2016年12月27日火曜日

今年の一番

今年も残りあとわずか。例によって今年の一番を振り返ってみる。
読んだ本の中で一番面白かったのは456回で紹介した『量子力学で生命の謎を解く』。矢張りこれを越える本には出会えなかった。次点のものを二点あげるとすれば竹村公太郎著『日本史の謎は地形で解ける』と吉本佳生著『暗号が通貨になる「ビットコイン」のからくり』を挙げる。
前者の著者は土木技術者で全国のダム工事や橋梁工事の経験を基に地形から歴史の謎解きをする。例えば半蔵門こそが江戸城の正面の門であったのは何故か、など。後者は話題のビットコインについて理解したくて読んだのだが、RSA暗号の仕組みは理解できたものの、ビットコインそのものについては今ひとつ完全理解には至らなかった。いわく『ビットコインとは「コンピュータ上に記録されたデータを暗号化し、その「一意性」を保証することで通貨になりうる属性をもたせたデータ」である。』と。
映画で面白かったのは『シン・ゴジラ』。アタフタする官僚機構を嘲笑ったコメディとして楽しめた。もう一度見たい映画といえば八年前のものになるがウッディ・アレン監督の『それでも恋するバルセロナ』かな。堅実な常識人のベッキーと、奔放に自由を求めるクリスティーナの二人の女性の恋の物語。真似をしたくても出来ないのが残念だがスペイン人男性の女性の口説き方はなかなか見事。ペネロペ・クルスの存在感が圧倒的だった。
しかし何と言っても今年の一番は何人かの同窓生と思わぬ再会が出来たこと。このコラムの縁で互いがテニスを趣味にしている事が分かったり、飲み屋でばったり会って互いに囲碁が好きな事が分かったり、家の移転で帰省の機会が多かったのも幸いしたが旧交が蘇ったのは今年のダントツの一番だった。

2016年12月20日火曜日

嘉納治五郎

日露の首脳会談、成功だったと言えるのか言えないのか。二島でも返還の兆しが見えたなら成功だと言うのなら今回は残念ながら失敗というしかない。
しかしそもそも北方領土の問題に関し、日本側はもっとやる事があるのではないか。返してもらうためにはこちらとしてもそれなりの努力や工夫をする必要があろう。無人島ならともかく現に住んでいる人がいる以上、その人達をどうするのか現実的対策を用意しなければ事態が前に進まない。今の住まいを保証するのか、日本国内に別に住む場所を提供するのか。また米国に向けて北方領土には米軍を配備しないという特約を取るとか、そうした努力が水面下で行われているのかどうか知らないが、報道を見る限りでは今の日本の姿勢は棚を見上げて「ぼた餅よ落ちてくれ」と願っているような感じに見える。
さてプーチン大統領が尊敬する日本人は誰かと問われて「もちろん嘉納治五郎だ」と答えたらしい。柔道を得意とする人らしい答えだが、その名前を聞いてかつて「嘉納杯」という柔道の大会があったはずだと思った。それに優勝する事が柔道家にとって最高の栄誉であったはずだがそれは今どうなったのだろうか。
例えばテニス選手にウィンブルドンで優勝する事とオリンピックで金メダルを取る事とどちらを望むかと問えば、多くの選手が前者を選ぶだろう。歴史と伝統を背景とした権威を守ってきた結果だ。片方で柔道では嘉納杯は忘れられ今やオリンピックで金メダルを取る事が柔道家の最大の夢であるかのような状況になっている。

嘉納治五郎は柔道の国際化に腐心したと伝えられるが、このような状況は彼の望む所だったのか。嘉納杯をオープン化し全世界の柔道選手が嘉納杯を目指して精進する姿こそあるべき姿だったのではないだろうか。

2016年12月13日火曜日

誰が使うんだろう

年の瀬も押し詰まってきた。例年の事ながら本屋や文房具には来年の手帳が並んでいる。買う気もないのに何となく手にとって、新しい工夫でもあればと思ってぱらぱらめくってみるが相も変わらぬ製品ばかり。かく言う私はオリジナルの書式のものをパソコンで手作りして使っている。
それにしても既製品の手帳は必ず巻末に住所録が附録としてついているが、あれは一体誰がつかうんだろうか。手帳の一部として折り込まず、別冊になっているのは邪魔にならないよう買ってすぐ捨ててくださいという意味でもあるまいが。携帯電話の普及もあるし、いまどき手書きの住所録を使っている人は百人に一人も、いや千人に一人もいないではないか。その辺の事情は編集会議では取り上げられないのだろうか。
そんな事を思いながら近くの公立図書館へ行って見たら雑誌の書棚にJRの時刻表が置いてあった。これは一体誰が使うのだろう。かつて時刻表を「読む」事を趣味にしている人物を主人公にした推理小説があったが、そのような人が実際に存在するのだろうか。少なくともどこかへ出かける際に電車の時刻や乗り継ぎの具合を調べるにはネットの検索が一番便利だ。そこに本としての時刻表の出る幕はないように思えるのだが。
昨今の技術革新で生活の様式が大きく変わったが、中でも一番変化の大きい分野が情報に関する分野ではないか。百科事典は軒並み廃刊に追いやられた。電子書籍の出現で出版も苦しい状況に追いやられている。そんな中で健闘している手帳や時刻表には敬意を表するべきなのかも知れない。

そう言えば先日ホームセンターで炭団(タドン)が売られているのを見た。炬燵の恩恵に浴さない掌を温める手段として火鉢が復活しているなら嬉しい事だ。

2016年12月6日火曜日

政策とテニス

選挙期間中のトランプ氏の発言はまさに言いたい放題だった。誰だって時には思う存分言いたい事を言ってみたい。それをしないのはそんな事をしたら品位を疑われてしまうからだ。本能そのままに欲望をあからさまにしないことで人間の文化が成り立っている。
テニスをしていて同じ事を感じる時がある。思い切り力任せにボールを叩いてみたいが打ったボールは相手コートに入れないと自分の失点になるからそれが出来ない。コートの大きさの制約は言わば自制と実現可能性の制約だ。
テニスにはもう一つ条件がある。それはボールがネットを越さねばならないという制約だ。ネットの高さは十分な魅力があるかどうかの指標に例えられる。共和党の予備選の時から他の候補はテニスで言えばネットを越えないボールを打っていたようなものだったかも知れない。既存の観念に縛られて思い切った球を打てず、ボールがネットを越えなかったのだ。
ネットを越える程度に強く打たないといけないが、相手コートをオーバーする程強すぎてはいけない。政策も同じで十分に魅力的でありながらかつ実現可能なものでなければならない。
選挙期間中タブーを破ることで喝采を浴びたトランプ氏も選挙に勝利した後は発言が穏健なものに変わった。マスコミは「トランプ氏は衝撃度の強い政策を打ち出すことで支持者を熱狂させ、マスコミの耳目を集める戦略をとったが、今後は実現可能性を踏まえ、現実路線に軌道修正する事例が増えそうだ。」と言う。
トランプ氏の打った球はどうなるだろうか。強烈なトップスピンがかかって相手コートにすとんと落ちるのだろうか。それともネットの手前で失速してネットに掛け民衆の失望を買う事になるのだろうか。

2016年11月29日火曜日

温暖化

急な寒波で東京では初雪が降ったらしい。11月の初雪は54年ぶり、11月の積雪は1875年(明治8年)に気象観測が始まって初めての事だと言う。それを聞いて地球の温暖化の話は本当なのだろうかと思った。寒いから温暖化はないだろうという単純なものではない。温暖化の根拠として出されるデータについての疑念である。
先日もテレビの解説で示されていたが世界の平均気温の変化を表すグラフがある。1850年あたりを起点に徐々に気温が上昇し、特に近年のそれが急である。ホッケーのスティックのような形状から「ホッケースティック曲線」と呼ばれているそうだが、これは本当なのだろうか。
そもそも世界の平均気温って何だ。世界各地の中から代表的な場所を選んでその地の年間平均気温を割り出し、それを全地点でさらに平均したものと考えるのが自然だろう。しかし代表的な場所としてどこを選ぶのかは多分に恣意的な要素が含まれる。暑い場所寒い場所をバランス良く選んで地球全体の状態を正確に代表させることなど本当に出来るのだろうか。
仮にそれが出来たとして、1850年からのデータが集まるのだろうか。一応は先進国である日本だって気象観測が始まったのは1875年からで、それ以前のデータはないはずだ。ましてやアフリカ諸国などどうやって100年以上も前のデータが集められるのだろう。それともアフリカやアマゾン流域など比較的暑い場所は最近になって平均値計算に組み入れられてそれが全体を押し上げていたりしないか。まさかそんな馬鹿な事はないだろうが。
IPCCの学者達が樹木の年輪や植物の生育状態などの傍証から推理た値を用いているのだろうが、誤差も考慮すると眉唾に思えてしまう。こんな事を言うとトランプ氏みたいになってしまうのだが。

2016年11月22日火曜日

韓国大統領

韓国からは連日のように大規模デモの様子が報じられている。何万もの群衆が集まったその状況から判断すると、場所はおそらく景福宮から市庁へつながる世宗路の光化門広場。だとすると群衆を見下ろす大きな立像は李舜臣のものだと思われる。
李舜臣は秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮では壬辰倭乱・丁酉再乱)の際に大活躍した武人である。海軍を率いて敵を破り、国を救ったという意味では日本の東郷平八郎にも匹敵する人だと言っていい。だがこの人、壬辰倭乱の際にあげた功績にも拘わらず、丁酉再乱では白衣を着て軍を指揮する羽目になった。白衣は朝鮮では罪人の着るもの。最近では全斗煥・盧泰愚両元大統領が白衣を着て神妙な姿で写っている写真をご覧になった方もいるだろう。ウィキペディアによると李舜臣は壬辰倭乱の後、かつて上司であったが李舜臣の部下になったことを恨んだ元均らの讒言により更迭され一旦は死罪の宣告を受けたらしい。
救国の英雄ですらこの有り様だ。大統領が退任後いつも罪に問われるのも不思議ではないのかも知れない。「投獄しろ」「牢屋につなげ」といった激しい言葉も、北朝鮮がアメリカ帝国主義を批難する時に発する過激な言葉に似て、何か物悲しい気持ちになる。いやしくも一国の大統領である、いくらかの遠慮や敬意はないのだろうか。
韓国の初代大統領は李承晩だった。日本支配下において地下で抗日独立運動を指導した呂運亨や金九が本来選ばれるべきだったが、アメリカの強い意向でキリスト教徒である李承晩が選ばれたとか。李承晩は四捨五入改憲などで大統領権限の拡大に走る。
大統領の親族や友人による権力濫用が大統領権限の強大さに起因しているとすると、これもまた皮肉な運命と言わざるを得ない。

