2022年12月31日土曜日

ご挨拶

 島根日日新聞に毎週火曜日掲載しているコラム「トライアングル」の内容を、五日遅れの土曜日にこのブログに掲載します。島根日日新聞をご購読頂けると嬉しいのですが、遠隔地にお住いの方にはこのブログをご笑覧頂ければと思います。

「不思議生活」とは日々「不思議だなあ」と思う事を書き留めておこうとの主旨です。

例えば・・・・

先日「空白の日本史」(本郷和人著、扶桑社新書)の「第7章 日本史の恋愛事情--女性史の空白」を読んで不思議に思った事。

平安時代の婚姻形式は「婿取り婚」(招婿婚とも)と言って、男性が女性の家を訪ねて夫婦生活を営む形式だった。生まれた子は母親の実家で育てられ、それが外戚の力の源泉となり、摂関政治が生まれた、と言う説が一般的。確かに源氏物語などにはその様子が描かれている。光源氏は臣籍降下しているから良いとして、はて、天皇も夜な夜な女性の家(例えば藤原摂関家)を訪ねたのだろうか?警備はどうしたの?それなりの数の警備の人を従えていただろうが、その人達は一晩どこで明かしたのだろうか?

平安後期には「婿取り婚」から「嫁取り婚」に変化して、それが摂関政治から院政への転換に関係している(父系が強くなった)との事だが、時間的にはそのような変遷があったとして、空間的に見て、貴族社会では「婿取り婚」でも同時代の一般大衆はどうだったのか?農民などは嫁は大事な労働力であって、是非来てもらいたい対象だったのではないか?生まれた子供にしても、嫁の家で幼い頃を育て、元服したら父の家に行くというのでは労働力を奪われる嫁の家は納得しないだろう。

貴族社会だけが「婿取り婚」だったとしたらそれは何故なのか?地方豪族の婚姻形態はどうだったのだろうか?

2022年12月27日火曜日

この一年:トライアングル第798回

 今年は何と言ってもウクライナ戦争の年として後世に記録されるに違いない。今年出会った一番の本も映画もそれに関連したものだった。

友人と呉の大和ミュージアムへ行く機会があり、その縁で読んだ「戦艦大和の最期」。文語調の語りが当時の青年将校の心意気を良く表していたが、読み進めるうち当時の軍上層部に対する怒りが沸々と湧いてきた。彼らは一体本気で勝つ気があったのか。前線で戦う兵士からの武器や兵器の改良に関する提案に耳を貸すどころか、武器兵器への不満を漏らすのは精神がたるんでいる証拠だと怒鳴って、一層厳しい訓練を要求する。その訓練も「想えば無用にして甘き訓練の反復なりき」と著者は述懐する。遠くにある静止した風船を撃つ訓練では飛び回る飛行機を撃ち落とす役には立たなかったからだ。そんな人達に国の命運を託していたとは。

映画は「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」、1930年代の旧ソ連を描いた映画だ。大恐慌に苦しむ西側諸国を尻目にソ連だけが経済的繁栄を享受しているとの報に疑問を抱いたイギリスのジャーナリストがウクライナに潜入する。そこで目にしたのは飢えに苦しみ、馬糞を食べ、死んだばかりの兄弟の肉を食う民衆の姿だった。スターリンは外貨獲得のため、ウクライナの穀物を強制的に徴収し輸出に回していたのだ。プーチンのウクライナ侵攻がハンガリー動乱やプラハの春のように行かなかったのは時代背景の違いもあろうが、その時の記憶がまだウクライナの人々の心に残っているからではないか。

国家とは人々の幸せに資する事だけにその存在意義があるのであって、国家が人々の不幸の元凶になるような事は絶対にあってはならないと強く思う。

年明けは十日からお目にかかります。皆様良い年をお迎え下さい。

2022年12月20日火曜日

国籍:トライアングル第797回

 先月の末頃、新聞の「プーチン氏露動員兵母らと懇談」という見出しが眼に入った。記事を読むと、ウクライナでの戦闘のため、ロシア軍の兵員補充として招集された動員兵の母親らとプーチン氏との懇談の様子が書かれていた。彼は「痛みを共有している」とは言いつつも、「人は必ず死ぬものだ」と述べたとか。そんな事、あんたに言われたくないよ。更に「ロシアでは年間約3万人が交通事故で死んでおり、アルコールでも同程度の死者が出ている」と語り、「重要なのはどのように生きたかだ」と言ったとか。こんな事を言う人をトップに持つ国民は可哀そうだ。

