2021年12月28日火曜日

この一年

 

今年も残すところあとわずか、振り返って今年の我が家の十大ニュースは何だっただろうかと考えている。毎年家族が集まる新年会でそれを披露するのを恒例行事にしているからだ。孫たちの小学中学高校への入学などいろんな事があったが、今年のトップニュースは何といっても家族全員がコロナと無縁で過ごせた事としたい。日本国内に限って言えばようやくコロナも下火になり、どうかこのまま収束して欲しいと願うばかりである。

さて、例年紹介しているその年一番印象に残った映画や本であるが、映画は三月に当コラムで取り上げた「東京裁判」を超えるものはなかった。歴史とは評論されるものを無批判に受け入れるのではなく、事実を多面的な視点から見る事が大切だと思わされた。本で印象に残ったのは原田伊織氏の「明治維新という過ち」や「官賊と幕臣たち」などの一連の著作、小島寛之氏の「世界は素数で出来ている」などの一連の著作だ。前者は題名からも想像されるが、明治維新は薩長が創りあげた虚構で、薩長史観から抜け出せと警告を鳴らしている。明治期、旧幕臣が活躍した事は大河ドラマでも取り上げられた。歴史が勝者によって都合の良いように書き換えられるのは当たり前の事で、古事記や日本書紀による藤原史観もその一つかも知れない。

小島氏の著作は私の中の数学愛を呼び覚ました。素数が如何に素敵な数なのか。素数があるからこそ安心してネットで買い物が出来る。そしてある本に書いてあった「整数は掛け算だと素因数分解で一意に表せるが、足し算ではそうならない」という事実にも改めて驚いた。掛け算があるからこそ素数という概念が生まれる。それに気付いた時の驚きは今年一番のものだった。

では皆様、良い年をお迎えください。年明けは11日からお目にかかります。

2021年12月21日火曜日

ナビ不要論

 あれからカー用品店に最新のカーナビを買いに走ろうかと思ったが、いや待てよ、その必要はないのではと思いついた。そして前回の不用意な発言のお詫びの意味も込めて、舌の根も乾かぬうちにカーナビ不要論をぶつ事にする。ナビゲーションシステムそのものが不要だと言うのではなく、専用部品としてのカーナビは要らないという事だ。昨今ではスマホのカーナビアプリが十分にその機能を果たしてくれるから。

スマホのアプリなら常に情報が最新のものにアップデートされている。それはスマホがクラウドから情報を得ているからだ。クラウド、つまり雲とは良く言ったもので、どこにあるのか特定は難しいが兎に角どこか遠い所にあって、インターネットを介して全世界に情報を提供している。インターネットが出来て、しかも通信速度が飛躍的に速くなって、情報を保管する場所はどこでも良くなった。電気代や不動産価格などの経済的要素や災害や暴動などのリスクなどを勘案して世界中から最適な場所が選ばれている。設置国の公表を義務化するよう法改正があるとの記事を最近見た。

コンピュータ界の変化は専門家の予想すら遥かに超えるものだった。IBMの初代社長が「世界のコンピュータ市場は5台くらいだろう」と言ったという話は有名だし、マイクロソフトの創業者ビル・ゲイツは「パソコンのメモリは640KB以上を必要としない」と言った。今私のパソコンはその一万倍以上のメモリを持っている。今になって思えばそれらの予想が如何に馬鹿げたものだったか。

今後も情報技術は誰も予想できないような量と質の変化をして行くに違いない。取り敢えず数万円もするカーナビを買うのはやめて、スマホを車のダッシュボードに固定する器具とスマホに電源を供給するケーブルを数百円で調達する事にしよう。

2021年12月14日火曜日

ナビ

目的地までの道路を的確に案内してくれるナビゲーションシステム(以下ナビ)は今やタイヤやハンドルなどと同じくらい車にとって必須な構成部品ではないか。十年以上前の古いナビである地方都市を訪ね、改めてそう実感した。

初めて行く町を観光する時はまずその市役所を目指す事にしている。地方で市役所と言えば大体一番大きな建物で良く目立つし、駐車場も充分に用意されている。そこでその町の観光地図を入手して、どこをどう回るか作戦を立てようと言う算段である。

その日も市役所をナビに設定して出発した。ところが、目的地周辺に近づいてもそれらしき建物が見当たらない。近くにいた人に尋ねると「市役所は移転しました」というのだ。跡地には新しい建物が建っているからそれ程最近の事でもないのだろう。それを私のナビは知らなかった。観光を終えて、予約したホテルに行こうと電話番号を打ち込んだら「その番号は登録されていません」とナビは言う。驚いてホテルに問い合わせると「当ホテルは三年前に出来たばかりで古いナビだと登録されていないかも知れません」。住所も恐らく分筆したせいだろう、番地がナビに登録されてない。そもそもこの町に来るまでの高速道路をこのナビは知らなかった。紙の地図を頼りに自力で運転する事の何と疲れる事か。

車の部品が使用に耐えられるかどうかをチェックするために車検という制度がある。ナビも車検の対象にしなくて良いのか。今後自動運転の車が増えるだろう。その際、ナビが最新情報を持っていなかったら一体どうなるのだろう。道路は新しく作られる。建物だって移転も解体もするだろう。欧州なら国をまたいだ移動だってある。それらを網羅するのは可能なのか。自動運転車は知らない町へは行けないのだろうか。 

2021年12月12日日曜日

車での旅7:総括

 出雲から埼玉までの900km強を一気に走るより、三泊四日の行程にすれば疲れは四分の一で済むだろうと思ったのが大きな間違いだった。逆に疲れは四倍になった。

考えてみれば、パック旅行で観光と運転を一人でこなすようなものだ。

そもそも観光そのものが結構疲れる。ガイドさんの後についてあちこち歩き回ってホテルに着くと疲れが出て、夕食にビールを飲んで床に就けばすぐに眠れる。パック旅行なら次の日の運転は運転手さんがしてくれるが、一人だとそれも自分がやらねばならない。

しかも今回は博物館系の展示物を注意深く見て回る事を主体にしたのがいけなかった。のんびり城や庭を見て回る程度にしないと。

次回同じように出雲と埼玉を寄り道して行き来する時は、温泉地巡りと称して、温泉に浸かりながらの行程にしようと思った。

車での旅6:明治村

 舞鶴で一泊した後、明治村へ

明治村は建物だけでなく、中に展示された明治期の近代化の歩みを示すパネルが興味深かった。電信や医学や時計や鉄道等々。それらがどう日本に定着したのか。そしてブラジルやハワイへ移住して一旗あげようとした人達の苦労話も。(ハワイへ移住した人の数が広島、山口に多いのはどうしてだろうか?)
全部を読もうとすると疲れてしまう。園内を一万歩以上歩いて、漱石の書斎を再現した部屋に来た。「漱石になって写真を撮りましょう」とあったので、そうする事にした。



車での旅5:白樺日記

 舞鶴引揚記念館の感動物の一つが白樺日記だ。紙がないので白樺の樹皮に日記を綴る。ペンは空き缶を加工し、煤を水に溶かしてインクにしたという。そして短歌を書き綴った。シベリア抑留中の収容所の過酷さはユダヤ人の強制収容所にも匹敵するものだったと思うが、その中で日本人はこうして短歌を詠ったのだ。(短歌の一部は修正の紙が貼ってある。受託や「じゅたく」のルビは修正しないのだろうか?)



車での旅4:舞鶴引揚記念館

展示内容は感動を呼ぶ物が多いけど、入り口のすぐ上に掲げられたテレビのスライドショーが気になりました。
「ポツダム宣言を受託」えっ❗?「受託」❓そんなもの受託しちゃいかんだろう❗まるで米英ソの手先になったみたいだ。もし本当に受託したのなら「國體の護持を認める」とでも書けば良かった。
展示室にはちゃんと「受諾」になってたけど、敢えて「じゅたく」とルビが振ってある


なんかおかしい。昭和63年の開館以来関係者は真剣に見た事がないのだろうか?

車での旅3:福知山城

 鳥取で一泊した後、福知山経由で舞鶴へ

福知山城の石垣には墓石ではないかと思われる石が使われている。安土城へ行くと天守へ向かう道の側溝の石にお地蔵さんが使われていて驚くが、信長のそうした迷信を嫌う姿勢を光秀が見習ったのか、忠誠の証として追随したのか。それにしても城に立てられた「麒麟のいる町」という幟にはがっかりした。大河ドラマにそこまで阿る必要はないのに。


車での旅2:鳥取城

 鳥取城は32万石に相応しい石垣だった。



車での旅1:鳥取

 出雲から埼玉に帰るのにあちこち寄り道をしながら帰ってみようと思った。

まずは鳥取へ立ち寄り。前から鳥取城を見てみたいと思ってたから。

ナビで鳥取市役所を設定して出発したけど、ナビが連れて来た場所に市役所はない。聞けばかなり遠くに移転したとか。古いナビだから仕方ないかなあ。市役所跡地には県民文化会館が建っていて、そこで日替わりランチ税込550円也を頂くことにした。写真にアフターコーヒー付き。スタバならぬスナバコーヒーだ。


2021年12月7日火曜日

マン・マシン・インターフェース

 長ったらしい表題を直訳すれば「人と機械の境界面」、意訳すれば「機械の使い勝手」とでもなろうか。パソコンが出始めた頃良く聞いた。機械がいくら優秀でも、それを人間が使う際にうまく扱えないようでは使い物にならない。マニュアルなしでも使い方が直感的に分かって、しかも誤操作は未然に防止されるべし。パソコンの黎明期、多くに人が使い方に四苦八苦している時に、アップルが誰にでもすぐに使えるパソコンを世に出して、盛んに訴えた事だった。

今、自動車のアップル版を待望する。それは連日のように高齢ドライバーによる事故が報道されるからだ。曰く「ブレーキとアクセルの踏み間違いが原因だ」と。これ程毎度踏み間違いが起きるのにそれが一向に改善される事なく、とにかく高齢者には運転させないようにしようという世論だけが大きくなるのは如何なものか。高齢者だって必要に迫られて運転している訳で、伊達や酔狂で運転している訳ではない。社会全体の最適解は、踏み間違いが起きないような構造に、自動車のマン・マシン・インターフェースを改善する事ではないか。

ちょっとしたミスが大事故につながるという点では、火薬とマッチを同じ場所に大量に保管するようなもので、こうした事が長い間放置された事自体本来許されない。アメリカに行って最初に左ハンドルの車を運転した時に誰もが犯すミスは、右折しようとレバーを倒したらワイパーが作動したなんて事だが、この程度の間違いなら罪がない。慣れの問題からインターフェースの改変には躊躇する向きもあろうかと思う。しかしHV車では左程必然性があるとは思えないのにギアチェンジのやり方を大きく変えたではないか。

人命に関わる事だ。改善を切に願うものである。近いうち自分が免許を剥奪されないためにも。

2021年11月30日火曜日

長考

 いささか旧聞になるが藤井聡太当時三冠が竜王のタイトルを奪取し、史上最年少の四冠となった。数えてみたら当コラムで藤井四冠を話題にするのはもう九回目になる。それほど彼の将棋と立ち居振る舞いには感じるところが多い。