2016年11月15日火曜日

泡沫候補

米大統領選挙はトランプ氏の圧勝に終わった。獲得票数はともかく接戦州のほとんど全てで勝利した結果は圧勝と言っていいだろう。当初共和党大会すら勝ち抜けないだろうと見られた泡沫候補の勝利はただただ驚きの一言に尽きる。
クリントン氏ともトランプ氏とも直接会ったことのない我々はマスコミを通じてしか彼らの実像を知ることが出来ない。マスコミは不偏公平な報道をしているのだろうか。例えばフィリピンのドゥテルテ大統領。彼のオバマ大統領に対する発言が日本語の字幕で「地獄に落ちろ」と紹介されている。だが実際の発言を聞くと「You can go to hell」であって、客観的に訳せば「地獄に落ちたっていいんだよ」という程度の感じではないか。地獄という言葉自体不謹慎だが、日本語の字幕は必要以上に意識的にドゥテルテ大統領への敵意をかきたてようとしているようにも見える。
ある外国人ビジネスマンはネットへ次のように書いている。
「日本のマスコミは米国マスコミ以上に既得権益にしがみづき権力志向なので、米国マスコミ以上に世論作りに熱心なのです。また残念ながら日本のマスコミは日本国民の人の良さを利用してかなりの高い確率で世論操作に成功してきました。だから今回の米国マスコミの成功を信じて止まなかったのでしょう。マスコミと一体になって操作してきた安倍総理もヒラリーと米国マスコミの成功を信じて止まなかったでしょう。」
実際のところはよくわからない。我々にできることはマスコミの評価を盲信するのでなく、事実のみを冷静に見つめることだ。トランプ氏がどんな人か知らないが、女性蔑視の発言をしたことは事実に違いない。それでも米国民はトランプ氏を選んだ。よほどクリントン氏が嫌われていたという事なのだろうか。

2016年11月8日火曜日

三浦九段

将棋ファンならずとも最近三浦九段の名前を耳にされた方は多いのではないか。対局中、不必要に離席が多いとして、スマホソフトで次の一手を考えているのではないかとカンニングの疑いをかけられ年内の対局禁止を言い渡された人だ。
渦中の三浦九段の言い分は「別室で休憩していただけだ」との事。将棋のプロは次の一手を考える際に眼前に盤がある必要はないから(当コラム第二三三回参照)三浦九段の言い分もあながち否定は出来ない。
囲碁は盤面が広いせいか盤なしで全部を頭に入れることはプロでも難しいようだ。持ち時間のルールの違いがそれを物語っている。
プロの試合に於いては次の一手を考える時間に制限がある。それを持ち時間というが、それを使い切ると時間切れ負けになる。ただし考慮時間は一分以下は切り捨てされるため、例えば持ち時間六時間の場合に五時間59分使うと次の一手は常に一分以内に着手しなければならない。トイレに行く時間も考慮時間と同じように時計の針は止まらないが、ここで将棋と囲碁とではルールが違う。
将棋の場合、相手の考慮時間中にトイレに立った場合、相手が着手するとその瞬間に自分の考慮時間のカウントが始まる。だからそこから一分以内に帰って着手しなければ負けになってしまう。囲碁の場合は同様の場合相手が着手しても、自分が席に戻るまでは時計を止めてくれる。自分が着席してからカウントが始まるので安心してトイレに立てるというわけだ。勿論自分の手番の時にトイレに行けば時計の針は止まらないが。
将棋で囲碁と同じルールを適用すると、終盤時間が欲しい時に不必要にトイレに立つ人が出てしまうかららしい。将棋のプロはトイレに行く事にすら気を使わないといけない。三浦事件はその事を思い出させた。

2016年11月1日火曜日

職務規定

松江市下水道局の職員が児童買春をした疑いで逮捕されたとのニュースに出くわした。上司の記者会見を見て驚いた。「改めて職務規定遵守の徹底に努めて参りたいと思います。」のような事を言うのだから。
下水道局の職務規定には「児童買春をしてはいけない」と書いてあるのだろうか。多分、いや間違いなく書いてないだろう。「刑事罰を受けるようなことをしてはいけない」とすら書いてないと思う。規定に書かれることはそれを明記しておかないと組織運営上支障をきたすような事柄だ。
太平天国の乱を起こした洪秀全は次のような軍規を定めたそうだ。
 一)命令に従え
 二)男軍と女軍とを分けよ
 三)いささかも犯すな
 四)協調して指導者のきまりを守れ
 五)力をあわせ、ひるんだり退いたりするな
こうした軍規を定めたところを見ると、命令に従わない者や略奪や暴行をする者や逃亡する者が沢山いて困っていたのだろう、という事が想像される。洪秀全も組織の維持には苦労したようだ。
だからもし職務規定に「児童買春をしてはいけない」なんて書いてあったら、それこそその組織は大変な問題を抱えていることになる。
そもそも五十にもなる大人が犯した犯罪で職場の上司が会見をする事自体いかがなものかと思う。職務上の不注意や不手際で回りに損害を与えたのならともかく、成人個人のプライベートな行動に組織がどこまで責任を問われなければならないのか。会見を求める方も求める方だが、やるのなら仕方ない「大変遺憾に思いますが勤務時間外の個人的行動は各人の責任範囲で行われていると認識しています。」なんて答えたら集中砲火を浴びてしまうのだろうか。

2016年10月25日火曜日

浦上玉堂

浦上玉堂という人がいる。江戸後期の文人で、備前池田藩の支藩の君主側近として藩政にあたっていたが、大目付役を罷免されたのをきっかけに二児を連れて脱藩。全国を遊歴しながら琴、絵画、詩作を楽しんだ。その絵は水墨画でありながらなかなか賑やかな絵で独特の雰囲気がある。数週間前NHKの日曜美術館での放送からの引用になるが以下のような事を言っていたそうだ。
人は名誉と利益を楽しむが 私は酒と琴とを楽しむ
 人は富と高い身分を好むが 私は酒に酔って詩を詠うのを好む
 粗末な食事でも空きっ腹よりいい おんぼろな家でも露天よりいい
 人生満足するということを知らなければ煩悩がなくなることはない
お金や名誉は要らないよ、と言いたいらしいが、ここに友情や愛情など人との交わりの喜びについての言及がないのはどうしてだろう。
私個人も特別豪華で綺麗な衣装に身を包みたいとは思わないし、特別贅沢な美食を楽しみたいとも思わない。衣類は寒さから身を守る事が出来れば十分で、食事は栄養失調にならなければそれでいい。それより何より同性であれ異性であれ敬服・憧憬・素敵の言葉が似合う人物に出会え、しかもその人が誠意を持って談笑に応じてくれたらそれ以上の喜びはない。
そうした出会いはお金では買えないし、誠意を基盤とした関係を構築するにはお金はありすぎるとかえって邪魔になりそうだ。お金は凍え死にしない、飢え死にしない程度にあればいい。出来れば酒に酔って詩を詠うくらいあればそれに越したことはないが。
浦上玉堂が二児を連れて脱藩した時既に奥さんは亡くなっていた。彼の異性を含めた交友関係は全国遊歴の中で満足できたのだろうか。それとも琴棋書画を通じて時空を超えた交流を楽しんでいたのだろうか。

2016年10月18日火曜日

文学

NHKのラジオ番組にカルチャー・ラジオというのがある。歴史、芸術、文学、科学の四つの分野で週に一回三十分の講和が三ヶ月毎にテーマを変えて放送される。文学は木曜日だが何回か前にボブ・ディランが取り上げられた。その時は最初の二回ほど聞いてあまり面白くなかったので以後聞くのを辞めてしまったが、今から思えばもう少し辛抱して聞いておけば良かった。
十月から鴨長明がテーマになっているが先月まではマーク・トゥエインだった。これは面白かった。今回のボブ・ディランのノーベル賞受賞は人種差別撤廃運動への影響も受賞理由の一つのようだが、この分野ではマーク・トゥエインの書いたものの方が心に響く。興味ある話題があるのでご紹介しておく。
マーク・トゥエインの代表作の一つに「ハックルベリー・フィンの冒険」がある。主人公のハックは凶暴な父から逃れるために身を潜めている時、逃亡奴隷のジムと出会う。社会に背を向けるという共通の環境にある二人は友情を育みながら北部の自由州を目指して筏で川を北上する。だが、自由州が近づくにつれてハックは自責の念に捕らわれる。それは何と、ジムを告発しなければならないという思いだ。当時南部には逃亡奴隷をかくまったり援助することは罪だという法律があった。それを知っているハックは今ここでジムを当局に突き出さなければ自分が永遠に罪人の刻印を押されてしまうと悩むのだ。ハックのそうした心を察知したジムの態度がまた涙を誘う。
この作品には普段はこよなく親切でやさしく信心深いおばさんが、こと黒人に対しては冷酷無比な態度をとってしかもそれが正義であると思っているような場面もあるようだ。ある社会環境では世間的良識が必ずしも人間の善を反映しない。常に心すべきことだろう。

2016年10月11日火曜日

引越しのススメ

葛飾北斎は生涯で93回の引っ越しをしたそうだ。絵に熱中するあまり部屋の片付けなどに気が回らず、部屋が汚くなると引っ越しをしたとか言われるが、一方で一日三回も引っ越しした事があるとも言われるから真の理由はよく分からない。
私も最近引っ越しをして、これはなかなか頭の体操になるなと思っている次第。それまである一定の秩序の中で生活していたものが、全く異なる環境の中で別のルールに従って生きることになる。要するに簡単な言葉で言えば、物がどこに仕舞ってあるのかが今までの感覚とは違う場所になるので、それが脳を刺激するのだ。
親が生前に買い溜めてた石鹸があるはずなのに見つからない。以前は洗面台の横の洗濯機の上の棚にあった。引っ越し先には洗濯機の上に棚がないから別の場所にそれなりの理由で仕舞ったはずが、その理由が思い出せない。異なるルールに柔軟に対応する能力を試されているようだ。また探していたものが見つかった時の喜びもおそらく大いに頭脳を若返らせてくれるだろう。
家の引っ越しも随分と頭の体操になるが、もう一つのお勧めがスマホの引っ越し。
普通ビジネス界では長い付き合いを大切にするのが常識だが、スマホの世界では新たに乗り換えると有利な条件になるようになっている。番号やメールアドレスが変わってしまうのを恐れる人が多いから、それに胡座をかいた商売のように見える。それに乗ってしまうのが悔しいから敢えてスマホも引っ越しする事にした。機器自体が新しくなって画面が大きくなってデータ通信量が倍になってなお月々の支払は少なくなる。ただこれも従来と異なるルールを強いられる。操作方法が微妙に違うのでそれに慣れるのが大変だ。
家もスマホも引っ越しでアタフタする今日この頃である。

2016年10月4日火曜日

同一労働同一賃金

「同一労働同一賃金」の文字を報道で見るたび若干の違和感を覚える。元々この言葉は男女差別の撤廃を目指して発せられたものだった。同じ労働をして同じ結果を出すのに女性だというだけの理由で賃金が低く抑えられているのはおかしい、というのは誠に全うな意見だ。だが昨今の使われ方を見ると正規・非正規の格差を問題にする場面が多い。これは如何なものか。経営工学的見地からの愚見を述べてみたい。
そもそも「非正規」とは何か。正規社員と外見上の業務形態が特別違う訳ではないのに不当に不利な条件で採用されている事だとすると、それは理論上あってはならない事で議論の俎上に上らない。ここでは業務量に応じて正規社員の能力を補完するために期間限定で採用される人を指すことにしよう。
経営工学の一つのテーマに能力設定がある。例えば生産設備の能力をどう設定するか。需要の大きさに応じて決めるわけだが、問題は変動する需要への対応である。設備能力が小さすぎれば注文に応じきれず、需要のピークに合わせれば多くの場合設備が遊んでしまう。通常はピークの八割程度の能力を用意し最盛期には外部の支援を仰ぐ事にする。そして外部委託する場合のコストは内作するより高いのが普通だ。
さて、人間の神聖なる労働力を生産機械設備と比較するなんてけしからん、とお叱りを受けるかも知れないが、非正規労働は上記の需要のピーク対応と考えるのが至当ではないか。だとすれば非正規労働の時間単価は正規労働の時間単価より高くて然るべきだというのが私の意見なのである。

