2020年12月29日火曜日

この一年

 

コロナに翻弄された一年だった。

二月の中頃は「この二週間が山場だ」と言われた。あれは一体何だったのだろう。最近また「勝負の三週間」と言われて、実は勝負でも何でもなかった。四月には都知事が「自粛疲れはまだ早い」と発言したが、確かに年末になってもまだ自粛要請が続いている。あの頃と明らかに違うのは最近「収束」という言葉を殆ど聞かなくなった事だ。もう収束は諦めてしまったのか。

笑えると言ったら不謹慎だろうか、ちょっと首を傾げたくなるニュースもあった。マスクをしてジョギングする人、息苦しいので通気性の良いマスク着用とか。通気性が良かったらマスクの意味がないのではないか。給付金の申請にあたっては混雑を避けるためオンライン申請を推奨したが、役所の窓口が大混雑。確かマイナンバーカードの関係だった。給付金は一人10万円か一世帯30万円かの議論もあった。テレビの某キャスターは「打てるべき手をすぐ打つ事が大事」と発言した。打てるべき手?そんな日本語あったかな。「打てる手」と「打つべき手」の両方やれ!という事を一度に言ったのだろうか。何と凄い省力化表現か。

家にいる時間が長くなり、読書や映画鑑賞で過ごす時間が増えた。今年一番の本と言えば「陰謀の日本中世史」呉座勇一著を挙げたい。保元の乱から始まって、平治の乱、義経の悲劇、足利尊氏の策略、応仁の乱の日野富子、本能寺の変、石田三成と徳川家康との確執など、いろいろ面白可笑しく語られる陰謀や裏話だが、実は極く普通の人間がやった事だと語る。勝負というものは双方が多くの過ちを犯し、より過ちが少ない方が勝利するのだとする歴史のプロとしての検証には説得力があった。

では、皆様良い年をお迎え下さい。来年こそコロナが収束しますように。

2020年12月22日火曜日

不要不急

 今年四月にも同じ表題で書いた。不要不急の外出を控えろ、不要不急の活動をするな、と言われ続けた一年だった。だがそれを言う政治家達は言葉だけで、あまり真剣にそうは感じていないようだ。

世論の反発が表面化するまで派閥の忘年会を予定していたり、それより何より来年度の予算編成にそれを感じる。来年度一般会計の歳出総額は過去最大の106兆円台半ばになるそうだ。このコロナ禍の中、一般会計は不要不急なものは後回しにして出来るだけ絞り、コロナ対策に備えようという気持ちはないのだろうか。

世の中全てがコロナシフトする中、予算だってコロナシフトして然るべきだろう。全ての予算案に対してコロナ対策とどちらが大切かの基準に照らして、コロナ対策に関係のない費用については一律二割削減を目指せ、くらいの号令が掛かってもおかしくないと思うのにそうした形跡は全く見られない。

106兆円の中味を精査する時間も能力もないが、テレビや新聞の報道を見ると公立小学校の一学級あたりの児童数を40人から35人に引き下げるのが目玉の一つらしい。確かに小学校の先生も大変だろうが、コロナ病棟で悪戦苦闘する看護師さん達はもっと大変だ。不要不急とは言わないまでもコロナが過ぎ去るまで待てないものか。

民間経済が大変な時は財政出動によって経済を回すのはケインズ経済学の説くところだが、しかしそれでも一定の財政規律は必要だと思う。危機に備えるためにも民間経済が元気な時は財政は緊縮すべきはず。だがバブル期には大人しくして借金返済に励むべき財政が民間と一緒に浮かれて豪華な庁舎の建設に走った。こんな事で本当に大丈夫なのだろうか。

MMT(現代貨幣理論)などという無責任な学説に惑わされてはいけないと思う。

2020年12月15日火曜日

不便な便利さ

 便利さを追求するのは良いが中途半端に終わるとかえって不便になってしまう、そんな事を強く感じている。

最近買った新車に込められた様々な機能が便利なようで不便なのである。まずはスマートキーと呼ばれる仕組み。車を動かすカギを身に付けてさえいれば取り出さなくてもドアを開けたりエンジンを駆動させる事が出来る。当初はとても便利なものに思えたがいざ使い始めるといろいろ不都合を感じる。ポケットや鞄からカギをいちいち出さなくても良いのでついその存在を忘れてしまう。すると帰った時所定の場所に返すのを忘れ、次に車を使う人がカギを探し回る羽目に陥る。自分専用の車ならそれで良かろうが、家族でシェアする前提なら合鍵を作って自分専用に持っている方が却って便利だ。もう一歩踏み込んで、指紋など生体認証で操作が出来るようになれば良いが。

新車を買うのは十三年ぶりだが、その間に車は賢くなって色々教えてくれる。その日初めて車を運転する時には「今日は何月何日です。」と教えてくれたり、家に着いたら「お疲れ様でした。」と慰労してくれたりする。ちゃんと言葉がしゃべれるようだから、色んな警告も言葉でお願いしたいものだ。ある日信号待ちをしていたら「ピッ!」と強い警報音が鳴った。一体何事かと周りを調べたが異常が見当たらない。何の事はない、前の車が発進したのを教えてくれたのだ。怒ったような警報でなくやさしく言葉で教えて欲しかった。

狭い場所で駐車しようとする時も何かにぶつかりそうになると「ピピピ」と注意してくれる。だが、それが左の前なのか右の後ろなのか、どこが危ないのか分からない。どうして言葉で教えてくれないのか。

良く売れている大衆車でユーザーの意見も多数寄せられているはずなのに残念だ。

2020年12月8日火曜日

囚人のジレンマ

 

前回「徳目」を書きながら思った事なのだが、そういう徳を奨励し、それに沿った行動を取るよう教育する意味はどこにあるのだろうか。番組の出席者の一人は「自分勝手なずるい人が得をし、正直者が馬鹿を見るような社会はいけない」との発言をしていたが、何か違うような気がした。

その時脳裏をよぎったのが「囚人のジレンマ」という言葉だった。ゲームの理論における用語で、ウィキペディアによれば「お互い協力する方が協力しないよりもよい結果になることが分かっていても、協力しない者が利益を得る状況では互いに協力しなくなる、というジレンマである」とある。詳細はここでは割愛するが、要するにお互いが相手を信頼し信用する事が互いの大きな利得になるという点が重要だ。構成員に徳目の実践を要求するのは社会全体がこの囚人のジレンマに陥らないようにするためだ、と思う。

自分さえ良ければそれでいい、という人が相手を騙してまでも自分の利益だけを追求したら、近視眼的には得したようでも最終的にはその人にとっても利益にはつながらない。交通ルールが一番身近な例だろう。信号を無視して自分勝手な運転をすれば最後には大きな代償を払う羽目になる。

近代化が遅れて貧困に悩む発展途上国の実情を見ると、まさに囚人のジレンマに陥っているような気がする。全てそうだとは思いたくないが、国のリーダーが私腹を肥やし国民を顧みないような国は、いくら地下資源が豊富でもいつまでたっても貧困から抜け出せない。互いの信頼がなければそもそも交易すら成立しないではないか。

日本が明治維新を成し遂げたのは、それまでに培った民意の高さゆえに囚人のジレンマに陥る事がなかったからに違いない。徳目教育は精神のインフラ整備だと思う。

2020年12月1日火曜日

徳目

 先日ある民放のテレビを見ていたら、教育勅語の復活を訴える識者がいた。勿論、教育勅語を昔のままの形で、天皇の勅語として復活するという訳ではなく、勅語が重要だと訴えている十二の徳目を再度しっかり小学生に教えるべきだ、という説である。

改めてその十二の徳目を確認すると、父母への孝行、兄弟の友愛、夫婦の和、朋友の信、謙遜、博愛、修学習業、知能啓発、徳器成就、公益世務、遵法、義勇、でいずれも立派で大切な事だ。番組では教育勅語が発令された背景として明治維新による国民意識の変化を挙げていた。江戸時代は日本人が普通に当たり前のように持っていたこうした徳目が、西洋文明の流入によっていくらか疎かになりつつあったので、警告の意味を含めてそれらの重要性を再認識させる必要があったのだ、と。そして今、当時と同じ状況になっているというのだ。

ここに掲げられた十二の徳目を改めて見てハッと気付いた事があった。子供を慈しめという項目がないのだ。そもそも尊重すべき徳目を列記するのはそれがなかなか守られないからだろう。親不孝な子がいたり、兄弟喧嘩が絶えなかったり、友人を裏切る輩がいたり、そういう事例が沢山見られたからこそ、あの十二の徳目が強調された。江戸時代にも明治時代にも、まさか我が子を虐待して死に至らしめたり、食事を欲しがる子を放ったらかして遊び呆けたり、乳飲み子を残して自分勝手に自殺したりするような親が現れようとは思いも至らなかったのだ。貧困から我が娘を花柳界に売り飛ばすような親が歌舞伎や落語で出てくるのは確かにある。だが、その場合でも親は子を思い、胸が張り裂けんばかりの苦悶を感じている。

令和の教育勅語に子を慈しむを追加しなければいけないとしたら、悲しく恥ずかしい。

2020年11月24日火曜日

ゴキブリ

 いきなり無粋な表題で申し訳ありません。正直言ってこんな内容を話題にする事にためらいもありましたが滅多にない珍しい体験だったので敢えて取り上げた次第です。場合によっては読者の皆様の気分を害するかも知れず、次の段落に進むにあたってはそれなりの覚悟をお願い致します。

全ては新型コロナのせいだ、と開き直ろうか。普通なら三ヶ月か四ヶ月に一度は帰省しているが、今度のコロナ騒動で一年間実家を放置する事になった。一年も家を空けるなんてそんな経験をした人は殆どいないだろう。それでもある程度の予想はつく。庭に雑草が生い茂ったり、部屋の中が埃っぽくなったり。だが、実際現実にそれをしてみると思いも寄らない事が起きる。

何より仰天したのはトイレのドアを開けた瞬間だった。そこには床一面にゴキブリの死骸が散乱していた。その数、数十匹。ほぼ均等に間をあけて、まるで集団自決でもしたかのように。慌てて箒と塵取りを取ってきて始末し、一息つくと不思議の念がふつふつと湧いてきた。

死骸はソーシャルディスタンスを保つかのように散らばっていた。死因は餓死しか考えられないが、餓死寸前のヘトヘトの状態で最後の力を振り絞ってたどり着いたゴキブリが空いた場所を探してそこで事切れたというのか。そもそも餓死寸前の状態で選んだ場所がどうしてここだったのか。餌なら別の場所にありそうなのに。因みに家中他の場所に死骸はなかった。家の外には出ようとしなかったのか。餓死目前でたどり着いた場所に仲間の死骸があったらそれを餌にしようとは考えなかったのか。おぞましい話だが人間は遭難して食料が尽きた時には仲間の死骸を食べて命をつないだという話もある。ゴキブリはどうやらそうはしなかった。ちょっと見直したくなった。

2020年11月17日火曜日

 

恐らく殆どの人が毎朝鏡を見て自分の姿形でおかしな所がないか確認して修正している事だろう。私も寝ぐせと鼻毛のチェックくらいはしている。中にはより見栄えを良くするため加筆修正を加える人だっているはずだ。外見も勿論大切だが、しかし人間の真価を測る物指しとしてはその言動の方が遥かに重要だと思うのに、自分の言動を映す鏡を見ない人がいるのはどうしてだろう。

ユーチューブでより多くの閲覧を得るために奇行を繰り返す人がいるようだが、その人は行動の鏡に自分を映した事がないに違いない。一度でも鏡に映る我が身を見たら、あたかも鼻毛が伸び放題の自分の姿を見るようで激しい自己嫌悪に苛まれるだろうに。負けを認めないアメリカのトランプ大統領に対し、バイデン氏は「恥ずかしい」とコメントした。バイデン氏は心の鏡を持っているが、トランプ大統領は持っていないという事だろうか。