「重要なのはどのように生きたかだ」と言うのは要するに「国の為に死んで英雄になれ」と暗に言っている。そういえば似たような事を言う人がもう一人いた。ツィッター社を買収した大富豪のイーロン・マスク氏だ。彼はツィッター社の社員に対して「猛烈に働け」「死ぬ気で働け」と言い、それが出来なければ退社しろと迫った。驚いたのはそういう彼の姿勢を理解できると答えた日本人がかなりの割合でいた事だが、その人らはプーチン氏の姿勢にも理解を示すのだろうか。

二人に共通するのは自分の夢の実現のために他人も協力すべきだと言っている点だ。イーロン・マスク氏は親から財産を受け継いだ訳ではなく、彼自身が夢を追いかけ猛烈に働いて今の財産を築いたようだ。自分の夢のためなら命も懸けようが、他人の夢のためには死ねない。

だが、ツィッター社の場合は嫌なら会社を辞めればいいのだが、ロシア人はそれが出来ない。会社ならどこにも属さないプー太郎という選択肢もあるが、国の場合国籍を持たない訳にいかない。どの国にも属さずどの国からも自由である地球人という籍を国連が発行してくれないものか。

2022年12月13日火曜日

フェア:トライアングル第796回

 対クロアチア戦のPK対決での敗退は残念だった。最初に蹴った南野選手は見るからに緊張していて、実力が十分発揮できなかったようだ。PK戦ではどちらが先に蹴るか、先攻か後攻かに有利不利があるとされる。どちらもそれぞれにそれなりのプレッシャーがあるのだろうが、もし本当に有利不利があるのならなんらかの改善が必要ではないか。

例えば双方が交互に先後を交代するのはどうか。一回目はAチームが先に蹴ったのなら、二回目はBチームが先に蹴る、という風に。つまり最初一回蹴った後は一つのチームが二回ずつ蹴って行く訳だ。実はこのアイデアはテニスのタイ・ブレークからの発想だ。一人が一回サーブをした後は、それぞれが二回ずつ交互にサーブをする事によって、有利なサーブをどちらが先にやるか、先後の差を限りなく薄くしている。

スポーツに限らず全てのゲームは、状況によって一方が有利になるような事のないようにフェアなルールでなければならない。なのに一向に改善されないゲームがある。将棋だ。統計上先手の勝率が明らかに高い事が示されているのに、後手の不利さを補完する仕組みが考え出されない。弊害が一番如実に表れるのはタイトル戦七番勝負で、全局先手が勝って43敗で決着がつくことがある。こうなると実力を争っているのか、振り駒の運を争っているのか分からなくなってしまう。テニスではサーブをする側が有利だから、一度でも相手のサーブを破らないと勝てないルールになっている。将棋でも一度は後手番で勝たないといけないようにすべきだと思う。先の竜王戦では六局の内、五局を先手番が勝利し、後手で一度勝った藤井竜王が42敗で防衛した。

クロアチアはブラジルにも勝った。彼等のユニフォームを良く見ると、胸に相手チームの国旗を付けている。

「いいね」。

2022年12月6日火曜日

歴史を変える:トライアングル第795回

 中国国内でもサッカーW杯が多くの人の注目を浴びていると前回推測したが、実際その通りのようでCCTV(中国中央広播電視総台)の「スポーツ専門チャンネル」では今回のW杯の全試合を中継しているそうだ。そして「ドーハのサッカー競技場は中国企業が造った」「試合球も選手や審判のユニフォームも中国製」などと宣伝しているとか。しかし、そこで写し出される観客席の様子が波紋を呼んだ。

共産党政府は今でもゼロコロナ政策を継続し、一人でも陽性者が出たらそのビルを全面封鎖するなど厳しい行動制限を課している。ところがどうだ、テレビを見るとスタジアムに大勢の人が集まりマスクもせずに大騒ぎしているではないか。自由を縛られる事に耐えられなくなった人々がついに声を挙げた。不注意な事を書いて当局に拘束されないよう、白紙の紙を手に掲げ、多くの人がデモに集まったのだ。彼等の本音は少し前に北京の歩道橋に一人の男が吊るした横断幕に書かれていた。「不要核酸 要吃飯(PCR検査は要らない 飯が欲しい)」や「不要領袖 要選票(偉大な指導者は要らない 選挙用紙が欲しい)」等、最後には「罷免独裁国賊習近平」とも。