そもそも働き方の選択肢を提示するに当たり、一方は安定しているが単価は安い、一方は単価は高いが不安定、というトレードオフがない限り検討の余地もないではないか。

2016年9月27日火曜日

メダル

オリンピック、パラリンピックが終わって各国の獲得メダル数を新聞で見てあるお遊びを思いついた。各国のメダル獲得数の偏りを数値化するためにジニ係数を計算してみようという事だ。
ジニ係数とは所得の偏りを表現するために用いられる指標で、完全に平等な社会はゼロ、一人に富が集中しているという極端な場合を1として、数が大きいほど格差が大きいことを示す。一般には0.3から0.4程度が適度な競争と格差のある社会とされ、0.4を越えると社会不安を引き起こす警戒ライン、0.5以上となると暴動の恐れのある危険ラインとされる。
オリンピックには全部で二百五の国(と地域)が参加し(難民選手団を入れると二百六)、内一つでもメダルを取った国は八十七、百十九の国は一つのメダルも取れなかった。パラリンピックにおいてもほぼ同様の傾向が見られた。いわば半数以上の人が所得ゼロ、トップの人に富の10%が集中するようなモデルになる訳で、実際にジニ係数を計算したら0.85以上になった。大変な偏りだ。
ついでの世界各国のGDPのデータを元にジニ係数を計算したらほぼ同様の値となった。GDPの大きさと獲得メダル数にはかなり強い相関がある。変わったところではインドがGDPでは世界七位なのに、獲得メダル数は五十位以下なのが目立つ。旧共産圏やアフリカ諸国がGDPの割にはメダル数が多く、中国以外のアジアはGDPの割にはメダルが少ない。
それにしてもパラリンピックにおける中国のメダル獲得数の多さには驚いた。彼の国が障害を持つ人達に優しい社会であるという印象はないのだが。オリンピックはともかく、もしパラリンピックが国威発揚のために利用されているとしたらとんだ本末転倒というべきだろう。

2016年9月20日火曜日

車窓

エジンバラからロンドンまでグレートブリテン島の半分を縦断して車窓を眺めた印象を記す。
地図を見ても分かる通りイギリスには左程高い山はない。車窓からの風景は延々となだらかな丘陵が続いており、そのほとんどが牧草地だ。ごく稀にトウモロコシ畑や麦畑を見たがほとんどは牧草地に羊や牛が放し飼いされている。
日本ならどうだろうか。遠くに高い山が見えるが、手前の景色は住宅地を除けば青々とした水田が大部分だとの印象を持つだろう。
牧草地や畑と水田の違いは何か。水田は水を張るから平らにならさないといけない、という点が一番の違いだろう。人間が農耕を始める前の大地はおそらく平らではなく、今のイギリスの風景に近かったはずだ。日本人は長い時間を掛けて大地を平らにならし、水を張って稲を栽培できるように改善したのだ。古代の日本にタイムスリップしてバス旅行をしたら、小高い丘や藪が散在する中ところどころに水田があるという感じだったのではないか。奈良時代の三世一身の法や墾田永年私財法がなければひょっとしたらその風景がそのまま残ったかも知れないのだ。
道路の制限速度も面白かった。高速道路は70、田舎の町の住宅街は「Slow down 30」とあった。日本と同じくらいだと思ってはいけない。イギリスの時速はマイル単位で、キロメートルにするためには1.6倍しないといけないから高速は110km、住宅街は50km程度になる。
日本は概して制限が厳しい。その理由を理解したのは冬の北陸をドライブした時だった。横殴りの雪に視界が開けず制限速度内で走るのが精一杯だった。日本の制限速度は悪天候を想定して決められており、好天で見通しが良い時には物足りなくなってしまうのだと思った。イギリス人はこの点どう考えるのだろうか。

2016年9月13日火曜日

イングリッシュ

「マイ・フェア・レディ」という映画がある。ロンドンの下町の花売り娘を上流階級の社交界に出しても恥ずかしくない淑女に変身させようという言語学者の話だ。オードリ・ヘップバーンの演じるその娘は下町の訛りがあって、「エイ」と発音すべき音を「アイ」と言う。例えばスパイン(スペイン)、ライン(レイン:雨)、プライン(プレイン:草原)などで、「スペインでは草原に雨が降る」という言葉を何度も何度も繰り返し正しく発音する訓練を課せられる。
オーストラリアはイギリスの流刑地としての過去を持っているせいか、オーストラリア人の英語には上記と似た訛りがある。会社の英語教室でオーストラリア人が講師になって最初の講義で「訛りがあるかも知れませんがごめんなさい」というので随分謙虚な人だなあと思ったが、実際講義が始まると閉口した。盛んに「トゥダイ」と言う。「To die」にしか聞こえないので意味が分からなかったが次第に「Today」である事が分かった。
こうした訛りはしかし、英語の本場のイギリスではむしろ主流のようで、BBCのテレビを見ていても沢山耳にした。「オリンピックgame」は「ガイム」、「great」は「グライト」、「amazing」は「アマイジング」などなど。私が親しんでいる英語は現地の人からすればむしろアメリカ訛りだと言われるのかも知れない。
ロンドンのホテルは空港近くのかなり立派なホテルだったが、従業員の多くがインド系の風貌をしていて、話す言葉もインド訛りがきつかった。インド訛りを文字で表現するのは難しいが、ちょっと口ごもったような感じ。
今度の旅行で一番印象に残った英語は、リオ五輪の陸上四百メートルリレーの放送の中でアナウンサーの絶叫のような驚きの声、「Japan has got a surprising silver medal !!」だった。

2016年9月6日火曜日

イングランド

ご存知のように我々がイギリスと呼んでいる国の正式名称はUK(連合王国)で、それはGB(グレート・ブリテン)と北アイルランドの連合であり、GBとはイングランドとウェールズとスコットランドの合体したものである。その地域差や意識の違いを知る事も今回の旅行の一つのテーマだった
旅行のスタートはスコットランド。エジンバラ城にはメアリー・スチュアートがジェームス六世を生んだ部屋というのが残されていた。ジェームス六世は後にジェームス一世としてイングランドの王を兼ねスコットランドとイングランドの合併のきっかけを作った人だ。日本で言うと関が原の戦いの頃の話。スコットランドの王をイングランドの王にしたのはエリザベス一世の意向で、この人は日本で言うと称徳天皇のような人だったように思う。
そのジェームス一世だが、イングランドに行くにあたって三年に一回は帰ると言いながら十七年間帰ってこなかったと肖像画の説明書きに書いてあった。イングランドの方が都会で楽しかったのだろうか。両国の関係を垣間見た気がした。
湖水地方のウィンダミア湖の遊覧船に乗ったとき偶々隣り合わせになったおばさん二人がアイルランドのダブリンから来た人だった。一人の方の言う事が全く理解できない。おそらくアイリッシュ訛りがあったのだろう。もう一人のおばさんがイングリッシュで通訳してくれて助かった。スコットランドの独立をどう思うか聞いてみたら彼女の答えは「Silly(馬鹿げている)」だった。
ウェールズ地方は今でもウェールズ語が公用語として認められており、道路標識も英語とウェールズ語の併記になっている。スコットランドでは見られなかったこの優遇は今一つ影の薄いウェールズに対する配慮なのだろうか。

2016年8月30日火曜日

イギリス

今回イギリスへ行くにあたって是非訪ねたい場所があった。ビートルズゆかりのアビー・ロードで、旅行の最終日集合時間の十二時までの自由時間を利用して行って来た。単に横断歩道を渡るためなのだが、ビートルズファンならその意味を分かっていただけるだろう。
バスと地下鉄を乗り継いで目的の場所に着くと既に三人家族がくだんの横断歩道で盛んに写真を撮っている。四十代半ばと思しきお父さんは特に熱心で何度も横断歩道を往復し、靴を脱いで裸足で渡るシーンもカメラに収めていた。(この意味もビートルズファンなら分かりますよね)僕らが近づくとお互い写真を撮りっこしようよとなり、しまいには僕の提案で僕ら親子と先方の親子の四人で横断歩道を渡ろうということになった。聞けば彼らはニュー・ヨークから来たとの事。互いのメールアドレスを交換し、写真の交換を約束して分かれた。
さて、ホテルからアビー・ロードへ向かう地下鉄の中、ちょうど通勤時間で次々に会社勤めの人が乗り込んで来る。車内ではスマホを見る人、ペーパーバックに目をやる人、様々だが新聞を読む人の手元を見ると全ての人が同じ新聞を読んでいる。「メトロ」と言う名のフリーペーパーでこれがなんと76ページもある立派な新聞だ。紙面の五分の四は広告が占めているが、これではまともな新聞はやってられないだろう。
アビー・ロード最寄の駅のスタンドでビートルズのマグカップを購入した。店員は「ちょっと待て」と言って店を出る。何をするのかと思いきや、外に積まれているフリーペーパーを一部持ってきて、それでカップを包装し始めた。昨日の新聞の取り置きならともかく、新聞関係者の端くれとして「ふざけるな!」と内心思いつつ、勤め人が皆同じ新聞を読むイギリスの将来を憂えたのだった。

2016年8月23日火曜日

2位決定戦

先週末からイギリスを旅行している。こちらでもリオの結果が話題の中心で、BBCは男子トライアスロンで兄弟が金銀のメダルを取ったとか、女子ホッケーで金メダルを取った事等を興奮とともに伝えている。自国選手の活躍が報道の中心になるのはやむを得ないらしく、ネットがなければ高松ペアの金メダルや吉田選手の銀を取っての号泣を知ることはできなかっただろう。
さて錦織選手の銅メダルだが、個人的には出来ればデルポトロと2位決定戦をやって欲しかった。一般にトーナメント戦は「A>BかつB>CならばA>Cである」という推移律が成り立つことを前提としている。しかしどう理屈をこねても「A>BかつC>DかつA>CかつB>D」とう前提からC>Bという結論は出てこない。先ほどの前提から論理的に結論できることはAが一位であることと、D4位であることだ。だから準決勝を勝った二人が戦うのは決勝戦と呼んでも良いが、準決勝に負けた二人が戦うのは3位決定戦ではなく4位決定戦と言うべきだ。勿論場合によっては今の準決勝・決勝のやり方で1位から4位までが決まる事もある。例えば決勝でマレーがデルポトロに負けたのであれば錦織が3位であることを認めざるを得ない。
でも流石に決勝の後に2位決定戦をやるのは興がそがれる。だから提案だが次のようなやり方はどうだろう。4位決定戦に勝った方が別の山から勝ち上がった1or2位候補者と3位決定戦を行う。つまりナダルに勝った錦織がデルポトロと戦って、もしデルポトロが勝てばそこでマレーと決勝戦を戦う。もし錦織が勝てば推移律から自動的にマレーの優勝が決まり錦織が2位になる、という仕組みだ。若干興がそがれるかも知れないが、最後まで関心をつないでかつ論理的に隙のない仕組みだと思うのだが。