まずは将棋の方から。彼の将棋には感動がある、と過去にも書いた。将棋に感動するとはどういう事か、説明を求められて窮した事がある。竜王戦での感動も矢張りその読みの深さに由来する。第三局、角と銀が互いの行手を邪魔しあうように指した一見愚鈍な手が後に効いて最後に相手玉を詰ますのに役立ったり、第四局では豊島前竜王の指した一見機敏な2二歩が最後には自玉の逃げ場所を塞ぐ駒になっていたり、彼には千里眼が備わっているのかと思う。最初からそこまで見通していた訳ではないと思うが、既存の駒の配置を前提に最善を求めた結果なのだと思う。過去を肯定し、運を引き寄せる生き方に似てると思った。

それは長考の産物なのだろうが、局後の記者会見でも彼の長考が目立った。記者が発する質問に彼はしばらく長考し、そして最善手と思える回答を返す。私が一番緊張したのは「次の目標は何ですか」という質問に対してだった。「そうですね・・・」と言ってしばらく考えこむ。

数ある将棋のタイトルの内、竜王が序列第一位と言われるが、それは主催社である読売新聞が多額の賞金を提示して勝ち得たものだ。普通に考えれば将棋の歴史と伝統を背景にして一番の格を持っているのは名人だ。竜王を取れば当然次の目標は名人になるはずだ。それが意地悪な記者の期待した答えだったかも知れない。が、そう言ってしまえば主催社に対して失礼になる。そんな悪手を指す藤井四冠ではない。長考の末彼が出した答えは「もっと強くなる事です。」だった。

2021年11月23日火曜日

朝三暮四

大谷翔平選手がメジャーリーグのMVPに満票で選ばれた。心から拍手を送りたい。今年の投打にわたる活躍を見れば当然の結果と言えるだろう。何よりも「やれば出来る」と見せた事が素晴らしい。過去にも堀内や桑田や松坂など二刀流に挑戦すれば成功したかも知れない選手がいたが、皆先入観に捕らわれたか敢えて挑戦しなかった。先入観を打ち破る勇気はどの分野でも、いつの時代でも素晴らしい。

その大谷選手の受賞インタビューを見ていたら、大谷選手の日本語でのコメントを現地テレビが英訳し、それをまた日本のテレビ局が同時通訳していた。日本のテレビ局に雇われた同時通訳者にとっては晴れの舞台で、全てを細大漏らさず通訳してやろうと待ち構えていたのだろうから、その勇み足をとやかく言う積りはないが、政府のやる事となると黙ってはいられない。

原油高騰でガソリン価格が上昇を続けている。その対策として石油元売り各社にガソリン1リットル当り5円の補助をする、というのだ。そのニュースを聞いた時は悪い冗談だと思った。そんな事をするくらいなら、ガソリンに賦課している税金を5円安くすれば良いだけではないか。ガソリンの小売価格の4割は税金だ。ガソリン税に石油石炭税に温暖化対策税に、しかもそうした税金にまで消費税を掛けている。思う存分ふんだくっておいて、有難く思えとばかり補助金にして返すとは朝三暮四で猿を騙した手口に似ている。日本語の英訳を和訳する以上に馬鹿げた話だ。

似た話は他にもある。

電気自動車もその一つに思える。電力が全て自然エネルギー由来ならともかく、石油を燃やして水を沸騰させてその力で電力を起こすくらいなら石油を直接内燃機関で利用した方がよほど効率的に思えてならない。

 


2021年11月16日火曜日

浦島太郎

 浦島太郎が竜宮城を辞したのはそこでの生活に飽きたからなのだろうか、それともお土産の玉手箱の懲罰的な色彩を考えると、本人はもっと居たかったのに追い出されてしまったのだろうか。「昔、昔、浦島は」で始まる歌の三番は

遊びに飽きて気が付いて

お暇乞いもそこそこに

帰る途中の楽しみは

土産に貰った玉手箱

と歌っているし、太宰治も「お伽草子」で以下のように書いている。

「さうして、浦島は、やがて飽きた。許される事に飽きたのかも知れない。陸上の貧しい生活が戀しくなつた。お互ひ他人の批評を氣にして、泣いたり怒つたり、ケチにこそこそ暮してゐる陸上の人たちが、たまらなく可憐で、さうして、何だか美しいもののやうにさへ思はれて來た。」

そして玉手箱の悲劇が何を意味するのか、パンドラの箱と対比しながら考察している。

いずれにしろ、贅沢な生活というものはいずれ飽きるものらしい。食事にしても、毎日ずっと食べる事を前提にすれば高価なステーキより梅干しにお茶漬けの方が飽きがこないような気がする。

美酒美食美女に囲まれた竜宮城の安穏な生活より、宮沢賢治のように「小サナ萓ブキノ小屋」に住み「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」、東西南北で起きる様々な事件に対処する事を通じて周囲の人々と交流し、多少の寒暖には負けない健康を持っている事こそ、幸せの極致かも知れない。

神様にしてみれば、幸福になりたいというから豊かな環境を与えてやったのにそれに飽きるなんて、人間はなんと身勝手かと呆れているに違いない。幸せは神様におねだりするものではなく、自分の努力で創り上げていくしかない、という事なのだろう。

2021年11月9日火曜日

天国

 幸福について色々考えている内に「天国」という言葉を思い出した。天国こそまさに幸福を保証する場所ではないだろうかと。

イスラム過激派によるテロが起きるたびに、彼等はジハード(聖戦)を行った者は天国に行けると信じているからこそあのような自爆テロを敢えて実行するのだ、と解説される。コーランを直接読んだ事はないが、解説書によれば彼等が憧れる天国の様子が次のように書かれているらしい。

「彼等(この世において信仰し,善行に励んだ人達)はそこで,こんこんと湧き出る泉のほとり,緑したたる木陰で,うるわしい乙女にかしずかれ,たくさんのおいしい食物や酒や飲物を心ゆくまで味わい,なんの気遣いもない生活を送る。」

お酒を禁じているイスラム教も天国なら許されるのかちょっと気になるが、「こんこんと湧き出る泉」や「緑したたる木陰」などはいかにも砂漠の宗教である事を感じさせる。アラビア半島の荒涼たる大地を一度見たら、それらを切望する気持ちが分かる。そして何より気になるのが「うるわしい乙女」だ。自爆テロの実行犯には時々女性もいる。彼女らも天国ではうるわしい乙女にかしずかれる事を夢見るのだろうか、それとも優しいイケメンが脳裏に浮かぶのか。

さて、そうした天国は本当に幸せなのだろうか。折角そうした環境にいながら、飽きてしまったのかそこから逃げ出した人がいる。浦島太郎だ。彼がいた竜宮城はまさに美酒美食美女に囲まれた世界だった。だがそこも一週間や十日ならともかく何か月も続くと退屈になるのだろうか。貧しくとも村の仲間との交流が恋しくなって浦島太郎は竜宮城を辞した。

いや白髪になるまでそこにいたという事は何十年も飽きる事がなかったという事を示しているのだろうか。

2021年11月2日火曜日

幸せ

小室夫妻の会見を見ても眞子さまの幸せへの心配が払拭される事は残念ながらなかった。が、今回はそれを離れ、一般に幸せとは、幸福とは何かについて考えてみたい。

各地の神社を訪れる度に、そこにぶら下げられている絵馬に書かれている事を読むのを密かな楽しみにしている。中には細かい字で自分の境遇を何枚にも渡ってびっしり書いてあるものもあった。全部は読まないがきっと最後には「だからこうして下さい」と書いてあるのだろう。そんな中で、一番多い願い事は「幸せになりたい」という事である。

さて、「幸せにして下さい」とお願いされた神様はその人にどうすれば良いのだろう。「志望校に合格したい」とか「思いを寄せるあの人と結ばれたい」とかなら神様も具体的対処が出来そうではあるが、「幸せになりたい」では神様もどうして良いか当惑されるように思う。「大金を入手したい」と書いた人が、愛する我が子を交通事故で失った代わりに多額の賠償金を得たという冗談めいた笑い話もある。

新明解国語辞典は「幸福」を「現在の環境に十分満足出来て、あえてそれ以上を望もうという気持ちを起こさないこと、またその状態」と説明している。ソフトバンクの孫社長は1兆円の利益を計上した決算発表の会場で「1兆や2兆で満足はしない」と豪語した。現状に満足しない孫さんは幸福ではないのか。それもちょっと違う。

幸せでない状態は容易に想像できる。大きな災害にあったり、飢えたり凍えたり。愛する人を失うのもそうだろう。要するに大切な何かが欠乏する状態だ。幸福の多義性と不幸な状態の明確さを鑑みると「幸福とは不幸ではない状態」と定義するしかないような気がする。

孫さんが不幸に見えないのは彼が足りないと感じているものがきっと大切なものではないからだろう。

2021年10月26日火曜日

心配

眞子さまのご結婚については「二人が好き合って結婚したいと言うのだから回りがとやかく言う事はない」という意見もある。それは一見寛容な意見に見えて、実は突き放した冷たい言葉なのではないだろうか。

私だって、もし当事者が眞子さまではなく芸能人の誰かであったならそう言うだろう。相手の男性がマザコンで経済力に疑問があろうが、打算の影が見え隠れしていようが、仮に何人もの女性を泣かせた事のある名うてのプレイボーイであろうが、二人が好き同士で一緒になりたいというなら一緒になれば良いのであって、その後本人がどうなろうが知った事ではない。だが、眞子さまには絶対に不幸になって頂きたくないのだ。皇室の誰かが不幸になる事は日本人全体が侮辱されたような気がする。だからこそ色々心配もする。

今回の騒動を巡っての多くの意見も恐らく眞子さまの幸せを願っての心配から出たものだと思う。ただでさえ環境は激変する。今まで見えない鉄格子の中でいくらか不自由ではあったかも知れないが、そこは世間の喧騒や悪意や堕落から守られたある種の楽園でもあった。我々庶民はそうした悪徳に子供の頃から少しずつ触れて慣れて、免疫をつけて来た。鉄格子越しに外界を垣間見ただけでPTSDになるような純粋さのままいきなり世間の波に揉まれて大丈夫なのだろうか。

堕落の甘い誘いの向こうには不幸と言うきつい副作用が待っている。飲んだくれという堕落の後に二日酔いと言う不幸が待っているように。庶民はそうした不幸にも少しずつ免疫をつけて対抗して来た。

いやいや、全ては杞憂であって欲しい。お二人が幸せな家庭を築き、ホラ大丈夫だったでしょうと笑って見返してくれる事を切に願うものである。

2021年10月22日金曜日

月と柿

 10月20日は旧暦の九月十五日。満月が綺麗でした。(カメラが上等でなくて、月の表情まで撮れなかったけど)

柿の木って、葉が全部落ちて実だけが露出されてるんだね。鳥に食べて貰うように実を強調しているのかなあ。リンゴやミカンは葉の中に隠れるように実が成っているように思うけど。

2021年10月19日火曜日

堕落する自由

 眞子さまと小室さんを巡っては様々な意見や考え方がマスコミやネットで飛び交い、その視点の多様性に驚いたり呆れたりもしている。そんな中私が思ったのは自由についてだ。

「一民間人として自由に生きたい」という眞子さまの思いは良く分かる。今年二月にはドバイの王女の記事が新聞に載った。アラブ首長国連邦ドバイ首長国のラティファ・マクトゥム王女が「私はとらわれの身だ。窓には鉄格子がある」と動画で訴えた事を英国BBC放送が報じたと。イスラム教の女性観が背景にあるのだろう。日本では庭の散策も自由に出来ようし、飲み物や食べ物もお望みの物が恐らく超一流の形で提供されるだろうが、しかし精神的鉄格子とでも言おうか国民の目や規範で縛られている。

