2018年12月25日火曜日

この一年


今年も後残りわずか。皆様の今年の一年はどんな年だったでしょうか。

毎年最後にはその年に読んだ本や見た映画で印象に残ったものをご紹介する事にしているが、今年はこれと言ったものがない。

本に関してはビット・コインに関連するものを良く読んだ。暗号データがどうしてお金として機能するのか、そもそもそれを支える技術はどんなものか、などに興味があった。「デジタル・ゴールド」という本はそうした疑問にある程度答えてくれた。お金とは皆がそれをお金と認めた時、お金になる。それは貝殻でも紙切れでも暗号でもなんでもいいが、とにかく皆がお金として認める事が必須の条件だ。ビットコインを考え出したサトシ・ナカモト氏もそこが一番の関心事だったようで、最初色んな人にメールを出してこれをお金として認めてくれるよう頼んだりしている。興味本位の人や、技術の革新性に気付いた人達が少しづつ賛同の輪を広げていった様子が上記の本に描かれていた。

そしてビットコインを成立させているブロック・チェーンの革新性もワクワクさせる。人間が不正をしないため、今は国家や公権力が監視する社会だが、ブロックチェーンは不正をするくらいなら正しい事をした方が得する仕組みであり、関係者が公権力の監視がなくとも自発的に正しい事をするような仕組みになっている。これは民主主義や市場原理に匹敵する新しい人類の宝になるような気がする。

そして何より今年は音楽や旅や人や様々な出会いがあった。人に関してはお互いに誠意と敬意をもって接する事の素晴らしさと大切さを実感させられた。誠意と敬意がもたらす幸せをおろそかにしてはいけない。それこそが生きている事の意味なのだ、と。
年明けは八日からお目にかかります。皆様良い年をお迎え下さい。

2018年12月18日火曜日

気の遠くなる話


ゴーン氏を初めとする欧米の企業経営者達の強欲さにはうんざりする。数百億の報酬を得てなおも飽きる所がない。百億とは気の遠くなるような金額だが、世の中を見渡せばマイクロソフトのビル・ゲイツ氏とかアマゾンのジェフ・ベゾス氏のように兆を超える資産を持つ人もいる。そう思った時ゴーン氏の拘りを理解したような気がした。数字の桁を万単位で下げて見ると、百億は百万、兆は億だ。世の中に億以上の貯金を持つ人が沢山いるのを知ると、百万程度の貯えでは安心できまい。

時間と空間でも気の遠くなるような話が新聞の片隅にあった。41年前に打ち上げられたボイジャー2号が太陽圏を離れたと。太陽圏とは太陽風の届く範囲を言うらしい。その外の太陽の引力が及ぶ範囲を太陽系と呼び、同機が太陽系を脱出するのは3万年先だとか。人類が歴史を刻み始めてから凡そ3千年としてもその十倍だ。気の遠くなる話だが、その頃の人類が同機の事を覚えていてくれればいいが。

それでも太陽系は宇宙のほんの一部に過ぎない。それだけ広大な宇宙、そこに人間以外の知的高等生物が存在しないはずがない。それがどうして地球と接触しないのか。「銃・病原菌・鉄」で優れた文明史観を披露したジャレド・ダイヤモンド博士の推理はこうだ。「地球以外に知的高等生物は必ずいる。彼らが地球に接触しないのはそうなる前に絶滅しているからだ。知性の必然的成果として彼らは大量破壊兵器を造り出しているに違いない。それによって、外の生命と接触する技術・能力を得る前に自滅しているのである。」

彼の予想では人類の絶滅は2045年頃ではないかと。出来ればそんな大悲劇に立ち会いたくはないものだが、意外に長生きしたりしてひょっとするとなどと考えるとまた気が遠くなる。

2018年12月11日火曜日

市場原理


地方自治体の水道事業の民間委託を可能にする水道法改正案が可決された。人口減や水道管の老朽化等の課題に対し、民間のノウハウを活かしコスト削減などの経営改善を進めるというのだが、果たしてそんなにうまく行くのだろうか。

民間企業がコスト削減の努力をするのは市場における競争に勝つためであり、利益を上げるためである。自治体がやって採算の取れない事業を民間がやればうまく行くというような単純なものではないはずだ。

民間事業の基本原理は利益追求であって慈善事業ではない。私利私欲の追求という強烈な原動力を利用して資本主義社会は発展して来た。それを支えてきたのは市場における競争である。民間企業があこぎな事や杜撰な事をしないのは、聖人君子だからではなく、そんな事をすれば市場からはじき出されるからである。市場と言うたががあるからこそ秩序が保たれて来たと言ってもいいだろう。

水道事業においてそうした競争原理が働くのだろうか。一つの地域に複数の企業が併存し、品質と価格を勘案してある人はA社から水を買い、またある人はB社から買う、なんて事が出来るのだろうか。一企業が事業を独占すれば価格が高止まりするのは眼に見えている。

監視をしっかりやれば良い、という意見もありそうだ。だが監視をする側も人間だ。癒着が生じないと断言できる人はいないはずだ。関係者が聖人君子でなければ機能しないような仕組みはうまくいかない気がする。共産主義が失敗したのも人間が聖人君子ではあり得なかったからではないか。

かつて年金記録の管理の杜撰さが問題になった時、民間ならこんな事はあり得ないと言われた。その一方で耐震偽装問題の時は、建築確認は民間に任せられないと言われた。水道事業は果たしてどうか。

2018年12月4日火曜日

報酬


先週の杞憂、案の定ウォール・ストリート・ジャーナルは27日ゴーン氏の逮捕拘留を「中国の出来事か」と皮肉を交えて日本の司法制度を批判したらしい。それにしても法外な年俸には義憤を禁じえない。

先週の週刊新潮には日産の従業員の声が載っていた。「ノルマが厳しくなる一方で圧倒的に検査器や人手が足りずに現場が回っていなかった」と。経営者の高額な報酬は、まず企業活動が円滑に動くだけの投資をし、その後の余剰資金の中から支払われるべきものであろう。本来生産設備や検査機器に回すべき資金を横取りしていたとすれば言語道断だ。

仮に余剰資金の中からであったとしても疑問は残る。それを報酬に充ててしまっていいのか、内部留保として将来に備えるか、は別問題だ。プロのサッカー選手や野球選手が高額の年俸を受け取るのとは訳が違う。スポーツ選手の場合は受け取る者と支払う者が別人格として存在し、支払う側が相手の実力に応じて、宣伝効果や観客動員などの効果を認めそれだけの商品価値があるとして価格を決定しているからだ。自分で自分の報酬を決めるのはお手盛りと言うしかない。

企業経営者の報酬の適正額はどう決められるべきだろう。例えばこういうのはどうか。社長になりたい人が数人立候補する。荒唐無稽な人が立候補しても困るので取り敢えず取締役の中からとでもしよう。立候補者は自分の年俸はこれだけ欲しいと自己申告し、同時に業績目標を掲げ、それを達成したらその暁には十億円頂きます、と宣言する。そうした複数の候補者から株主総会での選挙で社長を決定する。これなら高額報酬も納得できよう。

かつてオプションの価格の理論式でノーベル賞を貰った経済学者がいた。経営者の報酬の理論的妥当値を研究する人はいないのだろうか。

2018年11月27日火曜日

杞憂

日本で起きた事件が海外でどのように報道されているか心配になる事がたまにある。
カルロス・ゴーン氏の逮捕もその一つだった。海外から帰国した飛行機に地検が乗り込んでの有無を言わさぬ逮捕劇だった。ゴーン氏の驚きはいかばかりだったか。彼がなしたと伝えられる悪事はその通りだったとして、そうした事実とは別に、被疑者を拘束する強引さには違和感を感じる。海外メディアからは「日本には推定無罪の原則はないのだろうか」という意見も出ているようだ。刑事訴訟法という法律に則った、よもや不法な手続きではないはずだが。
中国では人権派と呼ばれる弁護士が当局から不当と思える干渉を受け、多数の逮捕者が出ているらしい。彼らは家族との面会も許されていないとか。中国は憲法より共産党の方が上にあるような国だから、そうした事も理論的には合法なのだろうが。欧米人から見て、日本や中国では政府に睨まれたら何でもやられてしまう、というような悪い印象が起きなければいいがと心配だ。
それよりもっと心配な事件があった。滋賀県高島市の事故だ。自衛隊の訓練中に打たれた迫撃砲弾が的から約1km北にずれて、演習場の外に駐車していたワゴン車の窓ガラスを割った。しかもすぐには発射ミスに気付かなかったという。幸い人的被害はなく、関係者からは「大きな被害につながった恐れがあり、今後は注意する」と胸をなでおろすかのようなコメントも出ている。
何を暢気な。一番の心配は、被害の大小もさることながら、自衛隊の技量の問題だろう。たった2,3km先の的に正確に当てる事も出来ず、着弾点も確認出来なくて本当に国を守る事が出来るのか。海外から自衛隊が侮られて外交に悪影響を与えなければいいが。
ああ、全てが杞憂であって欲しい。

2018年11月20日火曜日

万歩計

埼玉県では希望者に対して万歩計を配布し県民の健康維持の一助としている。私の住む幸手市はさらに歩数に応じたポイントを付与し、やる気を喚起している。市役所や各地区の公民館に置かれた端末に万歩計をかざすと、データが読み取られ歩数履歴が記録される。データは自宅からもネットで確認できるし、一万歩以上歩けばボーナスポイントも加算される。
数か月前、その制度を知ってからそれまで自動車や自転車で行っていた所に徒歩で行くようになった。夕方買い物から帰って歩数が九千八百歩であったら、残りの二百を稼ぐために居間で足踏みしたりしている。
その万歩計を携えて出雲に帰り、驚いた。歩数が稼げない。
今まで出雲では車がないと生活できないと思っていた。スーパーへ買い物に行くのも車、ファミレスで外食するのも車。自転車に乗るのはせいぜい運動不足を実感する時くらいだった。だが今回街が意外に小さい事に気付いたのだった。最寄りのファミレスまでせいぜい片道で千六百歩、スーパーまではわずか千百歩しかない。家でゴロゴロしているだけだと二千歩を越える事はまずない。これだと一日一万歩を達成するのは大変だ。
埼玉では往復で六千歩ほどかかるドラッグストアに良く買い物に行っていた。テニスを二時間やっても凡そ六千歩稼げる。そうして可成りの割合で一万歩を達成していたのに。
車がないと生活できないというのも強迫観念に囚われた誤った認識であったようだ。基本的生活は徒歩で十分できる。ちょっと遠くへ行くのも電車やバスに徒歩を組み合わせ、少し時間はかかるが出来ない事はない。
歩数を気にするようになって、私はスーパーでのまとめ買いをやめた。必要になればその都度歩いて買いに行けばいい。時間の無駄と言う負い目を感じない様に、録り溜めたラジオ番組を聴きながら。

