味ここにあり。

2017年11月28日火曜日

イスラエル

一週間ほどイスラエルへ行ってきた。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教三つの聖地と言われるエルサレムがどんな所か自分の眼で見たかった。行っていろんな事に驚いた。
まず、イスラエルに入るのに直接飛行機で入るのがとても難しいらしい。私が参加したパック旅行もドーハ経由で一旦ヨルダンのアンマンに降りて、そこから陸路イスラエルに入る。イスラエルの飛行場での入国審査がどのようなものか伝聞でしか知らないが、なんでも執拗な質問攻めがあるため相当の英語能力がないと通り抜けられないらしい。だから旅行会社は空路を避け、陸路を取る。ヨルダンからイスラエルに入る際には四か所の検問を通過しなければならないが、特別ややこしい事もなく無事通過できた。
国を跨ぐ際にはヨルダン川を渡る。この川も驚きの一つだった。この川を挟んで国際紛争が繰り広げられる、知名度から言ったら世界でベストテンに入るかと思われるその川は幅が二メートルもあるだろうかという小さな川だった。平田の私の生家の近くを流れる京塚川(おそらく多くの読者はご存知ないであろう)の方が大きいくらいだ。ナイル川、ドナウ川、セーヌ川、テームズ川などの堂々たる姿に比べてそのみすぼらしさは悲しくなるほどだった。

イスラエルに入って驚いたのはアラビア文字があちらこちらに見える事だ。ナザレにある聖ガブリエル教会はマリアに受胎告知を行ったとされる大天使ガブリエルにちなんだ教会だが、門を見上げると十字架を取り囲むようにアラビア文字が書かれている。聞くところによるとキリスト教を信じるアラブ人は沢山いるとか。ナザレの町自体人口の75%がアラブ人らしい。イスラエルとアラブが争っていると単純に思い込むのはちょっと待った方がいいようだ。

2017年11月21日火曜日

関東在住

約七七万年前の年代を千葉県市原市で発見された地層から「チバニアン」と命名することが国際的に承認されたとの芽出度い話題が千葉県の今までの鬱憤を晴らしたと某新聞は書いていた。鬱憤とは言い過ぎかも知れないが、浦安は千葉県にあるのに「東京ディズニーランド」と呼ばれ、成田空港も千葉県にあるのに「新東京国際空港」と呼ばれていたのは千葉県民にとってけしからん話ではあった。
その記事を読んで、ふた月程前に「埼玉に住んでいながら東京在住とはけしからん」とのお叱りを頂いた事を思い出した。勿論それは正論で、反論する積りはないが当時の想いを改めて思い起こした。
私自身「東京在住」に左程違和感がなかったのは、出雲に帰った時友人から「いつ東京から戻ったか」とよく聞かれたりしたからだ。勿論その友人は僕の住所が埼玉であることは知っている。また出雲の飲み屋でたまたま東京から来た人に会ったりした時、友人が「実はこいつも東京から帰ったとこですよ」と私を紹介したりして、その客が「私は東京は練馬ですが貴方はどちら?」と聞いてきたのに対して「僕は東京は埼玉です」と言って笑いを取ったりする事もあったりした。
「東京から帰る」というのは移動手段を考慮するとごく自然な感じがする。羽田から飛行機に乗って帰る、新幹線の東京駅から帰る、夜行バスならバスタ新宿から帰る。こうした背景が東京から帰ったという表現を生むのではないか。そしてそれが埼玉にいながら東京在住にあまり違和感がなかった背景にあると思う。

さて、関西に眼を向けると、大阪にあるのに「関空」と言っている。それならばディズニーランドは「関東ディズニーランド」、成田空港は「関東国際空港」と呼べば丸く収まりそうだ。私の「関東在住」もまあ妥当かな。

2017年11月14日火曜日

国語辞典

皆さんは国語辞典を何冊お持ちだろうか。私は製本されたものとして広辞苑、新明解国語辞典、三省堂国語辞典、実用版現代国語辞典の四冊(他に岩波国語辞典があるはずだが)、それにカシオの電子辞書に入っている明鏡国語辞典を持っている。国語辞典なんて一冊あれば十分だろうと思われる向きもあろうが、なかなかどうしてそれぞれに面白い。
国語辞典の面白さを書いた本として「三省堂国語辞典のひみつ」がある。その著者が言うには国語辞典はラーメンのようなものだ、と。ひと言にラーメンと言っても塩味から豚骨味まで、具にも様々な工夫を凝らしたものがあって、個性豊かで多様なものがあるように、国語辞典にも同様だと言うのだ。
そもそも国語辞典とは何か。かつて節用集の頃は漢字の書き方が分かればよかった。現代の辞書は何を教えてくれるのだろうか。日本で最初の国語辞典は「言海」で作者の大槻文彦は発音・品詞・語源・語釈・出典の五つの要素を記載すべきだと考えた。これでもまだ足りないと考えた山田美妙はアクセントを加えた「日本大辞書」を刊行した。確かに英語ではアクセントがとても大事だ。それ以外でも色んな事を伝えよう、記録しようという辞書編纂者の苦労は前述の本を参照されたい。
語釈だけでも辞書の個性があって面白い。「言海」は「川」を「陸上ノ長ク凹ミタル処ニ水大ニ流ルルモノ」と説明している。傑作は新明解国語辞典の「恋愛」だろう。「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒にいたい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる(まれにかなえられて歓喜する)状態」だそうだ。ね、面白いでしょう。皆さんもいろいろ国語辞典を開いて見たらどうでしょうか。

2017年11月7日火曜日

自殺

二十年程前の事だった。会社で同僚の御子息の訃報が流れた。高校生で、詳しい事は分からないがどうも普通の死に方ではないらしいとの噂だった。同じ日の夜、高一の娘が言うには「今日、学校で三年生が自殺したのが見つかったよ」と。部活の部屋で首を吊っていたらしい。この二つの話が同じ事件だと分かった時には身の毛がよだつほど驚いた。
それまでは遠い世界の事のように思っていた身内の自殺が、急に間近にクローズアップされて迫ってきた。もし自分の子が自殺したら、そのショックに私は耐えられるだろうか。すぐにでも三途の川を渡ってあの世へ行って、閻魔大王の前に並ぶ我が子を探し出して、その胸倉をつかんで「この馬鹿野郎!どうして俺に相談してくれなかったのだ!」と往復ビンタをくらわさないと気が済まないだろう。そして骨が折れるほど抱きしめてやる。
自ら命を絶っただけでも耐えられないのに、神奈川の座間で命を奪われた八人の女性の御親族の思いは如何ばかりか、察するにあまりある。どこの馬の骨か分からないような男と話をするくらいなら、どうして自分に悩みを打ち開けてくれなかったのか。そもそも見ず知らずの男に誘われるままにノコノコとアパートにまでついて行くというのはどういう心境なのだろう。死ぬ決心とは常識では測れないものなのか。
四日も五日も経っても身元が分からないというのも不思議なものだ。死体はバラバラにされて肉を剥がれていたというが、顔の肉まで剥いだ訳ではなかろう。発見時に即、性別が発表されたのも頭部の腐敗はそれほど進んでいなかったからではないか。被害者はいずれも若い。失踪者のご家族は必死で行方を案じ、情報を求めておられるはずだ。情報化社会は犯罪には加担しても、捜査には寄与しないのだろうか。

2017年10月31日火曜日

岡目八目

だいぶ前になるが小池百合子氏の講演を聞いた事がある。確か氏が環境大臣の頃だったと思う。場所は経団連のビルで演題は環境問題関連だったと記憶する。ところが実際の中身は演題とは全く関係のないカイロ大学での思い出話を延々と話すだけで、その内容には大きな失望を感じた。
その時から私の小池氏評は地に落ちた。碌な準備もせず、約束した演題と無縁な話を長々と話す不誠実さに呆れたからだ。東京の都知事選に立候補を表明した時もまさかあんな大勝を収めるとは夢にも思わなかった。民進党の多くの議員が彼女にひれ伏すかのように集まっていくのも、何かの間違いではないかと思った。
岡目八目で言わせて貰えば、都知事選と都議選の大勝は日本人の判官贔屓がもたらしたものではないだろうか。あの選挙では、大きな権力を持つ自民党とその都連がいて、それに素手で立ち向かう健気な挑戦者という構図があった。もし小池氏がすんなり自民党の公認を得ていたならば、果たしてあの結果が出たかどうか。所謂小池人気なるものが、本人のパーソナリティに根拠があったのか、それとも判官贔屓を引き出す構図が作り出したのか。自らを強者に位置づける排除発言で後者がなくなった衆院選の結果を見れば結論は明らかに思える。
だが、パリでのガラスの天井への言及などからすると、ご本人は未だ自分のパーソナリティに自信をお持ちのようだ。ガラスの天井、確かにあるかも知れないが世界にはドイツのメルケルさんのような例もある。メルケルさんはきっと有能でかつ誠実なのだろうと想像する。
それにしても日本の針路に大きく影響しそうな次の四年間がこんな敵失で決まっていいものか。消費税は間違いなく上がる、改憲への扉も開かれる。その手順が気になってしかたないのは私だけだろうか。