2016年8月16日火曜日

実況と録画

オリンピックに甲子園に、連日テレビの前に釘付けになっている。スポーツ中継と言えば実況に越したことはないが、オリンピックのように複数競技が同時に行われたり、現地との時差があったりする場合には一部が録画での放送になることはやむを得ない。この先どうなるか分からない期待と不安でハラハラドキドキしながら見るのと、結果が分かって見るのとでは雲泥の差があるが、どうしても録画が避けられない以上なんらかの工夫がないものだろうか。
録画放送を見ると全て実況での放送がベースになっている。アナウンサーも解説者も生で試合や競技を見て、時に絶叫したり時に落胆したり。臨場感を保つのが目的かも知れないが、これではどうしても実況放送に敵わない。結果が分かって放送する録画だからこそ出来る付加価値があると思うのだ。
例えば試合の流れを変えた場面をクローズアップするような伝え方。スーパープレーだけをかき集めたハイライトシーンのような細切れのものでなく、それと実況との中間で両方の良い点を兼ね備えたやり方があるはずだ。音声は実況放送にオーバーラップさせて専門家の事後的分析を加味した解説を重ね、選手の心理を想像したり、選手の立ち位置や姿勢の微妙な変化に注目したり、大事な場面でのディテール、例えば球の回転とか選手の足の動きをスローモーションで見せたり、そんな分析も交えた録画放送なら素人だけでなく将来を目指す若い選手にも参考になると思うのだ。
実はこの事は囲碁将棋の放送に関して普段感じている事だ。NHKのトーナメントは録画なのに恰も実況のように放送されている。録画を前提に、過去の類似型の紹介や勝負所で別の手を選んでいたらどうなっていたかなどを掘り下げて解説してくれるともっと勉強になるのだが。

2016年8月9日火曜日

愚行権

愚行権という言葉があるらしい。文字通り愚行を行う権利で、ウィキペディアによると「たとえ他の人から『愚かでつむじ曲りの過ちだ』と評価・判断される行為であっても、個人の領域に関する限り邪魔されない自由のこと」。続いて「生命や身体など自分の所有に帰するものは、他者への危害を引き起こさない限りで、たとえその決定の内容が理性的に見て愚行と見なされようとも、対応能力をもつ成人の自己決定に委ねられるべきである、とする主張である。」とも。喫煙や飲酒は明らかに一種の自傷行為であり、謂わば愚行の範疇に入るが、それが禁止されるとアメリカの禁酒法のような不具合も生じる。
スポーツにおけるドーピングに愚行権は主張できないのだろうか。英語辞書でdopeを引くと、まず名詞で「マリファナなどの違法薬物」とあり、次に動詞で「能力向上のために違法薬物を投与すること」という説明がある。が、スポーツの場合マリファナやコカインのような常習性の強い麻薬ではなく、なんらかの覚醒作用や筋力増強作用のある薬物を使うことだろう。犯罪や反社会的行為につながらず他者に害を及ぼさない範囲でなら、仮に命を縮めてもいいから短期的に強靭な肉体を手に入れたいという人が出てきてもおかしくない。
勿論それを使用した人としない人が同じ土俵で競うのは公平とは言えないから別の場を設ける。これから先は半分冗談だが、オリンピック、パラリンピックとは別にドーピンピックというのを作って、そこで薬物を使用した人に思い切り競ってもらったらどうか。そこに出場する選手は皆短命だが、百メートルが八秒台で争われるかも知れない。そうなったらオリンピックを見る人がいなくなるかも知れないから、やっぱりドーピングは駄目かな。

2016年8月2日火曜日

甲子園

先週のビッグニュースといえば何と言っても出雲高校の甲子園出場決定だろう。
たまたま帰省と重なり昼食休みにテレビをつけると大社高校との準決勝をやっていた。今年のチームがそんなに強いとは知らなかったからびっくり。内容を見ると明らかに出雲高校の方が押しており、ここまで来たのがフロックではなかった事が見て取れる。ただ投手の背番号が3だったので、投手力に確たる軸がないのではと危惧された。だが超高校級が引っ張るワンマンチームより、チームワークで勝負する方が高校野球らしくて良い。
優勝したら早速ネットで話題になった。フェイスブックで「おめでとう」のメッセージが流れるのは良いが、メーリングリストではちょっとした異変があった。
出雲高校東京同窓会の幹事役を務める人から「東京同窓会は集金団体ではないので、会をあげての募金などの運動は出来ないと考えています。」とのメールが流れた。真意を測りかねるその内容に早速異議が出た。「確かに集金団体でない事は認めるが、今回は初めての甲子園出場であり、募金したいという人は多いはず。どこへ送って良いのかわからない人も多いだろうから、東京同窓会が機能して募金活動をすべきだ。」というのである。
真相は高野連の規則で電子媒体を利用しての寄付金募集が厳禁されているとの事。関西久徴会でもホームページやフェイスブックで応援の呼びかけの掲載と取り下げが繰り返されたらしい。禁止の目的がどこにあるのかよく分からないが、善意の人がうっかり犯してしまいそうなルールは如何なものか。
それにしても試合開始は午後一時。一番暑い時間帯だ。いくら若いと言っても体にこたえるだろう。朝早くか、夕方日が陰ってからにできないのか。これも高野連のルールで決まっているのかな。

2016年7月26日火曜日

放射能

久しぶりに銀座の街を歩いた。世界のファッションブランドが軒を並べているのは想定内だったが、通りに面した壁面が縦に波打っているビルがあったのにはびっくりしてしまった。年に一度位は銀ブラをするのもボケ防止には良いのかも知れない。
銀座へ行った目的はシャネル・ネクサス・ホールで行われている写真展を見る事だった。シャネルのビルへ行くとなんと開店は十二時だとか。さすが世界の金持ちを相手にする商売は違う。幸い近くにあった伊東屋で時間を潰し、開店を見計らって再度尋ねると正装に身を包んだドアマンが丁重に出迎えてくれた。
写真展は原発被害を受けた福島県の浪江町の現在の様子を写したものだった。賞味期限が三月十四日と書かれたスーパーのお肉のパックが干からびたまま放置されたものや、荒れたままの店内で呆然と立ち尽くす店主の姿、それには未だに盗難の被害があるという解説が付く。中でも一番印象的だったのは崩れず残った家屋を植物が覆い尽くす様だった。
撮影地点での放射線量が付記されていないのが残念だったが、おそらくかなり線量は高いはず。それを苦にせず旺盛に繁茂する植物の生命力にうたれた。
地球はかつて嫌気性生物の天下だった。ある時植物が光合成を始め、酸素という嫌気性生物にとっては猛毒をまき散らしたため地球の環境が一変し、今や嫌気性生物は片隅でやっと生き延びている。
人類が何らかの理由で地球上に放射能をまき散らしたら、おそらくそれに耐性のある生物で地球は覆い尽くされるだろう。その時人類の子孫は片隅でもいいから生き延びていられるだろうか。
廃屋を中心にした夜景の写真があった。夜空に輝く星がたまらなく美しかった。この星たちは地球に人類という生物がいるなんて知らないのだろう。

2016年7月19日火曜日

参議院

参院選が終わったと思ったらすぐさまその有効性を問う訴訟が起こされた。一票の格差を問題にしたものだ。新聞報道によると参院議員一人当たりの有権者数は最大の埼玉選挙区は最小の福井選挙区の約三倍になるそうだ。
議員の数が人口に比例しないといけないのかどうか、それ自体にも疑問が残るが、仮にそれが正論だとするなら、いっその事人口の少ない県に合わせて人口の多い県の議員数を増やしてしまえばいいのではないか。埼玉選挙区が福井の三倍あるなら埼玉の定員を今の三倍の十八人にする。そうすると当然全体の議員数がうんと増える事になる。
国会議員の身を切る改革というといつも定数削減が問題になる。そうではなくて、歳費全体を削減する事の方が本質だろう。議員数が増えても全体の歳費は増やさなければいい。現在トータル二百四十二人に対して一人三千万円として全体で七十億円強の歳費がかかっているとしてそれを上限とし、定員が倍の五百人になったなら一人当たりの支給を千五百万に減らせばいいだけの話だ。そうすれば都会の議員も自分の給与が減らないよう真剣に地方の活性化や人口の平準化を考えるようになるのではないだろうか。
そもそも今の形での参議院が本当に必要か。本来参議院は衆議院のチェック機能を期待されているはずだ。ならば衆議院と同じように政党が主導する形で意思決定を行う参議院の存在理由は極めて薄いと言わざるを得ない。今の形態の参議院を廃止して、全国知事会議にその役割を担わせたらどうだろう。衆議院が決めた事を各地元の行政を直に担当している立場からチェックし、是非を判断する。当然知事のスタッフである各県職員さん達も勉強する事になるし、参院議員に払っている経費も削減でき、一石何鳥もの解決策に思えるが。

2016年7月12日火曜日

権利か義務か

投票権が十八歳まで引き下げられた。投票権と言うぐらいだから権利だと思っていたが、ある国では投票は国民の義務であるとして、投票しなかった人に罰金を課す場合もあるとか。権利か義務かに関して面白い事象に出くわした事がある。
市内の体育館へ行った時たまたま町内対抗のバレーボールをやっていた。パスもままならない初心者の集まりで、サーブをレシーブしたのはいいが、自陣でボールを回している間にどんどんボールコントロールを失い結局ミスして失点してしまうケースが多く見られた。三回パスをして良いと言うのは、その間にボールを支配してより攻撃的に相手陣に打ち込むために認められた権利であって、必ずしも義務ではないのだから、技量が十分にない場合はボールコントロールを失わない内に出来るだけ早く相手陣にボールを返した方が勝利への近道ではないかと思われた。
権利を主張するには一定の能力の裏付けが必要と思われる。それがないままに義務感に駆られて権利を行使すると思わしくない結果を招く事があるようだ。英国のEU離脱もその一例に見える。事態をよく理解しないまま、義務的に投票権を行使して今頃悔やんでいる人が多数いるようだ。残留か離脱かの二者択一の他に「よく分からない」「情報と理解が不十分なので権利行使を留保したい」という選択肢があれば事態はもっと違っていたのでは。
一般に国民投票においては白か黒かを迫るのではなく、権利を放棄する自由を与えて、その第三の立場が多数を占めた場合は現状への不満が左程大きいわけでないのだから継続性重視の観点から現状を変更しない、という配慮が必要なのではないか。権利の行使を義務化する事には一抹の危惧を感じる。勿論その場合も「放棄する」という意思表示は必要であるが。

2016年7月5日火曜日

クリーンかクリアか

お金にクリーンな政治家を選ぼう、選挙のたびにそう言われる。お金にクリーンである事を有権者が求めていることを政治家も重々承知なのだろうが、何故かいつもその問題でつまづく人が出る。政治家がお金にクリーンである事は、運動神経の鈍い人が逆立ちして歩く事ほどに難しい事ではないだろうか。
山本周五郎が創作した人物に赤ひげという名医がいる。黒澤明の映画では三船敏郎がその役を演じた。彼は金持ちからは法外な治療費をふんだくり、貧しい人達の治療に役立てる。赤ひげはお金にクリーンな人ではない。そのやり方を加山雄三演じる若い弟子は批判的な眼差しで見ている。お金にクリーンな医者なら治療費を診療科目ごとに明記し、その言わば定価表に従って請求するだろう。
医者の価値はお金にクリーンかどうかより病気を治す能力があるかどうかにある。同様に政治家の価値もお金にクリーンかどうかより、的確な判断の元、関係者の利害を調整して何か事を成し遂げる能力があるかどうかで測るべきではないか。田中角栄はロッキードからお金を貰った事を非難される前に、ロッキードを選んだ判断が適切だったかどうかを問われるべきだ。もしあの時点でグラマンの方が性能や価格の面で優れていたのにも拘わらずロッキードを推薦したのなら、その判断ミスをこそ非難されるべきだろう。賄賂はそれが不当な便宜を呼び込むから悪い。
政治と金の関係はクリーンであるよりクリアである事を求めたらどうか。スポーツ選手がスポンサーの名前の入ったユニフォームでプレーするように、政治家も誰からお金を貰っているか背広に縫い付けて、あるいは選挙の際に襷に明記したらいい。そうすればお金を貰った人に対して不当な便宜を図る事もできなくなるだろうから。