今回の騒動の中では佳子さまの発言を問題視する意見もあった。ある女性活躍に関する公式行事で、ジェンダーギャップ指数で日本が156カ国中120位だった事を「とても残念」と仰った。これは立憲民主党のジェンダー政策への支持を表明するものであり、皇室としてあるまじき事だというのだ。そこまで言わなくてもと思うが、監視の目はそれほどきつい。かつてバブル絶頂期の頃ジュリアナ東京でミニスカートを履いて扇子を片手に腰を振って踊る女性達がいたが、そんな事は論外であろう。

我々庶民にはあって皇室にはない自由とは、堕落する自由ではないだろうか。品行方正である事は立派な事だがいつもそうだと疲れる。時には羽目を外して堕落してみたい。ジュリアナ東京もそうだし、体に悪いと分かっていてもたまには飲んだくれてもみたいのだ。眞子さまも30年間ずっと品行方正である事に疲れられたのだ。少し堕落の味も味わいたい。堕落には甘い香りと味がある。だが同時に毒も持っている事を忘れてはならない。

そして・・・・

2021年10月12日火曜日

お迎え

 先週は一週間の内に二度も通夜に参列する事になった。しかもいずれも同世代の友人を送るものだった。自分自身の年齢を改めて感じさせられた。気が付けば自民党の総裁選に立候補した四人とも自分より年齢が下になっている。お迎えの足音を意識した。

父が他界したのは私が53歳の時、享年83だった。それと母の享年67を足して2で割ると75になる。だからもし仮に75歳の時お迎えが来てもジタバタしないような生き方をしようと思った。それより早かったら「まだやり残した事があるからちょっと待ってくれ」と言っても良いが、75でお迎えが来た時には「お待ちしておりました」と泰然と迎え入れる事が出来るようにと。

その期限が少しづつ迫って来る。先日は運転免許の高齢者講習会の案内が来た。講習に参加して修了証明書なる立派な紙を頂いたが、これを持って行かないと次の免許更新が出来ないらしい。こんな事こそデジタル化して免許証に履歴を紐付けるべきだ、などと思いながらその数日後、何年ぶりかに健康診断を受けたら血圧がかなり高い事が分かった。コレステロールで血管が詰まってきているらしい。薬を飲まない事を自慢にしていたのに、ついに血圧を下げる薬の厄介になる事になった。

先週亡くなった友人の一人は今年の四月まで一緒にテニスを楽しんだ仲だ。体調不良を訴え病院で癌が見つかったが、手術を受けて年末にはテニスに復帰すると元気に宣言していたのに、結局手術も出来ずに逝ってしまった。ピンピンコロリという死に方が理想と言われるがほぼそれに近い。家族に別れの覚悟もいとまも与えないような突然死は遺族には辛すぎるから。

今年もカレンダーが残り三枚になった。人生の残りのカレンダーを精一杯生きようと思った。

2021年10月5日火曜日

総裁選

 自民党の総裁を選ぶに当たって、四人の候補者を集めて行われた討論会の様子を見て感じた事を少々。

原子力、年金、靖国、少子化など直面する課題に夫々の考える所を披露し、議論するというのは誠に結構な事ではあった。しかしどうだろう、こういう議論は何年かに一回やるものではなく、常に不断に国会で行われるべきものではないか。しかもこれから責任を持って国家運営に当たろうとする四人に、質問し考えを質しているのは報道機関の記者であったりコメンテーターと呼ばれる人であったりする。彼等は一体どういう背景と権限があって国民の代表面をして四人に対しているのだろうか。本来なら選挙で国民の負託を受けた野党議員が、政権担当者と丁々発止のやり取りをすべきではないのか。

現実には国会はあたかも与党のスキャンダルを追求する場になっているかのようである。もし野党がその方が国民受けすると思っていたら大きな間違いだ。今度の討論会の視聴率がどの程度であったか知らないが、恐らく国民はまともな政策論争を望んでいると思う。スキャンダルの追求は報道機関に任せて、政策論争の対陣を張る事こそ野党の仕事のはず。どこかでそれが入違ってしまったようだ。

個別テーマの中では靖国問題が気になった。候補者達は「国のために尊い命を捧げた英霊に尊崇の念を示す」と仰る。それは当然の事として、問題はA級戦犯が合祀されている事だろう。ドイツにも戦争で命を落とした兵士達を祀る施設はあると思うが、もしそこにヒトラーやゲッペルスが一緒に眠っていたらどうだろうか。日本のA級戦犯とヒトラーは違う、と言われるかも知れない。ならばその事をもっとキチンと議論しないと、それを避けていたら靖国参拝問題は永遠に空回りしそうな気がする。

2021年9月28日火曜日

騙す

 今場所はコロナの関係でその姿を見る事が出来ないが、横綱白鵬の勝ち方が汚いと話題になった事があった。そもそも勝ち方に綺麗とか汚いとかがあるのだろうか。あるとすればどう定義されるのだろうか。

確かに相撲には何となくだが相撲道に悖る汚い勝ち方がありそうだ。横綱のくせに立ち合いに張り手やかち上げをしたり横に飛んだりする場合だ。それは品位に欠けるとも言われる。だがテニスに汚い勝ち方があるのだろうかと考えてどうしてもそれが思い浮かばない。テニスが品位を重んじない訳では決してないが、テニスにおける勝ち方には綺麗も汚いもないような気がする。

汚い勝ち方があるとすれば品位の他に相手を騙す場合が考えられる。古事記に載っているヤマトタケルがイズモタケルを成敗する時の勝ち方はその典型だ。まず、親友の誓いを交わして、イズモタケルの警戒を解き、斐伊川で一緒に水浴びをした後、自分の偽の木刀と交換して真剣勝負を挑み、切り殺してしまう、という何とも汚いやり方だ。

古事記はこれを知略に富んだ勝ち方と称賛するが、相手の善意を逆手に取って騙す事は知略以前の問題だと思う。しかし「騙す」が許される場合もある。スポーツにおけるフェイント攻撃がそうだ。強打すると見せかけてポトリと相手コートに球を落とす。バレーボールやテニスにおける陽動作戦はまさに相手を騙して効果を発揮するのだが、それが汚い勝ち方とは思わない。

「騙す」にも許される限度がありそうだが、その境界線がどこにあるのか良く分からない。ある友人は「スサノオだって、ヤマタノオロチを騙して泥酔させて殺したじゃないか」と言った。スサノオのやり方が汚いとは決して思わない。「騙す」の許容範囲、今後の研究課題である。

2021年9月27日月曜日

動物と花

 農家の庭先に変な鳥がいた。形は鷺。色が白ければ白鷺なのだが、保護色なのか、周りの色に溶け込んだ土地色をしている。

その脇でコスモスが鮮やかに咲いている。

鳥は自分の姿を隠すように保護色になり、花は自分の存在を皆に発見して貰いたくて仕方ないように誇示している。

人間にもいるよね。ひっそりしていたい人と目立ちたがり屋の人。動物派と植物派かな。こういうと動物派の方が目立ちたがりに思えるけど・・・・



2021年9月24日金曜日

変な空

 9月24日(金)空を見上げてこんな空初めてだった。

テニスコートの真上で空が真っ二つ。


北半分は雲が空全体を覆っている。

ところが南半分は雲一つない青空

青空にところどころ雲が浮かんでいる空や、全天雲だけというのなら良く見て来たけど、こんな空は初めてでした。



2021年9月21日火曜日

餞暑

 歳時記には「残暑」の同義語として「餞暑」という言葉が載っている。寝苦しい夜にお別れ出来て一息ついている身には暑さに「餞(はなむけ)」を送る気にはなれないが、昔は暑さが今ほど過酷ではなく、花火や夕涼みなど暑さを楽しむ知恵と余裕のあった人々は夏との別れを惜しむ気持ちもあったのだろう。

近所の家の庭に咲いている百日紅はきっと「餞暑」を実感しているに違いない。五月の連休頃咲き始め、その名の通り長い間楽しませてくれたが、九月の中旬を過ぎて流石に少し勢いがなくなってきたようだ。その鮮やかな赤は夏の青い空に良く似合う。共演しているのか、競い合っているのか、良く晴れ渡った全天の青と強い桃色のその対比は生命の力強さを象徴しているかのようである。

そして、

テニスで汗を流して心地良い疲労感の中で家まで歩いて帰る途中、まるで空から天女の衣が舞い降りたかのようなかぐわしい香りに身が包まれた。金木犀だ。道端には小さな黄色い花が沢山咲いている。今年もそんな季節になったのだ。

金木犀の香りをかぐと母の実家の庭を思い出す。母は貧しい農家で双子の妹として生まれた。農作業の片手間にする子育てで二人の面倒を見る余裕はない、祖母は姉に掛かり切りになり、母は曾祖母に育てられた。可愛がって育てた孫が生んだ初めての子だというので私は曾祖母に溺愛されたらしい。らしい、というのは幼い頃の事で記憶がはっきりしないからだが、それでも遊びに行くたびに着物の袖の中から飴玉を出してくれたのは鮮明に覚えている。私のためにとっておいたその飴玉はいつも糸くずだらけになっていた。その曾祖母は私が小学三年生の時九十二歳で他界した。

もし愛情に匂いがあるとするならば、それはきっと金木犀の匂いだろうと思っている。

2021年9月14日火曜日

柔道とガッツポーズ

 嘉納治五郎は柔道の国際化を目指し、柔道がオリンピックの種目となる事に尽力した。彼の夢は前の東京五輪で実現し、しかも無差別級の金メダリストが外国人だった事が国際化が成就した事の象徴であるように言われた。しかし国際化は柔道の変容を伴う。

ヘーシンクの所作はまさに日本の柔道そのものだった。講道館で柔道を習った彼は技術だけでなく、柔道の精神をも学び取ったようだ。試合が始まると、いざ勝負、とでも言うように堂々と両手を上げて相対している。しかし昨今は、腰を引いて身をかがめ、相手を睨みつけるようにしてスキを伺い、両手をせわしく出したり引いたりする。この様変わりを嘉納治五郎が見たらどう思うだろうか。

勝利の後のガッツポーズも当時はなかった。ヘーシンクが取った行動は自国の関係者が喜びのあまり畳の上に入ろうとするのを制する事だった。おそらくボクシングでノックアウトの後セコンドがリング内に入るのと同じ感覚で畳に上がろうとしたのだろう。柔道をボクシングと一緒にしてはいけない。ボクシングは相手を殴り倒す事を目的としている。仮に相手がこちらに敵意を持っていなくても。しかし柔道は違う。

ユーチューブで講道館柔道に関する情報を検索したら講道館柔道十段、三船久蔵の「球の原理」というのが見つかった。球は絶対に倒れない、球の極意を体得する事により襲ってくる敵から身を護るのが柔道だというのだ。柔道は敵意のない相手をやっつける事は考えていない。だからお互いに敵意がないと「指導」などと言うペナルティが必要になってくる。