しかし、本当に自分の言動を外からチェックしようと思ったら鏡だけでは足りない。父が私に良く言っていた。「良く覚えておけよ。お前の悪い所はお前の背中に書いてあるぞ。」自分の言動をチェックしようと鏡を入念に覗いても自分の後ろは見えない。そして廻りの人達にはその背中が良く見える。自分の欠点や直すべき点はそういうものなのだ。

反省した積り、でもその反省が鏡で前だけを見たものになってないか。本当の反省とは、周りの人が自分の背中に書いてある悪い点を見て示した反応を良く観察する事なのだ。そして、率直に諫言してくれる信頼できる友人と諫言を受け入れる素直で謙虚な気持ちが必要だ。

トランプ大統領は合わせ鏡で自分の背中を見る事が出来るだろうか。気に入らない部下をすぐ解任したり、あれだけ肥満だと難しいかも知れない。

2020年11月10日火曜日

美醜

 ブロブフィッシュという深海魚をご存じだろうか。イギリスのTHE UGLY ANIMAL PRESERVATION SOCIETY(醜悪動物保存協会とでも訳そうか)が開催した「世界で最も醜い生き物コンテスト」で栄えある一位に輝いた魚だそうだ。ネットでその写真を見ると、確かに一位の栄冠に相応しい相貌をしている。しかし、どうしてこういう姿形を醜いと感じてしまうのだろうか。

利己的遺伝子仮説に従えば、より良い遺伝子を残せそうな個体を美しいと感じるように我々はプログラムされていると考えるべきだろう。より良い遺伝子とはより環境に適合しやすい遺伝子であり、強く生き延びる可能性の高い遺伝子と言える。ブロブフィッシュも人間がどう思うのかは知った事ではなくて、彼等の中で美男美女を交配相手として探しているに違いない。もっとも我々が見ているのは一気圧の環境に置かれた姿であり、深海の高圧下では彼等ももっと引き締まった顔をしているのかも知れないが。

ところで人間世界でヤセ型の方がデブより好まれるのはどうしてだろうか。元気な子孫を残すという観点から言えば太っている方が子育てには適しているようにも思える。胎内にいる時の栄養補給の点からも、母乳を与えるという点からもふくよかな体型の方が良いと思うのに、美を競うようにたおやかに腰を振って歩くファッションショーのモデルはおしなべて頼りないほどに痩せている。そういえば「たおやか」には「嫋やか」という字が当てられる。人間は利己的な遺伝子から解放されて弱さを許容しているのだろうか。

人間に肥満という体型が出始めたのはごく最近、少なくとも数千年前農耕技術を獲得して食料の不安が軽減されてからの事だろうから遺伝子もどう対応したら良いか戸惑っているのかも知れない。因みに野生の肉食動物の死因のトップは餓死だそうである。

2020年11月3日火曜日

老いと死

 今年のカレンダーも残り二枚になった。旅行に出るわけでもなく、美術館や博物館へ行くわけでもなく、盛り場で会食するわけでもなく、一年が終わろうとしている。本を読んで映画を見てお酒を飲んで、まるで仙人の生活みたいな毎日だ。仙人なら生老病死の悩みからも解放されているのだろうが・・・

「老いて死ぬ」ことは生物が望んでいることなのだ、と言われるとちょっと驚く。「生き物の死にざま」稲垣栄洋著の一節だ。地球上に最初に生命が誕生したのは38億年前、その単細胞生物は単純に細胞分裂で個体を増やし、死ぬことはなかった。岩石に押しつぶされたりして物理的に破壊される事はあろうが、いわば畳の上で天寿を全うするような意味での死はなかった。しかし進化の過程で生物は死ぬことを選んだ。「死」は生物自身が創り出した偉大な発明なのである、と著者は言う。

利己的遺伝子仮説という説がある。すべての生物は遺伝子の乗り物に過ぎず、遺伝子を増やすために「個体」という生物は利用されている。遺伝子が生き延びるためには個体は死んだ方が良いのである。「死」は遺伝子が古くなった個体を乗り替えてスクラップにしている事に他ならない。

餓死を覚悟で卵を温め続け、卵が孵る頃には餓死した自らの体を子供の餌として提供する虫もいるそうだ。これなど、遺伝子がそうしろと命令しているとしか思えないではないか。

植物に眼を転じると、雑草が最も進化した植物だそうだ。大木が進化して雑草になった。大木は何百年も生きる。しかしそれは遺伝子を残すためには適していない。毎年枯れて生まれ変わり、環境に適応できるよう敢えて短い命を選択したのだ。

老いと死が生物が望んだ事だとしたら、いくらか生老病死の悩みからも解放されるだろうか。

2020年10月27日火曜日

カスハラ

 セクハラに始まってパワハラ、アカハラ、マタハラなど色んなハラスメントが出てきたが今度はカスハラだそうだ。カスと言えば粕が真っ先に脳裏をよぎるがカスタマーの事らしい。客ハラとでも言った方が分かりやすくて言葉として上等だと思うのだが。セクやパワは日本語にそういう音の言葉ないから良いが、アカは赤、マタは又などがあるから、学ハラ妊ハラとでも言った方が良いのではないか。

それはさておき、店員に対して客の立場を笠に着て無理難題を吹っかけている人を見る事がたまにある。それを苦にして自殺した店員が十年間で35人もいるという。そもそもお金の流れが人の権利関係を決めるというのはどういう事か。「お客様は神様です」というセリフは国民的人気を持つ大歌手が言って初めてサマになるのであって、一般庶民の言う事ではない。物の売買とは商品と貨幣の交換に過ぎず、ある商品に対し百円の価値があると認めた人が、百円とそれを交換するというだけで、買った人も百円の替わりに価値ある商品を手にしたのだから双方に上下関係はないはずだ。本来なら売る側にも「あなたには売りたくありません」という権利があってもいい。

こうした事態を避けるために厚生労働省ではマニュアル作成のため1700万円の予算を計上しているとか。威張り散らす客も客だが、それにマニュアルで対応する側もする側だ。世の中がこうギスギスしているのは教育に根本の問題があるのではないか。徳とか人格とかが教育から忘れ去られてはいないか。知識偏重の教育は料理で言えば塩と砂糖と醤油だけで味付けたようなもので、所謂コクがない。ダシが効いていないのだ。意味も分からず論語を素読するような、そういった地道な教育がダシを効かせるのではないだろうか。

2020年10月20日火曜日

衰え

 友人の奥さんの訃報が立て続けに届いた。気付いたら私自身が母の享年を越える歳になってしまっているから、むしろ自然な流れなのだろう。嫌でも肉体精神の衰えが進む。

最初に肉体的衰えを感じたのは四十代の頃だった。息子と一緒に小学校の校庭で父兄を交えたサッカーをやった時だ。相手のゴール前に攻め込んで、味方からセンタリングされた絶好のボールめがけて走り込み右足のインサイドキックで見事ゴールを決めた、筈だったがボールは目の前2メートル位先を通り過ぎて行った。自分が頭の中でイメージしている動きに体がついていかないのを実感した最初の経験だった。

最近は脳や感覚器官の衰えを感じる。先日ある本を読んでいたら「同じ円弧に対する円周角は等しい、なんて美しい定理ですよね」という記述があって、それを証明してみようと思った。ところがこれが簡単に出来ない。なんと色々考えて一晩も掛かってしまった。中学生の頃ならお茶の子さいさいで出来たのに。

耳も悪くなっているのだろうか、日本映画のセリフが聴き取れなくて困る。古い映画なら録音技術の問題もあるかと思うが、最近の映画でもボソボソとつぶやかれると何を言っているのか分からない。ボリュームを上げると、音楽や効果音がやたら大きくてこちらは鼓膜が破れそうだ。日本映画にこそ字幕を付けてくれないだろうかと思っている。

悪あがきかも知れないが衰えを先延ばしする努力はしている積りだ。出来るだけ車に頼らず歩くようにしたり、詰将棋、詰碁を毎日数題こなしたり、ピアノを弾いて脳に刺激を与えたり。そして何よりお酒を控える。最近お酒の量が減ったのは友人と談笑しながら時間を忘れてのお酒がなくなったからだろうか。これだけはコロナのお陰と言うべきか。

2020年10月13日火曜日

学術会議

 

十月になって辺りには金木犀の甘い香りが満ちている。更に今年は夏が暑かったせいか百日紅が未だに花をつけている。美しい自然に中で人間世界はどうか。日本学術会議を巡っては右と左が大騒動。事は会員任命の問題から団体の存在価値そのものを問うまでになってきた。反対意見に謙虚に耳を傾けるべきは、学術会議とて同じはずだ。

北海道大学のある研究が軍事研究禁止の名目で槍玉に上がったらしい。「微細な泡で船底を覆い船の航行の抵抗を減らす研究」がどう軍事目的につながるのかよく分からないが、裏に醜い人間関係が透けて見えるのは私だけだろうか。こうした一刀両断の専制的とも思える対応は却って学問の自由を阻害するのではと思える。研究そのものでなくその悪用が制限されるべきだ、と言う意見もある。今世界の人々がその恩恵に浴しているインターネットだって米国国防総省の軍事利用のための先端技術の研究開発から生まれたARPANETが基になっている。

会に投じられる10億円の予算の多寡も議論の対象となっている。個人的には民主党政権下で事業仕分けの対象にならなかったのが不思議なくらいだが、そのお金は若い学者達には降りてこないらしい。ある委員会で働いた経験のある若い学者の投稿によると、「学術会議名義で莫大といってよい量の仕事も完全にタダ働きで貢献してきました。」と。その人は学術会議の事を「大学を定年退職した高齢者が、名誉職でやって来る老人会」だと言っている。

右だろうが左だろうが既得権益の上に胡坐をかいて甘い汁を吸いながら威張っている奴は嫌いだという私の持論からすると「10億円の国家予算は、すでに大学に職を得ている教授ではなく、学問的成果を上げたポスドクに支給すべきだ。」という提案に魅力を感じる。

2020年10月6日火曜日

反対意見

 日本学術会議の新会員候補の内六名が菅首相から任命を拒否された。中には私の好きな加藤陽子教授も含まれている。六名はかつて政府の提出した法案への反対意見を述べたそうで、それが原因ではないかと言われている。

今度のオリンピックの標語「感動で私たちは一つになる」もそうだが、日本人は反対を嫌い何でも一つになる事を好む。全員が同じ、と言うと何だかナチスの党大会の様子を思い浮かべてどうも気持ち悪い。そういえば全員同じは悪い事だと考える人達がいた筈だ。確かユダヤ人だったか。そうだ、イザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」だ。その第六章「全員一致の審決は無効」に詳しく述べられている。「その決定が正しいなら反対者がいるはずで、全員一致は偏見か興奮の結果、または外部からの圧力以外にはあり得ないから、その決定は無効」と。少数の反対意見は正しさを補強すると言う考えで、政府はむしろ反対意見を歓迎し、それに謙虚に耳を傾ける度量を示して欲しい。

全員が一つにならないといけない時があるとすれば外敵と戦っている時だろう。感染症との戦いとか戦争とか。その時は内部の意見対立はあっても少なくとも外向けには全員一丸となって事に当たるべきだ。アメリカの女優ジェーン・フォンダはベトナム戦争の最中ハノイへ行ってアメリカ軍機を撃墜するために設けられた高射砲に座り、北ベトナム軍のヘルメットを被ってポーズをとったそうだが、どうしてもそうしたいなら国籍を北ベトナムに移してからにすべきだった。戦争反対を叫ぶのと敵方を鼓舞するのとでは訳が違う。