2016年6月28日火曜日

ブレグジット

スペインへ旅行した時のこと、日本からの直行便がないのでフランクフルトでの乗り換えになった。そこで入国手続きをし、ドイツからスペインは国内便扱い。EUが一つの国になろうとしているのは分かったが、パスポートにスペイン入国の記録が残らなかった事が残念だった。
国となると中央政府と地方との関係が問題になる。日本でも昨今地方への権限委譲を進めるべきだと地方分権論が盛んだ。アメリカは建国に当たって中央政府の力を制限し各州の独立性を確保する事に腐心した。通貨発行権を中央政府に独占させないなどもその表れでドル紙幣を見ればそれがニューヨークで印刷されたものかカリフォルニアで印刷されたものか分かる。各州は自ら独立した軍隊を持ち、税率も違う。富裕な州で独立運動が起きないのを見ると制度がうまく働いているのだろう。
中国もかつては斉、韓、魯、趙、楚、燕、秦など独立した国の集まりだったが、始皇帝という強烈なパワーが有無を言わさず一つの国にしてしまった。思えば始皇帝はナポレオンやヒトラーよりずっと卓越した人物だったのではないか。一口に度量衡の統一と言うが、その他各種制度の統一は並大抵の事ではなかったはずだ。
今回の英国のEU離脱は国における中央と地方の関係の最適化が問われているのだと思う。新聞やテレビの論調はイギリスが右傾化し感傷的かつ利己的になって大国としての矜持をなくしたのではないかという傾向が多いようだが、中央の官僚主義への反発とも取れる。EUからは早速「イギリスは速やかに離脱すべし」という脅しともとれる声明が出されたそうだ。ソ連なら軍隊を派遣して分離独立派を蹴散らすのだろうが、EUはどのような知恵を出して中央と地方の理想的姿を描き出すのだろうか。

2016年6月21日火曜日

政治と金

舛添さんが退場して次の候補者選びが始まった。お金にクリーンな人を、政策のしっかりした人を、という声が強い。しかし思い起こせば舛添さんはお金にクリーンで政策も福祉をはじめしっかりした人として選ばれたはずだった。それが当選したとたん、お金にみみっちく公金を掠め取るような真似をしたり、公約の待機児童対策はどこ吹く風と美術館巡りに興じたり、選挙時のイメージが当てにならない事を実証した。他の政治家は違うと信じたいが。
ところでお金にクリーンだとはどういう事を言うのだろうか。政治資金を私的に流用するような泥棒まがいは論外として、決められた給与以外は受け取らない事か。米大統領候補のドナルド・トランプは自分がビジネスで稼いだお金だけを頼りにして、ロビー活動からお金を取らないとして人気があるようだ。彼はお金にクリーンな人なのだろうか。私利私欲の塊のように見えるが。私利私欲はクリーンさとは正反対だが、私利私欲のない人がいるのか。
一人だけ思いついた。インドのガンジーだ。彼は間違いなくお金にクリーンな政治家と言えるだろう。実際彼は死後に何の資産も残さなかった。だが彼はお金を必要としなかったとも言える。例えば履き潰した草履の替りが必要な時は必ず周りの誰かが無償でそれを提供しただろうし、何か食べたいと言えばそれも無償で提供され、どこかへ行きたいと言えば必ず誰かが無償で移動手段を提供しただろう。物理的には一銭も持たずとも、彼自身の信用が無限のお金みたいなものだった。
己の欲望に不道徳さがなく、大きな信用のある人ならともかく、凡俗な一般の政治家はいざという時のためにお金が欲しくてしようがないようだ。彼等にお金のクリーンさを求めるのはしばらく諦めた方がいいのではないか。

2016年6月14日火曜日

ふりがな

一週間ぶりに保護された大和君。その生存には様々な奇跡が重なったとの事だが、その中の小さな奇跡の一つに水道管の元栓があると思う。当時元栓は閉められていて、水道の蛇口をひねっても水は出ない状態だったらしい。だが大和君は元栓を開けて水を得た。その元栓をみると、バルブには左右の矢印が書いてありそれに添って「でる、とめる」の表記があった。もしこれが「開、閉」だったら。七歳の大和君はおそらくまだ漢字は知らない。もっともあの状況でなんとか水を得ようと試行錯誤の末、水を出すことには成功したのだろうが。
テレビのニュースでその映像を見て、娘の幼稚園の運動会を思い出した。運動場の片隅の水飲み場にはいくつかの水道の蛇口が並び、その中の一つに「使用禁止」の札がぶら下がっていた。そしてそこには「しようきんし」とふりがなが振ってあった。これを書いた人はおそらく謹厳実直で、でもちょっと機転に欠ける面があるのではないか。「しようきんし」という音の意味が分かる人なら間違いなく漢字も読めるはずで、漢字の読めない幼児のためなら「つかってはいけません」とふりがなすべきだった。
それを書いた人を笑えない人も多い。道路標識の作者達もその中の人。「国会正門前」のアルファベット表記は「Kokkaiseimon」とある。それを見て意味を汲める外国人が何人いるか。東京オリンピックを控えてこの表示は「The National Diet Main Gate」になるそうで、まずは良かった。
東京オリンピックに来た人が何人札幌まで足を伸ばすか知らないが、札幌の地下鉄もローマ字表記を考え直した方が良い。南北線を札幌から北へ行くと「北12条駅」とか「北18条駅」とかが奇妙なアクセントの日本語でアナウンスされる。あれも外人さんには分からないだろうなあ。

2016年6月7日火曜日

大和君

朝のワイドショーを見ていて、速報で「北海道の男子無事保護」のテロップが流れた時は自分の事のように嬉しかった。と同時にもし自分が当事者だったら何を思い何を感じたのだろうかという思いが頭をよぎった。
もし自分が父親だったら。この一週間何も手につかず、食事も眠りも満足に取れない状態だったに違いない。息子が無事に帰ってきたら、全財産いや自分の命を引き換えにしてもいいいと、神仏に祈る心持ちだったろう。そして息子が大きな怪我もなく無事帰ってきた。おそらく今後の生涯においてこれ程大きな喜びは二度と訪れないだろう。知らせを聞いた瞬間は全身から力が抜けてヘナヘナとその場に崩れ落ちたのではないか。
もし自分が大和君本人だったら。父親への思いはどんなものであったか。飢えと寒さに震えながら外にいる人に声を掛ければ恐らく暖かいねぐらと食事にありつける。しかしその時父親の怒りは解けているか。一週間近くも名乗り出ることをためらった心の背景には一体何があるのか。そして家族と再会して父親への気持ちはどう変わったのか。
私も小学校低学年の頃、母親の怒りを買って家から締め出された記憶がある。玄関の外に放り出され、扉の内側から鍵を掛けられた。頃合いを見計らって母は中に入れてくれたが、その時母への恨みの気持ちは全くなかった。
もし自分が祖父母だったら。大和君が内孫か外孫かによって感じ方や行動はかなり違ってくるだろう。もし内孫だったら父親に対して「何てことをしたんだ。」と怒りをぶちまけ、場合によっては暴力にも及ぶかも知れない。外孫なら婿殿への遠慮もあるからあからさまに感情を外には出せないだろうが。
想像をたくましくすれば小説のネタにもなりそうな、そんな事件だった。

2016年5月31日火曜日

守秘義務

東京五輪の招致を巡るコンサルティング契約の疑惑について守秘義務という言葉が出てきた。守秘義務契約があるから契約先の詳細を明らかに出来ないと言うのだ。これには驚いた。
私も現役時代には何通もの守秘義務契約を結んできた。製造業が生産工程の秘密を守るためであったり、新製品に関する情報の漏洩を防ぐためであったり、いずれにしろ発注者の利益を守るために受注者に課せられた義務を謳ったものばかりで、発注者サイドがその秘密情報を公開するのは全く自由だ。発注者の方が受注者から課せられた守秘義務なんてものがあり得るのだろうか。ゴルゴ13に殺人を依頼するみたいな悪事をなす時なら分からなくもないが。
そもそもこの契約の原資はおそらく公金のはずだ。五輪招致で潤う建設業や観光業が私的に捻出したお金ならともかく、公金を使って守秘義務が必要な契約をするというのは如何なものか。公私の区別の出来ない人が公金を扱ってはいけない。
相手の秘密を守るためという口実はどこかの都知事にも使われた。某ホテルで政治活動としての会議を行ったというが、よく聞けば都知事選への出馬について話し合ったとか。こちらも公私の区別が苦手のようだ。自分の身の振り方を話し合う事はどう見ても私的な活動だ。それを政治活動と呼ぶ感覚が理解できない。
吉田松陰は子供の頃玉木文之進の教えを受けている最中、頬に止まった蚊を追い払おうとしてきつい叱責を受けたという。世のための勉学という公の行いの最中に、自分の身を守るが如き私的な事に気を取られるとは何事か、というのだ。明治維新はこうした厳しい公私の別に支えられて成し遂げられた。
日本人が公私の区別を忘れようとしているのはどうしてか。いつ頃からそうなってしまったのだろうか。

2016年5月24日火曜日

お金

舛添さんに関する報道を見ていて二つの事を思った。一つは「それをお金で買いますか」という本、もう一つは維新三傑の西郷さんだ。
「それをお金で買いますか」は白熱教室で一世を風靡したマイケル・サンデルの著で「市場主義の限界」という副題がついている。市場とは売り手と買い手が合意のうえで物やサービスをお金と交換し、双方がメリットを得ている、それのどこがいけないんだという市場主義に対して、やっぱりどこかおかしいんじゃないのと反論する内容は実に面白い。東京五輪の招致を巡る問題もいつか考えてみたい。
お金は基本的には誰もが欲しがるものだが、お金の支払いがマイナスの効果をもたらすケースもある。例えば親戚の人が自宅に訪れた時に御馳走をふるまったとする。とてもおいしかったと言って、親戚の人が御礼としてお金を支払おうとしたらどうか。おそらく多くの人が怒り出すだろう。だが昨今の報道を見ているとひょっとして舛添さんなら喜んで受け取るかも知れない、そう思ったのだった。
都知事としての外遊の豪華さに関しては西郷さんとの対比を思った。明治維新を成し遂げて、参議となり、仲間が料亭から取り寄せた豪華な昼食を取るなかで、西郷さんだけは自宅から持ってきた大きな握り飯を食べていたという逸話がある。権威をかさにきた贅沢は西郷さんの対極にある。
お金の限界は愛情を越えられないところにあると思う。友情はお金では買えないし、誕生祝にお金はふさわしくない。愛情に接することのない人生はお金至上主義の感覚を生むのだろうか?市場主義ならぬお金至上主義か。
西郷さんが昨今の報道を聞いたら、きっと憐れみに充ちた眼差しで舛添さんを見てこうつぶやくに違いない。「可哀相になあ」

2016年5月17日火曜日

英語番組

NHKの教育テレビに「スーパープレゼンテーション」という番組がある。難病の克服などの特異な体験談や、大学や企業でのユニークな研究成果などが聞けて私のお気に入りの一つだ。
直近のテーマは「史上最長の研究が明かす幸福な人生の秘密」というものでハーバード大学成人発達研究所の教授が幸福とは何かについて話した。当研究所は七五年前ハーバードの学生から貧民街の少年まで七百余名の若者を選んでその人生を追跡する研究を始めた。今では研究対象は数千人に広がっているとの事だが、各人の人生を追って人間にとって幸福とは何かを究明しようとしている。
それによると一般に短絡的に考える富や名声が幸福をもたらすという事はないようだ。幸福の一番の要因は良い人間関係であると。家族や地域社会との良好な人間関係、それこそが人を健康にし幸福にするという。どこかの都知事のように、富も名声も得たように見える人が、名声を失うリスクを犯してまで限りなく黒に近い金を求める心理は面妖だが。
さてこの番組今年の四月から改悪としか思えないような変化があった。それはプレゼンテーターの話が日本語吹替えになって、オリジナルの英語が聞えなくなった事だ。副音声を使えばいいとの事だが、ニュースとスポーツ中継以外は基本的に録画して見る私にとって副音声が使えないのは辛い。
NHKは英語の普及をどう考えているのか。ドキュメンタリー番組ではネイティブな英語には日本語の吹替えをオーバーラップさせて聞えなくして、NHKの記者の下手な英語はそのまま流している。まさか元の発言を意訳して、都合の良いようなニュアンスに変えて流しているのではあるまいが。熊本地震では川内原発近辺で大きな揺れがあった事を敢えて報道しなかったようだし。