柔道は国際化してジュードーになった。阿部詩選手のガッツポーズに違和感がなくなったのも国際化の結果の一つだろう。お兄ちゃんは畳の上ではガッツポーズをしなかったが。

2021年9月12日日曜日

金木犀

 テニスが終わってコートから家まで歩いて帰る。

心地良く疲れた体に天から衣が降りたかのような香りがまとわりついた。

金木犀の咲く季節になったのだ。

僕は幼少の頃、曾祖母に溺愛された。

母の実家は田舎の農家。母は双子の妹として生まれた。女手も重要な労働力だった農家で、双子を育てるのは容易ではない。祖母(つまり母の母)は上の子を育てるのに精一杯で母を見る余裕はない。必然、母は曾祖母(つまり母の祖母)に育てられた。

大事に育てた孫が生んだ初めての子だとして、僕は曾祖母に溺愛されたのだ。

小学校も低学年の頃、母の実家に遊びに行くと、曾祖母はいつも着物の袂の中から糸くずだらけの飴玉を出して僕にくれた。

甘いものが貴重な時代だった。飴玉は包装紙に包まれることなく裸で売買されていた。曾祖母はそれを僕が来た時の為に大事に取っておいたのだった。

もし愛情に匂いがあるとするなら、それはきっと金木犀の匂いに違いないと思う。


曾祖母の飴思い出す金木犀

2021年9月11日土曜日

百日紅

 五月の連休辺りから咲き始め、その名の通り長い間咲き続ける。

その鮮やかな赤味は夏の青い空と良く似合う。共演しているのか、競い合っているのか。

いずれにしろ、その対比は生命の力強さを象徴しているかのようである。

今日の空は残念ながら「雲一つない」という訳にはいかなかった。


全天の青と競うか百日紅


2021年9月7日火曜日

パラリンピック

 

パラリンピックを見るといつも自分の努力の足りなさを痛感させられる。

何年前だったか、冬季のパラリンピックだった。脚が一本しかない人が急斜面をスキーで滑り降りていく。両手に持ったスティックを巧みに使い、左右の体重移動でバランスを取りながら滑る姿は勇壮だった。私なんか脚が二本もあってもまともに滑れないというのに。

そして今回は山田美幸さん。生まれつき両手がなく、両脚も不完全でしかも不揃いだ。プールへの出入りも一人ではままならないだろうと思うが、水に入れば両脚のキックだけで背面で泳ぐ。左右不揃いで進行方向の制御が難しかろうに、キックの強さや頻度を調整したり、体の筋肉を使って直進するコツを掴んだのだと思う。銀メダルを取って、14歳の彼女が爽やかな笑顔で言った言葉に胸が熱くなった。

「次に何をすべきかを常に考え、努力を続けていきたいと思います。」

2019年つまり彼女がまだ12歳の時、お父さんがガンで亡くなったそうだ。その時も彼女は何をすべきかを考え、努力を続けたのだろう。

努力を続けているのは彼女だけでない。出場した全ての選手が同じような事を肝に銘じている筈だ。そう思うと、上位三人だけに授与されるメダルに拘るのは如何なものか。ニュース速報や号外とメダリストだけがクローズアップして報道される。確かに彼等におめでとうは言いたいが、惜しくも三位以内に入れなかった人だって十分に称賛に値する。その努力の大きさからすればメダルの有無は小さな事だ。

考えてみれば我々の人生もパラリンピックみたいなものだ。幸い手も脚も二本づつあり視力も聴力もあるが、神様から見れば洞察力もなく、決断力もなく、ないないづくしの不十分な能力で人生というレースを戦っている。メダルは取れなくてもいい、努力した自分に納得できれば。

2021年8月31日火曜日

傀儡政権

 

アフガニスタンが騒々しい。タリバンは悪だと教えられて来たが、民衆の支持がなければあんなに簡単に全土の制圧は出来ないだろうに。それともタリバンの悪さ以上に、政権の腐敗がひどかったのか。

大統領は国外へ逃亡した。一説には大量の財貨を持って逃げたとか。本人は後に着の身着のまま逃げたと釈明しているがどちらが本当か。政権幹部の自宅だったとされる部屋で豪華な猫脚のソファーに機関銃を抱えた髭面の兵士達が座っている画像が流れた。そのアンバランスもさることながら、その部屋を埋め尽くすベルサイユ宮殿かと見紛う贅沢な調度品は政権の腐敗ぶりを雄弁に物語っていた。アメリカからの援助資金が貧困にあえぐ国民をよそにこんな所に使われていたとは。ハノイに残るホー・チミンの執務室は質素で飾り気がなく整然としていたのに。

それにしてもアメリカがその国に民主主義を定着させようとして擁立する政権はどうしていつもこう腐敗するのだろう。南ベトナムのゴ・ジン・ジェム政権もひどかった。焼身自殺する仏教徒を人間バーベキューだと言い放つ無神経さを子供ながらに覚えている。韓国の李承晩だって、民衆から追われるようにして国外逃亡している。ゴ・ジン・ジェムも李承晩もキリスト教徒だったという理由で政権に据えられたそうだが、それにしてももっとまともな人がいなかったのか。

翻って日本はどうだろう。第二次大戦が終わって、アメリカに協力する人は戦犯としての訴追を免れたという。そうして作られた日本の政権は腐敗していなかったのか。それとも腐敗を見抜けない程日本のマスコミや国民の眼が曇っていたのか。日本だけが特別だったとしたらその背景は何なのか。アフガニスタンの今後がどうなるかという心配以上に気になって仕方がない。

2021年8月24日火曜日

ガッツポーズ

 白鵬は勝った後土俵上でガッツポーズを取っては顰蹙を買っている。何度注意されても直らないのは本人が「勝って喜びを表現するのが何故悪いのか」と思っているからだろう。

そもそもガッツポーズとは何か。それが和製英語らしいと言う予測は立つが、ネットには「喜びのポーズの1つ。 拳を握り、両手もしくは片手を掲げる事で表現され、スポーツなどで勝利した時や、良い成績を残した時によく見られる。」とあった。なるほどと思いながら大事な事が抜けているような気がした。

それは手首と肘の位置関係だ。ガッツポーズは、コブシを高く突き上げる時にしろ、腰のあたりで肘を曲げて小さく「よし!」と言う時にしろ、常に手首は肘より上にある。この手首が肘より上にある事がガッツポーズの必要条件だと思うのだ。

二十年前、貴乃花が右ひざの故障を押して千秋楽に出場し、武蔵丸を投げ飛ばした後、鬼の形相を見せた。両手に力を入れて「どうだ!」とでも言わんばかりのあの動作をガッツポーズと思った人はいない。それは手首が肘より下にあったからではないか。

ボクシングのファイティングポーズを見れば良く分かるように、手首を肘より上にするのは攻撃の姿勢である。バトミントンではサーブを打つ際、手首は肘より下にないといけないというルールがある。サーブを攻撃的に使う事を禁止しているのだ。

ガッツポーズがはしたないとされるのは、負けた相手に更に攻撃の意思を示しているからではないだろうか。では五輪の柔道で阿部詩選手が金メダルを決めた瞬間見せたガッツポーズはどうか。白鵬のガッツポーズに眉をひそめた人も、阿部詩選手のガッツポーズには素直に喜んだのではないだろうか。柔道とガッツポーズの関係についての考察はまた別の機会に。

2021年8月20日金曜日

人騒がせな形

 世の中、人騒がせな形をしたものがあるものです。

下の写真は警視庁のすぐ近くで撮ったものです。





2021年8月17日火曜日

自助

 

実際に自分で行って自分の眼で確認した訳ではない事を書くのは若干憚られるが、ネットの記事によると今成田でちょっとした異変が起きていると言う。いつもなら夏休みでごった返している筈の出発ロビーが閑散としているというのは十分想像できるが、一か所だけ行列が出来ている場所があるらしい。危険な東京から逃げ出そうとする中国人の帰国ラッシュが起きているのだとか。北京や天津は日本からの直行便を拒否していて、大連へ飛んでそこで三週間の隔離生活をするのだそうだが、そういう不便をおしても中国へ帰りたいのだ。

ネットには今の日本のコロナ禍を表現するのに「Sauve qui peut」という言葉も出てきた。戦線が崩壊したり、船が沈没したりするときに船長や指揮官が出す宣言で、フランス語で「勝手に逃げろ」「生き延びられる者は生き延びよ」という意味らしい。もう事態は制御不能だから、以後一切指示に従う必要はない、各自生きるか死ぬかは自己責任だと言うのだ。

確かに「重症患者以外は自宅療養で」と言われると、そう思いたくもなる。一年半前、コロナ禍が始まった頃、病床の逼迫に伴い無症状の患者が病院からホテルに移動するシーンを見て、「こんな元気な人が病院に入る必要はないよなあ」と思ったものだったが、それとは訳が違う。あの時はウィルスの拡散を防ぐため、感染者の隔離という最低限の措置を行ったが、今回はそれすらもしないと言うのか。

菅首相は就任の際「自助、共助、公助」という言葉を使った。コロナも自助で何とかしろと言う事か。感染予防対策は当然の事として、いくら注意しても感染を完全に防ぐのが難しい上は、感染しても平気な体を作るしかない。栄養を取って適度に運動し、運動の合間には冗談を言って笑い合い、免疫を高めるしかなさそうだ。

2021年8月10日火曜日

記者会見

 

菅首相は何のために記者会見をするのだろう。自分の政策の正当性を訴えるため?政策実現に向け国民に協力を求めるため?まさか支持率を下げるためではあるまいが。

実際の会見を見ると、苦しい言い訳に終始したり、記者の質問に真正面から答えようとしなかっり、何か揚げ足を取られるのを恐れているのか、弱みを見せない事に汲々としている感じがする。そんな会見は見ても面白くないから途中でチャンネルを変えてしまう。

五輪開催についての会見もそうだった。あれでは国民の心が一つにならない。例えばこんな風に言ったらどうだったか。

「尾身先生も仰るようにパンデミックの中で五輪を開催するのは普通では考えられない事かも知れない。しかし我国は八年前世界に開催を約束した。幸い国内の感染者数は世界各国から比べれば少なくて済んでいる。コロナ禍での五輪開催という難題を解決する事は日本という国の底力を世界に見せるチャンスでもあると思う。勿論国民の健康安全が脅かされるような事態は避けなければならない。政府はそのために全力を尽くす。IOCにもその事を理解して貰い、海外からの選手団や関係者と国民の接触は最小限に抑える積りだ。IOC役員も来日人数は最低限に抑え、宿泊も都内のホテルではなく、選手と一緒に選手村にする事を承諾して貰った。水際対策も最善を尽くす。政府は安心安全な大会実現に向けて全力を尽くす積りだ。国民皆様からのご意見も素直に取り入れていく。だからどうか五輪開催と成功にご協力頂きたい。日本国民の知恵と規律と実行力を世界に見せようではありませんか。」

そんな風に言ってそれを態度で示してくれたら「よっしゃ、一丁やったるか!」という気持ちにもなろうものを。

菅さん、国民を敵と思ってる訳じゃないですよね?