2018年11月13日火曜日

六か月

凡そ半年ぶりに出雲に帰省した。六か月という時間は生き物にとってどんな長さなのか。
植物にとっては生命力を誇示するのに十分な時間のようだ。庭に雑草が生い茂るのは想定内だとして、玄関先のタイルの目地のわずかな土に堂々と根を張っている草を見ると思わず脱帽したくなる。それだけではないコンクリートの細いクラックにも名も知らぬ草が根を張っていた。
昆虫にとっては長すぎる時間だったか。家の中に入ってみると、主のいなくなった空間を我が物顔に走ったり飛んだりしたであろう小さな虫の死骸が見受けられる。ゴキブリが力尽きて野垂れ死にしているのはまあ理解できるとしても、窓枠に蜂の死骸を見たときはびっくりした。どうやって部屋の中に入ったのか。箪笥を置いた入隅などに蜘蛛の巣があるのも驚きだ。こんな所で陣取っても獲物を捕らえる可能性は殆どないだろうに。
人間にとっての六か月はどうか。ケーリー・グラントとデボラ・カーが主演する「めぐり逢い」では六か月が一つのキーワードのように出てくる。物語はケーリー・グラント演じる名うてのプレーボーイ、ニッキーがヨーロッパからニューヨークへ向かう船の中で出会った女性テリーに魅せられその人生を変えていく話だが、船で運命的な出会いを果たした二人が下船後再会を誓うのが六か月後、その時の悲劇からどんでん返しの結末までがやはり六か月。
船に乗る前に既に大富豪の娘と婚約が整っていたニッキーだが、ニューヨークに到着後インタビューで結婚はいつの予定か聞かれた時、既に婚約者から心の離れたニッキーは「六か月後だ」と答える。あたかもそれが永遠の未来であるかのように。
真意を確かめたり、諦めたり、決心を固めたり、それが六か月なのだろうか。

2018年11月6日火曜日

国境の壁

ホンジュラスがどんな国か知らない。大統領の治める共和国ではあるらしい。そこから大量の移民がアメリカを目指している。川を素足で渡ろうとする長い行列を見ると彼等の強い意志を感じる。それに対してアメリカは国を閉ざす考えのようだ。
かつて東西冷戦の時代には東側諸国の人々が西への移住を試み、それを阻止するため東側諸国が国民の逃亡を防ぐために壁を作った。今回は国民が逃げ出そうとする国はそれを静観し、移住先の国が移入を阻止するための壁を作ろうとしている。この二つの対比はどう考えたら良いのだろうか。
国家と国民の関係は、国家が治安や社会インフラなどを提供し、国民がその対価として税を払いサービスを享受するという関係で、消費者が製品を価格と質のバランスで自由に選べるように、国家が提供するサービスの質と対価としての税のバランスで世界中の全ての人が国家を自由に選べるのが理想ではないかと思っていた。そうした一種の市場原理があれば企業経営者が製品の質の向上と価格低減を目指すように、政治家も自ずから善政に努め、適正な税で良好な社会を作るようになるはずだと。
ベルリンの壁は、優れた製品を作り出すことに失敗した経営者が自社の製品を無理矢理下請け企業や従業員など関係者に買わせようとしているように見えた。だが今回のホンジュラスは違う。治安の悪化や経済の停滞を放置するのは、自社の製品が売れなくても構わないと居直っているようだ。企業なら倒産すればそのトップは債務に苦しみ、辛い日々を送ることになるところだろうが、国家では経営破綻によるトップへの鉄槌は下らないのだろうか、革命や敗戦による死以外には。トランプ大統領に尋ねてみたい。人々が住みたいと思う国は良い国のはずなのに正な税で、00000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000と。

2018年10月30日火曜日

立場

プリンセス駅伝、岩谷産業の飯田選手の四つん這いになっても襷をつなごうとする姿を皆様はどういう思いで御覧になっただろうか。ネットでは様々な反響・意見が飛び交った。
「良く頑張った」と素直に賞賛する声、「見ていて辛かった、涙出ました」と同情する声、「あまりに痛々しい。これは美徳とは言えない」と関係者を批難する声、「精神論で讃えるなんて馬鹿だ」という醒めた声もあった。
私自身、テレビ映像を見てまず驚いたのと、上記の様々な意見の全部に符合するような複雑な思いが胸をよぎった。そして思ったのはそれらは事の是非やどうあるべきかを論じたものではなく、それぞれの立場での思いを表明したものなのだと。意見の違いは価値観の違いによるものではなく、立場の違いによるものなのだ。00000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000
素直に賞賛する声は、おそらく選手自身の立場に立ったものだろう。その意見を述べる人は多分、あの選手と同じ立場に立った時、同じ行動を取るに違いない。同情する声は、選手の親族の立場に立って事態を見守った人達だ。仮に我が子があのような行動を取ったとしたら「分った、もう十分頑張ったよ。お前の気持ちは皆に通じているよ。」という思いで胸が一杯になっただろう。関係者を批難する声は、選手を育成する立場で見た人達だろう。選手の有望な前途がこの事で台無しになってはいけない、選手の将来を第一に考えるべきだ、という思いが背後に見える。
そう思うと制止しなかった審判や関係者を批難する気になれない。選手の所属チームは大会後、大会運営者を批難するコメントを発表したが、審判達は選手の立場に立ち、彼女に感情移入して、自分ならここでギブアップしたくない、もう少し頑張らせたいと思っての事だったであろうから。

2018年10月23日火曜日

奈良判定


もういささか旧聞に属するが、日本ボクシング連盟は奈良判定を始めとして色々な話題を提供してくれた。
話題の主であった前会長はチンピラ然とした服装や言動や、気に入らない事があるとステージの上で脚を強く踏み鳴らして不満を現す姿は子供がダダをこねているようで、なかなか笑えるキャラクターではあったが、当事者はそう暢気な事を言っても居られなかったのだろう。前会長への忖度に端を発した不正疑惑を調査した第三者委員会の報告書が先月末に公表された。
「理事全体の責任 指摘」との見出しのついた記事を読むと、第三者委員会の提言はかなりの部分が別の忖度事件、安倍判定とも言うべきモリカケ問題の関係各者にも当てはまるのではないかと思われた。以下、その提言を抜粋してみる。()内は筆者の注釈。
一、関係者の意識改革
役職員は(政府関係者は)組織を統括している事や、競技の普及振興を図る職責を担っている(国政を担う責任を)自覚する。
二、地方との連携強化
地方の意見に耳を傾け、連携を強化する必要がある。
三、(略)
四、ガバナンスの強化
風通しの良い運営体制や情報開示、執行部から独立した懲戒制度(政府から独立した司法制度)などが必要。
五、(略)
六、公平性の確保と強化
審判の(司法の)判断が影響を受けないよう、審判委員会を(司法を)独立させる。
七、定款、規約等の順守
法規や倫理規定を役職員が学ぶことが必要。
八、(略)
九、財務基盤充実への努力
(財政赤字はなんとかしないとね)
以下略。いかがなものだろうか。

2018年10月16日火曜日

頭が良い

九日に行われた沖縄は翁長知事の県民葬での菅官房長官の弔辞にちょっと驚いた。「(沖縄の発展のために)尽くされて来られました。」と。非常な違和感を感じた。内容にではない、敬語の使い方にだ。「尽くして来られました」か「尽くされました」なら自然だが、二重に敬語を使うのはどこか変ではないか。
恐らくは官房長官側近の優秀な官僚、所謂特別に「頭が良い」と言われる人が原稿を書いたのだろう。こんな変な日本語を聞くと「頭が良い」とはどういう事なのだろうという疑問が湧く。
まあこれはちょっとしたケアレスミスなのかも知れないが、国会で苦し紛れの答弁を繰り返す官僚達の姿を見ていても、学校で良い成績を取っていた人が必ずしも「頭が良い」という訳ではないように思える。記憶力が良い事や計算が速い事も「頭が良い」事の一面ではあろうが、ぴったりした定義とは遠いようだ。
逆に「頭が良くない」と思えるケースを考えてみる。日馬富士の暴行事件以降貴乃花親方が取った行動はどちらかと言えば「頭が良くない」行動のように私には思えた。自分が求めている結果を得るために為すべき事と違う方向に走ったような。東京から北海道に行こうという時、西に向かう電車に乗ったような。アメフト暴行事件の後に日大関係者の取った行動も似たようなものだった。
頭の良さとは、事後を的確に予測し自分の望む物事を手にすべく行動できる能力ではないか。こういう行動を取ったら相手方にどういう印象を与え、広く世間の評判がどうなるか、そういう予測が出来て、的確な行動が取れること。太閤秀吉はその能力に長けていたように思える。学校の勉強を通じてそういう能力が身に付けばいいのだが、なかなかそうならない所が難しいところだ。

2018年10月9日火曜日

言論の自由

新潮45の休刊(廃刊?)はヴォルテールの言葉を思い出させた。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」。言論の自由を主張した言葉として知られている。
新潮45を直に読んだ訳ではないが、基本的には自分の意見を述べる事が制限を受けてはならないと考えている。言論が制限を受けるとすれば、例えば街宣車でがなり立てるような高圧的に相手の自由を侵害するものであったり、事実と異なる明らかな虚偽であったりする場合だろう。
ヘイトスピーチや下品な論評はある意味ストリーキングに似ていると思う。自制されるべきものであり、他人が制約するものではないという点において。現在街中を裸で歩き回るのは刑法で禁止されているが、それは見る人の中に判断能力の未熟な年端も行かない青少年がいて、彼等への悪影響を考慮しての事だろう。ヘイトスピーチも同じで、本人が回りの冷笑と失笑を覚悟で行う事なら他者への強制を伴わない限り許されても良いではないか。ある言論を過激だ、偏向している、として制限するのは読者が未熟で判断能力のない馬鹿だという前提に立っているようで、極めて不愉快だ。
虚偽は許せない。サンデー毎日の最新号でジャーナリストの江川紹子氏は「(杉田議員の)論文は、あたかもLGBT(性的少数者)の支援に多額の税金が充てられているかのように書かれています。」と言っている。杉田議員がウソを書いているならそれは問題だ。だが、江川氏の「関連予算は全体の0.01%にすぎません。」という主張もどうか。金額を書かないのは少なく思わせようと真実をぼかしているようにも見える。
勿論杉田議員を支持している訳でなく、彼女の発言の自由を認めているだけだ。冷笑を交えて。

2018年10月2日火曜日

芸術


日本橋の三越本店では例年秋に日本伝統工芸展が開かれる。今年も十月一日まで開催されていた。ちなみに島根では十二月五日から二十五日まで県立美術館で開催される予定との事。
陶芸、染物、竹細工、彫金、螺鈿など細心の注意を払った緻密な手仕事の結果生まれた作品の静謐なたたずまいを見ていると頭の下がる思いがする。それに比べて一部の前衛芸術のなんと安易な事か。全ての前衛芸術がそうだとは思わないが、例えば全身に絵の具やペンキを塗って真っ白な壁に体ごとぶつかっていって、その時に出来る模様を作品だと称するようなものだったり、ペンキの入ったバケツをひっくり返して出来る模様を有難がったりするような、そんな製作風景を見ると、もっと伝統工芸を見習ったらどうかと言いたくなる。
芸術とは創作する側に才能や努力や一種の呻吟があって、鑑賞する側に審美眼や作品に対する敬意があって成立するのだと思う。伝統工芸を見ているとクラシック音楽を思い出す。創作・演奏する側の苦労が鑑賞する喜びを提供しているようだ。
その点ジャズは違う。ジャズの演奏会へ行って思うのはどう見ても聴いている側より演奏している側の方が楽しそうだと言う事だ。楽しみながらお金を取るなんて、ずるいじゃないかなんて思ってしまう。勿論、一定以上の技量があるからこそお金を払ってまで聴きに来る人がいるのだが。ジャズでは努力や呻吟は技量を高める練習の段階でなされて、最終の作品段階ではそれを感じさせないのが良いのだ。翻って伝統工芸では最終の作品は控え目で禁欲的だが、製作過程では作者は結構楽しんでいるのかも知れない。
なかなか上達しないジャズピアノの練習をしながら思った。楽しむって芸、染物、竹細工、彫金、螺鈿、景を見ると、もっと伝統工芸を見習なんと苦しい事なんだろうと。