中国の歴史は民衆の不満が爆発した乱による王朝の交代の歴史でもある。後漢末の黄巾の乱、唐末の黄巣の乱、元末の紅巾の乱、清末の白蓮教の乱。そして今回の「白紙の乱」はまた中国の歴史を変えるのだろうか。

一方日本ではサッカー界の歴史を変えると言っている。ベスト8を目指すと言っているが、メキシコ五輪での銅メダルが話題にならないのは何故か。歴史を変えると言うのなら優勝が準優勝しかないだろう。決勝トーナメントではクロアチアを下し、ブラジル、アルゼンチンを連破して決勝で再びスペインと雌雄を決しようではないか。

2022年11月29日火曜日

サッカーW杯:トライアングル第794回

 W杯初戦のドイツ戦の逆転勝利は見事だった。ゴールを決めた二人の選手に脚光が当たるのは当然として、あの勝利に貢献した最大の立役者はドイツの猛攻を何度も凌いだGKの権田選手だったと私は思う。彼に最大の拍手を送りたい。

選手の活躍を見るのは嬉しい事だが、フィールドと観客の間にある広告の掲示を見るとちょっと淋しい。かつてはTOYOTACANONの文字が躍っていたその場所に、今回は日本の企業の名前が全くない。中国からは海信、万達、蒙牛の三社、韓国からは起亜、現代の二社の名前が見える。韓国の企業は世界市場を睨んでいるのかアルファベット表記だけだが、中国の企業は漢字表記も交えている。漢字を読めるのは日本と台湾と中国くらいしかないだろうから、この広告は国内の顧客向けに発せられていると考えるべきか。中国はチームが出場していないが、それでも多くの人がこの大会に注目しているという事なのだろう。

今大会から各種判定に最新技術が応用される事も話題になっている。実際攻撃側の選手の肩が、守備側選手の足先よりほんのわずか前に出ていた事でオフサイドの判定がなされた例もあった。そういう事が出来るなら各種データが綿密に取られているはずだ。選手の靴底に埋め込まれたICチップで各選手が何m走ったか等も把握されているだろう。そうしたデータをどうして公開しないのだろう。テニスの試合ではセットの合間にサーブの確率など両選手のパフォーマンスデータが表示される。サッカーだって、ハーフタイムの時間に両チームのデータを表示して欲しい。シュートの総数と枠内の数、コーナーキックやフリーキックやファウルやパスインターセプトの数、選手毎の走行距離を多い方から順に、など観戦をより楽しくするためのデータはいくらでもあるはずだ。

2022年11月22日火曜日

秋の深まり:トライアングル第793回

 勤労感謝の日が近づくと流石に秋の深まりが感じられる今日この頃である。今年は10月の下旬から穏やかな小春日和が続き、紅葉も少し足踏みかと思ったが鰐淵寺は今頃紅葉狩りの人で一杯なのだろう。

暑かった夏が終わり、次第に日が短くなるにつれて木々の葉が色を変え落葉し、次に来る冬の寒さが徐々に実感として身に沁みるようになる感覚は「深まる」という言葉がぴったり当てはまる。「高み」から「深み」へ、「高揚」から「落ち着き」へという方向感覚が「深み」という言葉に良く合致するからだと思う。

だから「春が深まる」という表現には非常な違和感があった。春という季節は基本的に上昇志向で、これから隆盛に向かう気分が「深み」という語感に馴染まない。「春爛漫」という浮き立つような言葉こそ、そうした春の気分によく似あう。

ある小説を読んでいて次の表現に出会った。「春も次第次第に深まり、これで色づきはじめた桜のつぼみがほころんで、そして一夜の雨風に散ってしまえば、あとはただ濃い緑と輝く日差しの初夏へと移り変わって行くばかりだ。」これから夏に向かって行くのが淋しいとでも言っているかのようだ。こんな日本語はおかしいのではないかと思って、周りの友人の意見を聞くと、多くの人が「春が深まる事はないと思う」と言う意見だった。

ただ、これを書いたのは柴田翔、芥川賞を取ってドイツへ留学し、東大文学部の学部長まで務めた人だ。まさかそんな人が間違いはすまいと思っていろいろ調べると「春深し」という季語がちゃんとあるらしい。「春深し妻と愁ひを異にして」(安住敦)などの作例が紹介されていた。