2021年8月3日火曜日

57年前

 

あれだけの不祥事がなければ興味も持たなかったろうが、本当に久しぶりにオリンピックの開会式を見、そして57年前の記憶を蘇らせた。あの時は古関裕而のマーチに合わせて各国選手団が整然と誇らしく入場するのを見て感じた気持ちの高鳴りが強く印象に残っている。あの清々しい高揚感が残念ながら今回はなかった。私が年を取ったせいなのか、日本が年を取ったせいなのか。

ブルーインパルスもかつて程の輝きがなかった。あの時の空はアナウンサーが「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような」と表現したほど雲一つない秋空で、それがあったればこそ五輪の輪が全て大空に現れたが、今回は残念ながら雲がそれを阻んだ。そして風が強かったせいか、飛行機が一周して輪を描き終わる前に初めの頃の噴煙が風に流され崩れてしまった。57年前のブルーインパルスの妙技は操縦士の技術は勿論のこと、気象条件の全てが見事に揃わないと実現しなかったまさに奇跡の演出であったのだ。

競技が始まり、見事な成果を残す人、期待されながら残念な結果に終わる人、様々だが、選手本人よりその親御さん達の気持ちが気になって仕方ない。57年前には思わなかった事だ。立派な成果を出した人の親の嬉しさは言わずもがなだが、武運つたなく成果を出せなかった人の親御さんはどんな気持ちだろう。落胆する本人以上に親御さんは辛いだろうし、辛さの反面今まで努力を続け必死で頑張ってきた我が子を労わる気持ちも強いだろう。そういう人達にこそ今後の幸あれと祈らずにはいられない。

そして57年前にはなかったものの筆頭がコロナ騒動。「カンセン拡大」が「感染拡大」でなく、「観戦拡大」であったら良かったのに。

2021年7月31日土曜日

麦畑のそれからのそれから

 草はますます生い茂っている。

その中、不思議な事に気が付いた。セイタカアワダチソウの立ち位置だ。

群生することなく、一定の間隔をあけて散在している。まるで誰かが間隔をあけて植えたかのように。

この地に麦が植わっていた時には流石にセイタカアワダチソウは生きていなかっただろうから、麦に刈り取りが終わってからどこからか種が飛んできて、ここに生育したものと思う。

その際、種がこんなに都合よく間隔をあけて着地するものだろうか?

今後セイタカアワダチソウがどのようにのさばっていくのか、見ものだ。


2021年7月27日火曜日

同じ穴の貉

 

「辞任・解任相次ぐ」と一括りで報道されるが、辞任と解任は言ってみれば切腹と打ち首ほどの違いがある。切腹を許された者と、発覚して即打ち首になった者との違いにどうも納得がいかない。どちらがよりあくどいかを比較すれば逆の対応になってもおかしくなかった。

「もう時間がないから」と、切腹どころか無罪放免になりそうだった人の所業は聞くもおぞましきものだった。マスメディアに出ているのは「過去のいじめ問題」とか「障碍を持つ方々に対する心ない発言や行為」などの表現しかないが、その具体的内容を見るとあまりにも悪質かつ陰湿で、流石にそのまま載せるのをためらったのも頷ける。ネットには海外のメディアも含めて各社がどこまで中身を伝えたかを比較するサイトまであった。

目や耳を覆いたくなるようなあまりのひどさに、意図的な誇張があるのではないかと疑った。ある時期、ワルである事を恰好良いと勘違いする事もあるからだ。尾崎豊は「行儀よくまじめなんて出来やしなかった。夜の校舎、窓ガラス壊してまわった。逆らい続けあがき続けた。」とワルを歌って若者に支持された。

しかし、小山田氏の所業と尾崎豊の歌には根本的な違いがある。尾崎の歌は自分より強い者に対する反抗であるのに対し、小山田氏の所業は自分を安全地帯に置いたまま、自分より弱い立場の人間を愚弄しいじめて楽しんでいるのである。

その違いに思い至った時、辞任と解任の対応の違いにもある種の納得がいった。侮辱した相手が女性や障碍者など比較的弱い立場の人である場合は辞任で許されるが、ユダヤ人団体のように強い相手だと恐れをなしひれ伏して問答無用の打ち首にされてしまう。なんの事はない、雇う側も雇われる側も処分する側もされる側も結局は同じ穴の貉だったのだ。

2021年7月20日火曜日

チャイニーズ

 

「日は西に傾く」

陳舜臣「中国の歴史」第六巻の清朝末期を語る章のタイトルである。その一つ前の章は「三世の春」。康熙・雍正・乾隆の三帝が治めた頃、中国は間違いなく世界一の国だった。「天朝は物産豊盈、有らざる所なく」とイギリスから来た使節の通商の申し込みを断っている。しかし、乾隆帝の治世が終わった頃から輝きを失い、アヘン戦争などを通して中国は世界一の座を降りていく。

中国は長い間東アジアをリードして来た。人民解放軍と言う名の軍隊が人民に銃口を向けるような今の中国は論外だが、権力に屈しない気骨のある格好良い人も多く輩出し、私は一応の敬意を持っている。同じアジア人として西洋の鼻を明かしたいという思いもある。それにしてもIOCバッハ会長の「最も大切なチャイニーズピープル・・・」は頂けない。

中国の偉大さ故か、西洋人がアジア全体を中国と一体視してしまうという話はよく聞く。我々がアフリカの各国を個別に認識できないように。それでもこれから自分が行こうという国については事前に勉強もするだろう。そしてバッハ氏はジャパニーズと言うべきところをチャイニーズと言ってしまった。

バッハ氏の頭の中はお金とスポンサー探しで一杯なのだろう。確かに先日行われたサッカーの欧州選手権を見ると、ティックトック、ハイセンス、アリペイなど中国企業の宣伝広告が目立ち、日本企業は全くなかった。サッカーの大会と言えばかつてはトヨタやキャノンなどが常連だったというのに。

五輪もいつかは中国がメインのスポンサーになるだろう。そうすると競技時間も中国のゴールデンタイムに合わせて行われるのだろうか。ならばそれは中国と時差の殆どない日本人にとっては誠に喜ばしい事ではないか。

日はまた東から昇るのか。

2021年7月18日日曜日

麦畑のそれから

しばらく見なかったら麦畑は沢山の草が生い茂っていた。

何種類の草があるのか、残念ながら私には分からないが、これだけの草が自生する場所を探して虎視眈々としていたのだ。そして人間がちょっとスキを見せた瞬間に「ここは俺の場所だ」と主張し始める。

なんと強い生命力か。

人間が「地球にやさしく」なんて言っている場合じゃない。自然は人間が考える以上にたくましい。


2021年7月13日火曜日

責任+α

 

ビートルズが来日した時の警備体制についてのドキュメント番組がNHKであった。滞在期間中ファンを含めた関係者に事故や怪我のないよう時には敢えて過剰とも思える要求をする統括指揮官の姿があった。彼は責任を一身に背負い「自分がやらなければ誰がやる」の気概で事に臨んだのだった。

今度の五輪でそのような気概を持っている人がいるのだろうか。ある人は「それは都の役割です」と言い、ある人は「それは組織委員会が考えている筈です」と言う。強いて最高責任者はと問えば総理大臣という事になろうが、その人も「主催者は私ではありません」と言っている。

感染防止についての地方自治体向け指針にしろ、空港検疫での対応にしろ、当り前の事が検討されていなかったのは、能力の問題というより責任感の問題で、「誰かがやっているだろう」と誰も自分の問題として捉えていなかったからだと推察する。

五輪のような大きなイベントでは誰かが一人で全責任を負い全般に目配りをするなんて出来ないかも知れない。それだからこそ自分の守備範囲外の事についても気の付いた事は互いに注意し合えるチームワークが必要なのだ。

以下は菅首相が記者会見で見せる眼差しからの類推。重たそうな上瞼の下から黒目が半分顔を覗かせ、鈍く光りながら座った目つきでこちらを睨む。権力者にあの眼で個別に睨まれたら生きた心地がしないだろう。小さな失敗をした時「お前は自分の仕事だけしてりゃいいんだ!」と怒鳴られでもしたら、出しゃばったマネをしようと思う人はいなくなる。皆が少しづつ出しゃばって補い合わないとこんな大きなイベントをこなす事は出来ないだろうと思うのに。

五輪は世界の人が心を一つにするのだそうだ。プロジェクトチームは心が一つになっているのだろうか。

2021年7月6日火曜日

為体

残り一か月を切ったと言うのにこの体たらくで本当に大丈夫なのだろうか。五輪海外選手の合宿先となる自治体向けの指針を改定するという。この差し迫った時期に。しかもその改訂内容が「感染者が判明した場合、一緒に合宿するコーチや他の選手ら全員をいったん隔離して練習の停止を求める」と言うのだ。えっ?!今まではそう決められていなかったの?今までは感染者が出た場合の対応はどう定められていたのだろうか。感染者が出ようが出まいが関係なく平気で練習を続けて良かったのだろうか。それが「安心・安全な」大会の中身だったのか。

ウガンダ選手団から感染者が出たケースについても「空港検疫で陽性者が見つかった時、他の選手への対応をどうするかを検討していなかった」とか。一体どうなっているのだろう。そんな事は想定外の特異事例でも何でもなく、十分予測出来た筈だ。高校生でも何かイベントを企画する際には万全を期してそれ位の注意は払うだろう。

政府の体たらくが心配でならない。

この体たらくだからIOCにも舐められているのではないか。感染の再拡大を前に無観客にするかどうか五者協議にかけるというが、そもそも観客数に制限を加えるかどうかは日本で独自に決めて良い事柄ではないのか。何故その事につきIOCにお伺いを立てなければならないのか。国内の安全を守る事について他者の干渉を受けるのならもはや独立国家とは言えない。

正当な国益を主張する事も認めさせる事も出来ず、安心・安全について精神論的な空念仏を繰り返すだけで具体策を講じる事も出来ないでいると、この大会はコロナに打ち勝った証になるどころか、時の政府の無能さの証となってしまう。

因みに表題の言葉だが、広辞苑は「ていたらく」にこの字を当てている

2021年6月29日火曜日

人口減

 

「コロナ禍 少子化加速」と新聞に大きな見出しが載った。コロナ禍で在宅時間が増えれば子作りに励む人が増えても良さそうなものなのにと思うのは時代の流れに乗っていない証拠なのだろうか。記事によれば感染拡大による先行き不透明感のせいだそうだ。と言うより、子作りに有利な環境になっても少子化が止まらない程事態が深刻だと考えるべきだろう。同じ日の夕刊には去年行われた国勢調査の報告が載っていて、日本の人口は二回連続の減少となったとか。

人口減少の傾向は世界的なもので、一番深刻なのは韓国らしい。出生率が0.8と三年連続で1以下となり、このままでは2100年までに人口が半減し、将来的には国が消滅する恐れがあるとか。あの中国ですら少子化対策を迫られる有様で、かつては人口爆発による食糧不足が心配されたが、今は急速な少子化という逆の心配をしなくてはいけないらしい。つまり労働力人口の減少とそれによる経済の停滞だ。国の膨大な借金は経済が将来的に漸次拡大する前提で成り立っているのだから、その前提が崩れれば確かに心配だ。