さて今の日本、誰かどこかと戦っている状態なのだろうか。反対意見もあり、嗜好も多様である事が平和を享受する醍醐味ではないか。何も一つである必要はない。

2020年9月29日火曜日

検察改革

 周防正行監督は日本の司法制度に強い関心をお持ちで「それでもボクはやってない」「終の信託」などの作品を世に問うている。

被疑者として検察に睨まれたら最後、推定無罪の原則などクソ食らえで人権を無視され、否認を続ける限り留置場から出して貰えず、裁判になれば警察や検察を敵に回したくない裁判官の思惑で99.9%の確率で有罪になるという、全てが現実ではないと信じたいが、そんな姿を見せられると、日本からの脱出を図ったカルロス・ゴーンの気持ちに納得してしまう。

そんな検察の強引な捜査が頂点に達したのが村木厚子さんの事件だった。九月二十一日は大阪地検による証拠改竄事件が発覚して丁度十年の節目だったとの事で新聞に色んな記事が出た。

その中で一番驚いたのは村木さんが複数の元検事総長から「ありがとう」と声を掛けられたという話だ。同じ事はNHKの特別番組でも村木さんが手柄の一つとして誇らしげに語っていた。「巨悪に立ち向かう重圧で無理な捜査をしている自覚があったが、内部からは正せなかった」と言うのだ。検察にとって村木さんは黒船だったと。検察内部でもその捜査方法に問題があると知りながらそのトップが改善に動き出さなかった。末端の下級の検察官が言うのではない、トップの検事総長がその不作為を自覚していたというのだ。その陰で何人もいや何十人何百人もの人が「それでもボクはやってない」と涙を飲んだのかも知れないのに。不作為の罪は賭け麻雀より遥かに大きい。

日本の司法制度に関する問題点は佐野真一著「東電OL症候群」でも語られている。適正な司法制度や検察改革に向けての世論醸成のためにも冒頭の二作品は必見のものと思う。「終の信託」には草刈民代のヌードという余禄もある。

2020年9月22日火曜日

新総理

 東京新聞に望月衣塑子という記者がいる。菅義偉官房長官には随分嫌われたらしい。彼女をモデルにした映画「新聞記者」では主役の女優が日本国内では見つからず韓国のシム・ウンギョンが務めた。彼女の活動を記録したドキュメンタリー「i新聞記者ドキュメント」には彼女と菅官房長官との間で実際に行われた質疑応答の様子が収録されているが、意固地になる官房長官の狭量を感じてしまった。尤も、記者の方に都合の良い場面を切り取って編集されているのだろうから割引いて考える必要はあろうが。

その菅氏が新総理に就任した。早々の会見を見て期待を大きくした。曰く「悪しき前例主義、既得権益、縦割り行政を打破して規制改革を断行する」そして「国民のために働く内閣にする」と。特に寡占状態にある大手数社が利益を貪っている携帯電話の料金を競争原理の導入で引き下げる、には大いに期待したい。しかし同時に思った。日本で高いのは携帯電話だけに限らない。アメリカで一年半暮らした生活実感からすると、電力料金も高い、水道料金も高い、ビールも高い、ガソリンも高い、自動車の車検費用も高い(ガスチェックとの比較)、そして高速道路料金は滅茶苦茶高い。要するに公共料金や税に関する部分が極めて高い。考えて見れば政府、行政サービスこそ独占企業の最たるものではないか。

確かに選挙という競争はある。が、一番の基本は如何に安価に良質な行政サービスを提供するかを競う事だろう。行政サービスが上がったから増税する、ではあまりに芸がない。消費増税は十年間は行わないそうだが、むしろ知恵と創意工夫を総動員して、携帯料金を引き下げるのと同じように、減税するくらいの勢いで本当に国民のための内閣を作って欲しいものだ。

2020年9月15日火曜日

線審

 全米オープンテニス大会、優勝候補筆頭のジョコビッチ選手が失格処分となってしまった。ゲームの変わり目に不用意に後ろに打ったボールが運悪く線審の喉元を直撃してしまったからだ。線審が気づいていれば十分避けられたし、当たった場所が胸や腹なら何て事もない球だった。しかし「故意か過失かにかかわらず、コート内で危険なボールを打つ行為」がルール違反だとしての処分だった。

問題はあれが「危険なボール」だったかどうかだ。速度など客観的な基準が定められている訳ではないから主審の判断に委ねられるのだろう。香港で警察官に向かってクラクションを鳴らしたバスの運転手が国家安全維持法違反の咎で逮捕されたというニュースを思い出した。

そもそもテニスの線審とはどういう人達なのか。主審は異なる大会で何度も同じ人を見ているから恐らく職業として成立していると思うが、線審で同じ人を見る事は殆どないからその時々のボランティアのような形で運営されているのではないか。しかしどんなバックグラウンドを持った人達なのだろうかと疑問に思うのは、およそ運動とは無縁と思われるような体型をした人が沢山いるからだ。視力が良くて、テニスはプレーするより見るのが好き、という人達を想像する。何よりテニスを深く愛する人達だと信じたい。

ならばあの被害を受けた線審には「私は大丈夫。大した事はないからどうか事を荒立てないで欲しい」との申告をして欲しかった。今大会はナダルもフェデラーも欠場し、その上ジョコビッチまでもいなくなってしまったら横綱大関が全員休場してしまったようでなんとも淋しい。テニスを愛するならば、テニスファンを愛するならば、一人のちょっとした不注意で大会の価値が減じる事態を避ける努力をして欲しかった。

2020年9月8日火曜日

食品ロス

 

幼心に両親がいつも食べ物を粗末にするなと言っていたのを思い出す。父は「どの米一粒も農家の人が一年丹精込めて作ったものだ」と言って茶碗にご飯粒が残っているのを許さなかったし、「ソウケモンを粗末にするのは馬鹿モンだ」が口癖の母は、カボチャの煮物を丁度煮汁が残るか残らないかギリギリの状態に仕上げるのが得意だった。馬鹿と思われたくなくて、豆腐やたまに出て来る刺身を食べる時、醤油が大量に残らないよう用心したものだ。

そんな風にして育ったから、時々テレビで食パンが丸ごと廃棄されたり、おにぎりが包装されたままゴミ箱に入れられたりするのを見ると悲しくてならない。先日のテレビ番組によると日本での食品ロスは年間643万トンに上るそうだ。あまりにも大きな数字でピンと来ないが、人口を約一億人とすると一人当たり約60㎏、毎年一人が10㎏入りの米袋6個を捨てている事になる。昔の人なら米一俵と言った方が分かり易いか。しかもその処理費が二兆円だとか。もし食品ロスを完全になくせば、毎年米一俵と二万円を支給して貰える計算になる。四人家族ならその四倍だ。

しかもこの数字は食べ残しや一旦製品になった後廃棄されたものだけが計上されているのではないか。番組ではどの範囲のものまでを含むのか厳密な定義は示されなかったが、例えばスーパーの野菜売り場でキャベツやレタスの一番外側の葉を客がむしって捨てたものまでは含まないと思う。ああやって無造作に捨てられた葉っぱを、もし先の大戦でガダルカナルやインパールで飢えに苦しんだ兵隊さん達が見たらどう思うだろう。彼等の無念を思うと申し訳なくてどうしても葉っぱの一枚も捨てる気になれない。帰って綺麗に洗って煮たり炒めたりすれば十分美味しく頂けるのだから。

2020年9月1日火曜日

戦争

 毎年八月十五日が近づくと戦争に関する映画やドキュメンタリーが放映される。戦争が如何に悲惨であるかを強調し、二度とあのような悲劇を繰り返さないようにという願いを込めて。しかし本当に再発を防ぐためには戦争が始まった当初多くの人が興奮、熱狂した事実を直視・反省し、偏狭なナショナリズムを諫める事の方がより重要ではないか。

兎に角当時の事を可能な限り客観的に見た事実に忠実な記録が見たい。「ドイツにヒトラーがいたとき」もそんな気持ちで読んだ。印象に残った箇所を一つだけご紹介する。筆者は戦後の東西ドイツの実態にも詳しい。「東ドイツの主導者たちは民衆を信頼する事が出来ないため、有刺鉄線を張り巡らした砦のような官邸に住み、外出するときには防弾ガラスで固めたリムジンに乗ってフルスピードで民衆の前を通り抜けたが、国民大衆の信頼と支持とを確信していたヒトラーはオープンカーで平気で民衆の中へ入って行った。」と書き、そして当時のドイツ人から「日本では天皇と国民の関係は父と子であると言われるのにどうして天皇が国民の中へ入っていくときあんな厳重な警備をしなければならないのか。」と問い詰められたと書く。ヒトラーは貧しい人々に寄り添い、国民から愛されていたのだ。

19391127日のニューヨークタイムズにはプリンストン大学恒例の、存命中で最も偉大な人物を問う人気投票の結果が掲載され、二位アインシュタイン、三位チェンバレンを抑え一位はヒトラーだった。(「『ニューヨークタイムズ』が見た第二次世界大戦」による)

そんなヒトラーがあんな悲惨な事態を招いた事実から眼を背けてはならない。戦争を始めたのは当時のリーダーが悪者だったから、で済ましては次の悲劇を防げない。

2020年8月25日火曜日

王位戦

 

藤井新王位が最年少二冠を達成した王位戦七番勝負は四局全てをネットの動画サイトで実況中継を見た。将棋や囲碁の実況中継はサッカーやテニスのそれと違って、局面が動くのが実に遅く、ややもすれば退屈してしまう。なにせ一手指すのに数十分考えるのは当たり前、一時間以上二時間近く考える事もあるのだから間を持たすためにスタッフの苦労も大変なものだろうし、実況じゃなくても後日ダイジェストでポイントだけを見れば良いと思う事もある。

しかし藤井二冠の対局の実況だけは一味違う。彼が指した手に対する解説者の反応を見るのが面白いからだ。驚いたり、呆れたり、最後は感動してうなったり。第二局の解説者、郷田九段の反応はどう表現したら良いのだろう。木村王位の攻めが決まったかに見える中盤戦、藤井七段(当時)が苦し紛れの様に打った香車に対して郷田九段は「こんな手で幸せになった人はいませんね」と言った。呆れているようでもあり、悪手であると批判しているようにも見えた。しかし局面が進んで木村優位は明らかなはずなのに、郷田九段にも明確に勝ちになる手順が見つからなかった。最後は「不思議ですねえ」とつぶやくしかなかった。

第四局の封じ手も面白かった。飛車を逃げる一手に見える局面、解説の橋本八段は「飛車を逃げる手を封じ手にするでしょう」と言うが藤井棋聖はなかなか封じない。長時間考え込む藤井棋聖の姿に「え、飛車を逃げない手があるんですか」と驚いたように叫んだ。本当に叫ぶような言い方だった。そして翌日、封じ手は案の定8七同飛車成、長く語り継がれる手になるだろう。

藤井効果とでも言おうか、師匠の杉本八段も調子を上げ、NHK杯トーナメントでは強豪の三浦・佐藤両九段を連破した。藤井将棋、恐るべし。

2020年8月18日火曜日

出会い

 人生とは出会いである、と誰かが言ったかどうか知らないが、兎も角、毎日出会いを求めて生きている、そんな気がする。人との出会いは勿論の事、本との出会い、映画との出会い、絵画や音楽、芸術との出会い、散歩途中の小さな発見との出会い、等々。

前々回にご紹介した「ドイツにヒトラーがいたとき」篠原正瑛著との出会いも記録に残しておきたい出来事だった。きっかけは「ひろしま」という映画を見た事だ。原爆の悲劇を描いた作品で、1953年製作とあるからまだ戦争の記憶が生々しい頃のものだ。始まる前にオリバー・ストーンの推薦の言葉があって、彼は「とてもポエティックだ」と言うがしかし当然ながらとても悲惨な描写もあり、それは如何なものかと思うし、子供に見せるにしても一定の年齢に達してからにしたいと思う内容だった。