2018年9月25日火曜日

本因坊

私の住む埼玉県幸手市は三人の本因坊を輩出し「囲碁のまち」を自称している。市内には第八世伯元、第九世察元、第十世烈元の三人の墓石が点在して残っている。それを訪ねてみて、そして驚いた。
市が発行するA3版の地図を片手に出掛けたのだが、なかなか目当ての墓石に行き着かない。そもそも当該史跡が近くに住む人すらよく知らないようなささやかなものなのだ。更に地図に示された場所と実際の場所とが微妙に違う。この地図を作った市の担当者は実際に現地を確認していないのではないか。墓石は道の左側にあるのにマークは右側にあったり、最寄の目印との相対的位置関係が違っていたり。小さな説明看板を頼りになんとかたどり着き、そこでまた驚く事になる。ちかく
本因坊と言えば当時の囲碁界では日本一の人だ。そんな人達だから、その墓石はさぞ立派なものだろうと想像する。ところが実際そこにあったのはまるで無縁仏のようにひっそりとしたものだった。実際九世察元の墓石は他の無縁仏たちと一緒に、墓仕舞いを待つかのように肩を寄せ合って満員電車の人混みのように立っていた。高さ五十センチほどの直方体の石に「本因坊上人之墓」と書かれてなければ見逃してしまうだろう。彼が生まれた間宮家は断絶してその家系を継ぐものはいないとの事だ。
それでもまだ彼は一人で一つの墓石だが、八世伯元と十世烈元は三~五人連名の中の一人として石に名前が刻まれているだけだった。いずれも生まれた家の個人墓地に「右から何番目」と注記がなければ分らないような小さな石に。
彼らは徳川吉宗、杉田玄白、円山応挙などと同時代の人だ。これらの人の史跡はもっとしっかりしているのではないか。囲碁への敬意の低さに戸惑いながら、石見にある本因坊道策の史跡を訪ねてみたくなった。

2018年9月18日火曜日

大坂なおみ

テニスファンとして今週はこの話題を取り上げないわけにはいかないだろう。テニスファンではない人でもそれに異存はないはずだ。全米オープンテニス大会での優勝、本当に素晴らしい快挙だった。決勝戦の日は近くに住む娘が孫を連れてWOWOWでの生中継を見に早朝五時から我が家にやって来た。
決勝戦は全く危なげない完勝と言っていい内容だった。見ていて一番心配したのはベスト8を賭けて戦った対サバレンカ戦。第二セットを奪われた時は例の精神的弱さが出てしまったのではないかと心配した。その時以外今大会の大坂選手のプレーを見て特に感銘したのはその冷静さだった。
優勝後のインタビューでの発言「一番大切は、なんか・・我慢」という言葉に今大会の大坂選手の成長を見た。今まではとにかく強打。勝敗より強打とでも言うように強打して相手の鼻を明かすのが彼女の目的であるかのようだった。昨年の全仏オープンで同僚のオスタペンコが優勝し、グランドスラム制覇に先を越されてからは対抗意識からか余計に力が入っていたように見えた。だが今年の全米は違った。
強打でエースを取る事はたまらない快感だが、試合に勝利する喜びはより尊く、そのためには地味な努力が欠かせない。それに大坂選手が気付いたような気がする。「我慢」なんて普通はつまらないものだ。思いっきり我を通したい、思いっきり派手に振舞いたい。だけどそれを我慢し自制し冷静に事に対処する。それが出来るためには自信が必要だ。大坂選手は「自分に自信を持ち続ける事」を心掛けたとも言っている。
518回に紹介した黒澤映画・椿三十郎に出てくる「本当に良い刀はいつも鞘の中に収まっているものですよ。」の台詞を思い出す。大坂選手は自らの名刀を振り回すのではなく鞘の中に収める術を知ったのだ。

2018年9月11日火曜日

夏のスポーツ


編集の関係で全米オープンテニス大会の女子決勝の結果を見る前に出稿しなければならないのが残念だ。
今年の全米オープンは例年以上に暑かったようだ。優勝候補の一角フェデラー選手は暑さのせいもありベスト16で姿を消した。試合後のインタビューでは会場の暑さに苦言を呈し、試合が終わった時にはほっとしたとも言っていた。テニスの主な大会は夏、暑い時期に行われる。テニスは夏のスポーツでいいのだろうか。
スポーツは基本的に激しく体を動かすのが一般的だから暑い時に行うのは向いていないように思われる。水泳のように水の中で動くものや、野球のように投手以外は動く機会が少ないような競技は別にして。サッカーやラグビーの天皇杯が冬に行われるのは選手の体を考慮してベストの状態でプレーが出来るようにとの配慮からだろう。
テニスの主要な大会がどうして夏に行われるようになったか、それは試合時間に関係しているのではないか。サッカーやラグビーのように試合時間が予め決まっているものは終了の時刻を相当正確に予想できる。だがテニスや野球のように試合時間に大きな変動があるものは終了時刻が予想できない。昔まだナイター設備がない時代には試合が長引いて暗くなっては困るので日没の遅い夏の時期に行って、それが慣習として今につながっているのではないだろうか。今や日没も気にせず試合が出来るのだから選手が思う存分力を発揮できる涼しい時期に大会を開くべきだと思うがどうだろうか。普段では考えられないような凡ミスを繰り返すフェデラー選手など見たくない。
東京オリンピックでのマラソン競技の暑さ対策が話題になっている。これもマラソンは冬のオリンピックでやれば済むことではないか。夏冬オリンピックの固定概念を外したらどうか。

2018年9月4日火曜日

カラオケ

テレビの某クイズ番組で「カラオケ」は何の略かという問いに五十前後の出演者は二人とも答えられなかった。思い起こせばこの言葉は私が社会人となった頃、昭和五十年頃から一般的になったように記憶する。その黎明期に立ち会った者にとってそれが「空のオーケストラ」の略であるのは自明だが、その頃まだ小学生にもなるかならないかの人には難しかったようだ。
当時はカラオケ専門店もなく、その装置を備える事が飲み屋さんの集客手段でもあった。曲数も少なく、定番の小林旭や三橋美智也など毎回同じ唄を歌っていたものだ。今では曲数も飛躍的に増え、洋楽でも、懐メロでも何でも揃っている。私は多感な頃を思い出しながら三田明の「美しい十代」や安達明の「女学生」などを努めて歌うようにしている。
あるカラオケ仲間から昭和初期の唄を集めたCDをお借りした。それを聴いて当時の唄の斬新さに驚いた。「アラビアの唄」やディック・ミネの「ダイナ」など今聴いても新鮮だ。そんな中「もしも月給が上がったら」という面白い曲に出くわした。
昭和十二年の発売らしいが、当時の世相が分って面白い。「もしも月給が上がったら私はパラソル買いたいわ、僕は帽子と洋服だ」パラソル(日傘?)が女性の憧れで、男性の所望が帽子であってネクタイでないのが面白い。「お風呂場なんかもたてたいわ」ともあるからお風呂がないのは普通だった。
付随する解説を読むと「昭和初期の長い不況の間、給料は上がるどころか下げられた」とある。世界大恐慌から続く不況下で戦争の影が大きくなる中「ポータブルを買いましょう、二人でタンゴも踊れるね」とも歌っている。タンゴを踊るなんて、なんとモダンな夫婦なのだろう。二・二六事件や盧溝橋事件の頃の庶民の明るさに感心した。

2018年8月28日火曜日

基本

アジア大会の女子バドミントン、中国を破っての優勝に喝采した。見ていて感心したのは選手が皆基本に忠実だという事だ。
バドミントンのダブルスの場合、攻撃の時はトップ・アンド・バック、防御の時はサイド・バイ・サイドがポジショニングの基本だ。相手コートに強い球を打ち込んだり、ネット際に低い球を落とした時には縦に前後に並び、逆に高い球を返した時はさっと左右に陣取る。それを素早く繰り返す選手たちの動きを見ていると実に気持ち良い。
そして足元を見ていると、小さいながら必ずスプリット・ステップをやっている。これはあるタイミングで両足をチョンと上げる動作で、テニスのプロ達も必ずやる。そして当然のように、球を待つ間は常に足を動かし、打つ瞬間はしっかり足を止めて打つ。
そうした基本動作が無意識の内に自然に出来るようになる事は勝利の必要条件なのだろうが、我流でやってきて基本の出来ていない私などはなかなかそれが出来ない。スプリット・ステップの重要性を頭では分かっていても体が動かないし、足を動かさなければいけないとき足が止まって、足を止めて打たなきゃいけないとき足が動いている。
人生というゲームにおいてはどうだろうか。
人生のゲームは如何に幸せになるか、を争うものだと思っている。そして幸いそのゲームはゼロサムゲームではなく、回りにより多くの幸せを与えた人が勝利するような仕組みになっているらしい。そのゲームにおける基本は何か。おそらくあまり贅沢をしない、他人を不快にしない、などがあろうが、全く逆に不必要に威張り散らしたりしてないか。
ボランティア活動に活躍する尾畠春夫さんを見て、ひょっとしたらこの人はそうした人生というゲームの基本をきちんと会得した人なのかも知れないと思った。

2018年8月21日火曜日

自他の境目

善悪や価値判断だけに限らず、何事でも境目というものはそんなに明確なものではないようだ。
一番はっきりしていると思える自分とそれ以外の境目でさえそうだ。これほど明確なものはなかろうに、よくよく考えてみると結構曖昧だ。
目の前にコップ一杯の水がある。これは確かに自分ではなさそうだ。だがそれを口に含んだらどうだろう。飲み込む前で、まだ吐き出すことの出来る状態ならまだ自分ではなさそうだが、飲み込んだらどうか。食道の中をすべり落ちる水は自分かどうかかなり曖昧だ。胃まで到達して体内に吸収されたら、流石にそれを自分ではないとは言い切れまい。
出る方だってそうだ。小便はいつから自分でなくなるのだろうか。膀胱に蓄えられている時はもう自分ではないような気もする。腎臓の糸球体で血液が濾されて尿になった時、自分でなくなったと考えるべきだろうか。汗はどうだろう。髪の毛はどうだろう。爪はどうだろう。垢やフケはどうだろう。
目には見えないが空気中を飛び回っている酸素分子は次の瞬間呼吸によって肺の中に入って、数秒後には自分の体の一部になっているかも知れない。
人間の体は60兆個の細胞からできているらしいが、その細胞は75日から3ヶ月で入れ替わるそうだ。自分の体と言っても物質的には半年前とは全く別物になっているわけだ。自己とは宇宙という大きな溶液の中に出来た煮凝りのようなもので、死んだ後にはまた溶けて個々の原子は宇宙のどこか別の煮凝りの一部になっているかも知れない。
テレビの某番組での聞きかじりだが、華厳経は「世の中のあらゆるものはつながり合い、そこに個々の区別はない」と説いているらしい。この考えを突き詰めればいくらかでも死の恐怖から逃れられそうな気がするがどうか。