しかしどうだろう。経済がこれ以上拡大しない世界もありではないか。経済は基本的に便利さと快適さを求めて進歩してきた。お伊勢参りは歩いて行ってたのが、新幹線ですぐ行けるようになった。冬の寒さ、夏の暑さはエアコンで快適になった。これ以上何を望む事があろう。月や火星へ行けなくなるかも知れないが、月は中秋の名月を酒と共に愛でる程度で丁度良い。

人口が減少すれば環境問題も自然に解決する。これ以上の快適さや便利さは諦めなければいけないかも知れないが、自然豊かなスローライフはむしろ幸せをもたらすような気がする。そうした皆が穏やかに暮らす幸せな世界を生きている内に見る事が出来ないのが残念だ。いや、経済縮小によるカタストロフィーを見ずに済む事を喜ぶべきか。

2021年6月22日火曜日

ワクチン

 新型コロナのワクチンを打った。テレビでは経験者の「痛くなかった」という声が盛んに報道されるが、一般の注射並みには十分に痛かった。副反応についても軽微であることを強調する報道が目立つが、異物を体内に注入して何もないはずがない。開発されて日が浅く、長期的な副反応が不明なワクチンを注射する事は賞味期限の切れた食品を口にする事より遥かに勇気が要る。後者なら万が一の時には体が嘔吐や下痢で排除してくれるが、前者にはそんなメカニズムは通用しないから。アナフィラキシーで済めば有難いくらいだ。痛みと言い副反応と言い、権威への盲従を強いられているみたいで気分が悪い。とは言えこのご時世、ここは目をつぶって長い物に巻かれる事にした。

ワクチンと言えば子供の頃受けたBCGを思い出す。NHKのチコちゃんによれば子供の方が注射の痛みに大人の数倍敏感だそうだが、あの痛みは一体何だったのだろう。BCGを避けたい一心でツベルクリン反応が陽性と判定して貰えるように検査部分を口で吸って赤味を増やす無駄な抵抗をしたものだ。それだけ痛い思いをしてBCGを打っても必ず抗体が出来る訳ではなかったようで、翌年もツ反検査を受けさせられた。その点、今度のワクチンは接種後の抗体検査も必要ない程性能が良く、痛みも一般の注射並みという事で、それは医学の進歩の一面だという事だろうか。

接種会場の手際良さには感心した。予約時間の15分前に着いたが、即対応してくれ、受付、問診、接種、待機、と流れるように進み、待ち時間は一切なかった。病院と言えば予約時間に行っても一時間近く待たされる事がざらで、それが病院嫌いの主要な要因になっているのに。病院もやれば出来るじゃないか。問診の先生が退屈そうなのが気になった。

2021年6月19日土曜日

二毛作?

 予想通り麦は刈り取られた。刈り取った跡を見ると機械での刈り取りだった事が良く分かる。昔の農家は二毛作もやったと言うが、この状態から土を改めて耕し、水を引き、そして田植えをしたわけだ。しかも機械の手を借りずに。昔の人はなんと働き者だったのだろう。



2021年6月15日火曜日

各種疑問

 

「私は五輪の主催者ではない」と首相は仰る。確かにそうだ。総理が主催し、国を挙げてやるというのなら仕方ないが、どこかの任意団体が主催するイベントにどうして国民がリスクに晒されねばならないのだろう。もしグローバルに事業を展開する某大企業が国内外から社員を集めて大運動会をすると言ったら、国はそれを許可し支援するのだろうか。

IOCから開催準備について高い評価を得た」と組織委員会会長は仰る。先生に褒められた事を家に帰って自慢する小学生のように。我々が知りたいのは開催に向けてIOCの準備と覚悟だ。参加人数は必要最小限とし、目的が明確でない人は排除した上で各員の渡航目的にそった行動計画を立て、その計画から外れた行動を取った場合は即刻国外退去とする。行動ルートを明確にし、ルートに沿ってより確実な感染対策をするためである。というような声明をIOCが出してくれたら、「開催に向けてのIOCの覚悟を高く評価する」と言えるだろうに。

G7では各国首脳に五輪開催についての理解を得る」と首相は仰る。日本国内の民意がやりたがっているのに、日本が感染危険地域だから海外選手が行きたがらない状況なら海外首脳に理解を得る事も必要なのだろうが。世界の中での日本での感染状況はある人曰く「さざ波」程度で、海外からやってくる人達による国内感染の拡大を心配している状況では理解を求めるべき相手は外国首脳ではなく、リスクに晒されようとしている国民であろう。そちらに対しては「安心安全な大会を目指す」と空念仏を繰り返し、一体どのような言葉で海外首脳から何の理解を得ようと言うのだろうか。

もし今度の五輪の開催地が感染の激しいインドやブラジルであったならIOCはどんな態度で臨んだのだろうか。

2021年6月12日土曜日

麦秋

 1月中頃見た時は雑草かと思った。その麦が半年たって見事に実をつけた。太陽の素晴らしさと有難さを実感する。



麦秋は夏の季語。来週にはもう刈り取られているに違いない。




2021年6月8日火曜日

嫌な事

 新車の購入に当たってディーラーの示す見積書を見ると「希望No申込手続代行費」という項目で数千円の計上があった。これは何かと問えば、車のナンバーが嫌な数字にならないよう、こちらの希望を伝えるための費用だと言う。嫌な数字って何だろう。49が並ぶものだろうか。それとてお金を払ってまで避けたいとは思わないので、その項目は削除して貰った。

大坂なおみ選手が記者会見を拒否した。お金を払ってまで避けたかった質問とはどんなものなのかと疑問が湧いた。私生活に土足で入り込んで来るような質問や、忘れてしまいたい過去の失敗や忌まわしい出来事をことさらほじくり返すような質問がそうなのだろうが、記者だって最低限の倫理観は持っているだろうからそれなりの歯止めはありそうだ。

テニス選手を実際に怒らせた質問の例がネットに載っていた。以下はその引用。ニック・キリオス()は「デミノー(豪)はナダルを倒せるか」という質問に対して「今までで一番くだらない質問だ」と答えた。結婚がプレーに影響しているかと問われたナダルは「本気で聞いているのか? 真面目な質問なのか、それともジョークか」と言い返し、「ふざけた」質問だと怒った。シモナ・ハレプは胸の大きさを小さくする手術を受けたのが「役立ったのはコートの中か、それとも外か」と聞かれたことがある。

最後のは言語道断にしても、基本的に嫌な質問には「答えたくない」と回答を拒否すればよいのであって、会見自体を拒否する必要はないようにも思える。

全仏を棄権した大坂選手が心配だ。マッケンローは26歳の絶頂期に突然引退したボルグを引き合いに出して危惧している。彼女には女子テニス界の歴史に燦然と輝く名選手になって貰いたい。記者なんかに負けるな。

2021年6月1日火曜日

尊民攘夷

 

多くの民意が五輪開催に疑問を投げかける中、IOCのごり押しに屈して五輪開催を強行しようとしている政府の姿勢にどこか既視感がありはしないか。そう、現在大河ドラマで進行中の幕末の様子に似ている。あの時は幕府が外圧に負け天皇の勅許も得ないまま開国に関する条約を結んだ事に憤慨した志士たちが尊王攘夷の声を挙げ、それはいつしか倒幕運動に発展した。IOC幹部たちがいつまでも日本国民の民意を無視した傍若無人な発言を繰り返していると、その内「尊民攘夷」の運動が起きるのではないかと心配になる。

しかも夷狄の要求は幕末の時よりもっとひどい。幕末に黒船が要求したのは自国の捕鯨船に対する食糧や燃料の供給をして欲しいという事に過ぎなかったのに、今回表向きは選手に活躍の場を与えたいと言いながら、自分らの金儲けが主たる目的なのが透けて見える。IOCのあの強気な発言の裏には一体何があるのだろう。

日本を代表してIOCと交渉している人達はちゃんと国内の事情を説明しているのだろうか。五輪は平和の祭典と言われる。謂わば一種のお祭りだ。お祭り気分で平時を忘れる事も一つの目標だろう。前の東京大会の閉会式で雪崩れ込んだ選手団が日本の旗手福井選手を肩車したあの光景こそ、五輪の真骨頂に思える。だが現在、集まってお酒を飲むこともままならず、ましてやお祭り気分なんて。仮に緊急事態宣言が解除されたとて、この状態はあと数か月は変わらないだろう。まさかIOCファミリーだけがお祭り気分で浮かれようという訳でもあるまい。

日本は「おもてなし」を大切にする国だ。しかし同時に相手の立場を斟酌する「おもいやり」も大切にする。「おもいやり」に欠ける人は「夷狄」と呼ばれる事を覚悟しないといけない。

2021年5月25日火曜日

参謀

 新型コロナ対策に於いて、所謂専門家と言われる人達の果たすべき役割は何なのか?政治家に緊急事態宣言を発出させた事を自分らの功績であるかのように振舞っておられるのを見ると、何か勘違いがあるのではと思えてならない。彼等の役割はバカ殿様を諫める爺ではないはずだ。強いて言えば新型コロナと戦う武将に作戦を与える参謀というべきではないか。

豊臣秀吉における竹中半兵衛であったり黒田官兵衛であったり。彼等は秀吉の戦いの勝利に貢献した。しかし残念な事にコロナとの戦いに専門家先生達は負け続けている。何故なら「これから勝負の二週間」とか「この三週間が山場だ」とか何度も言われて、そのいずれもで事態は一向に改善していないからだ。国民の自粛が十分でないからだ、とでも言うのか。それはまるで参謀が「兵隊が言う事を聞かないから勝てない」と言うのと同じだ。

彼等の仕事は勝利のイメージを描き出し、それに向けての作戦を考える事だ。決して緊急事態宣言を出す事ではない。むしろ緊急事態宣言(それは一種の敗北宣言とも言える)を出さなくても良い状態を作り出す事のはずだ。

勝利のイメージとしては恐らく三つある。一つは天然痘の様に完全に撲滅する事。これは多分無理だろう。二つ目は百年前のスペイン風邪のように集団免疫が成立して感染と発症が押さえられる事。そして三つは結核の様にワクチン(BCG)や特効薬(ストレプトマイシン)が出来、治療法が確立する事。

結核は今でも年間一万五千人程度の新登録結核患者(発症者か?感染者はその数倍かも)が出て、うち約二千人の死者が出ているらしい。それだけ恐ろしい病気だが、毎日感染者数が発表される訳でもなく、その予防のために街が閉鎖されたりする訳でもない。それが収束した状態と言えるのではないだろうか。

2021年5月18日火曜日

五輪

数年前「お・も・て・な・し」で五輪開催地が東京に決定して国中が歓喜に湧いた時、最近のこの状況を予想した人がいたろうか。今や五輪は完全に招かれざる客になってしまった。

要因は様々あるが「責任と報酬の非対称性」が最も根本的な問題ではないか。一般的には責任が重ければ重いほど成功の暁に得られる報酬も高くなり、責任を負わない者は僅かな報酬に甘んじなければならない。しかし五輪に関しては開催とその成功の責任を一方的に開催地の政府・自治体が負い、その成果として報酬の大部分(放映権収入など)をIOCが享受する。今までは五輪開催が成功すれば沢山の外国人が観客や旅行客として訪れ、開催地の経済を潤したから問題が表面化しなかっただけだ。