その中で高校の授業である生徒が「僕らはごめんだ(東西ドイツの青年からの手紙)」という本を読み上げるシーンがあった。アメリカが原爆で何十万もの無辜の市民を殺害したことに抗議する文だ。目を凝らして良く見ると著者は篠原正瑛とある。映画を見終えてから早速ネットで検索をかけてみた。

すると「僕らはごめんだ」は見つからなかったが、他に県立図書館に蔵書があったのが「ドイツにヒトラーがいたとき」だった。早速借りて読み始め、これは手元に置いておきたい本だとオンラインショップで買い求めた。

著者は上智大学でカント哲学を学ぶ学徒で、丁度ヒトラー政権の元、軍靴の響きが高くなる頃にドイツへ留学した。下宿に決めた家がたまたま何年か前東條英機が少佐の頃下宿した家で、そこの奥さんは東條の気さくな人柄に魅せられてどうしても日本人に下宿して貰いたいと願ったらしい。続きはまた別の機会に。

2020年8月11日火曜日

熱帯夜

 

長い梅雨が明けたと思ったらすぐに猛暑がやって来た。相変わらず外に出る気にもなれず、出来ればクーラーの助けを借りたくないとつまらぬ意地を張っている私も白旗を上げる毎日だ。特に夜の寝苦しさには参る。クーラーのない野生の動物はどうしているのだろうか。

少なくとも五十年前は眠るのにクーラーの助けは要らなかった。大学の講義の最中に先生が「ロケットを一発だけでいいからやめてくれたら全部の教室に冷房が入るのに」と愚痴をこぼしていたのを思い出す。しょっちゅう打ち上げに失敗していたロケットへの揶揄も感じた。小学生の頃はと言えば扇風機すらなかった。六畳の部屋に蚊帳を吊って家族四人で寝ていたが、それでも暑くて眠れなかった記憶はない。逆に冬に足が冷えて眠れなかったという記憶はあるのに。

夏の暑さは五十年前より明らかに身に堪える。息子は私以上にクーラーを点けたがるから、加齢の所為でもなさそうだ。地球温暖化の議論はホッケースティック曲線に代表されるように、データの取り方に作為を感じてすぐに同調する気にはなれないが、暑さがきつくなっているのは認めざるを得ない。

思えば五十年前はたまに自動車に乗せてもらってもでこぼこ道が沢山あってお尻が痛くて大変だった。あれから人間たちは街中の地面と言う地面をアスファルトとコンクリートで塗り固め、樹木を伐採し、その上まわりの家が一斉に外に向けて暖房のスイッチを入れるのだから熱帯夜の日数が増えるのも無理はない。地球全体の温暖化というより、街中の局所的問題と考えた方が良さそうだ。野生の猿や猪や鹿たちはおそらく山の中の自然に囲まれたねぐらで、地面からの水蒸気や樹木の呼気などの打水効果でクーラーの助けなど借りなくても安眠しているのだろう。

2020年8月4日火曜日

 コロナと長梅雨のダブルパンチで外出がままならず、家で過ごす時間がやたらに長い。もっとも本を読んだり映画を見たりお酒を飲んだりと、やる事は一杯あるので「今はぐっと我慢して家で過ごしましょう」と自粛を呼びかける言葉はピンと来ない。家で過ごす事はぐっと我慢する事なのか。それは本来素晴らしい事の筈で、そのチャンスを活かさないのは勿体ない事だ。(と、ちょっと強がりを言ってみる。)

そこで今日は最近読んだ本の中から面白かったものをご紹介したい。

「アンダーグラウンド」「約束された場所で」いずれも村上春樹の著書で、オウム真理教関連のインタビューをまとめたものだ。前者は地下鉄サリン事件の被害者及び遺族へ、後者は元信者へ。中で元信者の次の言葉が印象に残った。「何を言ったところで、それがマスコミに出る時にはぜんぜん違う文章になっています。こちらの真意を伝えてくれるメディアなんてひとつもありません。」

面白い事に同じような発言が「アンダーグラウンド」にもあった。つまり事件の被害者達も加害者側と同じようにマスコミに不信と不満を抱いている。自分らの言う事をまともに取り上げてくれない、と。マスコミに出てくる情報はかなりのバイアスがかかったものであると思った方が良さそうだ。

オウム真理教事件への疑問はナチスへの疑問と軌を一にする。どうして一見優秀な人達が騙され悪事の片棒を担いだか。神奈川県の津久井やまゆり園では障碍者が多数殺害されたが、同じような事をナチスは集団で行った。しかも優生学の名の元に高名な科学者達が協力して。その疑問解明の一助になればと「ドイツにヒトラーがいたとき」篠原正瑛著を読んだ。とても面白かった。内容紹介したいが紙面が尽きた。またの機会に。

2020年7月28日火曜日

ウィズコロナ


「ウィズコロナ」という言葉をよく聞く。「コロナと共に」つまり「回りにコロナウィルスがいる前提で生活しよう」という趣旨なら感染者が出るのは当たり前で、新規感染者の増加に大騒ぎするのは如何なものか。感染、発症、治癒の各フェーズを冷静に観察すべきではないか。それとも徹底的にウィルスの封じ込めを狙っているように見えるのは、口では「ウィズコロナ」と言いながら本音では「アンチコロナ」を目指しているからか。ウィズかアンチか、アメリカの小学校での出来事を思い出す。
アメリカで一年暮らす事になり、子供達の現地の小学校への入学手続きの際、あらかたの登録が終わって、先方が盛んに気にする事があった。ツベルクリンテストは大丈夫か、という事だった。当時苦労してようやく陽転した頃だったので、胸を張って大丈夫と答えた。ところが学校が始まって数週間後堰を切ったような電話が掛かってきた。あれだけ確認したのにお宅の子供さんはツ反が陽性ではないか、というのだ。その時知ったのは日本ではツ反は結核菌に対する免疫の有無を調べるものだが、アメリカでは結核菌の有無を調べるもので陰性でなければならないという事だ。いわば結核菌に対し、日本はウィズの戦略を取り、アメリカはアンチの戦略を取っていたのだった。
回りに結核菌がいない事を前提にしている社会ではツ反に陽性の人、つまり保菌者かも知れない人は隔離される。私の子供達も何本か注射を打ってツ反が陰性になるまで学校に来てはいけないと言われた。日本のBCGは優秀で決して他人に結核を移す心配はないという医者のお墨付きを貰って無事通学できるようになった時は胸をなでおろした。
コロナに対しても優秀なワクチンが開発されれば良いが、抗体があっても免疫があるとは限らないなんて報道が気に掛かる。

2020年7月21日火曜日

記者会見


藤井新棋聖の誕生は誠に素晴らしい事だった。渡辺三冠を下しての結果だから文句のつけようがない。コロナ禍で対局が延期されていたが、新記録に間に合って良かった。ただ局後に行われた記者会見には強い違和感を禁じ得なかった。
対局当日夜の記者会見、主催者や居並ぶ記者達の中に本人の置かれた状況をおもんばかる人はいなかったのだろうか。あの対局の解説者だった久保九段は言っていた。「対局の翌日は何も予定を入れないようにしています。対局で疲れ切って何も出来ないからです。」それ程対局は疲れる。しかもその週の月曜と火曜は北海道で二日制の対局をこなし、一日の移動日を入れて大阪での対局だった。家にも帰っていないし、家庭料理も食べていないのだろう。本当なら対局後すぐに家に帰ってお母さんの手作り料理で一杯、いやまだお酒はいけないが、ともかく体と精神を休めたいところだったはずだ。
それでも藤井新棋聖の態度はだれよりも大人だった。カメラマンからの右を向け、左を向け、花束をもっと上げろ、などの注文付きの長時間の写真撮影に素直に応じ、入れ替わり立ち替わり出てくるまるで芸能界のゴシップでも扱うかのようなノリの質問にも丁寧に応じていた。
その様子を見てテニスの試合後の勝利者に対するオンコートインタビューを思い出した。質問者はテニスを良く知っている元選手などで時間も十分程度と手短に行われ、カメラマンは自ら動いて良いアングルを探す。事情を良く知っている人からの的を得た質問に、疲れているはずの選手も応対を楽しんでいるようだ。将棋でも例えば世事に明るい故米長邦雄九段とか故芹沢博文九段などが代表して会見すれば面白かっだだろう。
それにしても記者達は質問の内容で自分の知的レベルが試されているという自覚を持つべきだと思う。

2020年7月14日火曜日


連日の雨、テニスは中止になるし、洗濯もままならない。しかしそんな事くらいでこぼしていたのでは被災地の人達に申し訳ない。洪水で家が流されたり、家の中が泥だらけになったり、ましてや関係者に死者が出たらどれほど悲しいだろう。悲しさを通り越して怒りを感じたり、明日からの生活再建を思って自暴自棄になったりしそうだ。
幸い、七十年近く生きて来て、大きな災害に遭った事がない。地震で家が潰れたり、火災で家財一式焼けてしまったり、妙な犯罪事件や大きな事故に巻き込まれたり、そんな経験がない事はなんと幸せな事かと思う。
唯一の記憶は小学四年の時、家が床上浸水した事だ。今と同じ、梅雨の終わりで丁度夏休みに入る頃だった。部屋の中に櫓を組んでその上に畳を乗せ水から守った後、父が私を抱っこして避難させようとした時、外は大人の太ももまで水が来ていた。妹と二人は親戚の家に預けられ、両親は屋根裏に布団を敷くだけの空間を作ってしばらくそこで暮らした。当時は避難所とか公的支援はあまりなかったのかも知れない。夏休みの後半には家に帰る事が出来たように思う。と言うのは家で聴いた雨の音を今でも鮮明に覚えているからだ。夕立が屋根を打つ音を聴くとすぐに洪水のシーンが思い出されて恐怖で小さな胸が震えた。今度の洪水でも同じようなトラウマを抱えた小学生が熊本にも岐阜にも沢山いるのではないか。
日本では水を司る神として竜神が各地で祀られてきた。それが仏教の八大龍王と結びつき、雨乞いの対象となったとされる。空海が京都の神泉苑で雨乞いをした時も龍王が現れ雨を降らせたと伝わる。だが、今回はしばらく雨はいい。金槐和歌集にある源実朝の願いを一緒に念じたい。
 時により過ぐれば民のなげき也 八大龍王雨やめたまへ

2020年7月7日火曜日

新様式


新しい生活様式が中々身に付かない。一番困るのは外出の際、ついマスクを忘れてしまう事だ。買い物でレジに並ぶ時にはハンカチで口元を覆う事にしているが、先日床屋へ行った時は「マスクをしていない人はお断りしています」と言われてしまった。幸い店にあった予備のマスクを譲って貰う事でその場はしのいだが、対面する訳でもなく言葉を交わす訳でもないのに、との疑問が残った。まあ万々が一の事を考えれば払って損のないコストと言うべきか。今後はこんな事のないよう、六月五日に届いて神棚に飾ったままになっているアベノマスクをウェストポシェットに常備する事にしよう。
NHKの将棋囲碁のトーナメントも新様式で始まった。対局者のマスク着用と、対局者の間にアクリル板を設置するというスタイルで。しかしアクリル板の下の開口が大きすぎるように思えるし、幅も十分でなく両サイドは空いているのであれで本当に効果があるのか疑問ではある。そもそもアクリル板が両対局者それぞれに二枚必要なのだろうか。私なら中央に一枚、それもテーブルからはみ出る程十分に幅のあるものにする。
将棋の新様式で残念だったのは和室スタイルからテーブルと椅子の様式に変わった事だった。囲碁は随分前からテーブル方式に変わっていて残念に思っていたが、やはり和室で分厚い盤をはさんで向かい合うという姿に憧れる。流石にタイトル戦はアクリル板などという不粋なものはなく従来通り和室で和服姿で行われた。(将棋のタイトル戦は対局者は勿論、立会人、記録係に至るまで和服で臨むという暗黙のルールがある)
もしも対局者の一方が無症状だが感染している事が分かったらどうするのだろう。別室に隔離してネット対局という事になるのか。それも時代の流れなのかなあ。