2017年10月24日火曜日

節用集

同級生からある古い本を譲り受けた。お父上の遺品を整理している中で出てきたものだとの事。小ぶりな糸綴じされた和本で、厚みはあるが携帯用のものと見えた。一部水に濡れた跡があり判読できない箇所もあるが奥付を見ると明治十七年の発行だ。最初の数頁は一般教養に関する事が書いてある。例えば県と旧国の関係などで島根に因幡も伯耆も含まれていた。
大部分を占めるのは「い一」から始まる字の羅列である。「い一」には伊、以、位、意など、続く「い二」には忌、色、出、入など、「い三」は未、祝、祈など、「い四」は戒、警、禁などがそれぞれ振り仮名付きで載っており、それが最後の「す」まで続く。頁を繰るうち袋綴じの版心に「節用集」との文字を発見した。ああ、これが節用集というものなのか。
日本国語大辞典によれば節用集とは「室町中期の用字集、国語辞典。実用的な教養書、雑学集」とある。辞典といえば言葉の意味、語釈を調べるものという思い込みがあるが、それは明治に西洋文明が入ってからの事らしい。それまでは漢字でどう書くかを知るためのものだった。並び方も今の常識とは随分と違う。第一音はイロハ順で、次に音数で並べる。これを「イロハ仮名数引き」と言うらしい。「イマシメ」を漢字でどう書くか知りたい時には「い四」から探す、という訳だ。もし純粋に全てイロハ順に並んでいたら「マツリゴト」なんて字を探すのは大変だったろうと思うが、昔の人は簡単にイロハ順が頭に浮かんだのだろうか。
そういえば最近の若い人の中にはアイウエオ順で辞書を引くことが出来ない人もいるらしい。知らない言葉があればパソコンに向かってその字を打てば良いのだから「に」と「む」がどっちが先にあるのか知る必要もないのだろう。時代は変わる。

2017年10月17日火曜日

旧暦

気候が急変した。先週の水曜日は半袖でも暑いくらいだったが、週末は長袖にカーディガンをはおりたいほどだった。今日、1017日は旧暦だと828日。旧暦愛好家に言わせると衣替えは旧暦の41日と101日にやるべしとの事だが、はたして今年は1118日まで衣替えを待てるのだろうか。
旧暦にはどこかノスタルジックな憧れがあって、それに従って生活してみたい、という思いが片隅にある。だが冷静に考えてみると地球の気候に与える影響の大きさは月より太陽の方がはるかに巨大であることは自明だ。旧暦愛好家が主張する旧暦のメリットを今一度見直してみたいと思った。
日付によって月の形が分かったり、潮の干満が分かったりするのはメリットであろう。明智光秀が本能寺の変を起したのが62日の未明であったのは、秘密の行動が露見しないように月明かりのない日を選んだからであり、赤穂浪士が吉良邸に討ち入った1214日は逆に月明かりが欲しかったのだろう。
だが旧暦の方が閏月が入ることにより体感季節をより正確に表現している、というのはどうだろう。因みに今年は閏五月があった。旧暦愛好家に従えば今年は夏が長いはずだったが、今年の夏休みはむしろ寒いくらいだった。
旧暦の本を読むと必ず出てくるのが二十四節気の重要性だ。だがこれは地球と太陽の位置関係で定義されたものであり、まさに太陽暦の申し子に他ならない。例えば立春は新暦では必ず24日前後に来るが、旧暦だと12月の中頃であったり、1月初旬であったりする。二十四節気はむしろ旧暦の弊害を是正するために導入されたものなのだ。
中国では旧暦を農暦と言って今でも新聞に日付が併記されている。農業における旧暦の重要性についてご存知の方がいらしたらご教授願いたい。

2017年10月10日火曜日

リベラル

民進党がバラバラになってしまった。そもそも党名を民主党から変更したあたり(当コラム450回参照)から雲行きはおかしかったし、今回の執行部は特に善管注意義務を怠ったのではと思われるのだが、それはさておき。旧社会党系の人達が「リベラル」と呼ばれるのを見てちょっと驚いた。「リベラル」とは本来自由という事なのだから社会主義を信奉する人達とは正反対に思えたから。
時々思い出したようにテレビに顔を出す小沢一郎氏が率いる「自由党」の英語名は「リベラルパーティ」だ。小沢氏と民進党の旧社会党系の人達が同じ「リベラル」の名で呼ばれるのは皮肉にしか思えない。
辞典ではどのように説明してあるのだろうか。広辞苑を見ると「個人の自由、個性を重んずるさま。自由主義的。自由主義者」とある。旧社会党系の人はそうだろうか?小学館国語大辞典には「政治的に穏健な革新をめざす立場をとるさま。社会の規律や習慣、権威などにとらわれないさま。自由であるさま。」とある。最初の方の定義なら旧社会党系の人に当てはまりそうだ。
英語由来の言葉だから英英辞典を調べてみるとコリンズコービルドには「自分と異なる態度や意見に寛容である人、組織。政治心情が穏健で、社会の急激な変化より徐々に改善する方を好む人。政治的自由とそれを許す仕組みを好む人。(拙訳)」とある。イギリスには保守党と労働党という右左の党があって、その中間に小政党の自由党があるから右か左かはっきりしないのもやむを得ないのかも知れない。
ネットを見ていたら「リベラル系議員(ガラパゴス左派)」という表現に出くわした。「ガラパゴス」はちょっと失礼だろうと思うが、こうした「リベラル」な人達を「リベラルパーティ」の小沢氏はどういう気持ちで見ているのだろうか。

2017年10月3日火曜日

テニス文化

来年の春の選抜高校野球から延長戦に「タイブレーク制」が導入される事になったそうだ。選手の疲労の緩和や試合時間の短縮を目的として、延長十三回からは無死一・二塁の状態から始める、などが検討されているとの事。「タイブレーク制」はテニスではかなり前から採用されていて、なかなか決着がつかない場合の優れた制度だと思う。(「タイブレーク」という名前はテニスが発祥だと思っていた。サービス・ブレークの数がタイ(同数)になった場合の制度だと思っていたが、ウィキペディアによるとそうではなく『本来、議会などで賛否同数の場合、議長がどちらかに一票を投じる議長決裁を「同数均衡 (tie) を破る (break)」と表現したことから派生した言葉である』との事。)
テニスでは本来獲得ゲーム数を争うべきところをポイント数の争いに置き換えて単純化し、競技そのものの醍醐味を失わないよう配慮されているが、野球の場合、最初からランナーをおくなんて野球の本質を損なってしまうのではないか。むしろ野手の数を減らすとか塁間距離を縮める等の方が良いのではないか。
先日バレーボールの試合を見ていたらテニスで採用されている「チャレンジ制度」が取り入れられていた。審判の微妙な判定に選手から確認を求める事が出来るものだが、驚いたのはブロックのワンタッチにも「チャレンジ」がなされていた事だ。ワンタッチがあったかどうかは実際にプレーしている人には明らかな事で、ビデオで確認するまでもない。バレーの選手は自分に不利な判定に対して自己申告しないのだろうか。テニスならたとえ自分に不利な事でも審判の判定が間違っていると思った時は自ら異をとなえ、失点を認めるシーンを何度も見た。テニス愛好家の一人として誇る文化である。

2017年9月26日火曜日

生活インフラ

生活の本拠地を関東に置いて、年に何回か十日前後生まれ故郷に帰るという生活をしていると生活インフラの有難味をしみじみ感じる。電気・ガス・水道、それに最近ではインターネットが加わった。問題はこれら全てがその地でずっと住むことを前提に制度設計されており、年に数回数週間の滞在に対応するという事が全く念頭にない事だ。
ガスは長い間使わないと配管が劣化してガス漏れの恐れがあるというので諦めた。エネルギー源を電気に絞ったのだが、契約がややこしい。電力会社はオール電化の家庭に対して夜間電力を割安にしたプランを標準としているらしい。だがその契約だと基本料金が高いため普段電気を使わない人にとっては支払いが多くなってしまう。オール電化ではあっても敢えて一般の契約にしたいと個別に電力会社に申し入れていたのにも拘わらず、電力会社ではメーターの取付工事を行った業者の申告を取り入れてオール電化プランを適用してしまった。それに気付くまでの数ヶ月高い電気料金を支払わされる羽目になったが、これも年に数週間の滞在が念頭にないからだろうと諦めざるを得なかった。
インターネットに関してはスマホのテザリング機能で問題を解決したと思っていた。しかし今回の帰省ではWINDOWSが勝手に更新プログラムを走らせてパケットの月間の上限をあっと言う間に越えてしまった。マイクロソフトへの恨み骨髄!次回の帰省からはWINDOWSは使わない。
唯一水道は当局がこまめに開栓閉栓に対応してくれるのでありがたい。そういえば昭和の初めの生まれの私の母は人生で一番嬉しかったのは家に水道がついた事だったと話していた。その母が冬も冷たい水で茶碗を洗っていた事を思い出すと私も茶碗洗いに温水を使う気になれない。

