島根日日新聞に毎週火曜日掲載しているコラム「トライアングル」の内容を、五日遅れの土曜日にこのブログに掲載します。島根日日新聞をご購読頂けると嬉しいのですが、遠隔地にお住いの方にはこのブログをご笑覧頂ければと思います。
「不思議生活」とは日々「不思議だなあ」と思う事を書き留めておこうとの主旨です。
例えば・・・・
先日「空白の日本史」(本郷和人著、扶桑社新書)の「第7章 日本史の恋愛事情--女性史の空白」を読んで不思議に思った事。
平安時代の婚姻形式は「婿取り婚」(招婿婚とも)と言って、男性が女性の家を訪ねて夫婦生活を営む形式だった。生まれた子は母親の実家で育てられ、それが外戚の力の源泉となり、摂関政治が生まれた、と言う説が一般的。確かに源氏物語などにはその様子が描かれている。光源氏は臣籍降下しているから良いとして、はて、天皇も夜な夜な女性の家(例えば藤原摂関家)を訪ねたのだろうか?警備はどうしたの?それなりの数の警備の人を従えていただろうが、その人達は一晩どこで明かしたのだろうか?
平安後期には「婿取り婚」から「嫁取り婚」に変化して、それが摂関政治から院政への転換に関係している(父系が強くなった)との事だが、時間的にはそのような変遷があったとして、空間的に見て、貴族社会では「婿取り婚」でも同時代の一般大衆はどうだったのか?農民などは嫁は大事な労働力であって、是非来てもらいたい対象だったのではないか?生まれた子供にしても、嫁の家で幼い頃を育て、元服したら父の家に行くというのでは労働力を奪われる嫁の家は納得しないだろう。
貴族社会だけが「婿取り婚」だったとしたらそれは何故なのか?地方豪族の婚姻形態はどうだったのだろうか?