2016年5月10日火曜日

米大統領

アメリカの大統領と言えば偉人揃いだと思っていたが、どうやらそうでもないようだ。それとも今回だけが異常なのだろうか。
トランプ氏が共和党の大統領候補にほぼ決まりだという。ああいう主張が受けるところを見るとアメリカ社会の内部に巣食う問題の大きさが分かろうというものだ。
トランプ氏もトランプ氏だが、その対立候補クルーズ氏だって五十歩百歩だった。何故か新聞やテレビではクルーズ氏の主張が報道されることがなく、私が目にした唯一の情報は週刊文春に掲載された池上彰氏のコラム記事だが、それによると関係修復が見え始めたイランと再度敵対するリスクを犯してもイスラエルに肩入れしようとしたり、進化論を教えるような学校には子供を通わせたくないという親の意見を取り入れたり、普通の感覚からはまともと思えないような主張をしていたそうだ。キリスト教右派の考えを代弁しているとの事だが、それでは多数の賛同を得るのは難しかろう。
対する民主党のクリントン氏にしてもTPPに賛成なのか反対なのか、彼女の主張はそれが正しいかどうかの信念よりも、票につながるかどうかを基準にしているようで、ただただしらける。八年前の予備選でも対立候補を「シェイム・オン・ユー・オバマ」などと口汚くののしるような人だから、権力の亡者、虚栄の塊というのが彼女の姿なのかも知れない。
それにしてもトランプ氏が大統領になるのは最悪のシナリオだ。彼は「Make America great again(アメリカを再び偉大にする。)」と言っているが、国境に壁を作ったり、守ってやるから金を出せとヤクザまがいの事を言ったりするのが偉大な国のする事か。まさかgreat(偉大)とgreed(欲深)を間違えている訳ではないんでしょうね。

2016年5月3日火曜日

野生生物

帰省時の夜の無聊の慰めにテレビ番組を録画しておくのだが、その中に「新島誕生 西乃島」というドキュメンタリー番組があった。未だに噴火拡大を続ける西乃島の実態を報じるもので、中で特に感心したのはこの島だけに生息していたというアオツラカツオドリが彼等にとっては大災害であるこの事態に耐え、島で生き延び、世代交代を果たしている事だった。かつて緑豊かだった島は溶岩流に襲われ今は草一本生えていない。その中、恐らく海の生き物を糧にしていたのだろう、他の鳥が落とした羽を巣の材料に利用しながら若鳥に餌をやる親鳥の姿が無人カメラに収められていた。
渡り鳥が何の目印もないのに方向を間違えずに飛んでいったり、鮭が自分の生れた川を忘れずに遡上したり、野生の生物は我々が考えている以上に賢く生命力に溢れている。
「量子力学で生命の謎を解く」は生命現象の不思議を最新の科学で解き明かそうとした本で、恐らく私にとって今年の一番になるだろう。これによると、植物の光合成や動物の呼吸、嗅覚や視覚、聴覚などは量子力学の現象、つまりトンネル効果や量子のもつれがないと説明できないと言う。そして「死はもしかしたら、生命体が秩序立った量子の世界との結びつきを断ち切られ、熱力学のランダムな力に対抗するパワーを失うことなのかもしれない。」とも。
中国映画「唐山大地震」では大地震前の鳥や虫の異常な行動が描かれる。それが史実かどうか知らないが、野生生物が我々の知らない神秘的な力を備えている事は確かなようだ。今回の熊本地震でもひょっとした山の奥深くでは野生生物に何らかの異常が見られたのではないだろうか。
地盤の変異を測定する工学的アプローチが機能しないなら、野生生物を注視するのも一つの方法かもしれない。

2016年4月26日火曜日

地震

熊本の地震は発生から十日以上たっても未だ全くおさまる気配を見せない。被災地の方々の心中を察するに言葉もない。ただただお見舞い申し上げる次第である。
それにしても現代の観測技術や知見を以ってしても全く将来の見通しが立たないとはどういう事だろうか。トンネルの向こうに少しでも灯りが見えれば、辛い避難生活にも希望が持てるだろうに。
かかる状況で全く予測不能であるとなると、そもそも地震の予知なんて絶対無理なのではないかと思われてならない。熊本大分の限られた地域に注目して全神経を集中しても予知が出来ないのであれば、日本列島のどこで起こるか分からない、場所を特定しない予知なんて出来るわけがない。しかもこの地域は阿蘇山の関係で他の地域より多くの観測機器が設置され、より多くの情報が入手できる場所だ。そこで駄目なら観測機器がより疎な場所での予知なんて出来るわけがない。
ニュースで報道される、横軸に時間経過を取って、縦軸に地震の回数を表示する累積グラフにも疑問を感じる。地震の回数を累積して何の役に立つと言うのか?縦軸にどうしてエルグをとらないのだろう。素人考えかも知れないが地震のマグニチュードから計算されたエネルギーを累積し解放されたエネルギーと地震発生前に蓄積されたエネルギー(これは当該地盤の弾性係数と、GPSで測定した地盤の変位データから推定できるはず)とを比較すれば何らかの見通しがでるのではないか。
地震発生後、当初気象庁の会見を担当したのは地震津波監視課長だった。しばらくして次には地震予知情報課長に代わった。課名が長いのを見ると職務が細分化されすぎているのではという危惧を感じる。勿論そんな事は下種の勘ぐりにすぎないのだろうが。

2016年4月19日火曜日

皆様色々な会に入っておられることかと思う。県人会であったりテニスの同好会であったり。会費は年間数千円のものから様々だろうが、中で特に会費の高い会は何だろう。サラリーマンの中では特別な高級取りでなくとも年間数百万円も会費を払っている会がある。しかもそれからの脱退は許されない。生まれた時から入会を義務付けられ、余程の事がない限り死ぬまで会員であり続けなければならない。その会は国家という名前で、その会費は通常税と呼ばれる。
勿論会費が高いだけあって国家は様々な便益を会員である国民に与えてくれる。何より生活の安全を確保してくれるし、生活を快適にするためのインフラや教育などの社会システムを提供してくれる。こうした便益が会費に見合っていると多くの人が思っていれば良いが、そのバランスが崩れ会費に見合っただけの便益が提供されないと皆が感じると、会の運営担当者を交代させようと、政権交代や激しい時には革命が起きる。
会の運営者である政府首脳がタックスヘイブンに逃れ、会費の支払いを避けようとするのは自己否定に等しい。法人がタックスヘイブンに逃れたい気持ちは分からなくもないが、会費を払いたくないのなら、便益は諦めるべきだ。タダ乗りはいただけない。

本来なら各国が出来るだけ安い会費で最大の便益を提供すべく競争すべきなのだ。現在は言葉の壁に守られて国家は安穏としているが、人工知能による自動翻訳で言葉の壁が取り除かれて、国民が自由に自分の住みたい国へ移動を始めたら国家は真剣に会費当りの便益最大化を考えるのではないか。夏涼しくて冬暖かく治安も良いカリフォルニアのように好条件の場所はやはり会費が高くなるのだろうなあ。でもそうやって需要と供給の関係で税率が決まるなんて面白いと思うのですが。

2016年4月12日火曜日

東工大と英語

新年度を迎え入社式や入学式の様子が伝えられている。東京工業大学では新入生を歓迎する学長の挨拶が英語で行われたそうだ。英語教育に力を入れるのは結構な事だとは思うのだが、ちょっと違和感を禁じえなかった。時代錯誤ではないか、とも思うのだ。何故ならあと十年もすればAIによる自動翻訳で言葉の壁はなくなるのではないかと思うから。
ここ数回取り上げている人工知能だが、その応用分野として有力な一つに自動翻訳がある。既に二〇一二年マイクロソフト社の研究者が中国の天津で行った講演では、その内容がAIによって同時通訳され、しかも講演者の肉声に近い音でスピーカーから流されて会場のどよめきを誘ったと言う。機械に人間の言葉を理解させる技術はもの凄い勢いで進歩している。
私のスマホにはグーグルが開発した音声認識装置が搭載されているが、「自民党の」と「自民と宇野」をちゃんと聞き分けてくれる。この二つは昔キーボードから入力した際に誤変換されたものだ。音声の抑揚までも判断材料にしている事が分かる。
専門家によれば現在は言葉の出現頻度を統計分析して他言語に置き換えているだけだが、もうすぐ意味を理解して翻訳できるようになるだろう、との事。あと十年もすれば小型翻訳機を携えて海外旅行が楽しめるようになるかも知れない。

文学作品の翻訳には人間ならではの微妙なニュアンスがあるが、学術論文なら翻訳は人工知能に任せておけばいい。東工大に入るような優秀な頭脳を英語で煩わせるような事をしたくない。かつてソ連が宇宙開発でトップを走っていた時、工学系の学生にロシア語熱が高まった事がある。東工大の目指すべきはMITやハーバードの学生が日本語を勉強したくなるような、そんな成果を出すことではないのか。

2016年4月5日火曜日

地図と医者(続き)

二十年ほど前、ある物流センターの計画に際して最適立地を検討するためデジタル化された地図情報が必要になった。運営コストを最小化するため道路の情報をコンピュータに入れ、車両運行のシミュレーションを行うためだった。その道路情報は当時何百万円もしてとても個人で手の出るものではなかった。それが今ではカーナビに組み込まれ誰でも利用できるようになっている。
病気を診断したり、健康チェックしたりするシステムも同じように急激に価格が下がるだろう。血液や尿の検査をする装置も需要が増えれば価格も桁違いに下がるに違いない。三度の食事の写真から栄養チェックする画像認識技術もその内現われるだろう。脈拍や血圧をデータとして蓄積するウェアラブル端末は既にある。
個人の健康に関するデータをコンピュータに取り込む技術は最早特別なブレークスルーはなくとも実現可能なものばかりだ。ゲノム情報も取り込まれるだろう。今までの問題はそうして集めた膨大なデータを分析判断する能力が人間にはない事だった。しかしビッグデータの取り扱いこそコンピュータが得意とする分野である。
毎日個人が記録する膨大なデータ、それをさらに何億人分も集め、どういう傾向の人がどういう病気になったのか、特徴量をコンピュータが見つけ、診断知識を蓄えて行く。囲碁の名人を負かした人工知能は医者の名人も負かすに違いない。注射や手術など治療分野はともかく、予防医療、診断、投薬の分野では人間の出る幕はなくなるだろう。
殆ど全ての車にカーナビが標準装備されているように、近い将来人工知能による健康チェックシステムを全ての人が持つようになるだろう。私の臨終の際に脈を取るのはひょっとしたら人工知能を搭載したコンピュータかも知れないのだ。