2017年9月19日火曜日

OBJECT

平田にOBJECTというスタジオがある。私の同級生である浜君がやっている。六年前自らの練習用に開設し、今は地元の愛好家に貸したりしている。出雲が誇る優れたトランペット奏者熱田修二君と浜君が従兄弟だそうで、その縁で月に一回熱田君を囲んでそのスタジオで音楽を楽しむ会が催される。題して「Jazzで遊ぶ会:Jazzっていいなあ。拡げようJazz仲間」。第一部は熱田君がピアノを担当するトリオの演奏、第二部は地元の音楽愛好家が自慢の腕を披露するという趣向である。
私も去年の十一月に初めて行って、生のジャズ演奏を楽しんだ。平田という田舎でこれだけ質の高いジャズを楽しめるのは幸せな事だと思う。企画した浜君に拍手を送りたい。またここは思わぬ出会いの場ともなっている。中学の同級生と何十年ぶりに会ったり、偶々居合わせた人が高校の同級生だと分かったり。
熱田君と久しぶりの再会を果たし、ジャズピアノを教えて貰う事にした。練習の甲斐あって今年七月の集まりでは不肖私めも未熟なピアノを二曲披露させて頂いた。最初の曲はベートーベンのピアノソナタ「悲愴」。勿論初心者向けにアレンジしたものだが結構雰囲気は出ている。次はジャズの定番、聖者の行進。スローなテンポで始めて、途中アップテンポにした時、会場から唱和するように手拍子が沸き起こった時は本当に嬉しかった。
この会で演奏するためピアノの練習をそれまで毎日朝やっていたのを、夜お酒を飲んでからに変えた。アルコールが入った状態でも弾けないといけないから。
この会は毎月第三火曜日午後七時から行われる。機会があれば足を運んでみて欲しい。今日、九月十九日はまさにその集まりのある日だ。私は二回目の出演を狙っている。

2017年9月12日火曜日

少年A

神戸の児童連続殺傷事件の犯人酒鬼薔薇聖斗、少年Aに関する本を二冊読んでみた。一つは彼自身が書いて話題になった「絶歌」。もう一つは彼の両親の手記「少年A この子を生んで・・・」という本だ。
前者は奥付を見ると二〇一五年六月二十八日初版とある。もう二年も前の出版なのだ。当時週刊誌で話題になって、読んでみたいと図書館に予約を入れて順番待ちをしたが、二年経ってようやく順番が回ってきた。出版当初はこの本を出す事自体許されないという論調が多かった。公立図書館も購入を躊躇ったのであろう、私が良く行く図書館では唯一豊島区立図書館が一冊だけ用意した。千代田区立図書館も埼玉県立図書館も今も置いてない。後者の方は一九九九年四月の初版。事件から二年後の出版という事になる。
被害者遺族の感情を配慮した積りなのか流石に淳君を殺害したシーンは描かれていないが、野良猫を虐殺する情景は、読んでいて気持ちが悪くなった。この時期同じ屋根の下に住んで両親は全く変化に気が付かなかったというが、そういうものなのだろうか。
逮捕後両親が本人に初めて面会するのは警察署から少年鑑別所に移ってからだが、母親の手記によると面会して最初に少年が発した言葉が「帰れ、ブタ野郎」だったと書かれている。少年は親には会いたくないという自分の意向を無視して鑑定人や家裁関係者が仕組んだ面会にいらだって、面会の最後に「はよ帰れやブタぁ!」と叫んだと言っている。
それにしてもネット情報のいい加減さには呆れてしまう。ネットには少年Aへの誹謗中傷があふれ、彼はのうのうと生きのび、彼が執筆した「絶歌」には、結婚して女の子が生まれたという記述がある、との書き込みがあるが、そんな事は実際には書いてない。ネット情報には要注意。

2017年9月5日火曜日

変な日本語

サッカーのW杯出場を賭けた対オーストラリア戦に勝って、ハリルホジッチ監督は「ありがとう ました」と挨拶した。テニスの全米オープンで三回戦出場を決めた大坂なおみ選手は片言の日本語で勝利を振り返った。もっとちゃんと日本語を勉強しろよ、と批難する向きもあるようだが、私はどうしてなかなかたいしたもんだと思っている。
変な日本語、違和感のある日本語というのは日本語の国際化の中で避けられない現象なのだと思う。いつだったか日本女子オープンゴルフ大会で韓国人選手が優勝し、その優勝インタビューで「私はうれしいです。」と発言しているのを聞いて違和感を禁じえなかった。普通なら単に「うれしいです」であってわざわざ「私は」というのは日本語として自然な感じがしない。だいぶ前だが青森産の米「青天の霹靂」が特Aの評価を勝ち取った時、青森県の三村知事は「やりました。うれしいです。」と喜んだ。主語を言わない。これが自然な日本語と言うものだ。
国際化が進む中で変な日本語が次第に主流になっていくのは寂しくも悲しくもある一方で世界への広がりを喜ぶべきかも知れない。
例えば「あなたは日本人ですか」という表現をどう思われるだろう。専門家に言わせればそれは日本語ではない、正しく言うなら「失礼ですが日本の方ですか」であるべきだと。
スマホの翻訳アプリにVoiceTraというのがある。国立研究開発法人情報通信研究機構が研究目的で提供するもので無料で使う事ができる実によく出来たアプリだ。これで「I'm happy」とつぶやいたら「うれしいです」と主語なしで翻訳された。「Are you
Japanese」は残念ながら「あなたは日本人ですか」だったが機械にそこまでを要求するのは無理というものか。
前回のカミングアウトが思わぬ反響を呼び、社会の公器たる新聞は情報の正確性に敏感であるべしとのご批判を頂いた。熱心にお読み頂いている証左として身の引き締まる思いがした。もし不愉快な思いをされたのならお詫び申し上げ、今回より肩書き表記を改めたい。今後とも当新聞ならびに当コラムを変わらずご愛読頂く様お願い致します。

2017年8月29日火曜日

埼玉在住

これもカミングアウトというのだろうか。当コラムの左下に書かれている私の肩書きに「東京在住」とあるが、実は埼玉在住が正しい。そういう表記を私が望んだ訳ではなく、すべてを承知の編集部の考えだから、その方が何かとすわりがいいのだろう。確かに仕事も遊びも東京がメインで、埼玉は住民票があるだけの事だから別段詐称の意識もない。
こちらに引越す前は神奈川の横浜に住んでいたが、そのときも東京在住と書かれて違和感はなかっただろう。千葉に住んでいる人も恐らく同じ。だが関西はきっと違う。京都に住んで大阪に通勤している人が大阪在住と書かれる事には強い抵抗を感じるに違いない。神戸や奈良でも同じだろう。関東と関西のこの違いは歴史によるのかブランド力によるのか。
さて、その埼玉ももう住んで二十年以上になり、我が人生で最長の場所となった。その土地への思いという点では幼少の十八年を過ごした島根の方が強いのは当たり前だが、私の子供達は当然のように高校野球といえば埼玉を応援する。友人で転勤族の家庭に育ち、小学・中学時代に各地を転々とした人に高校野球はどこを応援するのか聞く事がある。それがその人の帰属意識を測る一番のバロメーターだと思うから。今年は埼玉の高校が優勝した。九十九回の歴史の中で初めての事だそうだ。かつて春日部共栄など強豪校がいたので意外な気がする。

実は先週息子と孫を連れて甲子園の準決勝を見てきた。広陵の中村選手の六号本塁打も生でこの眼で見てきた。花咲特栄の優勝はその意味でも記憶に残る事になった。地元ではスーパーで記念の安売りなどがあったらしい。優勝にはしゃぐ子供らに「一回戦でまぐれとは言え開星に勝てて勢いがついたね。」と冗談まじりに強がりと負け惜しみを言ってみた。

2017年8月22日火曜日

平等と公平

トランプ大統領の短慮な発言から人種差別が話題になっている。どう頑張っても人種差別を正当化する理屈を見つけるのは困難だろう。ところで男女平等の問題はどうだろうか。
先日ある女性活動家が男女平等を訴えるプレゼンテーションを行うのを聞いた。彼女はアメリカのある州の一定以上の規模の会社の社長を調べて、ジョンという名の社長が女性社長より多いと嘆いていた。
確かに女性の社会進出は望ましい事であるのは間違いないが、社長の数で男女平等を問うのは如何なものか。この場合、平等というより公平という言葉の方が適切のような気がする。女性であるというだけで不公平な扱いを受けてはならない。同じ仕事をしているのに女性だから給与を減らすなど言語道断。
しかし男女には生物学的な違いが厳然としてあるのだから、異なる扱いの方が公平だという事もある。テニスをはじめスポーツの殆どが男女別に争われるのはその一つ。かつて世界一だったジョン・マッケンローが「セレナは素晴らしい選手だが男性の中では七百位くらい」と発言して物議をかもした。言わずもがなの暴言だが、男女平等だから同じ土俵で争うべきだという人はいないだろう。
さて平等、公平というと明治になって西洋からやって来た概念かと思っていたが意外と古い。日本国語大辞典によると平等は十三世紀の沙石集に「平等の慈悲をおこして孝養の懇志をはげまして衆生をすくいたすくべし」という用例が、公平は室町時代の文明本節用集に「君若為事公平則百姓皆歓悦也」という用例があるらしい。君主が公平に事を為せば、民衆は皆歓ぶという事か。日本にも昔から開明的な考えがあったのだ。