2020年6月30日火曜日

LGBT

先日NHKで「僕が性別ゼロになった理由(わけ)」というドキュメンタリーが放映された。女性の体を持って生まれたある男性の苦悩を描いたものだった。幼少の頃は少女として育てられるが、中学生になると性同一性障害として男性と認められ、高校では名前も男性らしいものに変え男性として過ごした。そして手術可能な年齢になるのを待って(法律で制限されているらしい)乳房を切除し、子宮を摘出する。
自分の体を嫌悪するとは何と不幸な事だろう。私も下腹の出た自分の体を好きではないが、それでも少しでも体型を見栄え良くしようと焼け石に水のような努力をするのは基本的に自分の体を愛しているからだ。体と心の性が違うとはどういう事なのだろうか。
幸い私は体も心も同じ性だ。と思っている。体の方は外見上見れば分かるので特に問題はないが、心の方はどうか。性同一性障害の人が体と違う性を心の性として意識するのはどうしてだろう。今まで自分の心の性など自明の事として顧みる事もなかったが、改めてどうだろうかと考えて見た。
内田樹著「疲れすぎて眠れぬ夜のために」という本がある。その中に「男が欲しがるもの、名誉、権力、威信、情報、貨幣、女が欲しがるもの、健康、自然、愛、平和」というくだりがあった。これを読んでひょっとすると私の心は女ではないかと疑った。この基準なら少なくとも河井案里氏の方がずっと男っぽい。でも子供の頃はままごとより追いかけっこの方が好きだったし、そして何より間違いなく男だと思うのは性欲を感じる対象が女性だと言う事だ。
NHKの番組で性欲について語られる事はなかった。しかしその人がどうやって自分の心の性を決めているのかは知りたかった。レズやゲイの人は矛盾を感じていないのだろうか。

2020年6月25日木曜日

いたずら

去年(2019年)8月5日に投稿した三県境。
誰かがいたずらしたという報道があった。
一体誰が、何のために?
余酔っ払いが紛れ込むような場所ではないのに。
こんなバカな事に、大事な自分のエネルギーを使うのはやめましょう。

2020年6月23日火曜日

弱者の権利

昨年末12月24日に同じタイトルでLGBTの人達が声高に権利を主張する事への違和感を書いた。そして最近、アメリカの人種平等を主張するデモの中に虹色の服を着た人達がいた。私達LGBTの権利も忘れるな、とでも言うように。
前回ウィーンの街頭で歩行者用信号を見た時は、控えめな弱者を社会が温かく見守るのがあるべき姿だと思った。「太陽は光り輝く」という映画を見るまでは。アメリカ南部の小さな町の判事が主人公の映画で、その大きな屋敷には黒人が召使として雇われており、彼は主人の様々な命令に「はい、ご主人様」と素直に応じる。判事は召使を愛し、決して乱暴はしない。だが、その愛はまるでペットを愛するかのようだ。控えめな弱者を社会が温かく見守る構図は、こと人種差別の分野に関しては間違っている。
人種差別の問題に関しては、弱者たる黒人は強く権利を主張すべきなのだ。さもないと正義が実現されない。翻ってLGBTについて。身体は男性だが心は女性だという人が女子トイレを使う権利を主張するのはどうだろうか。昨年末の裁判では原告が勝利し、国に慰謝料など132万円の支払いを命じる判決が下りた。同じ職場で働く他の女子職員の意見は報道されないが、違和感を持つ人は一人もいなかったのだろうか。かつてアメリカ南部では白人はトイレを黒人と共用せず、その名残を今も持っている白人がいたとしたらそれは恥ずべき事だろう。服装や言葉使いは女性でも声が男性で不精をしたら髭も生えてそうな人が女子トイレに入って来るのを不快に感じるのは恥ずべき事なのだろうか。
人種差別とLGBTの問題はどこか違うような気がする。どこが違うのだろうか。それとも違うと思う私が間違っているのだろうか。どうしても答えが見つからない。

2020年6月16日火曜日

藤井七段

藤井聡太七段の将棋は芸術だ、という人がいる。飯島栄治七段。容貌も仕草も語り口も実直そのもので、篤実という言葉はこの人のためにあるのではないかと思われるような人だ。その人が言うから大袈裟でもなければ衒った表現でもない。まさにその通りだと思う。
デビューから二十九連勝をするなど、一人で将棋ブームを起こしてしまった藤井七段は今最年少タイトルホルダーの記録を掛けて将棋棋聖戦の真っ最中だ。一般紙でも報道されているからご存じの方も多いだろう。名人戦や竜王戦ならともかく、棋聖戦の第一局の勝敗が一般紙で報道されるなんて今までにはなかった事だ。
藤井将棋の素晴らしさは感動を与えてくれる所にある。将棋は好きで良く見るが今までの約六十年間、感動という言葉を味わったのはたった一度しかない。第55NHK杯トーナメントで谷川九段が藤井猛九段の穴熊を粉砕した将棋。谷川九段の裸の玉が徳俵でかろうじて残し、穴熊の堅城に籠る藤井玉を討ち取った時は感動した。
しかしこの一年、藤井聡太七段の将棋を見るたびに感動する事、三度や四度ではきかない。詰みを読み切った時には危なそうに見える橋を平気で渡る、解説者が「不利になるからこの順は選ばないだろう」と言う順を何事もないかの様に選んで結局ちゃんと有利に導いてしまう、等々勝ち方の美しさは芸術と呼ぶに相応しい。
四十年前天才の名をほしいままにした谷川九段の藤井評が的を得ていた。「私が17歳のときと比べると……。野球に例えるなら、ストレートの速さではいい勝負になる。でも、球種と制球力では藤井七段にまったく敵いません。」
恐らく向こう数十年は出て来ないと思われる天才が創り出す感動を同時代の人間として経験できる幸せを是非皆様にも味わって貰いたい。

2020年6月9日火曜日

発言と責任

政府専門家会議議事録なし、には驚いた。その理由が「専門家の立場で自由に率直な議論をいただく事が大事だ」からだというのには更に驚いた。その会議に出席している人達は議事録を取られると自由率直に自分の意見を言えないような、そんな意気地なしで無責任な人達なのだろうか。
その少し前木村花さんがSNSの誹謗中傷が原因で自殺したというニュースが報じられた。こちらは驚くというよりとても残念な思いがした。見れば可愛い乙女ではないか。これから人生の素晴らしい事が沢山待っていたであろうに。ネット世界にあふれる匿名の無責任な発言をそんなに気に病むことはなかったと思うのは部外者の気安さに過ぎないか。
インターネットが普及して誰でも気軽に自分の意見を公開することが出来るようになった。すると今までおとなしくしていた人達が堰を切ったように発言を始めた。しかも普段は使わないような過激な口調で。そういう人達に限ってネット上では仮名を使い、顔写真を明らかにしない。こうした匿名を条件に暴言を吐くネットユーザーと政府専門家会議のメンバーが同じメンタリティだとは思いたくない。
流石に尾身副座長は議事録の作成公開に問題なしと発言された。思うに今までの議事録不作成の方針は万事に責任をうやむやにしたい事務方官僚の論理の為せる業ではなかったか。自由な議論のためという理由付けは語るに落ちたの感がある。緊急事態で諸事多忙に付き議事速記の人手を割けなかった、とでも言えばまだましだった。
木村さんの自殺に対応して、SNSでの発言の追跡調査を可能にする法律が考えられているようだが、それ以前に政府関係の発言の責任明確化を義務付ける法律を策定すべしと思うが如何。

2020年6月2日火曜日

デジャヴ


日本語で既視感と言えばいいのだが、敢えてフランス語を使ってみた。デジャヴ(デジャビュとも)、初めて来た場所の筈なのに何故か前にも来たことがあるような感じ、前にも似たような事があったような、最近何度かこのデジャヴを味わった。
まずは自粛警察。営業を続ける店舗に対して貼り紙をして嫌がらせをしたり、他県ナンバーの車にいたずらをしたり。その様は戦時中、ちょっとしたおしゃれをして街中を歩く若い娘さんに対して説教したり嫌味を言った割烹着にモンペ姿のおばさん連の姿と重なる。どちらも強い正義感が根底にある。だから正義って嫌いだという人も出てきそうだ。自粛警察に少しだけ救いを感じたのは貼り紙の文言が「オミセシメロ」と敬語付きだったから。「ミセシメロ」だったら救いがなかった。
次は知事会。幕末の参預会議が思い浮かぶ。幕末の混乱期、政治の表舞台に立つ人が老中の阿部正弘や堀田正睦などから次第に松平春嶽や山内容堂・伊達宗城などに替わって行った。今でいえば中央官庁の大臣から地方の知事へという流れか。この流れで地方分権が進んで行けば良いと思うが、財源が中央に握られている限りはそうもいかないだろう。
営業自粛による休業補償も前に同じような事があった。農家の減反政策だ。仕事を休んだらお金をあげる。構図は全く同じ。緊急時だからやむを得ないにしろ経済学に反するこんな事が長く続けば食管会計どころか国全体がおかしくなってしまう。
検事長の賭けマージャン事件は全く逆のケースだった。かつては法を守るため餓死した裁判官もいたというのに。司法を預かる者がヤミ米を食べるわけにいかないと。もし黒川氏が検察庁法に反するからと言って定年延長を固辞していたらデジャヴの一つになった、かも知れない。

2020年5月26日火曜日

専門家かプロか

新型コロナウィルス対策の出口戦略を求められて専門家会議の某委員は「経済のプロを交えた議論が必要だ」と言った。韓国野球界が無観客での開幕に踏み切った事に対し、慎重さが欲しかったと述べた元プロ野球選手の張本氏は「野球の専門家としてそう思います」と結んだ。専門家とプロ、どう違うのだろう。
英語で言えばスペシャリストとプロフェッショナルという事になろうか。英英辞典を引いたらプロフェッショナルは「普通の人が趣味でやるような事をしてお金を稼ぐ人」という定義があった。今の張本氏をして野球のプロと言うのにちょっとためらいがあるのは彼が野球をプレーして収入を得ている訳ではないからだろう。
お金を出してでも見たくなるような技を披露するのだからプロのやる事は凄い。テニスで絶体絶命の大ピンチから大逆転のスーパーショットを放ったり、将棋で誰も思いもつかないような妙手を放ったり、人を感動させる要素を持っている。外出自粛の日々、ユーチューブで藤井聡太七段の将棋を解説する動画を見て、何度も感動を味わった。AI超えとも言われる深い読みに。
コロナ対策について専門家会議の提言を見てこうした感動がないのは何故だろう。曰く「身体的距離を確保すべし」「マスクを着用すべし」等々、素人でも分かりそうな一般論ばかりだ。専門家なら「ウィルスのRNAを解析したら塩基配列がこうだから、こういう点に注意すべし」とか「重症化した患者の特徴を分析した結果こうだから云々」とか専門家にしか言えないような内容の忠告提言が出来ないものか。
スペシャリストを英英辞典で引くと「ある分野技術についてよく研究し、多くの事を知っている人」とある。専門家の発言に感動がないのはプロではないからなのだろうか。