2016年3月29日火曜日

地図と医者

イ・セドル九段が人工知能に完敗したのは、ある程度予測できた事とは言え矢張り衝撃的だった。この結果を見て私が思ったのは、カーナビの出現によって地図が役割を失ったように近い将来医者が役割(の大部分)を失うだろうという事だった。
イ・セドル九段を破ったアルファGOの最も画期的なところはコンピュータが自分で知識を作り出して行くところだ。
私が人工知能と本格的に向き合ったのは三十五年前スタンフォード大学への留学を命じられた時だ。当時人工知能は主にエキスパートシステムという名前で呼ばれ、専門家(エキスパート)の持つ知識をコンピュータに移植しようと言う試みがなされていた。私は「人工知能を施設計画に活かす方法を勉強して来い」との使命でエキスパートシステムのメッカであるスタンフォード大学へ赴いた。私が教えを受けたのはジョン・クンツと言い、彼はエキスパートシステムの父と言われたファイゲンバウムの愛弟子だった。ジョンに連れられてファイゲンバウムと直に話した経験は私の数少ない誇りとなっている。
当初コンピュータに移植すべき専門知識として選ばれたのは有機化合物の分析や病気の診断などだった。特に伝染性の血液疾患を診断するMYCINは有名で、当時の稚拙なコンピュータの能力であっても65%の正しさで診断結果を出し、並みの医者より好成績だった。
その頃は「If Thenルール」という形で知識を表現し、人間が機械に知識を教え込まなければいけなかった。しかしアルファGOに代表されるように最近のシステムは沢山のサンプルから特徴量を自分で見つけ出し、そこから知識を生み出して行く。沢山の症例を提示して病気の診断をさせる事は恐らく碁を打つより簡単だ。紙面が尽きた。続きは次号に。

2016年3月22日火曜日

民進党

「A氏の××党を中心とする□□体制に反対するという点以外に共通点は乏しく、B氏・C氏らの改憲派とD氏・E氏の護憲派の対立に代表されるように様々な内部対立を抱えていた。そのため路線は揺れ動き、F氏らのグループとの連携を試みるも首班候補を巡って決裂し(以下略)」
ウィキペディアの「かつて存在した日本の政党」というカテゴリーの中でみつけた、ある政党に関する記述である。その名は改進党。昭和二十七年二月に国民民主党、新政クラブ、農民協同党が合同して結成され、約二年半後与党内のF氏(鳩山一郎)のグループと合流して日本民主党を作る事によって改進党は解散した。
歴史は繰り返すのだろうか。
民進党か立憲民主党かの世論調査で、どちらが行った調査も支持の合計が半分に満たない。民主党の調査では民進党が24.0%、立憲民主党が18.7%で合計42.7%。維新の党の調査では25.9%と20.9%で合計46.8%。他にどんな選択肢があったか定かではないが、「どっちでもいい」が多くの人の本音ではなかったかと推察する。私が当事者なら恥ずかしくて発表をためらっただろう。
一九九三年細川政権の成立で五十五年体制が崩壊し、新党さきがけ、新生党、新党みらい、新進党、太陽党、新党友愛、自由党、保守党、国民新党、みんなの党、たちあがれ日本、太陽の党、などが出来ては消えた。その存続期間は平均で3.26年。一番長いのが新党さきがけの8.58年。(ただし、鳩山・菅らの離脱で実質的に終わっているとすれば3.28年)最短は新党友愛の0.32年。民進党がこの平均以上に存続してくれればいいのだが。
(冒頭の伏せ文字は以下の通り。A氏=吉田茂、××党=自由党、□□体制=戦後体制、B氏・C氏=重光・大麻、D氏・E氏=三木・松村)

2016年3月15日火曜日

当事者意識

当事者意識に欠けた言動に接すると一瞬眼や耳を疑い、次にとてもしらけた気持ちになる。
広島の中学校で起きた生徒の非行履歴の誤認問題。記録された生徒の名前が間違っている事が指摘されながら、誰がデータの修正を行うかの役割分担が不明確でそのまま放置されたとか。それで一人の生徒の命がなくなったとすれば、これは一種の業務上過失致死と言っていいのではないか。関係する何人かの教員の内、一人でも生徒の身になって親身に自分の問題として対処する気持ちがあれば防げたはずだ。教員同士では普段一体どういう会話をしているのだろう。誤記録について情報が流通するコミュニティーはなかったのか。担当の教員は教え子の過去について周りの同僚に相談する気になれなかったのか。そうすれば誤記録に気付く機会もあったはずだ。
高浜原発停止命令に関しては、事故後の避難計画に問題があるのでは、との指摘に対して原子力規制委員会の田中委員長が「計画を作るのは自治体の役割」と発言したそうだ。自分の役割は基準を作る事であって、それは世界最高水準だからそれ以外は知らない、とでも言うのだろうか。そもそも本当に最高水準にあるのかどうか私は疑問に思っているが(三七四回「原発と大本営」参照)、仮にそうであったとしても原発の安全性は万が一の時の住民の安全な避難が担保されて初めて達成されるものだ。関係者全員がその大きな目標に向かって自分の持ち場以外の場所にも抜かりがないか目を光らせていないと、原発事故による被害は避けられないと思う。
自分の役割以外の事は知りません、などと言って幸せになった人は一人もいない。役割の先にある真の目的に向かって為すべき事を問うて初めて責任を全うできる。歴史を見れば誰でもわかるはずだ。

2016年3月8日火曜日

往診

木曜未明の事、ベッドから立ち上がろうとして腰に激痛が走った。背筋が痙攣したように痛む。スポーツの最中に脚がつった時の痛みに似ている。とにかく立ち上がることが出来ない。幸い横になっている分には腰に多少の違和感はあるものの痛みは激しくないので、朝になるのを待って枕元の携帯でその日の予定のキャンセルとお詫びを入れ、さてどうやって病院へ行ったものか思案した。ともかく一階まで這って降りて救急車を呼ぶしかないか。だけどパジャマ姿で運び出されるのは嫌だし。かといって着替えは到底出来ない。その時頭をかすめたのが往診という言葉だった。
こんな時往診してくれるお医者さんがいたらどんなに嬉しい事だろう。そもそも病院へ行く、というのは病院へ行くだけの体力のある人にしか出来ない事だ。体力の弱った患者が家にじっとしていて、元気なお医者さんが移動して見て回る往診制度は実に理に適ったものではないか。事実私が幼少の頃おばあさんが普段は使わない客間用の南の座敷に寝かされて往診を受けていたのを思い出す。あの頃は患者の数に比べてお医者さんの数が余っていたとでも言うのだろうか?
経済合理性から考えれば、治療という価値の高い機能を効率良く稼動させるため医師がじっとしていて患者がくるくる回転した方が良いに決まっている。体力がなくて通院できない人には入院という制度が用意されている、というのが現代の医療システムの基本か。

救急車は脳や心臓の疾患で一刻を争う人のためにあって、服装を気にする余裕のある人が利用するものではないとは思うが、それにしても救急車に医師が同乗し、往診的な応急処置を施してくれたらどんなにいいだろう。翌日痛みがいくらか治まり、必要性が減った治療を受けに通院した私はそう思った。

2016年3月1日火曜日

抽選

抽選とは本来「抽籤」と書いて文字通り「籤を抽く」事を意味する。(「抽」は穴から手でひきぬく事を意味する字)だが「籤」が当用漢字に採用されなかったため、音が同じ「選」を代用した当て字を作った。その事情をNHKの松江放送局は御存知ないのだろうか。
二月二十一日松江市総合体育館で「松岡修造のテニスパーク」が催された。中には「修造にチャレンジ」の企画があって、当日正午までに申し込めば20名が「抽選」で選ばれて松岡修造と一球打ち合えるのだと言う。前日のテレビでそれを知った私は妹と約束していた昼食会をキャンセルして松江に向かった。申し込み用紙に住所、氏名、年齢、性別を書いて半券を貰う。当選発表を見て驚いた。
人選結果を見ると明らかに主催者側の意図が垣間見える。小学生が半分、残りは中高生と四十代までの成人が半分づつ。もし無作為に抽選していたらこんなに綺麗な構成になるはずがない。
確かに主催者としたら出た人に怪我でもされたら困るから六十過ぎの老人を選びたくないのは分かる。人選にあたって抽選が最適な方法でない事も分かる。新入社員を選ぶのに抽選する会社はないだろう。応募者の属性を詳しく吟味し自分の思いに適った人を選ぶはずだ。そうした手続きは「選考」と言う。これも本来は「銓衡」と書くべきだが当用漢字にないための当て字である。「銓」は分銅、「衡」は量り竿を意味し、あれこれ比べて最適のものを選ぶ事を表す。NHKは応募要項にはこの言葉を使うべきだった。
抽選というからには応募用紙を全部箱の中に入れて、衆目の集まるなかで無作為に当たり籤を抽いて欲しかった。年齢を基準にした考慮した選考が行われるのが分かっていれば、約束をドタキャンして妹に借りを作る必要はなかったのに。

2016年2月23日火曜日

昨今

元スポーツ選手の芸能人が覚醒剤疑惑で捕まったかと思えば、どこかの町会議員が同じく覚醒剤疑惑で逮捕された。芸能人の不倫が騒動されると今度は国会議員の不倫騒動が持ち上がった。芸能人と議員とは似た者同士なのだろうか。
確かにどちらもそれなりに野心がないとなれない職業だし、自己顕示欲は旺盛で自負も自信もある人達だ。不倫も覚醒剤も小心者にはなかなか手が出せない。勿論スキャンダルを提供する人は極わずかで、少ない例外で全体を判断する愚は気を付けないといけないが。
ところで不倫という言葉、昔は浮気という言葉が一般的だったような気がする。日本国語大辞典を見ると「不倫」は一九〇三年の国木田独歩の「正直者」という作品が初見で、「浮気」は十七世紀頃から使われていた言葉らしい。その他和語では「みそかごと」という言葉が十二世紀前半に成立した大鏡に見られるとか。いずれも「男女がひそかに情を通じ合うこと」と言った解説がある。
「情を通ず」の項を調べるとすぐそばに「情が通う」という見出しがあって「相手に接しているうちに愛情や親しみを持つようになる」という解説がある。「情を通わす」のと「情が通う」とはエライ違いのようだ。
北原白秋と俊子の場合はおそらく「情が通う」ケースだったのだろうが、もし今のマスコミが二人の事件を嗅ぎ付けたらやはり興味本位に書き立てるのだろうか。
それにしてもどの事件も当事者の私信が当たり前のように暴露されるのには驚く。刑法第百三十三条には信書開封の罪というのがあって「正当な理由がないのに、封をしてある信書を開けた者は一年以下の懲役云々」となっている。保護法益を考えればメールの暴露も同罪と思うのだが・・・
なんて事を徒然なるままに思い巡らす昨今ではある。

2016年2月16日火曜日

経年変化

手元のメモによると去年十月のニュースだが、凶悪犯の指名手配写真について、長らく未解決のものは年数の経過と共に犯人も老けている筈だから、犯人の老けた顔を予測して公開する技術が開発されたとの事だった。そのニュースを見て最初に思ったのは、そんな素晴らしい技術があるのなら、見合い写真に将来の予測も添付したらどうかという事だった。
冗談はさておき、何年か経った後の姿が正確に予測できるならそれは大変貴重な情報を提供するはずだ。まず思い浮かべるのは鞄や財布などの革製品。良い素材を使って丁寧に仕上げられた立派な製品は使い込めば使い込むほど艶が出て、味が出て、より強い愛着を感じるようになる。ところがどこかの新興国の安物はちょっと使っただけでほつれて色あせして見るも無残な姿をさらけ出す。
職人技ほど違いが顕著ではないにしても一般工業製品でも厳しい品質管理の元で作製された製品はやはり持ちが違う。全ての商品について販売する際に十年後二十年後の姿を添付することを義務付けたら粗悪品が駆逐されて健全な市場形成に役立つのではないか。
人間の場合どうか。年を重ねるごとに人間としての魅力を増す人もいれば、畳と女房は新しい方がいい、なんて事を言う人もいる。十代の頃の魅力と六十代での魅力とに必ずしも正の相関があるわけではない事は同窓会に出てみるとよく分かる。小学生の頃目立たなかった女性がとても魅力的なご婦人になっていたりする。人間の容姿の経年変化はおそらくその人が過ごした時間の中身に関係する。美しく齢を重ねた人はきっと充実した幸福な人生を歩んできたのだろう。
自分の伴侶を美しく老けさせたいのなら、幸福な日々をプレゼントすべく自らを律するしかなかったのだ。もう手遅れだけど。