そう言えば江戸時代まで銭湯では男女の入り口が別れてなかったとか。男女平等を考えての事ではなかろうが。

2017年8月15日火曜日

プロの気概

床屋に行くと必ず聞かれる。「どのように致しましょうか?」もう五十年以上同じ質問を受けているが未だにどう答えていいか分からない。皆さんはどうだろうか。息子に聞くと「ツーブロック」とか専門用語もあるようだが、ヘアスタイルの専門誌でも見ない限りそんな言葉は思いつかない。
こちらが迷っていると「耳は出しますか」とか「刈上げはしない方がいいですか」とかの質問が来るが、床屋さんはそれで全体のイメージが出来るのか不思議でならない。そんな事は例えて言えば車のスタイルを表すのに「テールランプが細長い」とか「リアウィンドウにワイパーがついている」とか抹消の事を確認しているに過ぎないと思うから。車の姿を全体的に伝えるための「スポーツカー」とか「セダンタイプ」などの言葉に相当する髪型を的確に表現する語彙を思いつかないから困るのだ。
床屋さんもプロならば素人が知らないそういう語彙を提示すべきではないか。「謹厳実直タイプにしますか、それともチョイワル親父風がいいですか」などと。出来ればこちらの頭の骨格や面長か丸顔かなどの特徴から髪型を提案してくれると「流石はプロだ」と敬服するのだが。
プロの気概を疑わせるような事が家のリニューアルでもあった。水回りの工事を担当した業者さんが仕事が終わって帰り際に「何かあったら連絡して下さい」と言う。一見親切そうな対応だが、私には疑問だった。プロなら何も問題がない事をはっきり確認してから仕事を終わるべきだと思ったのだ。何かあったら連絡しろとは、つまる所最終検査を顧客に委ねているに過ぎない。案の定細かい水漏れがあって、水はけの悪い場所で水溜りが出来てしまった。
政治家にもプロの気概を疑わせる人がいる。あれも何とかして欲しい。

2017年8月8日火曜日

文明病

脳梗塞で倒れた同期入社の友人を友達と一緒に見舞った。言葉にはまだ不自由が残るが、歩く事も摺り足でゆっくりながら出来るようになったし、食事も自分で出来るらしい。順調な回復に安心して施設を後にし、まだ日は高かったが見舞った仲間で駅前の寿司屋で懇親会とあいなった。
誰が言い出したか「動物にも脳梗塞はあるのだろうか」という話題になった。アメーバーのように元々脳と言う機関のない動物はなりようがないのだろうが、魚や蛙など脳が小さい動物は脳梗塞になる事がないように思える。そう思うと、人間の病気の多くが動物にはなくて人間だけしか罹らないのではないか。例えば糖尿病など、動物園で贅沢している動物ならいざ知らず、野性の動物は罹らないような気がする。痛風もおそらく野性のライオンやキリンなど縁がなさそうだ。
遺伝子の異常から起きる癌のような病気や、ウィルスや細菌が媒介する感染症などは野性の動物にもありそうだが、運動不足や食べすぎが原因のいわば文明病は人間特有のものに思える。
脳梗塞や糖尿病が文明病なら、なにかと怠惰になるのも文明病の一つなのだろうか。我が身を振り返って、怠惰な習慣はすぐ身につくのに勤勉な習慣はなかなか身につかない。毎日一万歩歩こうと決心しても三日坊主で終わるのに、毎晩酒を飲む習慣はすぐに身についてしまう。それどころか振り払おうと思っても離れてくれない。
野生の動物は怠惰だったら生きていけない。縁側で昼寝をしている猫だって、鼠の姿を見たとたん、人が変わったように精悍で俊敏な動きをする。怠惰ゆえに餓死する動物は人間だけではないだろうか。

人間はいつからこうなったのか。猿人は怠惰だったろうか。クロマニョン人は怠惰だったろうか。縄文人は怠惰だったろうか。

2017年8月1日火曜日

閉会中審査

ちょっと的外れかも知れないが、国会の閉会中審査を見て思ったこと。
日本維新の会の議員が「大学の獣医学部の新設を認めないのは営業の自由を保障した憲法に違反するのではないか」というような質問をした。文科大臣の答弁はいろいろ理屈をつけて法律違反ではない事を説明していたが、私もその議員の意見に同感で、ただ問題は私学助成にあると思う。
大学が新設されるとそれに対して国が助成を行わなければならないという法律があるかどうか知らないが、もし一切助成は要らない、全てオウン・リスクでやるから新設を認めてくれと言って、なおそれを許さないというのであればこれは権力の濫用と言わざるを得ない。
前川さんは一言もその事を言わないが、彼が守りたかったのは獣医師会の既得権益ではなく税金の適正な運用先であって欲しい。大学の新設を認めるとそこに沢山の税金が流れていく。だからそれが社会的に見て効用の高い使い道かどうか客観的な検討が必要で、一政治家の恣意で左右されてはならない、と。
加戸参考人は税金を使う事に殆ど抵抗がないようだ。愛媛県では県職員の給与と学校教員の給与に開きがあるから教員給与を引き上げるべしと主張しておられた。地方では民間人に比して公務員の給与が高すぎると、鹿児島県のある市では市長がそれを是正しようとして引き摺り下ろされた事がある。加戸さんのようにどっぷり公務員の世界に浸かった人は税金で高給を食むことに全く違和感がないのだろう。

国の借金はGDPの二倍にまで膨れ上がった。税金の使い方に問題がない事を祈るが、税金の甘い汁を吸っている人が沢山いる事も事実。借金のツケはいずれハイパーインフレか預金封鎖などによって国民が負担させられる事は目に見えている。

2017年7月25日火曜日

十膳山

十膳山という山をご存知だろうか。松江市と旧平田市の境にあり、その山頂から宍道湖を望む眺めは絶品だ。今なら山頂まで車で行く事が出来る。この山の素晴らしさは山頂からの景色もさることながら、その山頂までの道が一人の民間人によって拓かれた事である。
多久和幸男さん、伊那地区のコミセンを通じてお話を伺いたいと申し入れると、山頂で会いましょうと返事を頂いた。山頂は平らに整地され、十数人が歓談できるようなビニールハウスが設置されている。元々この辺りの畑を耕しに獣道を登っていたが、山頂の木を切ればさぞ眺めが良いことだろうと思いついたとの事。平成二十年から使い慣れた油圧ショベルを使って道を整備し始めた。木を切っては道を作り、油圧ショベルで山頂に到着した時の感動は忘れられないと仰っていた。一応の道は出来たものの、当初は乗用車での行き来は出来ず、トラクターで山頂への行き来をしていたとの事。少しづつ道幅を広げ、砂利を敷き固め、軽トラックでの物資の輸送が出来るようにした。
それにしてもこのような事を思いつき、しかもそれを実行し完成するとは、なんと素晴らしい精神力と実行力だろう。小学校で習った十和田湖でのヒメマスの養殖を成功させた和井内貞行を思い出した。着手当初は白い眼で見ていた人も、ゴールが見え始めると次第に賛同者に変わっていったであろう事が想像される。
宍道湖北部広域農道を平田から松江に向かって走り、一畑薬師への道を過ぎてしばらくすると左側に「十膳山」と書かれた小さな標識が見える。それを左折し道なりに「十膳山→」と書かれた指示に従って登れば山頂にたどり着く。山頂のビニールハウスに置かれた緑色のファイルに是非感想を記入されたい。それを読むのが多久和さんのこの上ない喜びだそうだ。

2017年7月18日火曜日

鞘の中の名刀

好きな映画は何か、と聞かれるといつも黒澤明の「椿三十郎」と答える事にしている。小難しい理屈がある訳でもなく、深刻に何かを考えさせられる訳でもなく、エンターテインメント性十分で痛快な話が展開されるからだ。主演の三船敏郎が演じる椿三十郎はすこぶる腕の立つ剣豪で、その能力の発揮場所を探しているかのように、いつもギラギラしている。それを見た家老の奥方(入江たか子がおっとりした世間知らずの上品な奥さんを好演している)の台詞が忘れられない。「本当に良い刀はいつも鞘の中に収まっているものですよ。」
天才中学生、藤井四段を見てその台詞を思い出した。詰将棋解答選手権チャンピオン戦では並み居るトッププロを尻目に、小学生で優勝するという切れ味を持ちながら、インタビューの様子を見ると実に穏やかでおっとりしていて、どこにでもいる中学生のようだ。話す内容はとても中学生とは思えない大人びたものだが。将棋に関する著作の多い作家、大崎善生氏も朝日新聞に次のように書いている。「藤井君に会ってみて思ったのは本当にどこにでもいるような、頭のいい中学生という雰囲気だった。羽生善治や谷川浩司をはじめとした多くの天才少年を身近で見てきた私はまずそのことに拍子抜けした。(中略)そこには羽生、谷川ら多くの天才たち特有の閃きや切りつけるような感性の刃のようなものは感じない。賢い中学生。そのままの姿である。しかししばらく話しているうちに、逆にだから凄いのだと思いついた。それこそが凄みなのだ。」
藤井四段は文章もうまい。写真週刊誌に載っていた小学校の卒業文集も、将棋雑誌に掲載された羽生三冠との将棋の自戦記も、立派なものだった。字も達筆だ。この刀が抜かれた時には一体どんな輝きを放つのだろうか。