2018年8月14日火曜日

境目

善悪の境目はどこにあるのだろう。
日本ボクシング連盟の前会長は「自分は何も悪い事はしていない」と仰った。告発者達は全く別の見解を持っているはずだ。刑法を善悪の境目にすれば、確かに判定に依怙贔屓や手心を加えることなど、法に触れる訳ではなさそうだ。だが一般には倫理や矜持など、より厳しい境目を自分に課している人の方が多いだろう。ただ、自分が反省する時と、他人を批難する時とで境目が変わってしまうのは人間の性として仕方ない事か。
マイケル・サンデルの白熱教室で面白い議論があった。企業が社員を採用するに当たって見た目を基準に選考するのは許されるのか。例えば飲食店などの接客業が、より多くのお客に来てもらうため可愛らしい女性を優先的に雇うのは道義的に許されるのか。多くの受講者が企業は利益追求が目的でそれは仕方ないとの考えを示したが、人種を理由に採用の可否を判断することには殆どの人が反対した。見た目による差別は良いが人種による差別はいけない、その境目は何だろう。
普通採用試験は筆記試験で一定の知識や能力を確認し、面接によって意欲(と見た目?)などを確認するが、そもそも知識や能力の方が見た目より重視されるべきだという考えはどこに根拠があるのか。人種や見た目など本人の努力ではどうしようもない所で選別するのは不公平だという意見が多かったが、しかし知識や能力だって生まれながらの要素がかなりあるではないか。これだって境目がよく分からない。
白熱教室の議論を聞きながら思った。古今多くの人が恋人選びに際し見た目を基準にしてきて、それが批難されるのを聞いた事が無い。見た目重視が恋人選びの時は許されて、企業の採用の時には許されないとしたら、その境目はどこにあるのだろう。

2018年8月7日火曜日

改竄・書換・訂正

お役人さんとは随分とつらい仕事のようだ。余計な忖度などせず、自分の信念に従って仕事をすればよいのに、と思っていたし、当コラム508回にも「出世に影響はあろうが、命までとられるわけではあるまいし」と書いた。ところが、命まではとられないにしろ、刑務所にぶち込まれるくらいは覚悟しないといけないようだ。
文部科学省が汚職事件で揺れている。事務次官室も捜索対象となり、幹部の中には公用、私用の携帯電話を押収されて荒探しをされている人もいるらしい。確かに接待を受けて、業務に便宜を図るのは良くない。しかし、宇宙飛行士を講演会に派遣するよう便宜を図る事より、公文書を書き換えてしまう事の方がどれだけ悪質、かつ国益を損なうか言うまでもない。
それなのに一方は逮捕起訴され、一方は全くお咎めなし。逮捕されたのはかつて喜平隊の一員、前川喜平氏に近い人だったとも聞く。俺に逆らったらどうなるか見ておけ、とでも言うのだろうか。
文藝春秋の最新号では中村喜四郎氏の「安倍恐怖政治が自民党をダメにした」という記事が載っている。そこで彼の曰く「我々は今『この六年間が日本を変えてしまった。』と後の世代に疎まれるほどの忌まわしい歴史の渦中にあるのです。」と。これが単なる杞憂に終わる事を祈る。
財務省の文書は改竄か書換か不毛な議論があったが、今回のは純粋な訂正です。最近ある熱心な読者から過去のものも含め誤字の指摘を受けました。それをここに訂正させて頂きます。
571回下段本文左から四行目。私を一緒に私と一緒に
358回上段左から三行目。八ちぁん八つぁん
221回中段中央右から三行目 scholl→school
既にお気付きの方もいらっしゃるかも知れません。今後このような事のない様注意します。

2018年7月31日火曜日

片思い


オウム真理教関連の事件で死刑判決を受けた十三人全員の死刑が執行された。その多くは五十代、中には四十八の人もいる。恐らく彼等のご両親はまだ健在ではなかろうか。我が子の死刑の執行にどんな思いでおられるのだろう。
親が子を思う気持ちは、実際に子を持った者でないと分からない。子は自分の幸福のためなら親を踏み台にする事を躊躇わないが、親は自分の幸福を犠牲にしてでも子の幸福を願う。
オウム信者の多くは出家の際に親と衝突し、親の意見に逆らう形で出家している。その時にもうあの子はいないものと思った親もいるだろうが、しかしいざその死を目の当たりにすると様々な思いが去来するに違いない。まして洗脳から目を覚まし、過去を悔い、少しでも償いをしようとする我が子の姿を見たら、胸が張り裂けんばかりの気持ちだろう。皆入信前は優秀な自慢の息子だったのだから。
一方子から見た親はどうか。逆に死に臨んで彼等死刑囚の脳裏にそのご両親はどう浮かんだのだろう。親よりもむしろ松本死刑囚への恨みや思慕の方がより強かったのではないか。
哀しいかな親の子への思いはいつも片思いである。オウム関連死刑囚も子を持って見ればようやくその時、親達が自分をどう思っていたかを知ることが出来ただろうに。
私の父は母が亡くなって十年間一人暮らしをしていた。その父が死んだ時、遺品を整理しているとある手帳が出てきた。将来の予定がいろいろ記入されている中、私が定年を迎える年には「勝が帰ってくる」と書かれていた。一人暮らしの寂しさの中で私と一緒に暮らしたいと願っていたのだ。その思いも知らず、ああ僕は何と薄情だったのだろう。

今にして知りて悲しむ父母が 
  我にしまいしその片思い  
   窪田空穂

2018年7月24日火曜日

酷暑


暑い。新聞は一面トップに「酷暑列島」の見出しを出した。七月もまだ上旬で夏休みまで随分間がある頃から続く暑さ。スペインから神戸に来たイニエスタが最初に覚えた日本語が「アツイ」だと言うのも分かる気がする。
市の防災アナウンスが「外での活動は控えましょう」と諭している中、テニスをやっている。それを見て「馬鹿じゃないか」と呆れている人もいるらしい。それも午後三時から五時のチームならコート脇の木立が落とす影にプレーの合間の短い時間逃げ込む事も出来るが、十一時から一時だと影一つない所でのプレーになる。テニスは本当に夏のスポーツなのだろうかと疑問が湧いてくる。
それでも我々は遊びだからいい。災害の後片付けをしている人はさぞ辛いだろう。好き好んで外に出ている訳ではない。水分補給もままならない。明日からの生活を思う精神的辛さもさも併せて加わって、本当にお気の毒だとしか言いようが無い。
それにしても豪雨時のダムの放流は如何なものか。本来豪雨から下流を守るべきダムが逆に加害者になってしまった。あの時点で放流しなければダムそのものが決壊してより重大な被害をもたらす可能性があった、という理屈は分かる。しかし本当に最善を尽くしたのか。豪雨の予報はずっと前から出ていたのだから、予め放水しておいて雨の前にダムを空にしておくとか、そんな対策はちゃんとなされたのだろうか。
被災地を悩ますこの暑さはいつまで続くのか。暑さを表現する言葉は、酷暑、猛暑の他に大暑、炎暑、極暑、炎熱、苦熱などがあるらしい。苦熱とは「さながら釜の中にあるよう。耐え難く苦しい程の暑さ。暑さの苦しみ」とある。こんな言葉があるという事は昔からそんな事があったという事だ。まさかこれから酷暑列島が苦熱列島なんかにならなければいいが。

2018年7月17日火曜日

高山彦九郎


京都の三条大橋の東のたもとには、いかつい顔をした男が土下座のように御所の方向を望拝する大きな像がある。その像に刻まれた名前は高山彦九郎正之。一体どんな人なのだろうと疑問に思っていた。
先日群馬県太田市に行く機会があり、いろいろ調べるとそこは高山彦九郎の生地らしい。高山彦九郎宅跡、高山彦九郎記念館、高山神社と彼に関する史跡や施設が沢山あった。
今回改めて調べた所によると、江戸時代にいち早く尊王思想に目覚めた寛政の三奇人の一人。戦前の教科書には楠木正成と並んでよく登場したらしい。田沼時代から寛政の改革の頃活躍した人で、確かにその時代は朝廷に比べて幕府の力が圧倒的に強かった(光格天皇による尊号一件はその頃の事件)から、その時期に尊王を唱えるのは如何にも奇人と呼ぶにふさわしい。
幕末になって尊王の志士たちが活躍するようになると、改めて彼の生涯に注目が集まり、高山彦九郎記念館の近くにある彼の遺髪塚には高杉晋作や久坂玄瑞も参拝したそうだ。また彼の戒名は「松陰以白居士」で吉田松陰はここから名前を取ったとも言われている。
明治の初めには彼を祀る高山神社が創建された。太田市の中心部に程近い天神山にあるその神社に行って驚いた。平田の愛宕山ほどもあろうか、小高い山というより丘とも言うべき所にまっすぐ上に向かって階段が続いており、その頂上には立派な鳥居が見える。そこまで登れば鳥居の先に立派な社殿が待ち構えているはずだった。しかしそこには石造りの基壇があるばかり。基壇の中は黒い灰のようなものがある。社殿は四年前放火で焼失したとの事。こんな無残な風景に接するのは初めての経験だった。
因みに高山彦九郎は全国を旅し、出雲にも立ち寄っている。高山彦九郎日記に出雲がどう登場するのか興味がある。

2018年7月10日火曜日

貿易戦争


米中の貿易戦争の先行きが心配だ。新聞記事の一部は次のように書いている。「中国は(中略)大豆や豚肉などの米産品への報復関税を発動させると表明してきた。トランプ大統領は既に、輸入鉄鋼やアルミニウム、太陽光バネル、洗濯機への関税を導入している。」

常識と照らし合わせると何かおかしい。長い間、先進国が後進国に対して工業製品を輸出し、後進国が先進国に農産物を輸出するというのが一般的だと思っていたが、実態はそうでもないようだ。まさか米国に比べて中国の方が先進国であるという訳ではなかろうに。

米国と中国の経済というと1992年を思い出す。その頃約一年半の米国生活を終えて日本に帰る頃だった。お世話になった大学の先生の所にお別れの挨拶に行った時「今、中国の経済が凄いみたいだね」と言われたのが鮮明に記憶に残る。「中国 改革解放」というキーワードでネットを検索すると「1992年以降、再び改革開放が推し進められ、経済成長は一気に加速した。」との記述に出くわす。1992年はまさに中国経済が離陸する時期だったのだ。丁度同じ頃、巷では「ニューヨークダウが3000ドルを突破した。凄いなあ」という声が聞こえた。そのダウは今や24000ドル以上にまで上がった。
1992年と比べて中国のGDPは百六十倍になった。米国の株価は八倍になった。一方日本はGDPも株価も停滞したままだ。ジャパンアズNo1などとおだてられていい気になっている内に、一人当たりGDPでは世界25位にまで後退した。マカオ、シンガポール、香港は日本より遥かに豊かな国になった。そんな借金まみれの貧乏国が北の非核化費用まで負担させられようとしている。それでいいのか。日本はいつ目覚めるのだろう。

2018年7月3日火曜日

サッカー

W杯予選リーグの最終戦対ポーランド戦を見ていて我が目を疑った。負けているにも拘わらず日本チームが戦う意思を見せずボールを廻し始めたからだ。勝っていて勝ち逃げを目指すならともかく、負ける事が分かっていて戦いを放棄するような行為はサムライの名を辱めるものと思われた。
案の定、翌日にはネットやメディアで批判と容認の賛否両論が溢れた。苦渋の決断をした西野監督も「こういう場所(16強)に来たにもかかわらず、素直に喜べない状況をつくってしまったのは申し訳なかった。」と語ったらしい。海外メディアの「フェアプレーをないがしろにしてフェアプレーポイントで勝ち上がるとは、何という皮肉だろう。」という批判が誠に当を得たもののように思えた。
私の第一感は「お金を払って試合を見に来ている観客の人に失礼だろう」という思いだった。試合の醍醐味は選手が全力で戦う事にあり、全力で戦うとはリスクを冒してでもよりよい結果を目指す姿勢にあると思う。対セルビア戦の乾選手にそれを感じた。本田選手による同点ゴールをアシストした乾選手だが、本田選手に出したパスはゴールラインを割る寸前に蹴ったボールだった。そのボールはセルビアの選手に当たっていたので、見逃せばコーナーキックになって、態勢を整えての攻撃につながる可能性もあった。乾選手は敢えてリスクを冒してボールを中に蹴り込み、本田選手の同点ゴールを生んだ。素晴らしい判断だった。
観客や海外メディアのブーイングを受けてまで勝ち取った決勝トーナメント進出。苦渋の決断が正当化されるのは結果を出すしかない。決勝トーナメントを勝ち上がる事だ。優勝の二文字こそが全てを正当化する。間違っても一回戦敗退という事のないように。強敵ベルギー相手ではあるが。