2016年2月9日火曜日

喫煙放屁論

喫煙による弊害を過大視するあまり、喫煙シーンを含む映画を子供たちに見せないようにしようとする動きがあるらしい。テレビのワイドショーで取り上げられて、視聴者からの賛否を問うていたが、制限に反対する意見が三対一くらいの割合で賛成を上回って安心した。
こういうことを発案する人は所謂差別用語とされる放送禁止用語を耳にするときっと正義感に燃えて激怒するに違いない。だが、こういう人の方が弱者にたいするやさしい気遣いが苦手なのではないだろうかと、何の根拠もないが思ってしまう。
喫煙シーンを子供たちに見せないのは、まるで子供たちを無菌室で育てようとするようなものだ。流石にばい菌がウヨウヨいるような環境には子供たちを置きたくないから、極端な性や暴力のシーンを遠ざけたいのは分かる。だが時には泥んこ遊びもさせないと健全な発育が期待できないのでは。
実は私も喫煙の習慣を断つために苦労した記憶がある。自分の肺の病気では出来なかった禁煙だが、喘息気味の娘の迷惑になっている事に気付き成功した。その時思ったのは喫煙は放屁と同じだ、という事だ。
紫煙をくゆらす、などといかにも文化人的な格好良さを煙草に感じていたが、気が付いて見れば何の事はない、煙草を吸う事は屁をこく事と同じである。本人は気持ち良いかも知れないが周りの人には臭くて迷惑だ。だが、人によっては生理現象で我慢ならないこともあろうから、絶対にするなとは言わない。目くじらを立てて迫害するかのような扱いは大人気ない。ただ、まわりの迷惑を考えて出来れば隠れてこっそりやるべきなのだ。トイレに駆け込む時間がなくて公衆の中で放屁してしまう事が稀にある。この時私は周りの喫煙を黙認しようという気持ちになるのである。

2016年2月2日火曜日

人工知能

先月二十八日の夕刊、「人工知能が囲碁プロ破る」という記事が目に止まった。中国出身のプロ棋士(二段)と五回対戦し全勝したというから本物だ。
チェスは1997年にコンピュータが世界チャンピオンを負かし、将棋では2012年にプロが負けた。将棋の名人がコンピュータと対戦しないのはいたずらに時間稼ぎをしているだけに見えるがどうか。記事によると今年三月には韓国のイ・セドル九段と対戦する予定だそうだ。イ・セドル九段は私の見るところ現在世界最強の棋士だ。この対戦は見逃せない。
さて、ゲームの複雑さを表す場合の数はチェスが10120乗、将棋が10226乗、囲碁が10360乗なのだそうだ。ピンと来ないかも知れないが、万、億、兆、京と位が上がって一番大きな無量大数という位が1068乗にしか過ぎないから文字通り数え切れない数字だ。数字的にはチェスと将棋を掛け合わせたものより囲碁の方が難しいのだから記事に「予想より十年早く」と付記されていたのも頷ける。
年末十二月三十日には「AI芸術、著作権は?」と題して、人工知能が作り出した芸術作品の著作権の扱いに関する記事があり、人工知能が作った小説(ショートショート)が載っていた。星新一の作品を読ませ、特徴を学習させて作ったのだそうだ。流石にトルストイやドストエフスキーの小説を学習させるのは無理なのだろう。でも不思議なのはこの研究者がAIに小説を書かせようとした事で、どうして俳句や短歌ではなかったのか。

ともかく、いくら囲碁が強くてもそのソフトは五目並べは出来まい。機械の知能とはそんなものだ。そして何より「意識」がない。意識とは何か、意識の起源は科学界の大命題。まだまだ人類の知的好奇心が退屈することはなさそうだ。

2016年1月26日火曜日

無駄使い

今月十日の新聞に五輪エンブレムの候補が選ばれたとの記事が載った。見出しには「最終四候補 類似調査後に公開」とある。記事を読んでいくと「最終候補四点の商標調査には計八千万円かかる」らしい。どんな事をするのか知らないが、候補作品をすぐに公開すれば、類似調査はネット社会があっという間にしてくれるだろう。八千万円は無駄にしか思えないし、公開を遅らせる意味や目的がどうしても理解できない。
五輪の水泳や球技の競技場建設の予算が当初より何倍にも跳ね上がっているという報道にも疑問を感じる。五十年前の東京五輪の水泳と球技の会場は丹下健三による素晴らしい施設で行われた。今回建設される新国立競技場に関しては盛んに「レガシー」という言葉が使われるが、あの丹下作品こそまさに「レガシー」と呼ぶに相応しいものだった。それを今度使わないというのはどういう理由からだろうか。
「レガシー」という言葉を英英辞典で引いてみると「(死んだ人から貰う)遺産」とか「過去から引き継いだもの」として「植民地政策の遺産」などの用例が載っている。必ずしも価値あるものには限らないようなのだが、でも来る東京五輪のために建設する施設を「レガシー」にするというのは価値あるものを作りたいという決意表明だろう。しかし代々木にある丹下作品を凌駕する「レガシー」を残すのは容易ではないと思われる。その最高級の「レガシー」すら生かされないという事は、今回作る「レガシー」も将来はお払い箱になる運命だとしか思えない。
今回の大会だけのために作る施設なら、サーカス小屋のような仮設で済ませ、万博のように会期が終わったら解体撤去するのも一つの方法ではないか。そうすればその運営方法こそが「レガシー」になるかも知れない。

2016年1月19日火曜日

ヒラリー

米大統領選挙、民主党の指名争いはヒラリー・クリントンで決まりかと思っていたが、バーニー・サンダース氏の追い上げで予断を許さない状況のようだ。「ヒラリー危うし」の感を持ったのは彼女の演説が今いち面白みにかけるからだ。
彼女がもし当選するとかつてのレーガン大統領に次ぐ高齢となる。その事は当然本人も周囲も意識しているのだろう、演説で彼女はこう言った。「確かに私は候補者の中で最も若いという訳ではない。だがもし私が当選したら、最も若い女性大統領になるだろう。」
おなじく高齢を危惧されたレーガンの対応は格好良かった。彼は対立候補との討論会で相手が年齢を争点にしようとした時、機先を制するかのように「いや、年齢は問題にならないと思う。たとえ貴方が若く経験が浅く政治的に未熟であるとしても私はそれを問題にしようとは思わない。」とやり込めた。それに対してヒラリーは若さに価値がある事を認めている。それでは負けを認めたようなものではないか。
また彼女はこんな発言もしている。「当選者がホワイト・ハウスに入るときは新大統領として意気盛んだが、中で苦労を重ねると次第に白髪が増えてくる。だが私にそんな心配は要らない。もう何年も髪を染めているから。」確かにオバマ大統領の頭に白髪が目立ち始めた。でも仲間を揶揄するような発言に私はユーモアを感じない。
彼女に関する小話の方が彼女らしくてずっと面白い。
夫であるビル・クリントンと二人で故郷に帰ってあるレストランに入るとかつての恋人がウェイターをやっていた。ビルが言う「どうだい、ヒラリー。もし彼と結婚していたら今頃君はウェイターの妻だぜ。」それに対してヒラリー曰く「何言っているの。もし彼と結婚していたら今頃彼が大統領になってるわ。」

2016年1月12日火曜日

いつか

自分の生まれ育った家が河川工事のため解体撤去されるという事件は少なからず私の人生観に影響を与えた。その話はかなりの昔から予定されている事だった。私が中学生の頃から、つまり五十年くらい前から母は「どうせいつかここは川になる」と口癖のように言っていた。子供心に「ああ、そうなんだ」と思いながら、だがそれはいつ来るか分からない遠い将来の事のようだった。まるでいつ来るか分からない自分の死のように。
事態が急転したのは一昨年の事、春に近隣住民を対象にした説明会が開かれ、そこで工事の概要と移転の時期が具体的に示された時だった。いつかは来るとは思いながら、いつ来るか分からなかったものが、いきなり何年何月と期限を切られると、まるで医者から余命何年と宣告されたような気分になったものだ。
その時から自分の人生が有限のものであることを改めて痛感した。本棚に並んでいる本を眺めて「この本は多分死ぬまで読まないだろうなあ」などと思い始めたのもその頃だ。かつては人間にとって死が不可避なものである事を観念的には分かっていても、自分の人生は無限にあるような気がして、ちょっと面白そうな本があると「いつか読もう」と思って気軽に買っていた。そうした本が本棚に並んでいる。そしてその「いつか」は恐らく来ない。
自分の人生の有限性を実感すると、物に対する執着がなくなってくる。部屋の片隅に溜まった物をゴミとして出すことが快感になる。雑巾は洗わない。一度使って使い捨て。何故ならちょっとくたびれたタオルや下着など雑巾予備軍がわんさか控えているからだ。
ミニマリストという生き方にこの頃関心がある。いつかそれを実践して何か御報告できたら、と思う。

2016年1月5日火曜日

断捨離

あけましておめでとうございます。本年も変わらずの御愛顧をお願い申し上げます。
最近あまり聞かなくなったが「断捨離」という言葉がはやった事があった。流行に流されるのが嫌いなのと、良く見ると結局何かを売りたい下心が見え見えで、あの頃は歯牙にもかけなかったが今年は断捨離を余儀なくされそうだ。
平田の実家が河川工事のため立ち退きを迫られているからで、帰省の度に古い布団や両親の衣類などを出雲のエネルギーセンターに持ち込み、1キロ5円で引き取って貰っている。母の衣装でまだ着れるのではと思うものは古着屋に持っていくと、こちらは1キロ1円で買ってくれる。先日は衣装箱五箱を持ち込んで合計21キロ、21円を貰った。母が買うとき支払ったお金を想像するとちょっと悲しくなった。
平田の物を処分し始めると、埼玉の家にも不要な物が溢れているように見える。これらがなくなったらもっと気持ちよく暮らせるかもなあ、と。物と豊かさの関係はちょっとパラドックス的な関係にあるのではないか。物が多いほど貧しく、豊かな生活ほど物が少ないように見える。
かつて東西冷戦の頃ソ連がプロパガンダ映像としてアメリカのスラム街の様子を国内に流した。資本主義社会の矛盾を知らしめようとしたのだが、それを見たソ連国民はロープにつるして干される下着の数に驚き「アメリカでは極貧の人でもあんなに沢山の下着を持っているのか」と政府の思惑とは真逆の印象を持ったという逸話が残っている。
今でもテレビニュースで貧しい家庭が映ると部屋の中が雑然と物で溢れているケースが多く、住宅の宣伝やドラマで出てくる上流家庭の部屋は逆に物がうんと少ない。
物を捨てれば捨てるほど豊かになれるのだ、そう信じて断捨離を実行するしかなさそうだ。