2017年7月11日火曜日

悪い事

悪事というと何か凄く悪い事のようなイメージがあるので、ここではやわらかく悪い事と言っておく。前々回のウソも悪い事の一つで、人は出来ればウソをつきたくないのと同じで出来れば悪い事はしたくない。そもそも悪い事とは何か、という問題もなかなか難しく面白くていろいろ議論ができそうだが、それもここでは置いておこう。
豊田真由子様という方は自分の暴虐ぶりについて、事件発覚後身を隠しておられるところをみると、それが悪い事だという自覚はお持ちのようだ。
自分が悪いと思っている事を敢えてやる時には結構勇気がいるものだ。それでも悪い事をやってしまうのはどういう時か。わが身を振り返ってつらつら考えてみるに、正当防衛や緊急避難のケースを別にすると、それがばれる可能性が低くて、万が一ばれた時にもそれに伴い負担するコストが安く、かつそれによる利得が大きい場合という事になるだろうか。要するに露見の可能性とコストと利得のバランスを考慮して、という事になりそうだ。
例えば人前でオナラをするという場合、大きな音がしない事を祈りつつ、もしばれても頭を掻いて笑って誤魔化そうという思い、このお腹の違和感を何とかしたいという切羽詰った思いが交錯して断行する事になる。
真由子様の暴虐ぶりは正当防衛も緊急避難も関係ないから、彼女の頭の中でも上記の要素が葛藤したと思うのだがどうだろう。露見の可能性がないと思っていたのだろうか。露見した時のコストを読み違える程馬鹿ではないはずだ。それともあのストレス発散がそのコストを上回る利得を彼女にもたらしたのだろうか。
それでもまだ悪い事との自覚があればいい。防衛大臣はどうやら悪い事(公的立場の私的利用)をしたという自覚がないようだ。これもまた困ったものだ。

2017年7月4日火曜日

二十九連勝

藤井四段の連勝が二十九でストップした。いずれは止まる連勝、もし二十六戦目に対戦した瀬川五段が勝っていれば、その瀬川五段に私は勝った事がある(勿論二枚落ちのハンディ戦であるが)事で自慢話の一つも出来たのだが。
それにしても藤井フィーバーは凄かった。東京都議会議員の選挙速報を途中で止めて将棋の勝ち負けをテレビが報じるなんて前代未聞の出来事ではないだろうか。局後のインタビューを受ける藤井四段の目はちょっと潤んでいるように見えた。
さて将棋で二十九連勝する事はどれほど大変な事か。プロとアマの差が大きいのは将棋と相撲の世界だと言われてきた。その相撲の世界では双葉山の六十九連勝という輝かしい記録がある。それと比較して藤井四段の二十九連勝はどうか。
勝敗を決めるのは実力の差と時の運がある。その両者の比重を比べた場合、将棋の方が相撲に比べて実力の差が寄与する割合が大きいように思えるがそうでもないようだ。将棋のトップの勝率は例えば羽生三冠の場合約七割、相撲の場合白鵬で約八割五分、双葉山の横綱時代の勝率が約八割八分だ。将棋の方が勝率が低いのはそれだけ偶然の要素が入り込む余地が大きいと言えそうだ。
さて、勝率八割八分の人が六十九連勝をする確率と、勝率七割の人が二十九連勝をする確率を比較すると後者の方が五倍難しい。つまり藤井四段の二十九連勝は双葉山の六十九連勝より五倍の価値がある、と言えそうだ。
それにしても藤井四段の活躍にあやかって老醜をさらけ出しているとしか思えないような人がシャシャリ出るのには我慢ならない。藤井四段の二十九連勝を報じる新聞の片隅に大内延介九段の訃報があった。大内九段ならもっと真摯なコメントが聞けただろう。合掌。

2017年6月27日火曜日

テレビ

五百十回の当コラムでは週刊誌がネットにとって代わられそうだと思った話を書いた。テレビがネットにとって代わられる日も遠くないかも知れない。
先日加計学園問題に関連して前文科省事務次官の前川さんが記者会見をした。某民放局でその様子を見ていたが、開始から間もないこれからという時に場面が切り替わり、妻を亡くした市川海老蔵の会見に変わってしまった。あちゃー、と呆れながらチャンネルをいろいろ回してもどこの局も全て海老蔵の顔ばかり。あわててタブレットのスイッチを入れて、無料の動画配信サービスのニュースチャンネルで前川さんの会見の続きを見ることが出来た。
それにしても既存の民放各社の芸能界重視の姿勢はどうしたものだろう。誰かちょっと名の売れた芸能人が亡くなった翌日は朝のニュース番組がハイジャックされたみたいで悲しくなる。一番ひどかったのは高倉健が亡くなった時だった。ちょうどその頃出雲に帰省中で、新聞もなく朝のニュースを楽しみにしていたがどこのチャンネルも高倉健一色。それも一時間以上延々と彼にまつわる逸話を流し続けたのには本当に閉口した。(ずっと見ていた訳ではなく、一旦スイッチを切って、そろそろ普通のニュースをやっている頃だろうと思ってスイッチを入れてもまだ高倉健をやっていた、という事です。途中別の話題が挟まれていたのかどうかまでは分かりません。)
芸能ニュースに強い関心をお持ちの方もいらっしゃるだろうから、一つくらいそういう局があってもいいが、全ての局が右に倣えでは困る。前川さんの会見では既存のマスメディアに対する苦言もあった。昨今権力に阿る傾向が強いのが懸念される、と。会見の翌日の読売は勿論、朝日にもその苦言についての言及はなかった。新聞よお前もか。

2017年6月20日火曜日

ウソ

ウソをつく事を強要される時の気持ちはどんなものだろうか。森友学園や加計学園の問題を巡る官僚達の歯切れ悪い答弁を聞くとその胸中を察するにあまりある。
ウソをつくのは悪い事だと言う自覚はおそらく殆どの人が持っていて、出来ればウソはつきたくないと思っている。だが時に自分の身を守るため悪いと知りつつウソをついてしまう事がある。だが、つきたくないウソをつく時の気持ちはさぞ辛かろう。
ウソについてエジソンの話を思い出した。一九二九年に起きた世界恐慌で多くの若者が職を失い、その救済策として立ち上げたある事業への採用試験として次のような設問をしたそうだ。
1)もし百万ドルの遺産を貰ったら、あなたはそれをどのように使いますか。
2)幸福、快楽、評判、名誉、金、愛情の中で、あなたが自分の一生をかけたいと思うのはどれですか。
3)死に臨んで自分の一生を振り返ったときに、どういうことでもって、一生が成功であったか失敗であったかと判定しますか。
4)どういう場合にウソをついてもよいと思いますか。
いずれも実に面白い質問だが、ウソについては皆さんはどのようにお考えだろうか。
皆さんは過去にどのようなウソをついた事があるだろうか。それは正当化できるとお考えだろうか。まさか今まで一度もウソをついた事がない、なんて人はいないでしょうね。そんな事を言ったらそれこそウソだ。

許されるウソ、それはウソがばれた時当事者が誰も傷つかない事なのではないか。ウソを言った方も言われた方もそれぞれの立場を考えるとそれなりに納得出来るようなウソ。オー・ヘンリーの短編「最後の一葉」の泣けるウソはその典型か。少なくとも国会でついて良いウソは思い浮かばない。

2017年6月13日火曜日

禁酒禁煙

だいぶ前のことになるが新聞で気になる記事を見た。厚労省が禁煙に続いて禁酒も規制対象にしようという動きがあるというのだ。禁煙については受動喫煙を問題にして全面禁煙の賛否について論争があるようだが、禁酒については飲食店での飲み放題サービスを禁止するとかを考えているらしい。
そう言われてみると長距離バスでも気になる動きがある。最近車内での飲酒を禁止するケースが増えているのである。東京から出雲に帰省する際、関西に立ち寄って半日観光をするのを楽しみにしているのだが、東京と関西をつなぐバスは殆ど全てのバス会社が車内での禁酒を謳っている。幸い関西から出雲の便は特にそういう要請をされる事は今のところない。半日歩き回って、バスに乗る前にビールとつまみを買い込んで車内で一杯やりながらゆっくり過ごすという楽しみはまだ奪われてはいないが今後はどうか。
確かに他人の迷惑になる行為は良くない事だ。私自身煙草をやめて何十年にもなり、正直煙草の臭いは嫌いだ。缶ビールを開けた時のビールの臭いはお酒を飲まない人にはあの煙草の臭いのような嫌悪感があるのだろうか。ならば反省しないといけないが。
国が我々の健康を気遣ってくれるのは有難い話だが、あまりに強権的に上から目線で命令されると反発したくなる。なんでも平成十四年には「健康増進法」という法律が制定され、我々国民は「健康増進に努めなければならない」責務があるのだそうだ。平成二十五年には「アルコール健康障害対策基本法」が制定され国民たる者「アルコール健康障害の予防に必要な注意を払うよう努めなければならない」のだそうだ。余計なお世話だと言いたいのだが厚労省内にはアルコール健康障害対策推進室なる組織まであって相当本気らしい。