2018年6月26日火曜日

一神教

ユダヤ教やイスラム教が偶像崇拝を禁止する理由がよく分からなかった。そんな中、同じDNAを持つキリスト教が十字架に磔にされているイエスの像やマリアの像といった偶像の崇拝を許しているのも不思議と言えば不思議だ。偶像崇拝の禁止は愛する人の写真を見てはいけない、と言っているようだ。恋しくて会いたくてたまらないのに会えない人がいて、せめてその人の写真を見て一時の淋しさしのぎをしようとするのはいけない事なのだろうか。
そんな事を思いながら一神教の神様の嫉妬深さを思い出した。モーセの十戒は「わたしのほかに神があってはならない。」で始まる。信徒が自分以外の神を崇めようものならその怒りは凄まじい。神様に人間社会の基準を当てはめたら不遜であろうが、私の目には嫉妬にしか見えない。この嫉妬が偶像崇拝の禁止につながっているという仮定はどうだろうか。
偶像を作る時、人間はそれが神の姿を映したものだと思っている。だが、人間は神を見た事もないし、神の姿を正確に表現する事も出来るはずがない。一神教の神から見ると、人間が崇めている像はどう見ても自分の姿ではない。人間が偶像を崇拝する姿を見ると、神は人間が自分以外のものを崇拝しているように思えるのではないか。それを嫉妬深い一神教の神が許すはずがない。
キリスト教が偶像崇拝を許すのは、その像がまさに現に存在したものだからだ。イエスが十字架に磔にされたのも、マリアが慈悲深く我が子を抱いているのも、まさに現にこの世に存在したものであり、他のまがいものでは決してない。エホバやアッラーは想像するしかないがイエスやマリアはまさにそのままを描ける。
多神教では山や岩そのものが神だ。多神教の神は寛容で民は謙虚だ。多神教たることを誇りとすべし。

2018年6月19日火曜日

愛情

そのニュースに接して涙しなかった人はいないのではないか。「もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします」いたいけない五歳の少女の悲痛なお願いだった。
赤の他人ですら放っておけないようなそんなお願いが、一緒に暮らす大人の心を動かさないとは!私は再婚というものをした事がないので分からないが、再婚相手の連れ子というのはそんなに憎いものなのだろうか。そもそも再婚しようと決意するくらいだから、再婚相手そのものには一定以上の愛情を感じているはずだろう。その子であれば、少なくとも赤の他人よりは濃い愛情を持って然るべきだと思うのは単なる理屈か。
母親は再婚相手の男性に遠慮して、子に対する十分な愛情を示すことが出来なかったようだ。これも到底理解できない心情だ。仮に私が再婚して、再婚相手が私の連れ子をいじめたとする。私は当然に子の味方をし、場合によっては再離婚もやむなしと考えるだろう。実の我が子より、配偶者の方により強い愛情を感じているとしたら、よほどその人が魅力的な何かを備えているのだろうか。外見からはとてもそうは見えないが。
結愛ちゃんの実の父親はこの事件をどう見ているのだろうか。こんな事になるのなら自分が引き取れば良かった、と思っているはず。メディアが取り上げないのは、プライバシーの問題もさることながら既にこの世を去っておられるのだろうか。
結婚と親子関係の難しさという点では、配偶者と子の関係より、配偶者と親の関係の方が一般的だ。その場合においても私の実感では血縁による愛情の方がより比重が大きいような気がする。皆さんはどうだろうか。「親の心に背いてまでも恋に生きたい私です」という歌謡曲の文句もあるが、いずれにしろ二つが離反するのは哀しい人間の愚かさなのか、それとも愛情には何かワナでも仕掛けられているのだろうか。

2018年6月12日火曜日

多神教

六月二日ビッグハート出雲で青山恵子さんのコンサートが開かれた。当コラムで一月三十日にご紹介したコンサートだ。満席の盛況で、早くから場所取り目的で並んでいた妹は「若い人は二階席でお願いします」と言われたらしい。(妹ももう還暦を過ぎてはいるのだが)
コンサートの内容は素晴らしく、歌は言うに及ばず、合間に話される西部邁氏の思い出話を絡めた語りが秀逸だった。コンサートの最後に客席の皆と一緒に「ふるさと」を合唱した。最後の八小節「山はあおきふるさと、水は清きふるさと」を繰り返したが、その頃には感無量になった私は胸が詰まり、涙が出そうになって最後の四小節は声にならなかった。
あおき山、清き水、にふるさとの有難みや父母の有難みが重なって、胸が一杯になってしまったのだ。恐らくそれは自然の森羅万象の中に神を見出す多神教の感情ではないだろうか。日本人は多神教を信じながら近代化を成し遂げた唯一の民族なのだそうだ。多神教と言うと未開部族の迷信やシャーマニズムを連想するが、一神教に比べてそんなに劣ったものなのか疑問に思う。
一神教の神様は「俺以外の神を信じるな」と言って、自分を信じない他民族を皆殺しにしろ、なんて言ったりする。(旧約聖書のエリコの大虐殺)そんな神様より、万物を寛容に受け入れ、道端の虫けらの命も粗末には扱わない多神教の神様の方がどれだけ我々を幸せにしてくれるか、答えは明らかだと思う。
そう言えば一神教の神は往々にして偶像崇拝を禁止する。まるで愛する人の写真を胸に大事にしまっておくのはけしからん、とでも言っているようだ。その意図が良く分からなかったが、多神教との比較において、なんとなく分かるような気がしてきた。長くなるのでまた別の機会にそれを述べる事にする。

2018年6月5日火曜日

雑草

「雑草という名前の草はない」は昭和天皇の有名な言葉だ。そして「どの植物にも名前があって、それぞれ自分の好きな場所を選んで生を営んでいるんです。人間の一方的な考えで、これを切って掃除してはいけませんよ」と庭の手入れをする侍従たちに仰ったそうだ。
数か月ぶりに出雲の実家に帰省し、庭に生い茂る草を目の前にしてそのエピソードを思い出した。前回の帰省時に除草剤をたっぷり撒いておいたはずなのに、そうした努力をあざ笑うかのように旺盛な生命力を誇示している。視覚的にはこれらをきれいさっぱり駆除したいというのがしがない平民の実感だ。
草取りをしているとサツキの根元に可憐に咲く紫色の花があった。花に詳しい友人に写真を送って名前を尋ねると「紫つゆ草」というらしい。勿論これは群生しているというのではなく、茎の二三本が懸命に生をつないでいるように見えた。流石にこれを根っこから引き抜いてしまうには気がひける。
花も含めてあらゆる生物に貴賤はないとは思うのだが、堂々と繁茂して自己主張をする名も知れぬ草と、紫つゆ草の可憐な姿を比較すると、どうしても依怙贔屓をしたくなってしまう。もし雑草とそれ以外を区別する要因があるとするならば、それは生命力の強弱であろう。
雑草は生命力が強く放っておいても生きていく。だから人間が多少手荒に扱っても大丈夫。それを草取り草刈りの大義名分としよう。逆に観賞用の花や食用の野菜などは人間が手を貸さないと生きてはいけないらしい。
そんな事を思いながら翌日玄関を出てみると前の道路の縁石の隙間に紫つゆ草が自生していた。人間の手を借りて生きているとはとても思えない。その生命力からすると紫つゆ草も雑草の一種なのだろうか。どうやら考えを変えないといけないようだ。

2018年5月29日火曜日

体育会系

日大の選手が犯した犯罪的な危険タックルの映像は衝撃的だった。あまりに酷い。それを不問に付そうとする日大関係者の態度も信じられない。
そもそも当該選手の体格に改めて驚いた。試合のビデオを見る限りでは周囲の選手が皆大きいせいか特別大きな選手には見えなかったが、会見場で一般の人と比較して見るとその体格が目立つ。あの体で無防備な後ろから思い切りタックルされたら、そりゃあたまらないだろう。むち打ち症どころではないダメージがあったのではないか。
閉鎖的な体育会系組織の体質も改めて感じた。当該選手が退部を申し入れた時、強く慰留されたというのもその一端。仲間意識が強く、構成員が集団から離脱する事を極端に嫌う傾向があるようだ。私もかつて地元の少年サッカーチームの役員を辞する時似たような経験をした。会への出入りはもっとドライで自由で良いと思うが。
監督・コーチ・選手のピラミッド組織も衝撃的だった。選手はコーチを通してしか監督と話をする事も出来ないようだ。そのコーチの関西なまりも気になった。日大豊山高校でアメフトを指導していた人のようだが、どういう経緯で関西の人が日大で教える事になったのだろう。
ラグビーやアメフトなどのある種陣取りゲームのスポーツは戦争の擬態と言っていいから、そのチームが軍隊に似たような性格を持つのはやむを得ないのだろうとは思う。軍隊においては上官の命令が絶対だし、個人の自由は当然のように制限される。とは言っても戦争そのものではないのだからやはり自由は尊重されるべきだろう。
若い頃から体育会系にはある種のアレルギーを感じていた私だが、最近テニスに熱中すると、若い頃テニス部に入っていれば良かったのに、と後悔する事もしばしばではあるが。

2018年5月22日火曜日

士農工商

士農工商という言葉も考えてみれば不思議な言葉ではある。先日テレビの朝のワイドショーで、福袋を買占め・転売して利益を得ようとする中国人の集団に対し、中国国内からも「働かずに金儲けしようとする不逞の輩だ」との批難が出ているとの話があり、改めて「商」が最下位に位置づけられているこの言葉を思い出したものだ。
広辞苑をひくと「江戸時代の封建社会の身分観念に従って、上位から順に並べたもの」とある。確かに「士」が斬捨て御免の特権を与えられる程最上位の位置にいたのは分かる。しかし二番目の「農」に「工商」より身分的に上だという意識があったのだろうか。町民が街で農民に出会った時、頭を下げただろうか。おそらくノーであろう。
カーストにしろ、革命前のフランスの身分制にしろ、聖職者が最上段に来るのが世界の趨勢なのに、それがないのはどうしてか。幕末においては、武士より公家の方が上という意識があったように思うがそれがないのはどうしてか。
宗教関係者が入っていないこと、商への蔑視などからすると、士農工商は多分に儒教的価値観に基づく中国由来の発想ではないかという気がする。士も武士ではなく士大夫をさしていると思えば理解しやすい。儒教的価値観においては「商は詐なり」という言葉があるそうだ。世の中に何らかの価値あるものを生み出す農業や職工と違って、単に物を左から右へ移動させるだけで暴利をむさぼるからだ、というのだ。
しかし、現実社会において、流通の果たす役割が重要であるのは論を待たない。今をときめくアマゾンだって商の価値を具現化しているとも言える。そうは言っても冒頭の福袋の転売を正当化する理論を思い着く事がどうしても出来ない。福袋という形態がそもそもビジネスの基本型から外れているからだろうか。