ついでに調べると、冬も夏も深まるものらしい。冬は一番厳しい頃、夏は終わりの頃を言うとの事だった。

2022年11月15日火曜日

3億円の箱:トライアングル第792回

 鳥取県が倉吉市に建設を予定している県立美術館の目玉として購入したアンディ・ウォホールの作品が「3億円の箱」として話題になっている。ポップ・アートの傑作かどうか知らないが、見た目には何の変哲もないただの箱に見える。それを1個約六千万円で5個買おうというのだから異論が出るのも頷ける。反対するのはウォホールを知らないからだという意見があったが、ウォホールの名の前に無批判盲目的にひれ伏すというのも美術鑑賞の姿勢として如何なものか。しかもウォホールが作ったのはその内の一つだけだと言うではないか。

元々、美術品を買うという行為はある種の道楽で、苦労の末成功し財を成した人がやる事だと思っている。足立美術館や根津美術館、山種美術館などが道楽として自分の責任において購入作品を決め、それが無駄使いになろうがある意味勝手だが、自治体がやる場合は注意が必要だ。美術教育の意味合いや、県民に潤いの場を提供するという目的があるにしろ、税金の無駄使いと後ろ指をさされないためには、作品の購入に当たって一定の基準を設けるべきではないだろうか。

例えば、地元出身の美術家や地元にゆかりのある人の作品を優先するとか。長谷川利行や村山槐多は絵具を買うお金にも不自由していたそうだが、そんな時彼等の出身地の美術館が作品を買い上げればもっと良い作品を残したかも知れない。松本竣介は松江にも住んだ事があって、松江市で彼の作品を鑑賞する機会があればと思うのに彼の作品の多くは岩手県立美術館にある。

平井知事は「シャガールとかルノアールとかなら県民の理解が得やすいだろうが、それは何十億、何百億になる」と仰ったとか。そんなビッグ・ネームに頼っている内は、知恵と工夫が足りないと言われても仕方ない気がする。

2022年11月8日火曜日

出雲弁に誇りを:トライアングル第791回

 もっと出雲弁に誇りを持つべきだという事を教えてくれたのは「はやす」という言葉だった。「キュウリやスイカをはやす」の「はやす」を辞書で引いて驚いた。その漢字が「生やす」だと言うのだ。「切る」という意味に「生」の字を使うとは。忌み言葉を嫌う京都のお公家さんの考えそうな事だ。広辞苑には例文として保元物語「其の後は御爪をもはやさず、御髪もそらせ給はで・・・」(爪も切らず、髪もそらないで)崇徳上皇が怨念をたぎらせる様子を描く部分が引用されている。

現在の日本で「切る」という意味で「はやす」という言葉を使っているのは出雲地方だけではないだろうか。中世の由緒正しい日本語が今も残っているという意味で、出雲弁は大切で誇りにすべきものではないか。そう思って色々辞書を引くと、我々が出雲弁だとばかり思っている言葉が実は由緒正しいものだという例が沢山見つかる。

母がよくこぼしていた「けんべき」は「痃癖・肩癖」という立派な字を持っていて、意味もちゃんと「肩こり」の事だと書いてある。「その服、かいさめだねか」の「かいさめ」は「反様(かいさま)」で、「カイサマに着物を着る」の用例が載っている。「かいしきえけだった」の「かいしき」は「皆式・皆色」だし、これはないだろうと思っていた「はばしい」もちゃんと「幅しい」として日本国語大事典に載っていた。

出雲弁に誇りを持つための一つの方法は、その言葉を漢字にしたらどうかを考える事ではないか。「えしこ」「わりしこ」の「しこ」は「趣向」ではないかと思っているのだが、どうだろうか。

(注。日本国語大事典によれば「はやす」を「切る」の意味で使っているのは、青森から新潟、静岡、長崎対馬に至るまで全国各地で見られるそうです。訂正します。)

2022年11月1日火曜日

か、かかーか:トライアングル第790回

 ハデバやシシシなど懐かしい風景がなくなったのも寂しいが、方言を聞く機会が減ったのも寂しい。石川啄木は「ふるさとの訛りなつかし」と詠った。あの頃だと上野駅の東北線ホームに行けば懐かしい訛りが聞けたのだろうか。ならば京都駅の山陰線ホームに行けば出雲弁が聞けたのか。最近は地元に帰っても出雲弁がなかなか聞こえない

スーパーでレジを打っているおばさんが標準語で話すのは店から指導もあるだろうから仕方ないとして、還暦の同窓会で同窓生のおばさんが「そげだわね」でなく「そうなのよ」なんて言うのを聞くとシラケてしまう。不必要なまでに方言を使うのも如何かと思うが、懐かしい場面では方言の持つ温かみが欲しい