2017年6月6日火曜日

歪み

五百八回の当コラムで「気骨のある役人はいないのか」と書いたが、そういう人が出てきた。文科省の前事務次官の前川さん。テレビや新聞の情報を見る限り周りの人からの評判はなかなか良い人のように見える。官邸や内閣府の言う事を聞かないから更迭の口実に天下り問題を暴露されたのが本当のところではないか。
それにしても日々の私生活を監視下に置かれるなんて、偉くなると辛いものだなあ。確かに高官が他国のスパイなどと会っていたりしたら困るから一定の監視は必要なのだろうが。でも出会い系バーに出入りしていたことだけを捕らえて人格攻撃をするのは如何なものか。ああいう場所に出入りする人はいやらしい動機でしか行かないと決め付けるのは、そう思う側の心の卑しさを表しているに過ぎない(官房長官も私も含めて。また週刊新潮に「助平だから行ったのですと正直に言うべきだ」と書いた藤原正彦氏も含めて)。本当に前川さんが調査目的で行ったのか検証するために週刊文春は彼と会っていたという女性の証言を取っていた。彼女以外にも会っていた人はいるのだろうからそれが全てではないのだろうが。
歪みの本当の原因は行政が過度に民間事業に介入することにあると思う。世の中に獣医師が足りているかどうかは、獣医師になりたい人が判断すれば良い事だ。なりたいと思う人が多いかどうかを見て学校法人が獣医学部の創設をするかどうか判断すれば良い。それで経営が成り立つかどうかは法人の自己責任でやれば良い事で、国が規制したり助成したりするから変な利権が生まれ、歪みが生じる。
官が行うべきは法人の経営の実態を正確に監査調査し、公平公正に公表する事により法人と消費者(この場合入学を希望する学生)の間の情報の非対称性をなくすだけでいいと思うが如何。

2017年5月30日火曜日

藤井四段

将棋界の話題がこんなに大きく取り上げられるのはいつ以来だろうか。プロがコンピュータに負けた時も囲碁ほどの騒ぎではなかったように思う。話題の主、藤井四段の強さは素人の私も驚く程である。
竜王戦の本戦トーナメントへの出場を決めた六組の決勝戦は一日中生放送を見てしまった。相手の近藤誠也五段も昨年度は勝率第五位の強豪だ。そんな相手に対し、序盤の小さなミスを咎め、後はジワジワ有利を拡大して押し切った、まさに横綱相撲のような勝ち方だった。単に勝ち星を積み重ねているだけでなく、圧倒的な勝ち方こそ藤井四段が話題となる理由だ。NHK杯将棋トーナメントで戦った千田六段も昨年度勝率三位の猛者だが、局後の感想戦では藤井四段に対し上位者に伺いを立てるような口調で話していた。
こんなに勝ちまくっている藤井四段だから、プロになる前はもっと勝っていたのかと思えばそうでもない。四段になる前の三段リーグでは十三勝五敗だった。十八回の内、五回も負けていたのだった。(ちなみに十三勝の中には出雲のイナズマ我等が里見香奈三段に勝った星も含まれている)
将棋のプロの世界は若い人ほど強い。NHK杯戦を見ていても、年配の八・九段と若い四・五段が対戦すると大体が四・五段の方が勝つ。段位の高さは今の強さではなく、かつて強かったという実績を示しているのだと思う。藤井四段の三段リーグでの対戦成績は将棋界の若手の競争の激しさを物語っていると思う。

十四歳の藤井四段。十四歳と言うと石川啄木の「己が名をほのかに呼びて涙せし十四の春にかへる術なし」という歌を思い出す。藤井四段もこれから恋もし、競馬などの賭け事の誘惑にも曝されるだろう。そんな外界からの刺激に負けず将棋一筋に大名人への道を歩んで欲しいと願う。

2017年5月23日火曜日

週刊誌

大社町の竹野屋に関する情報に接した。「竹内まりや 絶対に廃業はイヤ 貫いた出雲愛」という週刊女性の記事だ。読んで、そんな事があったのかと思ったのだが、別にこの週刊誌を好んで買ったわけではない。スマホやタブレット端末を対象としたあるサイトがあって、月四百円で相当数の雑誌が読めるというのでその一ヶ月無料お試し期間にこの見出しに遭遇した次第。
四百円と言えば週刊誌が一冊買えるかどうかという値段だ。その値段で、週刊朝日、サンデー毎日、週刊文春、週刊新潮、週刊ポスト、週刊現代などは勿論、東洋経済、エコノミストからフライデーやフラッシュなどの写真週刊誌までがバックナンバーも含めて読める。全部で百八十誌以上という参加雑誌一覧を見ると八割くらいが手に取った事もないような雑誌だった。あと二週間で無料お試し期間は終わるが、当然継続したいと思っている。
情報を提供する雑誌社の思いを忖度すると、このサイトは一種の販促ツールとして考えているのではないか。どの雑誌も表紙をめくると必ず「この内容は本サービス専用コンテンツで、紙版とは一部内容が異なります。掲載されない記事、写真、ページがあります。」という断りが書いてある。ここで読んで、もっと別の内容を知りたければ本誌を買ってくださいね、というのが出版社の本音か。特に性的に過激な写真などは全て省かれている。
幸い毎週楽しみにしていたコラム記事は全て網羅されているから、これで市立図書館へ行って順番待ちをする必要も、駅前の本屋で拾い読みをする必要もなくなった。
ただ、問題はこれに費やす時間が長くなってしまう事。今まで見向きもしなかった女性週刊誌までページをめくってしまう。まあそれで女性の関心事が分かっていいとも思うのだが。

2017年5月16日火曜日

五輪経費

三年後の東京オリンピックの費用負担がいろいろ問題になっている。その件に関連してちょっと気になることがあったので書き留めておく。
島根県では放映されていないのが残念だが、関東地方では地上波デジタル放送のあるチャンネルで放送大学の講義が放映されていて、その一つに「世界の中の日本」と題する近代史の講義がある。
スターリンのソ連とナチスドイツからの強い影響下で第二次大戦前後フィンランドが取った行動や、ノルウェーがイスラエルとパレスチナの間を取り持ってオスロ合意を達成した背景などが紹介されて大変面白い。そのノルウェーで最近起きた事への言及があった。
2022年の冬のオリンピックの開催国に立候補していたノルウェーが2014年に立候補を辞退した、というのだ。ソチ五輪では六兆円の費用がかかったが、既存施設が既にあるノルウェーではその十分の一程度の費用での開催が可能では、との目論見で立候補したらしいが、思わぬ出費に断念したらしい。
その出費とは国際オリンピック委員会から出された以下の要求だった。
 ・委員一人一人に運転手付きの車を用意する事
 ・委員一人一人にただで使える携帯電話を用意する事
 ・車のために交通規制をして車が自由に走れるようにする事
 ・国王とのカクテルパーティを用意する事
 ・最高の食材の食事を用意する事
 ・ただのバーを用意する事
 ・それらの費用は全てノルウェーが負担する事
舛添さん並みのセコさで、ノルウェーがそんなアホな!と思ったのも頷ける。ノルウェーに要求された事が日本に要求されていないとは思えない。報道はされないが、日本の場合こういう費用を負担するのは国なのか都なのかはたまた組織委員会なのか。

2017年5月9日火曜日

忖度とヨイショ

今年は忖度という言葉が流行語大賞を貰いそうだ。思わぬ使われ方をして忖度にとってはいい迷惑だろう。森友学園事件の関係者を見るとむしろ「ヨイショ」という言葉の方が似つかわしい。
「ヨイショ」は俗語でまさか広辞苑が採用しているとは思わなかったが、ちゃんと載っていた。「相手の機嫌をとって、おだて上げること」で「上役にーする」という用例があった。
財務省の度を越した親切さ、国有財産を破格の条件で民間に払い下げる配慮、どれも上役の覚えを目出度くしたいがためのヨイショでしかない。様々な過程で一人も「そりゃおかしいよ」と言う気骨のある人間はいなかったのだろうか。仮に総理婦人から配慮を求められたとしても「鶏が先か卵が先か程度の事はなんとか融通を致しますが、国民の財産を預かっている身として不当な条件で払い下げるわけにはいきません」と毅然と対応すればよかった。それでもまだ上司から圧力が掛かってくるようなら、その時こそそれを公にして「こんな無理難題がまかり通っていいのか」と声を上げればいい。出世に影響はあろうが、命までとられるわけではあるまいし、その方がずっと格好いいのに。
格好良さで言うなら、政権側も変な忖度から国有財産を不当に扱った役人を国家に損害を与えた咎で処罰すれば格好良かった。もっと格好良いのは大国に対して自説を堂々と述べることだろう。

安倍首相はアメリカにヨイショしてトランプ大統領にベッタリだ。朝鮮半島有事の際に一番影響を受けるのは我が国なのだからあらゆる選択肢と言ってもまず第一に平和的解決を望むとどうして言えないのか。フィリピンのドテルテ大統領だって言ってる事だ。憲法が国際紛争の解決に武力の行使を禁んじている事をまさか忘れたわけではあるまいが。