2018年5月15日火曜日

植物の不思議

不思議な事に出会うと嬉しくなる。出来ればそれを解決できるといいのだが、能力が足りないので「不思議だなあ」と悦に入って終わってしまうのがなんとも悔しい。
今年の三月は気温が高く、桜の開花が早かった。例年よりも一週間は早かっただろうか。外気温の変化によって開花時期が変化するのは桜がどこかで気温を検知しているという事だろう。動物には神経という組織があってそれで温度や光や圧力などを感じているが桜を初めとする植物にも似たような組織があるらしい。
我が家の近くに権現堂堤という桜の名所があって、そこでは土手には桜並木が、下の畑には菜の花畑があって例年だとピンクと黄色の二重奏を楽しめる。だが今年は何故か桜の開花に菜の花が間に合わず、ピンクだけの寂しい花見になってしまった。菜の花が桜と一緒に開花しなかったのを見ると菜の花は気温を感知して咲くかどうかを決めている訳ではないようだ。ならば何を基準にしているのか。太陽が出ている時間の微妙な変化を感知しているのだろうか。季節の変化を知るものとして気温と太陽くらいしか思いつかないが。
神経どころか植物には筋肉に相当するものもあるようだ。ひまわりを見るとそう思う。花が太陽を追っかけるように首を回す。どう考えても茎のどこかに筋肉と運動神経がないと出来ない技だろう。太陽の方向が分かるのだから眼に相当する組織もあるわけだ。
植物というと何もしないで何も感じずじっと風雪に耐えているという印象があるが、なかなかどうして賢く環境を理解し、利口に立ち回っているように思える。近親相姦を避けるために自分が出した花粉が自分の雌蕊につかないよう工夫したり、しまいには雄雌別の株になったものもいる。植物あなどるべからず。

2018年5月8日火曜日

三代目

「売家と唐様で書く三代目」という言葉がある。韓国の三代目はどんな字で書くのだろうか。
それにしても韓国の所謂財閥三代目の所業には開いた口が塞がらない。一部の現象を見てそれが全体にも通じるものだと思うのは私の最も嫌う思考パターンだが、次々に報じられるスキャンダルを見ていると、かの国全体を覆う病なのではないかと思えて来る。
日本の大金持ちの三代目にも勿論ああいった横暴な人もいただろうが、落語などで描かれるのは、生活力がなくて、遊び好きで、遊女にも簡単に騙されるようなお人よしで、しまいには親から貰った財産を売り飛ばす羽目になるが、それでも洒落た字を書くだけの教養を身につけている。韓国の三代目の態度からは、教養の香りがしないのは何故だろう。
日韓の三代目の違いは文化によるものなのか教育によるものなのか。
韓国の文化は「恨」の文化だと聞いた事がある。ナッツ姫が謝罪のために報道陣の前に出た時の表情はまさにそれを感じた。素直に反省しているというより、目を下から上に向けて、何かを内に秘めているような、そんな感じがした。「恨」と言えば、前大統領に対する社会の糾弾もそれに関係しているように思える。
日本には「恥」の文化があって、それが権力者の行動に一定の縛りを与えているように思っていたが某事務次官の所業を見るとそれも危うくなってきた。所轄大臣は「セクハラは犯罪でない」と開き直っている。モラルの基準を「恥」から「法」へ一段下げようとでも言うのだろうか。
教育に関して言えば日本も韓国も儒教を道徳の基本にしてきた。孟子は「惻隠の心無きは、人に非ざる也」と言っている。惻隠の心があれば決してあのような恥ずべき行動に到らなくて済むはずなのに。

2018年5月1日火曜日

福田の不思議


財務省の福田前事務次官の処分がようやく決まったようだ。
この事件、とても不思議だった事の一つがどうして財務省が個人のスキャンダルにこうも肩入れするのかという事だった。普通の会社の場合どうか。社員が満員電車の中で痴漢の疑いを掛けられた時、当該会社は顧問弁護士を立ててまで社員の身の潔白を証明しようと努力するだろうか。仮にそれが冤罪だったとしてもその証明は全て個人に委ねられる。百歩譲って会社が社員の冤罪を晴らそうとする場合があるとすれば、その会社が個人所有で、当該被疑者がそのオーナーであったというような場合だろう。だとすると財務省の今回の対応はまるで財務省が事務次官の個人所有の組織であるかのようなものだったと言わざるを得ない。
福田氏の対応も不思議だった。身に覚えのない痴漢の疑いを掛けられた者は、自分の持っている情報を総動員して身の潔白を証明しようとするのが普通だ。「全体を見れば分かるはずだ」との発言は、自分が持っている情報を全て曝け出せば真実が明かされ、疑いは晴れるはずだ、という意味に取れる。ならばどうしてそれを実行しようとしないのか。こんな事を言って、それを実行しないのは自分が黒だと言っているに等しいではないか。頭が良いと言われる人がそんな簡単な理屈も分からないはずはないのだが。
福田氏に聞いてみたい。相手が片山さつき氏でも同じような言葉を掛けましたか、と。福田氏は若い頃同期入省の片山氏に興味があったらしいと週刊誌は報じている。カトリーヌ・ドヌーブではないが、男性が女性に対し性的魅力を感じる事を一律に否定する気には私はなれない。福田氏が批難されるべきはその言葉が性的であった事以上に(下品さは別にして)、相手に対する敬意の欠如と立場を不当に利用した事にあると私は思う。

2018年4月24日火曜日

報道

シリアは一体どうなっているのだろうか。化学兵器の使用に関し、国連の調査を待たずに空爆に踏み切った米英仏をロシアが批難したが、そのロシアも調査を進める国連の決議案に対し拒否権を行使している。テレビに映る子供たちの苦しむ姿は限りなく痛ましいが、あれがどこまで真実なのか。かつてイラクでフセインの銅像を引き倒し歓喜する群集の姿が報道されたが、あのシーンもちょっと引いた広範囲の動画にすると周りは至極平静で、ごく一部の人々が意図的に騒いでいるかのようだった。
本当のところは実際に現地に行って見ないと分からないだろうがシリアにはとても行けない。せめてイランに行ってみようとツアーを申し込んだが一年以内にイスラエルに行った事のある人にはビザが下りないとの事で諦めた。二十七年前スタンフォードで同じ釜の飯を食ったシリアからの留学生タハ・ケードロはどうしているのだろうか。
報道された事をそのまま鵜呑みにする危険はロシアでも感じた。現地の人がゴルバチョフよりブレジネフの方を高く評価していたからだ。私の印象ではブレジネフは人々から自由を奪い抑圧した悪人で、ゴルバチョフは共産主義の軛から人々を解放した英雄のように思えたが逆の評価に愕然とした。市場主義経済への移行過程での経済的混乱がその背景にあるようだ。次のようなロシア小話がある。
ブッシュ大統領には百人の護衛がいるが、その内の一人は暗殺者だ。だがそれが誰かを大統領は知らない。ミッテラン大統領には百人の愛人がいるが、その内の一人はエイズに罹っている。だがそれが誰かを大統領は知らない。ゴルバチョフ大統領には百人の経済顧問がいるが、その内の一人だけが市場経済への移行のやり方を知っている。だがそれが誰かを大統領は知らない。

2018年4月17日火曜日

иKPA

二月十三日の当コラムをご記憶の方なら表題の文字を読めるはずだ。ロシア語で「イクラ」と読む。実はこれ、ロシア土産に買って帰ったキャビアの缶の上に書かれていた文字だ。これと並んで英語でCAVIARの文字がある。
こんな事を改めて持ち出したのは、実は先日都内で開かれていたある展示会で昔の駅弁のラベルを見たからである。函館線岩見沢駅で売られていたという駅弁の包み紙には「イクラ弁当」と大きな見出しがあって、折り返しの裏側に小さくイクラの説明がある。「ロシア語で本来は魚卵の意でありますが、鮭鱒の卵を塩蔵して食品としたもので、世界の珍味とされている「キャビア」(CABIA)(ママ)(チョウ鮫の卵)をまねたものであります。」と。
528日」とスランプが押してあるが、残念ながら年に関する情報がない。売価が二百円とあるのでそれから類推するしかなさそうだ。ともかく、この弁当が販売されていた頃日本人にとってまだイクラはそれほど一般的な食べ物ではなかったようだ。因みにロシアで買ったキャビアはほんの小さな缶に入って一万円もした。
同展示会では日本で初めての食堂車のメニューも紹介されていた。山陽鉄道が瀬戸内航路の汽船に対抗するため、明治三十二年に始めたものらしい。それを見ると西洋料理一人前の一等が七五銭、二等が五十銭、三等が三五銭、ビールはアサヒとキリンの大が二五銭、何故かサッポロの大は三五銭。金額の違いは量によるものなのか品質によるものなのか。ウィスキーは「ウスケ」と表記されて「壹本 金壹圓五十錢」となっている。
三江線が全線開通以来四十余年の歴史に幕を閉じた。何十年かの後、三江線にまつわる遺品を見て懐かしく思い出す日が来るのだろう。

2018年4月10日火曜日

閑話発題

表題は閑話休題の間違いではない。閑話(無駄話)は休題(それまでに)で、「それはさておき」と本題に入るのが閑話休題だが、春の長閑な日にたまには無駄話に興じて見ようと思ってひねり出してみた。
大坂なおみ選手がATP1000の大会で優勝した。錦織選手だってATP500でしか優勝した事がないはずだ。数字は優勝した時の獲得ポイントを示しており言わばその大会の格を表す。四大大会は2000、日本で最高の楽天オープンは500だ。その大坂選手のお母さんの名前は大坂環(タマキ)だそうだ。そうと分かったらなおさら大坂選手を応援しない訳にいかない。ちなみに楊貴妃の本名は楊玉環という。訓読みをしたらタマタマキだ。だからどうしたという事ではあるが。
平昌のフィギュアスケートで金メダルを取ったザギトワ選手が日本から送られた秋田犬の名前をマサルと決めたそうだ。こちらの方は何だか微妙な気持ち。
大谷選手の二刀流が輝き始めた。海外で日本の選手が活躍するのは嬉しいものだ。こうなったらベーブルースを抜くような記録を残して欲しい。でも二刀流で思い出すのは巨人の堀内恒夫投手だ。投手としてノーヒットノーランを達成したまさにその試合で打者として三打席連続ホームランを打ったのだから。まるで漫画のようなウソのような出来事ではあった。
駅前の百円ショップで温泉卵を作る小さな容器を見つけた。生卵を入れて少しの水をかぶせ五十秒電子レンジでチンすると見事な温泉卵が出来た。レタスにオニオンスライスを混ぜて生ハムを乗せ温泉卵を添えたら絶妙なつまみが出来た。冷蔵庫には吟醸酒が冷やしてあったはずだ。まだ陽は高いが庭の花でも愛でながら一杯やることにするか。ひねもすのたりのたりもたまには良いだろう。