2020年5月19日火曜日

模式図

専門家の言う事に疑義をはさむとは甚だ恐れ多い事だ。が、ある分野に於ける知識や経験の豊富さと情報を処理したり判断したりする能力とは別問題だと思うから敢えて疑問を述べる。
十五日の朝刊にも掲載された「今後の都道府県別の対応」というグラフは実に面妖だ。縦軸に「新規感染者数」横軸に「時間」が取られ、三本の直線と一本の曲線からなる。三本の直線の内二本は緩やかな右肩上がりに描かれ、一番上の線には「医療提供体制の限界」と注記されている。
はて、医療提供体制とはこのように緩やかに漸増的に拡大する事が可能なのだろうか。医療提供体制が具体的に何を意味するのか、おそらくは病院のベッド数、医療従事者の人数、人工呼吸器の数などだろうが、そのいずれもがそんなに簡単に増やす事が出来るとは思えない。敢えて図示するとすれば長い水平線が段階的に上がって行く形しかないのでは。漸増的拡大は単なる希望的観測か。
もっと面妖なのは、この限界と新規感染者数が比較の対象となっている事だ。医療体制が限界にあるかどうかを規定するのは患者数しかなかろう。いわば感染者の累計(退院した人や軽症者を除く)であって新規感染者数では決してない。
尾身氏は説明に当たって盛んにこれがイメージ図模式図である事を強調していたが、いかに模式図とは言え論理的正鵠さを欠くのは当事者意識の欠如を思わせる。最前線で人の命を預かっていれば具体的な細かい所までが気になって、観念的な抽象論で満足している訳にはいくまい。大阪モデルが重症病床使用率という具体的な指標を示したのとの対比が印象的だった。
参謀本部の希望的観測や観念論と最前線の現実との齟齬が悲劇を生んだ先の大戦の不幸がまた脳裏をよぎった。

2020年5月12日火曜日

現状把握


東京都のデータで陽性率が計算できない、には呆れた。検体を採取した日と結果が判明した日に時差があるからだとか。本来全ての検体に識別番号を割り振って、それぞれに氏名、検体採取日時、採取した機関、検査日時、検査をした機関、結果判明日時などを全て記録しておくべきだ。ならばそこから検体採取日ベースの陽性率、結果判明日ベースの陽性率、自在に計算できるはずだ。
データ軽視、現状把握軽視に危惧を感じる。現状認識をおろそかにして精神論を振りかざし痛い目に遭った先の大戦の教訓を忘れたのか。「人との接触を八割減らせ」の号令は「贅沢は敵だ」の掛声に似ている。あの時も変な正義漢が出た。
緊急事態宣言の継続の理由の一つに「収束のスピードが思った程でないから」というのがあった。平たく言えば「ある方針でやった事の効果が思った程でないからその方針を継続する」という事だ。これを誰もおかしいと思わないのか。思った程効果がなかったのなら方針を変えて別の方法を試みるべきだろう。八割減は接触を二割に抑え、2.5×0.20.5の初等算術を元に精神論をぶっているだけのように見える。
国内の感染者数の実態を国会で質問され首相は答えに窮した。誰も知らないから無理もないが、不思議なのはどうしてそれを知ろうとしないのかだ。何か所かで一定数のランダムサンプリングを行ってPCR検査、抗原検査を実施すれば凡その感染実態が把握できるだろう。同時に抗体検査も行って、どの程度に免疫が広がっているかも分かればもっと現実的で効果的な対策が打てると思うのに。新規感染確認者数の減少は接触削減より、免疫獲得の方が効いているのかも知れないのだから。
戦時中贅沢は敵だった。今接触は敵だと言われている。早く接触は素敵だと大声で叫びたい。

2020年5月5日火曜日

感染予防


月が変わって五月、最初の日は午前中炬燵に入ってテレビを見ていたが、午後になって食パンとヨーグルトの補給にスーパーへ行ったら冷房が効いていた。一日の内に冬から夏になったかのよう。それでも植物は春を忘れていなかった。道端の草花は陽光を浴びて輝き、街路樹のハナミズキが目を楽しませてくれる。道端の草の中には矢車草も元気に咲いていた。植物はウィルスに感染しないのだろうか。
生物は苦手科目だったから以下は私の想像で間違っているかも知れないが、植物は外界から体内への入口が小さすぎてウィルスが入り込めないのではないか。植物は根から水を吸ったり、葉の表面から酸素を取り込んだりしている。無機物を体内で合成して有機物を作る能力を植物は持っているから、体内への通り道は小さな分子が通るだけの大きさがあれば良い。
一方我々動物は自ら有機物を合成する能力を持っていないから、生きるためには他の生物が造り出した有機物を強奪するしかない。だから体内への入口がアミノ酸やウィルスなど高分子の有機物が通れるだけの大きさがないと生きていけないのだ。ウィルスは他者からの略奪と言う生存戦略を選んだ動物への罰なのかも知れない。
細菌と違ってウィルスは細胞内に入らない限り増殖できないのだから、体内に取り込まなければ感染はしないはずだ。体内への入口とは粘膜や傷口だ。ウィルスが浮遊する環境に身を置いたとしても、それを吸い込んだり、ウィルスが付着した手で目をこすったり鼻をほじったりしなければ感染はしないだろう。
ともかく感染予防として大切なのは人と接触しない事よりもウィルスを体内に入れない瀬戸際対策だ。食事にももっと注意すべきだろう。その観点から防疫と経済を両立させる新しい生活様式がないものか。


2020年4月28日火曜日

収束か終息か

今回のコロナ騒動はいつになったら収束するのだろうか。そもそもどういう状態になったら収束したと言えるのか。いやいや収束か終息か。
広辞苑によれば収束は「おさまりがつく事。数列がある一つの有限確定の値に近づく事」、終息は「事が終わっておさまる事」とのことである。内乱がおさまるのを終息というように、完全に片が付いて終息するのが一番だが、当面はある数値が一定の値に収斂するのを目標とするしかなさそうだ。
では何の数値がどんな値に収斂すれば良いのか。過去何度も「ここ二週間が山場だ」という言葉が繰り返されてきた。それは「ここ二週間頑張ればある数値(例えば新規感染者数)が一定の値に収斂して落ち着く」という意味だと解釈してきた。しかし事態は一向に落ち着く気配がない。山場だと思っていたが山場ではなかったのか、それとも対策に誤りがあったのか、何か見込み違いがあったのか、反省とフィードバックがあって然るべきだ。
五月六日を期限とする緊急事態宣言も恐らくは延長される事だろう。そもそも宣言を延長するか解除するかの判断基準が示されないのは当局の自信のなさの表れに見える。実効再生産数が一以下になれば宣言を解除するとか、死亡者数が何人以上になったらより強い制限をお願いする事になるとか、事態を掌握しているのなら適切な指標とその数値目標が示されても良いはずだ。
ニューヨークでは住民の抗体検査で14%の人に感染歴がある事が分かった。慶応病院の無症状の患者からも6%の感染が分かった。すでに10%程度の人が感染していると覚悟すべきではないか。ならば相当数の感染者がいる前提で対処すべきで、毎日の新規感染確認者数を指標に一喜一憂するのでは事態は収束しないのではなだろうか。

2020年4月21日火曜日

給付金

私の住む埼玉県幸手市の正福寺には義賑窮餓之碑という石碑が立っている。天明三年浅間山の大噴火によって関東平野に火山灰が厚く降り積もり大飢饉が発生した際、幸手宿の豪商21人が金銭・穀物を出し合い、幸手の民を助けたという善行を顕彰して建てられたものだ。天明三年は西暦では一七八三年、同じ年にアイスランドのラキ火山も大噴火し、ヨーロッパでも農業が大打撃を受け、それがフランス革命の遠因となったという説もある。幸手では富裕層が貧民を助けたが、パリのベルサイユではどこ吹く風の贅沢三昧が続けられていたという訳だ。
そして令和、ウィルスによる経済の混乱期に私財を投じようという富裕層はいないのか。それどころか国が困窮対策として支給しようという十万円を、生活に不安のないお金持ちまで受け取るのではないかと心配されている。十万円と言えば我々庶民には大金だが、一晩の飲み代にもならないという人もいるだろう。その人の経済状態に応じて十万円の価値は大きく違う。だから支給方法に工夫を凝らし、本当に十万円を有難いと思える人だけに配布する方法はないものか。
例えば、公園や学校の庭の草取りを一時間やった人にだけ十万円を渡す、というのはどうだろう。草取りではなく、道路わきの溝掃除でも良い。とにかくお金持ちが「そこまでして十万円欲しくない」と思うような何かをする事を支給の条件とするのだ。
本来ボランティアでやるような神聖な作業をお金で汚すようにも思えるし、市民に労役を課すのは憲法上問題もあるのかも知れないが、街の美化にもつながる良い案ではないかと思う。中には作業をしたふりをしてサボる人も出るかも知れないが、一時間サボるのも結構辛い事なので、まあそれは大目に見る事にしよう。

2020年4月14日火曜日

正しく恐れる

ついに島根にも新型コロナウィルスの感染者が確認された。ずうっと感染者ゼロが続き、出雲の神様が守って下さるのだ、と周りの人に自慢していたのに。もっとも日々発表される感染者とは正確には感染確認者と言うべきで、感染はしていても無症状の保菌者は恐らく発表される人数の何倍もいるのだろう。だからこそ感染経路の不明な人が沢山でるのもやむを得ないのだと思う。
しかし真に恐れるべきは感染する事より重篤化して死亡したり後遺症が残ったりする事だろう。国内の死亡者数は四月十日現在で百三十一名(読売新聞)。最初の死者が出た二月中旬から約二か月でこの数字だ。厚生労働省の人口動態調査のデータを見ると去年一月から十一月までの間にインフルエンザで死亡した人は三千三百人いる。単純平均で月三百人、冬の間は平均値以上の数の人が亡くなったはずが、それと比較して死亡者がうんと少なく見えるのは母数の関係か。今は少なくて済んでいるが、油断をするなという事か。
そもそも死因がインフルエンザだとはどういう状況か。インフルエンザが元で肺炎を発症し死に至った、というケースなら分かる。その場合は死因が肺炎に分類されているはずだ。他の要因がなくて、単にインフルエンザだけが主要な要因で死ぬというケースがあるのだろうか。エボラ出血熱やペストなら全く健康な人がそれだけの理由で亡くなるのも容易に想像できるのだが。ちなみに肺炎で亡くなった方は前データによると八万七千人、月平均約八千人もいる。
正しく恐れろ、と言われる。勿論そうしたい。だが、数字だけを見ると経済や生活の犠牲とのバランスに疑問を感じる。中学の修学旅行も中止になりそうだと言う。修学旅行の想い出は古希になっても語り合えるものなのに。

2020年4月7日火曜日

不要不急


不要不急の外出を控えろと言われても、普段からどちらかと言えば出不精で、用もないのに家を出るなんてまずないので協力のしようがない。明日でも良いかどうかが不要不急の判断基準だそうだが、図書館へ本を返すのは一日くらい遅れても許されようが、一週間十日以内には必ずしないといけない。一週間程度先延ばしに出来るだけの事は今日やっても同じだろう。
流石に友人との飲み会はここ二か月皆無だし、先の予定も全くない。歓楽街が閑散とするのもむべなるかなだが、得意先の接待も不要不急と見なされたのだろうか。会社の売上を伸ばすための営業活動はサラリーマンにとって至上命題だったはずだが。
不要不急の活動を自粛したとたん経済がガタガタになったのを見ると、人間の活動がいかに不要不急のもので成り立っているかを思い知らされる。文化そのものが不要不急と言えば言えなくもない。野球やサッカーを見なくても生きていけるし、歌舞伎を見なくても生きていける。文明の発達によって、生きていくうえで必要不可欠な必需品が安く提供されるようになり、経済の多くの部分が不要不急のニーズによって支えられているようになった。それは人間がより自由になった事を意味し、本来喜ぶべき事のはずなのだが。
こんなご時世でも飲み歩く人は稀にいて、テレビカメラを向けられたその人は「禁止すると言ってくれれば出歩かないが、自粛じゃなあ」と答えていた。お上から禁止される事を望んでいるかの発言には驚くしかなかった。自分の行動は自分の責任において自分で決める、誰からもあれこれ指図されたくない、を信条とする私にとって「由らしむべし知らしむべからず」は遠い昔の冗談にしか思えない。行政には指示命令ではなく、正確で的確な情報公開を望む。