2017年5月2日火曜日

展覧会行脚

来る五月三日が新憲法の施行から七十年の節目となる事を記念して、国立公文書館では「誕生日本国憲法」と題して当時の資料を展示する特別展が開かれている。幣原内閣が憲法問題調査委員会を設置してから、GHQとのやり取り、国会審議を経て発布、施行、広報に至る様々な資料が展示されていて面白かった。
中でも白洲次郎がホイットニーに送った書簡に目が止まった。日本側の試案が中途半端な事に業を煮やしたGHQに対して、白洲が日本側の事情を説明するために送ったものらしい。日付は1946215日。21日に毎日新聞が「政府試案」をスクープして報道し、それを見たマッカーサーがそれでは駄目だとGHQ民政局に三原則を示し、それを基に民政局が作成した憲法草案が13日に日本側に手交される。それを受けての書簡だが、白洲は手紙の下に凸凹の山を十個程描き「貴方達は飛行機で一足飛びに目的地に行けるかも知れないが、日本はジープで地道に行くしかないんだ」という様な絵を描いている。私が興味を持ったのは山を飛び越えて引かれた矢印に「your way」とあるのは良いとしても、山の下をくねくねしている矢印に「their way」と記されていた事だ。白洲にとって日本政府は「our」ではなかったのだろうか。
公文書館を出ると隣に国立近代美術館がある。そこでは楽茶碗の展覧会をやっていた。初代長次郎から始まって十五代吉左衛門、十六代篤人に至るまでの作品が展示してある。吉左衛門も良いかも知れないがやっぱり楽茶碗は寡黙さが魅力だよなあ、などと思いながら常設展示場へ行くと藤田嗣治の戦争画があった。アッツ島の玉砕や、サイパン陥落の様子を描いたもの。陸軍の要請で描いたとの事だが、私には反戦の絵にしか見えなかった。

2017年4月25日火曜日

右翼と左翼

フランス大統領選挙、この稿が紙面に載る頃には結果が判明しているだろう。決選投票に進む二人は誰か。まさか一回の投票で決着することはなかろうが。
極右政党のルペン氏のリードが伝えられる中、終盤になって極左のメランション氏が支持を伸ばしていると伝えられた。極右と極左、本来なら正反対の立場を取るはずの二つの政党がどちらも同じくEUからの離脱を訴えているというところが面白い。ただ、双方の主張を聞くと如何にも右翼と左翼の特徴を良く表している。
右翼と左翼を保守と革新に置き換えて、あい反するものと考えると本質が捉えられないように思う。三五六回の当コラムにも書いたが、右翼と左翼は対立する概念ではなく、世の中の見方や、自分と世の中の関係の捉え方が違うのだと考えた方が良く理解できる。
右翼というのは世の中を縦に切り、身内と部外者の違いを明確にする。トランプ大統領のアメリカ・ファーストなどは右翼的な考え方だし、戦前の日本が自身を神の国だとして他国に対する優位性を主張したのは右翼の典型的な姿と言える。
一方の左翼は世の中を横に切り、恵まれた者とそうでない者に分け、恵まれない者の権利を主張する。共産主義が資本家に対する労働者階級の権利の主張から生まれたのがまさにそれだ。第二次大戦前、持てる国に対して持たざる国との認識の元で日独が連携したのはある意味左翼的な立場だったと思う。ナチスの正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」だが、右翼だか左翼だかよく分からない名前ではある。
さて、今回のフランス大統領選、極右のルペン氏は「フランスには国境が必要だ」と訴え、極左のメランション氏はEUによってフランスの産業が競争力を失ったとして格差是正を訴える。まさに右翼と左翼の主張なのである。

2017年4月18日火曜日

地政学

最近株の世界は「地政学リスク」で持ちきりだ。アメリカがシリアを空爆したことにより、朝鮮半島がにわかにきな臭くなり、そのリスクを受けて日経平均は六日連続して下げた。日本の相場が朝鮮半島の影響を受けるのを「地政学リスク」というのは分かるが、地球の裏側のシリアやアフガニスタンの騒動でアメリカのダウが下げるのも地政学と言うのはいかがなものか。
地政学を辞書で引くと「政治現象と地理的条件との関係を研究する学問」とある。シリアの混迷の影響を受けてトルコが強権的政治へ移行しようとするのはまさに地政学と言えるかも知れないが、アメリカとシリアの関係を地政学とはどういうことか。
トランプ大統領の選挙中の公約の中で唯一「もはやアメリカは世界の警察ではない」という言葉には期待した。アメリカだけが偉そうな顔をして世界の平和を口実に他国の内政に干渉するのはかえって世界の平和のためにならないように思っていたから。イラクが一番良い例でサダム・フセインの独裁政治は、シーア派とスンニ派の対立やクルド人問題など複雑な国内情勢をまとめる一つの解決策としてイラク人自身が選んだものだったのだからそれに干渉すべきでなかった。イラクがクエートから撤退した時点でアメリカは手を引くべきだった。
もっと言えばイラクとクエートの国境線、いや中東の国境線そのものが西欧の都合で引かれたものだとすると、国境線の変更も民族自決にゆだねるべきではないかとすら思う。
アメリカではシリア攻撃よりも国内問題を優先すべきだと主張したバノン氏が更迭された。トランプ大統領はつまるところ確たる信念があるわけでなく、取り巻きの主張を右顧左眄しているだけなのかも知れない。これは地球全体の地政学いや政治リスクなのだろうか。

2017年4月11日火曜日

二つのニュース

二つのニュースがあって、それらはそれぞれ独立した別個の話題なのだけど中に共通したテーマがあって、それが不思議なことに全く別の価値観で語られている、という事がたまにある。
例えばその一つが盛り土に関する話。東京の豊洲市場のゴタゴタでは土壌汚染対策としてなされた盛り土の上に建物を建てる事の構造的安全性が話題になった。ところが東日本大震災で津波の被害を受けた地域で行われている10mを越える高さの盛り土について、その上に家屋を建てる事に関して安全性を問う記事を見たことがない。支持地盤まで杭を打つ構造物に疑問を投げかけ、恐らく盛り土の上に基礎を置くだけの家屋を疑問視しないのは何故か。
もう一つは自動車の運転に関する話。先日も「免許返納でお得」という見出しで、高齢者に運転免許を自主返納する事を勧める記事があった。最近高齢ドライバーの運転ミスによる事故が増えての事で、免許を返納する代わりに運転経歴証明書を貰い、それを身分証明書にしたり、それを提示する事で商店街での買い物で割引を受けたりできるという。葬儀の際の祭壇料を15%引きにするという例もあるそうでなんだか悪い冗談に思えた。
子供は離れて暮らし、配偶者にも先立たれたりして一人暮らしとなれば買い物など車は必須になるだろうに、その人等に免許を返納しろとはあまりに酷な要求ではないか。
一方で最新技術の話題としてAIによる自動運転の記事も良く見かける。だがこれらはタクシーや物流トラックへの応用の話はでるが、高齢者を支援するためのものとして語られることを今まで見たことがない。自動運転の恩恵を一番に受けるべきは高齢者であると思うのに。
私が後期高齢者になる頃には免許を手放さなくても良い世の中になっていて欲しいものだ。

2017年4月4日火曜日

すかんぽ

「すかんぽ」という植物をご存知だろうか。俳句歳時記を開くと春の季語として酸模(すいば)の名で載っており、また別名を「イタドリ、イタンポ、ドングイ、スッポン、ゴンパチ、エッタン」などとも言うそうだからそちらの名前でご存知の方もいるかも知れない。
タデ科の多年草で春に川の土手に新芽を出すそうだ。生でも食べられ酸味があるというが、春、酸味、川の土手、いかにも田舎の風景に似合う風情が作者に悲恋を想像させたのだろう。「すかんぽの唄」(星野哲郎作詞 米山正夫作曲)という唄がある。
 ちぎるとスポンと音がして
 青い匂いが手に残る
 すかんぽ摘めばおもいで帰る
 胸の痛みに気がついた
 あれは俺らのあれは俺らの十九の春さ
もっと幼く純真なものでは北原白秋作詞・ 山田耕筰作曲の「すかんぽの咲く頃」がある。
 土手のすかんぽ ジャワ更紗
 昼は蛍がねんねする
 僕ら小学尋常科 今朝も通ってまたもどる
 すかんぽ すかんぽ 川のふち
 夏が来た来た ドレミファソ
唐突にジャワ更紗が出てくるが、白秋の頭の中では土手に並んだすかんぽがジャワ更紗の縞模様を思い出させたのだろう。そのジャワ更紗の展示が今出雲文化伝承館で行われている。深みのある茶色をベースにしたデザインは、高貴さや昔懐かしさを感じさせる。懐かしさも白秋がすかんぽとジャワ更紗を連想したポイントの一つだったか。

開催は夏も間近な五月十四日まで。期間中様々なイベントも計画されている。土手ですかんぽを摘んで、ジャワ更紗を鑑賞し、白秋の追体験をしてみては如何だろうか。

2017年3月28日火曜日

説明責任

国会中継を録画してまで見たいと思った事は今までなかった。森友学園問題での国会の証人喚問がそれだ。生放送されることが分かっていれば東京都の百条委員会も録画したかった。
普通は「説明責任を果たせ」と言われるが、私にすれば「説明する権利を行使すべし」が正しいと思う。何か不祥事が発生し自分が疑われる立場になったとする。自らの身の潔白を明らかにしたいのなら、それを証明する場を与えられることは願ってもないことだ。過去冤罪に泣いた人達は言いたいことを言う場もなく、マスコミに駆け込んでも取り上げて貰えず、切歯扼腕するしかなかった。だから参考人招致や証人喚問に呼ばれることは又とないチャンスだと本来なら思うべきなのだ。
ただし、ここで大事なことは当人が本当に潔白なのかどうかである。なにか身にやましいところがあるから、黒に近い灰色を白く見せるためにあれこれ足掻く事になってしまう。その足掻きが「説明責任」という言葉の本質なのだ。「説明責任」とは黒いものを白く見せてみろ、という事に他ならない。それを「果たせ」とは、足掻き方が上手だったら無罪放免にしてやるとでも言うのか。
黒いものを白く見せるための手段に「居直り」がある事を百条委員会で知った。国語辞典には「追い詰められて急に威圧的な態度に変わる」と説明があるがまさにそれが出た。副知事としての責任を問われて「何が責任ですか。あの時は話をまとめたと賞賛されたんですよ」と急に威圧的になったり、知事としての確認義務を怠った事を指摘されて「だからどうだと言うんですか」と怒鳴ったり、広辞苑に載っている「答えに詰まって居直る」という用例そのままだった。ニュースを見ている限りすぐさま二の矢が放てなかったようなのは質問者も情けないものだ。