2018年4月3日火曜日

制度と運用

モリカケ問題では忖度が横行し、その元凶として内閣人事局が槍玉にあげられている。官僚幹部の人事を握っているから要らざる忖度が生まれてしまうと。本当に本気でそんな事を思っているのだろうか。
十年前盛んに言われた言葉がある。「脱官僚」という言葉だ。行政の肝を官僚が握り、政治家は単なるお飾りに過ぎないような状況を変えなければいけない、という事だった。当時、人事院総裁のテレビインタビューを見ていたら「国民のため、たとえ政権が変わっても中立を保つ」と堂々と発言していた。「選挙で選ばれた政党が右だろうが左だろうが自分らのやりたいようにやる」と言っているように聞こえた。
そして「政権交代」と「脱官僚」を旗印に掲げた民主党が総選挙で勝利し、念願の政権交代を果たした。もう一つの念願である脱官僚はどうなったのだろう。
人事を掌握する事により政権の意図を無視できないようにする、というのはその第一歩ではないか。制度は決して悪くないはずだ。問題なのはそれを運用する人間の側にある。政権中枢が、おだててお仲間の便宜を図れば喜ぶだろうと、舐められているからいけないのだ。私利私欲を追うような、そんな下劣な人間ではないぞ、とはっきり態度で示せばよい。政権構想実現のためになした忖度は評価し、国益を害するような忖度は厳しく罰する、そういう姿勢を見せれば自ずから脱官僚・政治主導の姿が実現するはずだ。
ただ、そのためには政治家は明確なビジョン・政権構想を持ち、高潔な人格を備えていなくてはならない。それを今の政治家に求めるのは無理なのだろうか。たとえ制度の理想は高邁であっても、それが機能するためには運用する人間の質が問われるのは共産主義でも示された事ではあったのだが。

2018年3月27日火曜日

反省

某週刊誌に「安倍昭恵氏の辞書には『反省』の文字はないのだろうか」とあった。どこかで聞いたような文句だなあと思いつつ、どうして昭恵氏が反省しないといけないのか不思議だった。
天真爛漫に人の善意を信じ、その人の役に立ちたいと願って奮闘する、そのどこがいけないのか。ただ年端もいかない幼稚園児が教育勅語を斉唱させられているのを見て感涙するのは若干趣味が悪いと言わざるを得ないが。反省すべきはその彼女を利用しようとする周りの人達だろう。とは言っても自分の事業を成功させたいと、人脈をフルに活用しようとする籠池さんの気持ちも分からないではない。やっぱり反省すべきはそうした名前に負けて、自らの保身と出世欲のために節を曲げた官僚たちではないか。
「安倍昭恵夫人、ほうそれは立派な方の後援を受けておられますね。貴校の教育方針には私も賛同しますから些少ですが私財からいくらか寄付させていただきます。親戚の金持ちに似たような考え方の人がいるので、彼にも寄付を呼びかけましょう。ですが私の仕事は国家の財産を適正に管理運用する事です。この土地を不当な価格でお譲りする訳にはいきません。仮に私がそんな起案書を作ったとしても上司の決裁が下りる筈がない。それに安倍首相だって国に損害を与えるような一種の売国行為は望んでおられないと思いますよ。」と毅然とした態度を貫けば良かった。それで左遷されるような事はあってもまさか首にはなるまい。ましてや一族郎党が処刑されるような事は。
首相や大臣を初めとする政治家も反省すべし。そんな事をして俺が喜ぶとでも思っているのか、と。(思っているからするんだけどね)
前回に続き「一握の砂」から
 へつらひを聞けば
 腹立つわがこころ
 あまりに我を知るがかなしき

2018年3月20日火曜日

反骨

財務省の辞書には「反骨」という文字がないのだろうか。自らの信念に基づくとは到底思えない歯切れの悪い答弁を聞いていると可哀想になってくる。官吏に求められる素質は清廉・潔白・反骨でだと思われるがそれらはどこへ行ったか。
中国は明の初期の官僚・方孝孺は反骨の人だった。初代皇帝・洪武帝と二代建文帝に仕えた彼が三代目の永楽帝に対して取った態度には驚かされる。明の黄金時代を築いた永楽帝だが、その即位には暗い影がある。洪武帝が死んだ時その長男は既にこの世を去っていたため孫が二代皇帝建文帝として即位した。洪武帝の四男朱棣(後の永楽帝)はその頃燕王として北京に駐在し北方民族の侵略に備える役割を果たしていたが、建文帝の粛清を恐れて逆に兵を上げる。当初は流石に政府軍の勢いの方が強かったらしいが、都南京で太平を楽しんでいた軍と、北方の異民族の脅威と直面していた軍との違いで次第に形成が逆転したらしい。最後は朱棣が勝利し永楽帝として即位する。
永楽帝は官僚のトップであった方孝孺に即位の詔書の草稿を書くように命じた。そこで書かれた言葉は「燕賊簒位」。不当にも甥を殺して位を簒奪したお前に皇帝を名乗る資格はない、とでも言うのか。書き換えを命じても当然方孝孺は応じない。怒った永楽帝は方孝孺自身や方家一族は勿論、妻や母の実家の一族、さらには門人まで皆殺しにした。
我が身にどんな災難がふりかかろうと史実を曲げることは出来ないとの自負が反骨精神を支える。
日本では事実を曲げるあるいは隠蔽するかのような書き換えをした人(達?)が政府から見放されようとしている。石川啄木の「一握の砂」に次のような歌があった。
 気の変る人に仕へて
 つくづくと
 わが世がいやになりにけるかな

2018年3月13日火曜日

ビジネスモデル

ビジネスモデルというと何かカッコいいが要するに”How to make money”、下世話な言い方をすればどうやってアイデアや技術や才能を銭にするかである。
一番良く例に出されるのがテレビ放映で、受信者から視聴料を徴収するという平凡な発想ではなく、広告を流す事によって広告料でビジネスを成り立たせるというモデルが放映事業を成功させた。尤もNHKWOWOWは今でも受信料モデルに頼っているが。
スポーツや芸能界を見るとこのビジネスモデルの如何によって随分収入が違うものだと痛感させられる。
2017年度一番たくさんの年棒を稼いだのはテニスの錦織選手で推定365150万円だった。この内広告契約料が 327000万円だったそうだ。テレビのCMに出るのは勿論、試合の時着るウェアに企業のロゴマークを入れる事などがお金になる。コアとなる才能が直接稼ぐより、それを利用した広告が十倍もお金を生んでいる事になる。
他のスポーツでもこのように選手が豊かになるビジネスモデルを考えるべきだ。今パワハラ騒動で揺れる伊調馨選手が北京五輪後活動の拠点を名古屋から東京に移した時、1Kのアパートで一人暮らしをしながら男子選手との練習に励んだ、と週刊誌には書いてあった。オリンピックで二大会連続金メダルを取った人が1Kとはあまりに淋しいではないか。因みに去年二番目の25億円を稼いだ田中将大投手が暮らすニューヨークの家の家賃は月640万円だそうだ。
将棋界では藤井聡太六段の一挙手一投足に注目が集まり、彼が昼食に取ったメニューが売り切れるらしい。これは藤井六段に何らかの利得があって然るべきではないか。タイトル戦で和服を着る場合に紋の代わりに企業のロゴマークを付けるなどは駄目かなあ。まあお金が全てではないのだが。

2018年3月6日火曜日

体力差

平昌オリンピック後半、女子のマススタートの金メダルとカーリングの銅メダルには興奮した。前回、カーリングを男女同じ土俵で競わせたらどうかと書いたが、その後テレビのワイドショーなどで報道されるのを見るとカーリングの選手も筋力トレーニングが重要なメニューになっているらしい。スイープする時に筋力を必要とするのだろう。だとするとやっぱり男女が同じ土俵は難しいのだろうか。
だがちょっと待て、体力の差がどれほど勝敗に影響するものなのか。スケートのマススタートを見ると、高木菜那選手とオランダの選手の体力差は歴然としている。その差は下手をすると男女間の差くらいあるのではないかと思われた。それだけの差を高木選手は戦略と戦術で克服して見せた。カーリングなら戦略と戦術が勝敗を左右する割合がもっと大きいはずだ。確かにスイープに体力を必要とするだろうが、石を手放す時の微妙な匙加減はむしろ女性の方が得意なのではないか。私としては是非カーリング男子の優勝チームと女子の優勝チームで戦ってみて欲しかった。決して一方的な結果になる事はないと思う。
そもそもスポーツにおいて体力差がものを言うのはある程度やむを得ない事なのだが、単純な体力差だけで勝負が決するのでは味気ない。いかに知略でその差を克服するかという点にスポーツの醍醐味があると思う。相撲は今でも小兵が大きな力士を負かすシーンがあるし、柔道もかつては体重別に分かれてはいなかった。ボクシングは流石に体力差を覆すほど知略に活躍の場が残されていないようだ。ひょっとしたら日本発祥のスポーツには知略が活躍する余地をたくさん残しているようなそんな特徴があるのではないかと思うのは単なる身びいきなのだろうか。

2018年2月27日火曜日

性差別

「バトルオブセックス」という映画がある。「性の戦い」とでも言おうか。(グーグルで検索したら「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」となっていた。原語を忠実に発音するとそうなるかも知れないが日本人向けには「バトルオブセックス」の方が正しく伝わるように思う)
エマ・ストーンがビリー・ジーン・キングの役を演じるテニス界の実話を基にした映画である。女性が男性と同じ待遇を求めて争う、という話だ。詳しくは映画を見て頂くことにして、男性と女性とでは身体の構造が生物学的に異なる以上、どうしても扱いが異なるのはやむを得ない部分があるのは仕方ない事だと思う。特にスポーツでは骨格や筋肉の付き方が違うので、同じ土俵で戦ったらそれこそ不公平だと言われても仕方ない。囲碁や将棋の世界では女性にも男性と同じ機会が与えられているが、何故かまだ女性はその機会を生かし切れていないようだ。出雲の稲妻、里見女流名人も奨励会の厳しい枠を抜け出せていない。
そんな中、オリンピックを見ていて、唯一カーリングという競技だけは男女が同じ土俵で戦えるのではないかと思った。左程筋力が必要とされるとも思えない。骨格の頑丈さが勝負を決める事もなさそうだ。ならば男女が全く同じ条件で戦っても十分面白い展開が期待できるではないか。
ミックスダブルスという種目があるらしいが、そうではなく完璧に男女の差をなくす。あるチームは男女二名づつの構成で戦い、あるチームは男性一名女性三名の構成だったり、また中には女性だけのチームがあってもいい。完璧に男女が入り混じって同じ土俵で戦ったら、それこそが女性解放運動者の本望ではないだろうか。キング女史は一九四三年十一月生まれの七四歳、まだご健在のようだ。御意見を聞いてみたい。

2018年2月20日火曜日

盗難事件

四年前当コラム三五七回でもご登場願った新名神高速道路土山サービスエリアでの出来事
東京から京都に向かう夜行バスがトイレ休憩で止まったが、用を済ませてしばらく時間が経ってもなかなか出発しようとしない。不審に思っていると車内アナウンスが流れた。「盗難事件が発生しました。しばらくこちらで停車します。」
当初は誰かがトイレのどこかに財布でも置き忘れ無くした程度の事件かと思った。ならばもう窃盗犯はどこかに行方をくらましているだろうし、被害者には申し訳ないがそのためにバスの全員が迷惑を蒙る事もなかろう、などと苛立ちを感じる。そうこうするうちに実は不審人物がいてその人が財布を盗んだらしいとのアナウンスがあった。パトカーがやってきて、運転手らと何か話し始めた。停車してから一時間半も経っただろうか、一向にらちがあきそうにない事態の推移に苛立ちながら運転手に聞いた。「まさか被疑者がこのバスの中にいるわけではないでしょう。」と。だが答えは意外にも「実は・・・」
バスの外に出てみると、若い二人の男女が警察官の聞き取りに応じている。女性の方は泣きべそをかいているようだった。男性は堂々とした態度で、一見すると女性の同伴者で動揺する彼女を労わっているかとも見えた。まさか女性盗みを働くとも思えないが・・・男性はその後も何ら悪びれることなく一人で警察官と会話を交わす姿が見えた。
三時間経った頃ようやく捜査が終わったらしい。べそをかいていた女性が乗り込んできた。運転手の説明によると被疑者にはここで降車してもらい、運賃を後に払い戻すとの事。バス内に件の男性の姿はない。被害者は他にも二人いたらしい。夜間網棚のカバンを狙った犯行。女性は旅行の際、くれぐれもご注意あれ。