2020年4月4日土曜日

読売新聞の夕刊に紹介された幸手市の権現堂。桜と菜の花のデュエットは定番だが、散歩道で見た桜と麦畑のデュエットも中々いい。

2020年3月31日火曜日

カタカナ語

新聞もテレビも新型コロナウィルスにハイジャックされたみたいで、気分の浮かない日々が続く。そんな中「オッ」と思わせる記事に出会った。「カタカナ語、見直して。河野氏、厚労省に申し入れ」と題する記事で、河野防衛大臣が参議院外交防衛委員会でカタカナ語を多用しないよう厚生労働省に申し入れた、というものだ。
クラスターだのオーバーシュートだのロックダウンだの、カタカナ語が氾濫する新型ウィルス報道だが、それぞれ感染集団、患者急増、都市封鎖の方が分かりやすいし、そちらを使うべきではないか、というのだが、まさにその通り!相手を煙に巻きたいという意図でもあるのならともかく、不要不急の外来語は使うべきではないと思う。
カタカナ語を使う意味があるとすれば、音節が短い場合であろう。「屋根付き商店街」と言うより「アーケード」と言った方が音が少なくて済み、便利だ。「野球」が「ベースボール」にならないのも音節数で説明できる。だが先ほどの三つの例はいずれも音節数はほぼ同じかむしろ日本語の方が短いくらいだ。ならばカタカナ語を使う意味がないのではないか。たまに日本語で「ちらし」と言えば済むものを「リーフレット」などとわざわざ長い言葉を使うなんて馬鹿な例もある。
下衆の勘繰りかも知れないが、カタカナ語を使う理由に自分は海外事情に詳しいのだと自負したい気持ちがあるのではないか。海外の大学を出られて恐らく海外事情にも詳しいだろう某知事は「都政に不安はないか」と問われ「ご不安はないと思います」などと答えていた。日本語の基本たる敬語など、もっと足元をしっかりしたらどうかと思ってしまった。
日本語を大事にしよう。おっと、私も「ハイジャック」ではなく「乗っ取り」と言うべきだったか。反省。

2020年3月24日火曜日

五輪モットー


開催が危ぶまれる東京五輪だが、大会のモットーなるものが発表された時の違和感が忘れられない。「United by Emotion」、「感動で、私たちは一つになる」という意味だそうだが、全くしっくり来なかった。まず「なんで英語?」という疑問、それは後で分かるとして、「一つになる」事への違和感が拭えない。
アメリカの様に民族や人種や言語の多様な人々が混在して、ややもすれば分裂してしまいそうな社会で「アメリカは一つ」という理想を掲げるのは分かるが、日本のように比較的均一な社会でこうも「一つである」事を重視するのはどうしてだろう。
ちょうどその頃NHKの「百分で名著」ではチェコの元大統領ハベルの著作を取り上げていて、二つの対照的な価値観が解説者により示された。左の四角には「統一、単一性、規律」という言葉が並び右の四角には「複数性、多様性、自身の自由の実現」等の言葉が入って、二つの四角の間には対立を示す様に両側に矢印がついた直線が描かれている。そして左の四角の上には総括する言葉として「ポスト全体主義、体制」が、右の四角の上には「個人、生」と書かれている。ハベルは勿論右の価値観の重要性を言っているし、私も左の価値観はちょっと恐ろしい。
五輪のモットーと言えば前の東京大会の時の「より速くより高くより強く」が強く耳に残っているが、それはIOCが定めた五輪全体のモットーだとか。大会モットーは英語で3~5語の短いメッセージで全世界に発信するものであるらしい。前のリオの時は「A New World」、その前のロンドンは「Inspire a Generation」だったとか。残念ながらあまり記憶にないが、今回のモットーが英語圏の人々にはどのように響くのか聞いてみたくなった。

2020年3月17日火曜日

高校野球

春の選抜が中止になってしまった。初の甲子園に期待で胸を一杯にしていた平田高校の野球部員はさぞ気落ちした事だろう。夏の大会では是非実力で出場を勝ち取るべく、気持ちを入れ替えて精進して貰いたい。
センバツ中止を伝えるニュースの中で提示されたフリップが眼を惹いた。新型ウィルスで中止になった高校の主な全国大会の種目を一覧にしたもので、左側には主に漢字が並び、右側にはずらっとカタカナが並んでいたからだ。左は卓球、相撲、剣道、レスリング、バドミントン、柔道、空手、体操、右はソフトボール、ボート、アーチェリー、テニス、ゴルフ、スキー・アルペン、ラグビーと言った具合。要するに左は屋内競技、右は屋外競技なのだが、漢字と横文字がこんなに綺麗に分かれるのは偶然だろうか。また漢字と横文字はどういう基準で使い分けされているのだろうか。
卓球は横文字ならピンポンとなるだろうが、学校の部活でピンポン部を名乗る所はまずないだろう。テニスは庭球という立派な漢字があるが、部活の名前としてはどうか。私が高校生の頃は庭球部と言っていたような気もするが、今は殆どがテニス部ではないだろうか。サッカー部だって昔は蹴球部と言っていたように記憶する。闘球部という名前は流石に記憶にないが、それはそもそも高校にラグビー部がなかったからだと思う。野球は本家ではベースボールだが、部活でベースボール部は聞いた事がない。野球(のぼーる)は正岡子規が名付け親でベースボールの直訳は塁球だが、塁球というとソフトボールを指すのだそうだ。
ところで選抜大会中止の理由の一つに「高校野球は学校教育の一環。(中略)教育の原点に立ち返った」というのがある。高校野球はやっぱりスポーツではなく体育だと言う事か。

2020年3月10日火曜日

家庭と司法

千葉県野田市の小学四年生栗原心愛さん虐待死事件の裁判報道を見ると心が痛む。そもそも親が子を殺す(あるいは作為不作為を問わず、死に至らしめる)事そのものが殆ど理解を超えている。子が親を殺すのはまあ特殊な事情があればあり得る事かも知れないと思えるし、個人が自分を殺す事も何とか理解の範囲内と言える。だが、親が子を殺すのは生物本来の決め事からはあり得ない事だ。生物界では子の為になら自らの命を捨てる親が沢山いるし、人間だって子の幸せな姿を見る方が自分の幸せより嬉しいという人が沢山いるのではないだろうか。
だが、事件は起きた。
裁判では父親の栗原勇一郎被告は虐待行為の一部を否認している。一方で母親は夫の虐待行為を認める供述をし、事実がどうであったか藪の中ではあるが、家庭の中に司法がずかずかと入り込むのもちょっと異様な姿に見える。この裁判は栗原家の人々を一層不幸にしてしまうと思えるからだ。
栗原心愛さんには妹がいると伝えられる。その子の幸せは一体誰が気遣ってあげるのだろう。お姉さんが父親の虐待で死亡し、その経緯を巡って両親が言い争っているのを見せられて、どんな気がするか。平成二十九年六月生まれというからまだ物心がつかないのがせめてもの救いだ。
傷害幇助の罪に問われた母親への被告人質問の記録を見ると、心愛さんだけを虐待した理由を検察に問われ答えに窮して沈黙する母親の姿が描かれている。また検察はこんな質問までしている。「今、勇一郎被告に対してどう思っているか。好きなのか、離婚しようと考えているのか」《再び沈黙が続く》そんな事が今回の事件の真相解明とどんな関係があるのだろう。
家庭内に司法が入り込むのは必要最低限にすべきだと思う。

2020年3月3日火曜日

ウィルス


新型コロナウィルスを巡っての混乱は収まるどころか一層大きくなるばかり、関係各位の慌てぶりを見ていると、裏に何か秘密が隠されているのではないかと不安になる。インフルエンザは毎年国内で約一千万人が感染し、約一万人が亡くなるらしい。今回のウィルスとは桁が違うが特にそれで大騒ぎは起きてない。まさか今回のが実は非常に恐ろしいウィルスで、当初はおとなしく一見大したことのないようだが後からジワジワ恐ろしさを発揮するようなものだ、なんて事はなかろうが。
今回の発端がそんな不安を掻き立てる。最初の流行は武漢市の海鮮市場が始まりだと言われる。その市場から12キロ離れたところに「ウィルス研究所」(正式には「中国科学院武漢病毒研究所」)が、280メートルの所には「疾病対策予防管理センター」(正式には「武漢鉄路疾病預防控制中心」)があるという。そこらでウィルスの遺伝子を組み替える実験が行われ、何らかのミスで新型が漏れ出したのではとの憶測がネットには流れている。
ネットには二月八日に国立感染症研究所で行われた「新型コロナウィルス感染症への対応に関する拡大対策会議」の議事録も公開されている。陽性患者を診察した医師達からは、
・発熱(微熱)が遷延すること、倦怠感が強いことが共通して認められ、そこがインフルエンザや風邪と違う印象である。
・麻疹の罹患患者くらいの倦怠感の強さと言える。
・本性の重症度については、SARS/MERSよりは低く、季節性インフルエンザよりは高い可能性がある。
などの報告がなされている。
ウィルス相手に完全な感染防止策はないだろう。治療薬が開発されるまで栄養と休養を十分取って、病気に負けない免疫力をつけるしかないのではないか。

2020年2月25日火曜日

感染者


連日の新型コロナウィルスの報道に食傷気味なんて言葉を使ったら不謹慎だろうか。コレラとかエボラ出血熱のような重い症状をもたらすものならともかく、せいぜい風邪かインフルエンザ程度の病気にしてはちょっと騒ぎ過ぎにも思える。

そして国立の有名大学がこぞって感染者の受験を拒否するに至っては驚いた。風邪をひいた程度で受験の門を閉ざされたら受験生が可哀そうだ。

かつてエイズという恐ろしい病気が話題を席捲した時には、感染者を社会が暖かく受け入れましょうという動きがあった。空気感染はしないから同じ職場にいても大丈夫、と。しかし同じビルで働いている人の中にエイズ患者がいたとして、ビル内の同じ理髪店に行く事もあろう、理髪店では普通カミソリを使い捨てにはしないから同じカミソリが使われる可能性だってある。そんなの嫌だと言ったら、玉木さんって冷たい人だね、と非難を浴びた。いくら感染の確率が低かろうと一旦感染したら死を覚悟しないといけない場合と、今回の新型コロナウィルスとでは話が違う。

エイズの時は輸血による感染など本当に気の毒なケースもあったという事情もあるが、今回も同じように感染者に対してもう少し寛容であって然るべきではないか。せめて部屋を分けて受験させるなどの配慮が欲しい。
部屋をどれくらい用意すれば良いのか試算して驚いた。222日現在国内の感染者数はクルーズ船の人以外で134人。人口約一億人の中での割合を東大受験生一万人に当てはめると0.0134人。百倍に感染者が増えたとしても受験生の中に一人かせいぜい二人の程度だ。年齢別割合を考慮すればもっと少なく、ほぼいないと思って良いのではないか。受験拒否はそこまで読んでの事だったのか。

2020年2月18日火曜日

雑感


連日新型コロナウィルスが報道される。感染者数は増える一方で残念ながら死者も出た。この騒ぎが一体どういう形で収束するのか心配でならない。SARSMERSも当初は新型コロナウィルスだったのだろうが、いつから名前が定着したのか。両者とも後ろのRSは呼吸器症候群を意味する。今回のはBURSとでもすればよかったのか、COVID-19は定着しそうにない。