2017年3月21日火曜日

教育勅語

教育勅語が話題になっている。そもそもこの勅(みことのり)は明治初期の学校教育にあり方を正すべく考えられたものだとか。当時文明開化の風潮により洋学が重んじられ、個人の「立身治産昌業」のための知識・技術習得が重視されたが、それを修正し道徳心の育成も重視するようにとの思いで作られたものだそうだ。
自分で数えたわけではないが六文三百十五文字からなる中で、その最も肝となるのは三番目の文で十二の徳を述べたところだろう。
1)               孝行:父母ニ孝ニ
2)               友愛:兄弟ニ友ニ
3)               夫婦の和:夫婦相和シ
4)               朋友の信:朋友相信シ
5)               謙遜:恭儉己レヲ持シ
6)               博愛:博愛衆ニ及ホシ
7)               修学習業:學ヲ修メ業ヲ習ヒ
8)               知能啓発:智能ヲ啓發シ
9)               徳器成就:德器ヲ成就シ
10)        公益世務:進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ
11)        遵法:常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ
12)        義勇:一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ
お仕舞の方に近づくにつれ次第にきな臭くなるが、最後に最終目的として「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼」しなさい、と書かれている。それがこの勅語に反対する人の論拠なんだろう。それ以外は実にもっともな事だと思う。
それにしても今回の森友学園騒動の登場人物達はこの勅語の精神を体得しているのか。特に四番目の「朋友相信シ」はどうか。もう一度子供に戻って塚本幼稚園で教育勅語を学習したらどうだろうか。

2017年3月14日火曜日

石原さん

五百回目の節目をこんな人の話題で汚したくはなかったが、ちょうど時期なので。
築地市場の豊洲移転問題に関する記者会見はあれならやらない方が良かったと思える内容だった。自身を侍に例えた石原氏だったがあれじゃ侍が怒るだろう。侍を侍たらしめているのは責任感と当事者意識だと思う。たとえ部下がやったことでもその責任は上司が取る、それが侍というものだ。ましてや自分の判子が押してある。当該土地が汚染されていることが分かっていて、その処理が問題の焦点なのに、瑕疵担保責任の所在を確認しない責任者があるのだろうか。部下が中心となって交渉を進めるのはいいが、いざ契約となれば「汚染処理の責任はどうなっているんだ」と確認するのが当然だろう。それを怠ったのならあまりに当事者意識が欠如していたと言わざるを得ない。そもそも万事に威張り散らしていた人だから、彼の意向を無視した契約がなされた筈もないと思うが。
石原さんに関する一番古い記憶は昭和四十三年の参議院議員選挙の全国区で彼がトップ当選した時のものだ。選挙後タレント議員がテーマとなったテレビ番組で「タレント議員と言っても凡庸な人に作家やシナリオ・ライターが出来るわけないですよね」と秋波を送った青島幸男に「さあ、どうですか。大企業から全面的な支援を受け(当時資生堂が石原氏の応援をしていたと言われた)、それでも足りずに弟の応援まで借りて当選した人に何ができるんですかね」と一蹴されて青ざめた石原さんがいた。

最近彼が書いた「天才」は田中角栄の人生を一人称で書いた小説だが、角さんと石原さんではモノが違う。角さんの心の奥を石原さんに分かる筈がない。冥土でこの本を読んだ角さんが「俺はそんな小物じゃないよ」と憤慨する様子が眼に浮かぶ。

2017年3月7日火曜日

ZEH

スマートエネルギー展というのがあってVIPとしての招待状が送られてきたので行ってきた。尤も入場手続きを待つ列は一般の人よりVIPの方が長かった。VIPの三文字の意味も変遷しているのだろうか。
会場に入ると三文字英語が溢れていた。その一つがZEH。何と読むのだろうと頭をひねっていたら「ゼッチ」だそうだ。三文字英語にも重箱読みや湯桶読みがあるらしい。意味は「ゼロ・エネルギー・ハウス」、太陽光発電などで自ら発電しつつ、断熱材を使ったり様々な工夫を凝らして消費エネルギーを最小にして、外部から購入するエネルギーをゼロにした住宅の事。それと認定された住宅には補助金が出るとの事で、その計画や手続きに関するセミナもあった。
会場で一番目に付いた三文字英語はFITだった。一瞬自動車の名前かと思ったがそうではない。「フィードイン・タリフ・プログラム」の略で固定価格買取制度の事だ。自然エネルギーの普及を目指して太陽光や風力で発電した電力を一定の価格で買い取る制度、それが改定されて「改正FIT法」の文字があちこちのブースで見られた。
懐かしいものではCCS。十年程前にこれに関するプロジェクトに関与した経験があるので、ある重工メーカーのブースでこの文字を見つけた時は思わず「おお、マメなったかね」とつぶやきが漏れた。地球温暖化の原因となる炭酸ガスを減らすため、それを集めて凝縮して地中深くの帯水層へ封じ込めてしまおうと言う技術で「カーボンダイオキサイド・キャプチャー・アンド・ストーレージ」の略である。
三文字英語は三文字漢字で表現すべきだとの主義からするとCCSは炭貯留、FITは固価買とでもなるか。エネルギーを漢字にしたとき「能」という字が当てられる事からするとZEHは「無能家」になってしまうのだが

2017年2月28日火曜日

57歳

皇太子殿下が57歳になられた。57歳と言えば私はもう会社を辞めていた年齢だ。残り何年の人生があるか分からないが、自分のやりたい事に時間を割きたいと思って会社を辞めたのだった。その頃の心境は当コラムでも26回「会社と社会」、27回「上司と市場」、28回「アンパンマンとサラリーマン」などに書いた。だがその年齢で皇太子殿下はこれからいよいよ本格的なお仕事をなさるというわけだ。天皇陛下に対しては「(退位後は)ご自分のためにお使いになる時間をもう少しお取りになれるとよい」との事だが、御自分自身についてはどのようにお考えなのだろうか。皇室という立場だとやりたい事と言ってもやれる事は限られるのだろう。ハチャメチャな事は出来るはずもないし。
ハチャメチャをやった天皇という事では25代武烈天皇と72代白河天皇を思いつく。武烈天皇の方は次の継体天皇の正統性を際立たせるための虚構の可能性が強い(そうとでも思わなければ納得できないほどひどい事が日本書紀には書いてある)が、白河天皇は賀茂川の水や賽の目すらも自分の思う通りにしたかったみたいだから、やりたいことは何でもやった人なのだろう。中でも孫の嫁に手を出して子を作るなどはなかなか出来ることではない。その崇徳天皇が生まれた時、白河天皇は六五、六歳、相手の待賢門院は一七、八歳。(生まれた年から満年齢を推算した。)
我々庶民はというと、プレミアムフライデーで早めの退社をして何をしたいのか問われて、一番多かったのが「自宅でゴロゴロしたい」だったそうだ。不敬な想像かも知れないが、皇室の皆様もひょっとしたら各お住まいで家族水入らずで誰の監視もなく無目的な時間を過ごしたい、そんなお気持ちではないのだろうか。

2017年2月21日火曜日

三文字英語

STAP細胞で世間を騒がせた小保方さんに関するNHKの報道が行き過ぎであったとの判断が下された。その判断をした団体の名はBPO。放送に関する事柄だから最初のBが「ブロードキャスト」であろうとの推測は出来るが、あとのPが分からない。記事を読むと正式名称は「放送倫理・番組向上機構」だそうだ。Pは番組を意味する「プログラム」らしい。
アルファベット三文字の言葉、良く見るが栄枯盛衰も激しい。最近トランプ政権が大幅減税と大規模公共事業を両立させるため民間の投資会社を設立してその資金で公共投資をしようという話があって、それに日本の外為特会や年金資金を使うような噂が出た。その是非はおいといて、民間の力を公共投資に利用する事をかつてPFIと言っていた事があったが、それは死語になったらしく今回はその言葉が聞かれなかった。
トランプラリーで米国の株式市場は連日最高値を更新しているが、相場を牽引するIT産業、かつてはIBMという巨人がいたが、最近それもめっきり顔を出さない。もう三十年も前になるがIBMを倒すのはDECであろうと言われた。メインフレームが中心だったコンピュータがワークステーションに主軸が移ると思われた頃だ。実際はSUNがワークステーションの主流になり、いまやDECSUNも身売りしてその影はない。
IT業界ではかつて経営革新を促進するとしてERPというソフトがもてはやされた。その主流がドイツの会社SAPだった。その会社は「サップ」と読まれる事を嫌い、理由を聞くと「だってIBMを『イブム』とは言わないでしょう」との事だった。
さて件のBPOだがWHOWTOなどの国際機関でもないらしいから日本の団体らしく「放倫審」とでも呼んだ方がいい。分かり易いし、その方が長続きしそうだ。