テニスの四大大会などは興業の主体がはっきりしていて開催に関する責任と報酬が一体化しているから去年のコロナ禍でも大きな混乱なく意思決定が行われ、全英は中止、他の大会はそれぞれの対策を行った上で開催された。その際ATP(男子プロテニス協会)やWTA(女子テニス協会)がどのような関与をしたのか知らないが、恐らくは責任も権限もない立場で静かに見守ったのではないか。IOCも本当ならATPWTAのように、世俗的利害を離れ、大会の権威を保証するだけの立場に留まるべきなのだと思う。

そもそもIOCは優勝者への賞金を出すわけでもなく(テニスの四大大会では優勝者は約三億円の賞金を得るが、五輪では名誉の象徴としてメダルが授与されるだけ)、大会の安全性に責任を負う訳でもなく、何故多額の収入だけを得るのか。これだけ権威のある大会にまで育てた偉業は認めるが、ならばその報酬は苦労して五輪を育てたクーベルタン男爵の子孫に支払われるべきだろう。ボッタクリ男爵にではなく。

2021年5月11日火曜日

敬意

 無聊を託つ日々、読書三昧の合間にテレビを見ると、民間企業のコマーシャルに混じって島根県のメッセージが流れた。曰く「感染した人に対する非難中傷や差別的な対応は慎みましょう。」そうだ、その通りだ、と内心拍手を送ると共に、敢えてCMの枠を買ってまでそれを訴える事態の深刻さを思った。

そんな中、あるローカルニュースが耳目を惹いた。岡山の閑谷学校で論語の講義が行われたという。そこで教えられた事が「礼とは人を敬い誠実な態度で接する事だ」と。誠意と敬意で人と接すべし、とはまさに私の持論で、前々回の「解決金」でも書いたばかりだ。ただ私の場合少し軟弱で、誠意はともかく敬意は全ての人に対して向けられる訳ではなかろう、と思っていた。

誠意は完全に個人の問題であって、相手がたとえどんなに極悪非道の人間であっても、それに対して誠意を持つかどうか100%こちら側の問題である。そして極悪非道に対して誠意を持つことの格好良さは時代劇や西部劇のテーマにもなっている。

一方の敬意はどうか。しょっちゅう約束を破ったり、責任逃れの言い訳を繰り返したり、そんな人に対しては敬意を払いたくても払えないのが人情だろう、と思っていた。ところが論語は敬うべき相手の資質を問うていない。

その時、恐れ多くも昭和天皇が脳裏をよぎった。昭和天皇は「雑草という草はない」と仰った。つまり昭和天皇は雑草に対しても敬意を持って接しておられたのだ。雑草に対しても敬意を持てるのは昭和天皇の人となりの高潔さを物語るのではないか。梅や桜を愛でる事は誰でも出来る。しかし相手の資質如何に拘わらず敬意を持てるのはその人の器の大きさにかかっている。敬意も結局誠意と同じで自分の問題であったのだ。


2021年5月4日火曜日

県外者

 県外者として肩身の狭い思いを強いられている。

飛行機の早割りチケットを予約した時は第三波が収まった頃で、まさか今のような第四波がすぐに来ようとは思っても見なかった。チケットのキャンセルも出来ず、予定通りの帰省を敢行したが出雲地方の新型コロナへの警戒心の強さに驚いた。東京都心の様子は知らないが、少なくとも私が住む埼玉の田舎の町よりは遥かに強い。羽田空港では搭乗前の検温もなかった。これだけ強い警戒心あればこそ、単位人口当りの感染者数が少なくて済んでいると言う事か。

それにしても県外者が全て保菌者であるかのような報道には違和感がある。ニュースでは新規感染者数の発表と同時にその中で数日以内に県外渡航歴のある人がいたら必ずそれが発表される。県外へ出ることが如何に恐ろしい事かを印象づけるかのように。これが行き過ぎるとアメリカでのアジア人排斥運動に似た事態を招きかねない。

去年の今頃は「正しく恐れろ」と良く言われたがあの言葉はどうなったのか。感染者を犯罪者の如く扱うのも正しく恐れているとは思えない。感染源にでもなったりしたらあたかも殺人でも犯したかのような扱いだ。ウィルスはどこにいるか分からない。細心の注意を払っても感染する事もあるだろう。感染した人に対しては労りや慰めの言葉を掛ける分でも、非難を浴びせる筋合いではない。幕末にはコレラや麻疹が大流行したと聞く。あの時は感染した人に辛く当たるような事があったのだろうか。コレラや麻疹の方が新型コロナより恐ろしい病気のはずだが。

幸い県外者と言っても出雲弁は母国語だし、肌の色も周りと同じでアメリカのアジア人にはならずに済んでいる。ここは部屋の模様替えと庭の草取りに専念する好機と考える事にしよう。

2021年4月27日火曜日

橋本八段

 橋本八段?一体誰?と思われた方が沢山いるのではないか。将棋指しと言えば今をときめく藤井聡太二冠や羽生九段ならご存知の方も多かろうが、橋本崇載を思い浮かべる人はあまりいないだろう。もしいたら余程の将棋ファンか、新聞の社会面に詳しい人に違いない。

四月初め、新聞の三面記事を見て驚いた。橋本八段引退、とあったからだ。まだ38歳の若さで、バリバリの活躍をしている最中だ。老齢で成績が振るわなくなってやむを得ず引退する棋士が殆どなのに一体何があったのだろう。

橋本八段はハッシーの愛称で呼ばれ、NHK杯戦に金髪のパンチパーマに紫色のワイシャツで出た事もあった異色の棋士だが、彼が経営していた池袋の将棋バーを訪ねて直接言葉を交わした事もあり個人的には親近感を持っていた。

まだまだ活躍を期待していただけに一体何があったのか早速ネットを調べた。ユーチューブに彼自身が引退の理由と、今彼が直面する問題について説明し訴える動画が載っていた。話を要約すると、ある日突然妻が生まれて四か月の長男を連れて実家に帰って家の中はもぬけの殻、数日後妻の弁護士を名乗る人から慰謝料と養育費を請求する手紙が来た、との事。「私は暴力も振るってないし、不倫もしていない。なのに愛する我が子を連れ去るのは犯罪ではないか」と彼は訴える。司法当局は可哀そうなシングルマザーを救えという視点しか持たないし、連れ去り被害を正すための戦いに専念する、というのだ。

彼の口からは息子を愛する気持ちが溢れているが、妻の思いを忖度する言葉は聞かれない。将棋は相手が何を考えているかを考えるゲームだ。相手のやりたい手を十分に忖度してそれに対する対応を考える。より正確に相手の意図を把握した方が勝つ。橋本八段には将棋の極意を思い出して名手を発見して貰いたいと思った。


2021年4月20日火曜日

ツツジのつづき

 我が家のツツジが何輪か花を点けました。隣のおうちのツツジは東向きなので満開です。でもそのすぐ横を見ると殆ど花をつけてない。日当たりは同じでも個体差が大きいのですね。ソメイヨシノは挿し木で増えて皆同じDNAだそうだけど、ツツジはそれぞれに個性があるのですね。




解決金

 

解決金とは変な言葉だと思った。示談金と言わないのは双方の合意なしでも事態を何とか解決しようという意図か。それにしても一度壊れてこじれた人間関係にとってお金は逆効果にしか思えない。物体が壊れた場合なら別だ。ある人が大切にしていた壺を誰かが壊してしまったとする。壊した人は自分の不注意を詫び、所有者はもっと厳重に管理すべきだったと反省し、双方が誠心誠意話し合った末に壊れた壺は元に返らないからお金で解決しましょう、というのなら分からなくもない。だがそれも良好な人間関係あればこそだ。

人間関係を壊さない鍵は互いが敬意と誠意をもって接する事にある。敬意も誠意もない人と付き合うのはしんどい。敬意を示してくれないのはこちらがそれに値するかどうかの問題もあるので一歩譲って、誠意は示して欲しいのが人情だ。邪推を許して貰えば、元婚約者と言われる人が小室さんとの婚約を解消したのは敬意や誠意を感じられなかったからではないだろうか。

誠意を構成するのは責任感と感謝と相手の立場で考える思いやりだろう。一緒に何かを成し遂げようという時、自分の役割に対する責任感と相手がしてくれた事に対する感謝の気持ち、それが誠意となる。

週刊誌にスキャンダルを暴露するという元婚約者のやり方も褒めたものではないが、小室圭さんの説明文は自分の立場を正当化する事に汲々として、残念ながら感謝の気持ちが感じられない。お金の名目はどうあれ、苦しい時家計を助けてくれたのだ、まずは感謝の言葉があって然るべきだろう。感謝のなさが誠意のなさを感じさせる。

解決金は弁護士の入れ知恵なのだろうが、全てが金で解決できると思うような弁護士が、その弁護士費用を巡って小室家の新たな火種にならない事を祈るのみである。

2021年4月17日土曜日

麦畑

 しばらく見なかった麦畑の麦が穂を出していました。

穂を出すか出さないかの時に見たかったなあ。穂がどんな風に顔を出すのか見たかった。

そう思って良く観察したら、麦にも個体差があって、成長の遅いものもいて、穂が顔を出し始めたのもいました。




2021年4月14日水曜日

ツツジ

 家のツツジが蕾を出し始めました。

近所の日当たりの良い場所ではもう何輪か花をつけています。


2021年4月13日火曜日

原題

 先日息子の勧めで「ドリーム」というアメリカ映画を観た。「ドリーム」というのだから当然「Dream」が原題だろうと思っていたが、実は「Hidden Figures」、「隠された計算」とでも言おうか。計算能力に優れた黒人女性がNASAで白人から嫌がらせを受けながら活躍するが、その成果の報告書や論文は上司の白人男性の名前でしか発表されない。仲間の黒人女性と一緒に人種差別にめげず夢を実現する姿からこの題名となったのだろう。

「風と共に去りぬ」のように原題を直訳したものもあるが、海外の作品を日本に紹介する際のネーミングに苦労や工夫の跡を見るのは楽しい。一番の傑作は「ハート・オブ・ウーマン」ではないだろうか。原題をカタカナにしただけに思えるが、原題は「What woman wants」。メル・ギブソン演じる主人公がある日突然周りの女性の心の中が透視できるようになるというコメディだ。原題はwで頭韻を踏んでいるが、「女性が望むもの」より「ハート・オブ・ウーマン」の日本語(?)の題の方が全体としてお洒落だと思う。

もう一つの傑作はジャック・レモン主演の「晩秋」。この映画の原題は「Dad」だ。「おやじ」では味もそっけもなく深みに欠ける。アメリカには「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」といった風情はないだろうから仕方ないか。

中には「夕陽のガンマン」や「続・夕陽のガンマン」などのガッカリもある。前者の原題は「For a Few Dollars More」(もう数ドルのために)、後者は「The Good, the Bad and the Ugly」(善玉、悪玉、卑劣漢)でいかにも西洋人の強欲さがよく出ている。日本語のタイトルは内容にそぐわない。しかも「続」と言っておきながら全く関連がないのだからひどい。題名がこうだと内容までお粗末に見えて来る。