2018年2月13日火曜日

ロシア語

大学一年生の時、第三外国語としてロシア語をかじった事がある。文法などはすっかり忘れてしまったが、ロシア文字はまだいくらかは読めるので、先日一週間ほどロシアを旅行した際には随分助かった。
旅行してその地の看板を読むのは私のひそかな楽しみである。モスクワについてホテルに入り添乗員がチェックインを済ませる間、入り口近くの部屋の看板を見た。「PECTOPAH」と書かれている。それを見てハハーンと思った。レストランと書かれているのだ。案の定朝食はこの部屋で取ることになった。
ロシア文字はギリシャ語を想定すれば理解し易い。Pはρ(ロー)なので英語にすればRに相当する。CはΣが変化したものでSだ。Hは何故かNの発音になる。オリエント急行殺人事件では物的証拠としてHのイニシャルが刺繍されたハンカチが出てくる。最初ポアロはヘレンなどを想像するが、実はナターシャのものだったというオチがつく。
その他ΓはガンマでG、ЛはラムダでL、ΠはパイでP、ΦはファイでF、Иはイと発音する、Уはウと発音する、位を頭に入れておけばかなりの看板が読める。
例えば「ΦИTHEC KЛУБ」はフィットネスクラブ。街にかなりの数見受けた。ロシアは今減量ブームが起きているかも知れない。サンクトペテルブルクの中心街ネフスキー大通りを歩いていたら「ΓPANД ΠAЛAC」と書かれた立派な建物があった。ホテルグランドパレスだ。
ともかく、一番多く見た文字は「CTOΠ」という文字だ。交差点には必ずこの文字が見える。ご賢察の通りストップ。止まる、などの基本的な言葉は英語由来でなくロシア語本来の言葉があるはずなのにどうしてそれを使わないのか。もし日本の交差点で「止まれ」でなく「ストップ」と書かれていたら私は悲しい。いや怒りに燃えるだろう。

2018年2月6日火曜日

死に方

還暦が過ぎ、古希が近づいて来ると否が応でも死について考える。西部氏の計算し尽された立派な死は改めてその契機をもたらした。
週刊誌によると西部氏は拳銃による死も考えておられたとか。結局入手困難で諦めたとの事だが、もし入手出来ていたとしても、死体に傷がつく事や血の処理を家族に負わせたくない事からその死に方は選ばれなかったのではないだろうか。服毒自殺は考えられなかったのだろうか。入水自殺を選ぶにしても水温など時期を選ぶ事は考えられなかったのだろうか。いろんな事を想像してしまう。
死に方を考える際の評価基準は、出来るだけ苦しまないで死にたいと、残る家族に迷惑を掛けない、という二つのポイントがある。
理想的な死に方として巷間よく言われるにピンピンコロリという死に方がある。半年ほど前、テニス仲間がまさにピンピンコロリという死に方をした。玄関先で友人と次回のテニスの予定を話している最中に突然倒れそのまま亡くなった。元々心臓が弱い質だったらしい。実際にピンピンコロリの死に方に接してみると、果たしてそれが理想的な死に方か疑問に思う。少なくとも残された家族はたまらないだろう。そうと分かっていたら、あれもやりたかった、これもやりたかった、と悔いが残るに違いない。家族に迷惑を掛けない死に方とは思えない。
それからしばらくして別の友人のお父さんが百歳を超える天寿を全うして亡くなった。朝なかなか起きて来ないので心配した家族が寝室に行くと布団の中で亡くなっていたらしい。前の晩まで元気だったのに。百歳を超えればいつお迎えが来てもおかしくない。それなりの準備もそれとなくあったはずだ。やはり健康を維持し長生きして、家族がもう十分だと思うような頃、静かに死ぬのが理想だと思う。

2018年1月30日火曜日

自殺

西部邁氏の自殺のニュースには驚いた。数年前までなら遠い人の死としてそれほど驚くこともなかったかも知れない。実は二三年前から同級の青山(旧姓岸)恵子さんと西部氏との対談番組が東京の地方局で流れていて、それをYouTubeで視聴させて頂いていた。新聞で自殺のニュースを知り青山さんに早速メールした。「ショックもあるでしょうが、気落ちしないで下さい」と。青山さんはすぐに返事をくれた。
それによると覚悟の死であったらしい。死の一週間前にも夕食をご一緒され「僕はもうすぐ死にますから」と仰ったとか。奥様に先立たれた心の辛さや身体の痛みとの戦いの中で家族に迷惑を掛けたくないとの思いが強かったようだ。
家族に迷惑を掛けたくないという思いは徹底していて、 川に流されて、遺体が見つからないと大変だからとしっかりと川辺の木に身体を結びつけ、また、顔が傷だらけになると娘さんが嘆くだろうからと、ネックウォーマーを二枚重ねて、顔をかくして川に入られたとか。お別れの会に出席された青山さんによると顔に傷一つなく、穏やかな笑顔のような死に顔だったそうだ。
自殺という死に方は残された家族にとっては耐え難く辛いものかと思うが、西部氏の場合は事前にご家族とも十分話をされ、自分の覚悟や死の意味などについて十分な納得と合意が得られていたのであろう。誠に見事な最期と敬服するしかない。
我が身を振り返ってどんな死に方ができるか、したいか、こんな立派な死に方はできそうもないが、次回のコラムではそれを考えてみたい。
因みに来る六月二日に出雲で青山さんのコンサートが行われるらしい。西部氏も応援されいて周りの人に「みんなでバスツァーでも組んで行きなさい」と仰っていたとか。西部氏の遺志なら私も行かずばなるまい。

2018年1月23日火曜日

パワハラ

一月十八日発行の週刊新潮(二五日号)を見て驚いた。藤原正彦氏のコラムがセクハラ問題を取り上げ、前回この欄で書いたのと似たような内容になっている。カトリーヌ・ドゥヌーブの発言を紹介し、おまけに源氏物語にまで言及しているではないか。セクハラの話題から源氏物語を想起するなんて、経緯や思惑は違うにしろ偶然とは思えぬなにか親近感を感じた。パワハラとか他の言葉の辞典出現も調べて一週間遅らせて発表しようかとも思っていたが、先に書いて良かった。
式守伊之助が若手行司に対して行ったのは、職場環境での出来事なのでセクハラと言うよりむしろパワハラと言うべきではないか、と最初思った。敢えてセクハラと言うのはキスという行為があったからなのか、などと詮索する内にセクハラとパワハラの本質的な違いに気づいた。それは相手に対する感情の違いだ。
パワハラの場合上司の感情は相手に対する蔑視や苛立ちや嫌悪と言ったどちらかと言えば否定的なものだ。一方セクハラの場合だが式守伊之助も相手を憎たらしく思っていたらキスをするなんて事はなかったろう。性的か人格的かはともかくなんらかの肯定的な価値を認めていたのではないか。だから同じハラスメントという言葉を使っているが、セクハラとパワハラでは中身が全然違うようだ。
両者に共通しているのは立場を不当に利用しているという点か。「いじめ」はパワーのある側が立場を利用して行うが、それをセクハラに認めてしまうと却って男女平等に反してしまう。それがカトリーヌ・ドゥヌーブの懸念事項のようだ。詳細は週刊新潮の本文記事をどうぞ。
因みにパワハラという言葉、広辞苑では第六版までなく第七版でようやく採用されている。概念としては忠臣蔵の頃からあったはずなのに。

2018年1月16日火曜日

セクハラ

徒歩圏内にある本屋が次々に閉店して、最も近い本屋でも5kmも離れているので困ってしまう。最近発行された広辞苑の第七版に「セクハラ」という言葉が採用されているか知りたかったのだが、今回はその必要がなくなった。手元にある電子手帳に搭載されている第六版に既にその言葉が載っている。もっと新しい言葉かと思っていたが二〇〇八年の発行の際には一般化していたということか。ちなみに昭和四四年発行の第二版には勿論、昭和五八年に発行された新明解国語辞典第三版にもまだ「セクハラ」の項目はない。
「セクハラ」に相当する日本語はないのだろうか考えてみた。「ハラスメント」だけなら「いじめ」「嫌がらせ」という言葉がぴったりだと思うが、特に性的なものに限定した言葉はないようだ。「レイプ」なら「強姦」という言葉がある。言葉がないという事はそういう概念がなかったという事に他ならない。もっとも原語の「セクハラ」も「セクシャル ハラスメント」と二語で成り立っていて、一つの言葉とは言い難いので、いずれにしろ女性の社会進出や人権尊重の流れに乗って生まれた言葉と言っていいのだろう。
あちこちでセクハラ被害を訴える女性(最近は男性も!)が現れている中でフランスの女優カトリーヌ・ドゥヌーブが異議を唱えた。新聞から引用すると「性暴力は犯罪だが、誰かを口説こうとするのは、しつこかったり、不器用だったりしても犯罪ではない。」男性がこんな事を言うと方々からバッシングを受けそうだ。
行動の外見だけからすると源氏物語で光源氏がやっている事の中にはまかり間違えばセクハラで訴えられても仕方ない事もありそうだ。地位も富も持ってるイケメンなら女性も許すのかな。

2018年1月9日火曜日

相撲之伝

年末年始のワイドショーは相撲の話題で持ち切りだった。日馬富士の暴行問題に端を発し、横綱の品格の問題を経て、最後は貴乃花問題になっていった。貴乃花問題はわざわざ問題にならなくても良かったようにも思うが、何かが奥底に隠れていてこれからも第二幕第三幕があるのだろうか。貴乃花親方の頑なな態度を見るとマスコミに対しても大いなる不信感を持っていて、その不信感は、かつて宮沢りえとの騒動を巡って生まれたものではないかと邪推する。
さて、年末の事だが両国の国技館に併設されている相撲博物館では「俳句・川柳にみる江戸の相撲」と題する展示があった。時が時だけに沢山の人が来ていると思ったが、国技館の外には大勢の報道関係者がいたものの案に反して館内は閑散としていた。展示の中では安来市出身の釈迦ケ嶽雲右衛門や、松江市出身の第十二代横綱陣幕久五郎の絵が目を引いたが、一番印象に残ったのは第七代横綱稲妻雷五郎が残した「相撲之伝」という相撲の心得を書いたものである。以下に引用する。()内は博物館による注釈。
「それ相撲は正直を宗とし、智仁勇の三つを心得、色酒奕のあしき経に不遊、朝夕おきふし共心手ゆるみなく、精神をはげまし、仮にもうそいつわりのこころをいましめ、なを勝負の懸引に臨んでは、聊も相手に用者(容赦)之心なく、侮どられず恐れず氣を旦然(丹田)に納め、少しも他の謀り事を思わず、押手さす手ぬき手の早き業を胸中に察して、つく息引息に随い其きよ実(虚実)をしり、勝を決するものなり」
暴行事件を受けて相撲協会では力士を集めて講習などを行っているようだが、この心得を再度徹底させたらどうか。こういう心得を書いた横綱がいた、と言うことも一向に報道されないので敢えてここにご報告する次第。

本年も宜しくお願い致します。