コロナウィルスの記事に隠れるように、イランで欧米との協調路線を取るロウハニ大統領の派閥が少数派になりつつあるという記事があった。中東では事態が小康状態を保っているのか、きな臭いニュースはあまり聞こえてこないし、ガソリン価格も落ち着いているが、予断は許さない。

中東における欧米諸国の行動を見ていると、彼らが今でも中東やアジアを植民地だと勘違いしているのではないかと思えて来る。かつて植民地を広げる時、彼らは未開の地にキリスト教を広めるのだと標榜していた。そして今彼らが標榜するのは民主主義という大義名分だ。だから独裁者フセイン大統領は殺されて然るべきだった。だがそれが単なる口実に過ぎないのは、およそ民主的とは言い難いサウジアラビアにはなんら干渉しないのを見ても分かる。要するに自分らの利益に沿うか沿わないか、それだけではないか。

欧米人が中東を含むアジアを如何に蔑視しているかは、映画を見ても分かる。アカデミー賞を取ったアルゴやミッドナイト・エクスプレスなど、どう見てもイランやトルコを馬鹿にしている。オペラの蝶々夫人では貞淑な日本人女性が娼婦扱いされているのがあまりに不愉快で途中で見るのを止めてしまった。欧米人の根底にある過信とこの差別意識がなくならないと中東に平和は訪れないのではないだろうか。

2020年2月11日火曜日

暖冬


今年の一月は暖かく、テニスをしていて汗だくになりそうな日すらあった。先日テレビのニュースを見ていたら、今年の一月の平均気温はここ百年で一番高かったとか。その事からアナウンサーは「百年に一度の事が起きた訳です」と地球の気候変化への警鐘を鳴らすかの発言をした。ちょっと待ってくれ。「百年に一度」の事とは、統計的に一%の確率でしか起こらない事を言うのであって、たまたま今年が最高気温だったからそういうのはおかしい。画面に映るグラフを見ると、数年前に二番目のピークがある。ならば数年前にも百年に一度の事が起きた事になる。「百年に一度」の事がそんなに何回も起きては困る。

本当に「百年に一度」と言いたいのなら各年のデータの平均と標準偏差を算出し、今年のデータが平均から離れている度合いが標準偏差と比べて十分大きい事を示さなければならない。実際どうだろうと思って気象庁のサイトにアクセスしてみた。そこには東京の「日平均気温の月平均」が1876年から掲載されている。今年は7.1度でここ数年では最も高いが、遡って見ると2007年に7.6度、1988年に7.7度、などの数値もある。テレビで使われたデータはこれとは別のものなのだろうが、少なくとも東京に関しては今年が特別に「百年に一度」の暖かさだったわけではなさそうだ。

気候変動の問題では議論に使われるデータの信憑性に常に注意しなければならない。環境活動家の大部分は純粋な気持ちなのだろうが、中には自分の経済的利益が目的の人もいると聞く。グレタ・トゥーンベリさんは「大人達は金儲けしか考えてない」と怒りを顕わにするが、自分の仲間にもそういう人がいるかも知れませんよと忠告したい。少なくともあまり露骨に憎しみを表に出さない方が良い、と。

2020年2月4日火曜日

マスク


何日かぶりに東京都心に出てあまりに多くの人がマスクを着用している事に驚いた。私の住む埼玉の田舎町では想像できない光景だった。五割とまではいかないがどう見ても三割以上の人がマスクをしている。地下鉄のホームで電車を待っていると後ろの方で大声で話す中国語が聞こえてきた。振り返るとそこには家族連れがいて、大人はマスクをしているが子供はしていない。無防備な私はおもむろに場所を変え、難を避けた。

中国ではマスクが品薄となり様々な騒動になっているらしい。買い求める客が何時間も列をなしているとか、売り惜しみをする店と客との間で喧嘩になったとか。マスクがなければハンカチやタオルで口を覆えばいいではないかと思うのに。繊維の質や目の粗さがマスク特有のもので代替が効かないという話を聞いた事がない。タオルを顔に巻いて後ろで結んだ姿を想像すると、まあ恰好はあまり良くないがそれでも何時間も並んだり、ましてや喧嘩をするよりはましだろう。

ワイドショーでは警官がバス車内でマスクをしていない女性を降りるよう勧告している場面も報道された。あの時女性がバッグからハンカチを取り出して顔に巻き付け口元を覆ったらあの警官はどうしただろうか。
中国の後進性を思わせるシーンもあった。武漢の雀荘で警官が雀卓をハンマーで壊すシーンである。ウィルスの拡散を防ぐため、人が集まるのを極力なくそうと、麻雀に興じる人達を解散させるのはまだ良いとして、備品を破壊するのはやり過ぎだろう。権力と民衆の関係はその地の民度の成熟さを表す。同じことがもし日本で起きたら、行き過ぎた公権力の行為を罰する法律はあるのだろうか。

2020年1月28日火曜日

数え年


先日68回目の誕生日を迎えた。目出度く満六十八歳になった、という訳だ。昨今は年といえば満年齢を指すのが当り前のようになっているが、私が子供の頃大人達は必ず満か数えかと確認していたものだ。その頃は数え年というものが不思議でならなかった。その数え方でいくと、二歳と言っても生後数日の人もいれば生後一年半を過ぎた人だっていることになる。そんな数え方にどんな意味があるのか理解できなかったからだ。そして世の中の全てが西洋化して行く中で数え年は古い因習として忘れられようとしている。

「数え年」を広辞苑でひくと「生まれた年を一歳とし、以後正月になると一歳を加えて数える年齢」と書いてある。確かにその通りだが、この説明では本来の趣旨が伝わらないと思う。英語では何と言うのかと思って和英辞典で「数え年」をひいてみた。すると「英語圏では数え年のような数え方はしない」と御丁寧に解説がある。ならばと英英辞典で「age」を調べてみる。コリンズ・コビルト英英辞典には「ageとはその人が生きた年(years)の数である」と書いてある。えっ、これってまさに数え年の事ではないか!

数え年とはその人が何種類の年を経験したのかを表している。令和元年の十二月三十日に生まれた人はその時点で令和元年の空気を吸ったからまず一歳。そして令和二年の正月を迎えた段階で令和二年の空気を吸って二種類目の年を経験したのだから二歳、というわけだ。実に合理的ではないか。この方式で行けば年齢を聞いただけで生まれた年が分かる。
そして元号は今でも数え年だ。令和は去年の五月一日に生まれ、その時点で一歳。そして今年の正月まだ満年齢ではゼロ歳だが令和二年になった。元号の中に数え年の文化は生き残っている。

2020年1月21日火曜日

戦争


米軍がソレイマニ司令官を殺害した時は第三次大戦でも始まるのではないかと心配したが、何とかその危機は回避できたようだ。そもそも、仮に戦争になったとして、双方にとってどうなったら「勝った」と言えるのだろうか。

日本の戦国時代の戦は基本的に土地の支配権の争いだから、「勝った」と言える状況も単純明快で、敵方が支配する土地の領主の首を取って、その臣下全員を自分の支配下に置いた時と言える。武力衝突をするまでもなく領主ごと全員が相手方の配下に入るケースもあったが。

大東亜戦争(太平洋戦争、日中戦争)の時はどうか。日本が戦争継続不能になって米国が「勝った」訳だが(中国本土で戦っていた日本兵の中には、どうして日本が負けたか不思議に思う人もいたと聞く)、もし日本が「勝った」と言えるとしたらどうなれば良かったか。例えば親日政権が治める満州国を全世界が承認して、中国本土でも親日的な汪兆銘政権が安定して人々の支持を得るような、そんな状況になれば「勝った」という事になっただろう。

さて今回、米国とイランが開戦したとして一体どうなれば「勝った」と言えるのか。イランはまさか米国本土を攻撃するわけでもあるまいし、米国にしてもハメイニ体制を倒してパーレビ国王の末裔を連れてきて再度王制を敷くなんて今更できるはずもないし、どう考えても双方が「勝った」という状況が作れないような気がする。イラク戦争だって、フセイン元大統領を処刑した所までは米軍いや多国籍軍が「勝った」ようだったが、その後の混迷を見ているとどうも違う。
いずれにしろ、米国イラン双方とも戦争になったとして、多数の若者の命の引き換えに得るものがあるとは思えない。損得勘定には特に敏感なトランプ大統領の自制を切に願う。

2020年1月14日火曜日

国境


ゴーン事件は国の管理の埒外で国境を越えたという点で金大中事件と横田めぐみさんを思い起させた。違いは越境が本人の意思に沿って行われたかどうかだが、流石に本人の意思に反して飛行機で移動するのは難しかろう。長時間箱に閉じ込めておくわけにはいくまいし、箱の中で騒がれたらいくらなんでも税関の職員が気付くだろう。

本人の意思で脱国(広辞苑にこの言葉は載っていない。)すると言えば音が似ているが脱北を思い起こす。金王朝の圧政を逃れて脱北する人とゴーン氏の違いと言えば、支援者を雇うだけの資金力があるかないかだろう。ゴーン氏がもし徒手空拳で脱国したのならいくらか評価してあげようという気にもなる。

ところで国が国境を設けて人の移動を管理するという事にはどんな正当性があるのだろうか。国境を見る機会は意外と少ない。スペインとポルトガルの国境は日本の県境と同じで何もない。オーストリアとチェコの国境は道路沿いにはかつての検問所が空き家としてガランと残っているが、道路の両側に広がる耕作地には人の移動を制限するものは何も見えなかった。

国境を見たければイスラエルへ行けば良い。ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区には鉄条網で作られた境界が延々と続く。エルサレム市内にもパレスチナ人の居住区域との間にコンクリートの高い壁がある。北朝鮮の国境も恐らくそんな感じだろう。
要するにイザコザを抱えている国か、国民を奴隷扱いしている国だけが国境を厳重に管理せざるを得ないという事ではないか。その国境も人間が空を飛べない事を前提にしており、もしドローンが発達して人間が個人として数百メートルを自由に飛べるようになったら機能しなくなる。その時初めて真に国民のための国家が生まれる、そんな気がする。

2020年1月7日火曜日

新年


皆様新年は如何お過ごしでしたでしょう。

関東は好天に恵まれ、風もなく穏やかな素晴らしい正月だった。今年一年、このように穏やかで大きな災害や事故のない年でありますように。

元日は自転車で十五分程の神社に初詣に出掛け、二日は恒例の新年会で孫を連れて子全員が集まった。孫の成長を見るのは嬉しい。

ここ数か月顔を合わせる機会のなかった中二の孫に背丈で追い越されてしまった。声変わりして大人の仲間入りしたなと思ったのはついこの前だと思っていたのに。今度一緒にテニスをする時には思い切り遠慮のないサーブを打ち込んでやろう。

去年の十一月に七五三を祝った五歳の孫にはトランプの神経衰弱で負けてしまった。このゲームは残り十数枚になって全てのカードを掌握できるようになった時点で誰が手番を握っているかで勝負が決まるものだが、回ってきた手番をちゃんとものにしたのは天晴だった。この調子で百人一首を覚えてくれると嬉しいのだが。孫たちには「一首覚える毎に千円やるぞ。全部覚えたら十万円だ。」と人参をぶら下げているが、なかなか効を奏さない。意味が分からないものを丸暗記するのは今の子供には合わないのだろうか。意味が分かろうが分かるまいがとにかく声に出して読んで覚える素読という教育方法は多少遠回りであってもとても有効だと思う。

そんな平穏な正月に物騒なニュースが舞い込んだ。米軍が大統領の命令でイランの革命防衛隊司令官を殺害した、と。理由はどうあれ、人を殺すのはいけないだろう。司法による死刑すら反対意見もあるのに、計画をしたという疑いだけで殺すのはあまりにひどい。大惨事に至らない事を祈る。

では皆様、今年もよろしくお願い致します。