2021年4月9日金曜日

 鳩が庭を行ったり来たりしています。よく見ると口に小枝を咥えている。

庭の隅に巣を作ってました。留守番しているのはメスの方かな?小枝を咥えたオスが巣に戻る時は辺りを見回してから戻ります。



2021年4月6日火曜日

予算

 先日某局の天気予報でお天気キャスターがいつにない厳しい表情で「気象庁の予算は減り続けています。」と怒りのコメントをしていた。ネットで検索してみると確かに公表されている平成12年度以降毎年減り続け、令和2年度予算は平成12年度の約77%にまで減っている。

国家予算は借金を繰り返しながら毎年ブクブクと増え続け、全てに締まりがなくなったかと思っていたが、中にはこんな風に厳しく査定されている分野もあるのだと再認識した。当キャスターは「地震や豪雨など自然災害は増えているのに・・・」と憤っていたが、気象庁予算を増やせば災害が減るという訳でもないので致し方ないかも知れない。

そんな事を思っていたら夕刊の一面に文化庁が美術品市場から偽作を排除する対策に乗り出すとの記事があった。平山郁夫画伯の偽物が出回った事がきっかけらしい。美術品の売買なんて金持ちのやる事で一般庶民には遠い話。そんなところに血税を使ってもよいものか。

確かに公立美術館が偽物をつかまされると税金の無駄遣いになるから避けて欲しいが、それなら彼らの予算内で美術館同士のネットワークを作りそこで処理して欲しいものだ。個人が美術を楽しむ分には本物だろうが偽物だろうがどれほどの違いがあると言うのか。

美術品の価値はそれが美しいかどうか、心に訴えるか、安らぎを与えるか等によって決まるのであって、誰が描いたかはどうでもよいではないか。ピカソの絵など如何に高額であっても部屋に飾りたいと思わない。感動も安らぎも感じないから。本物のピカソを飾りたい人は自分の財力を誇示したいのが本音ではないか。ならば額の中に札束でも飾っておけばよい。そんな人を助ける予算があったらもっと他に使い道があるだろうに、と思ってしまう。

2021年3月30日火曜日

既成概念

 

前回は人種差別が既成概念の弊害の一つに過ぎないと書いたが、渡辺直美さんを豚に例えた話も同様に見える。

一部報道ではあれが女性蔑視だとされたが、渡辺さんに対して失礼な話ではあっても、どう考えても女性を蔑視したものには思えなかった。どうやらあの記事の本体部分は佐々木氏が演出チーム内の女性メンバーを不当に扱った事を告発する事にあって、渡辺さんの件はついでに出た話に過ぎないようだ。当事者の知名度も手伝ってか、渡辺さんの話の方が大きくなってしまったというのが実情らしい。週刊文春の本文を読んだわけではないが、それが本当ならどうして内輪の半分冗談のような話が一年も経った頃に暴露され問題視されたのかの疑問にも納得がいく。

それはさておき、渡辺さんが所属事務所を通じて出したコメントは「見た目を揶揄されることも重々理解した上で仕事をしている」「私自身はこの体形で幸せ」など実に大人の対応だった。ところで、もし三船敏郎をライオンに例えた演出だったらどうか。それを三船氏に対する蔑視だと言うだろうか。要するにライオンなら良くて豚なら駄目なのか。そこが既成概念の弊害だと思うのである。豚に例える事が即蔑視につながるのは豚に対してあまりにも失礼ではないか。少なくとも人間に対する有用性からすれば、動物園で見世物になるしか能のないライオンより豚の方が余程優れているのに。

男女平等に関しても全ての既成概念を取り払うべきだと思う。カリフォルニアでは新しく法律が出来て男女用のオモチャを別々に陳列すると千ドルの罰金が課されるらしい。女(男)の子が男(女)用のオモチャも買い易いようにという配慮らしいが、男女平等が当り前だという事を前提にするなら、わざわざそんな事をする必要もないと思うのだが。

2021年3月25日木曜日

同じ桃の木なのに?

 同じ日の同じ桃の木なのに、こちらの枝はほぼ満開、こちらの枝はまだ蕾。

何がどう違うのだろう・・・日当たりも下の土も同じはずだがなあ・・・・



2021年3月23日火曜日

人種差別

 

昔々ある所に黒人の王国がありました。そこに白人のお姫様が王子様のお后としてやって来ました。二人は仲睦まじく暮らし、やがてお后のお腹に新しい命が宿りました。王様の一家は生まれて来る子の肌がどんなだろうと噂しあいました。

架空の話だが、もし右記のような事があったら王家の人々は人種差別主義者だとして糾弾されるだろうか。イギリス王室のメーガン妃に対する対応が人種差別的だと批難されるのは、背景に白人が優れていて黒人が劣っているという既成概念があるからだ。白人と黒人と肌の色に違いはあれ、その優劣に差はないという前提なら、生まれて来る子の肌の色を想像する事のどこが悪いのか。例えばノミの夫婦がいて、背の低い夫と背の高い妻の間に生まれる子の背の高さを想像してあれこれ噂するのと同じ事だ。メーガン妃もそのルーツに黒人の血が交っている事を引け目に思う必要は全くない。回りの人が色々噂しても「その子に対する私の愛が肌の色に影響される事は全くありません。回りの人達も同様だと信じています。」と言っていれば良かった。

白人の優位性はたまたま彼らが他の民族に先駆けて大航海を行い、その武力によって世界に覇権を打ち立てたから生じたものだ。しかし実際には大航海はコロンブスより先に鄭和が行っている。鄭和はコロンブスのように飢えてもいなかったし、好戦的でもなく、支配欲もなかったから他民族を奴隷化するような事はしなかった。インカ帝国を滅ぼしたピサロのような野蛮な人間がいた事はむしろ白人が劣った人種である事を示しているのではないか。

白人と黒人が平等であるのは本来当り前の事だ。白人が上から目線で「黒人も平等に扱いましょう」などと慈悲をかける筋合いのものではない、と思うのである。

2021年3月19日金曜日

 麦がすっかり育って、畝が見えなくなりました。麦の隙間にひっそり咲いてる花は何だろう?

我が家の桃も今日が開化かな?





2021年3月16日火曜日

調査能力

 週刊文春の新しい号が出る度に国会があたふたする。その情報収集能力は敬服に値するが、他の組織(競争相手である他の週刊誌や本来そういう事を取り締まるべき公的組織など)はそれをどう思っているのだろう。

かつて森友学園や加計学園が世間を騒がせていた頃、文部省の元事務次官が怪しげな店に出入りしていた事が読売新聞の社会欄で報じられた事があった。もしあれが読売新聞の独自の調査網に引っかかった情報なら、入手時に即記事にする事も出来たはずで、あの時期に公表されたのは明らかに別の意図を持つ組織からのタレコミがあったものと推察される。当該元事務次官もあの記事が出るずっと前にその行動を注意されていたと言っているから、役所の要人ともなると常にその行動を対象にした監視網が張り巡らされていると思った方が良さそうだ。

週刊文春より強力と思われるその監視網が今回は働かなかったのか。ちゃんと働いて情報は入手していても、それを切り札として使うかどうかは札を持っている側の裁量によるのだから、要するに政権運営に有利なように使われるだけだ、という事か。

しかしまあ、人の行動を監視する社会主義国家のような組織はあっても非公式なものだろうから、その調査能力を問題視する積りはないが、事業が法律に則ったものかどうかを審理する際の調査能力はしっかりして貰わないと困る。衛星放送事業に対する外資規制を定めた放送法の保護法益がどのようなものなのか詳しい事は知らないが、今回の事で国益が損なわれる事がなかったのか気に掛かる。全ての申請が嘘である可能性の元で業務をするのは大変で、何らかのチェックシステムがあるはずだと思うが、もし今回の見逃しが関係者の職務怠慢によるものなら厳格な処分を願うものである。

2021年3月14日日曜日

 春です。

河原には菜の花が、民家の庭にはコブシが満開。

麦も順調に育ってます。




2021年3月9日火曜日

オソレ

 命を懸けた大事な裁判の席で頭を平手打ちされるといういたずらを受けても平然と苦笑いの出来る人と、平時のぶら下がり取材で記者からの挑発的な質問に態度を硬化させ言葉を荒らげる人、人間の度量の違いと言ってしまうと映画「i新聞記者ドキュメント」を見た時の危惧(681回「新総理」参照)が当たってしまう事になるが、二人が感じるオソレ(恐れか畏れかは別にして)に根本原因があるのではないかと思った。

昨今の政治家や官僚達の国会答弁にそれが言える。よくもまああんなに見え透いた嘘や醜い言い訳が出来るものだ。もし戦前の青年将校たちがあんな答弁を見たらどう思うか。下手をしたら天誅を加える、なんて事もあり得るのではないだろうか。勿論暴力には絶対反対だが、何かに対するオソレがないからあんな醜態をさらけ出す事になる。

五一五事件や二二六事件を経験した戦前の政治家にとっては暴力に対する恐れが彼等の言動をある程度律していたのではないか。現代の政治家がそうした恐れから解放されたのは良い事として、他の何か、例えば検察による立件とか有権者の監視などが有効に働く必要があると思う。しかし現実には検察はともかく、有権者は地元への利益誘導が主要な関心であって、少々みっともない対応があっても選挙に影響しないから、嘘や言い訳や失言が絶えないのだろう。

政治家を志す動機のかなりの部分は歴史に名を残したいという思いがあるだろう。実際彼等の言動は多くのカメラに収まり後の人々の眼に晒されることになる。その時、嘘や言い訳で失笑を買うような自分の姿が映しだされる事を何とも思わないのだろうか。歴史の眼に対する畏れを政治家には忘れないで貰いたい。まさか歴史に汚名を残したいなどとは思わない筈だから。

2021年3月2日火曜日

映画「東京裁判」

 1983年の製作と言うから、今更の感無きにしも非ずだが「東京裁判」という映画を先日見た。映画と言っても俳優は一人も出ない。東京裁判の実写映像を中心に、ガンジーが先導するインドの独立への運動や、フランスから独立しようとするベトナムの様子など、当時の記録映像を交えたドキュメンタリーだ。5時間近い大作だが見終わるまであっと言う間だった。日本人なら一度は見るべき作品だと思いここにご紹介する次第である。

第二次大戦の時の日本軍の幹部と言えば、日清日露の戦争を戦った時と比べて能力も真摯さも劣るようで毛嫌いしていたが、少し見直さなければいけないと思った。特に東條英機に対して。後ろに座る大川周明がペタッとその禿げ頭を平手打ちする有名なシーンもちゃんと写っていて、その時の東條の反応は怒る訳でもなくにこやかに笑っていた。それより何より彼の真価を感じたのはキーナン検事による証人尋問の時だ。尋問に先立ってキーナン検事は「私はあなたを大将とは呼ばない。何故ならもう日本陸軍は存在しないのだから」と言って、彼を呼ぶときは「トージョー」と呼び捨てにした。しかし尋問が進むうち、いつしかそれが「ミスター・トージョー」に変わっていった。東條の態度に感化された結果なのだろう。「戦争開始の責任を取りますか」との質問にも「当然です」と毅然と答えている。

考えてみれば戦争を始めるなどと言うのは生半可な覚悟で出来るものではない。昨今国会でその場逃れのいい加減な答弁を繰り返す政治家達にそのような覚悟が備わっていると思えない。戦争を始める覚悟がない、というのは喜ばしい事かも知れないが、他国が始めた他国の大義名分のための戦争に巻き込まれない程度の覚悟だけは持っていて欲しいものだ。