そんな訳で東京近辺に住む高校同窓生のメーリングリストでは「こぎゃん出雲弁知っちょーか」という話題で盛り上がった。私が出した「か、かかーか」は結構難問だったようで、「さ、なんかい?」という質問が多数あったが、古ぼけたラジオを指差して「か、かかーか」「えんやめげちょーが」という文脈なら皆納得してくれた。

「これは」の「か」と疑問の「か」を組み合わせると、「か」だけでかなりの表現が出来る。これに「母さん」の「かかー」を追加して、ある友人は「かかー、かかか」という文を作った。両手で小さな虫をパチンと殺して、そばにいる母さんに示している情景が浮かぶ。

もっと傑作は、奥さんと車の購入について話し合った時の事を表現した「かかー、かーかーか」という文だ。漢字仮名交じり文で書けば「嬶ー、car買ーか?」になるのは言うまでもない。英語まで出すのは若干邪道気味かな。

方言が聞かれなくなったのは何故だろう。中国の少数民族は必至で自分らの言葉を守ろうとしているのに。出雲弁に誇りを!

2022年10月25日火曜日

ハデバ:トライアングル第789回

 秋になった。田んぼの稲刈りはもう終わったのだろうか。昔なら実りの秋の象徴としてハデバがあちこちに見られただろうに、あの懐かしい風景はどこへ行ったか。

高校同級生のメーリングリストが方言で盛り上がり、自然と「シシシ」や「ハデバ」に話題が広がった。丁度その頃私の住む幸手市の郷土資料館では大正・昭和初期の懐かしい風景を集めた写真展があり、農家の庭先に袴のように稲わらをぶら下げた木の写真を見た。聞けば「木吊るし」と言ってこの地方の原風景なのだとか。ここから稲わらを引っこ抜いては利用した、と言うから埼玉版の「シシシ」と言えようか。脱穀前の稲を乾かすためには、腰の高さに水平に渡した一本の竹に稲束を架けていたそうで、それは「ハンデン」とか「ノロシ」と呼ばれたらしい。

収穫後の稲の処置に関しては各地方毎に様々な知恵や工夫があって、それを調べたらきっと面白い結果が得られると思うが、それにしても出雲地方の「ハデバ」の技術と創造性は大いに誇って良いと思う。あんなに高い構造物を作るに至った経緯は何だろうか。危険を冒してまで毎年解体と構築の手間を惜しまないメリットは一体何だったか。

太陽の恵みを一杯に受けるため、という説もあるがもしそうなら魚の天日干しのように水平に並べた方がずっと良い。あれだけ高効率に貯蔵するのは地面を空けておきたかったからとしか思えない。実際ハデバが設置されるのは道路のすぐ脇、田んぼの端っこで、決して田んぼの真ん中には作られない。田んぼの土地を空けて、他の作物を作る、例えば二毛作がしたかったのだろうか。

ハデバに関しては不思議な事だらけだ。昔の狭い道をどうやってハデギを運んだか等。何らかの情報をお持ちの方、ご一報頂ければ幸いです。

2022年10月18日火曜日

もしかしたら:トライアングル第788回

 コロナの話題がすっかり減った。それでも最近の新規感染者数はかつて第一波で緊急事態宣言が出た頃の何十倍にもなる。グラフを見ても第一波の山は余りに低くてどこにあるのか分からないくらいだ。あの頃の騒ぎは一体何だったのか。

とまれ、社会が普通の姿を取り戻すのはありがたい事だ。そんな中、政府が観光業界を支援しようと始めた全国旅行支援の対象となる旅行予約で売り切れが続出しているらしい。市場で行われる通常の経済活動に変な横槍を入れて介入すれば混乱が起きるのは当然だ。

「売り切れ」という言葉に旧ソ連で「もしかしたら」という意味の「アボーシカ」と呼ばれる買物袋を女性が外出の際いつも持ち歩いていたという話を思い出した。街を歩いていてもしかしたら何か売り出しがあるかも知れない。その時はすぐに行列に並んで買えるように袋は必携の品だったのだ。サイズの合わない衣類でも兎に角買って仲間で融通し合ったとか。計画経済で流通が政府の管理下にあるとすぐに物が売り切れになったという話。

かつて日本は最も成功した共産国家だと揶揄された事がある。昨今共産国家の悪い面をよく目にするような気がしてならない。

小中学校で生徒に配られるデジタル端末の破損が相次ぎ、自治体の負担が急増しているそうだ。個人所有のパソコンやタブレットがそんなにしょっちゅう壊れる事はないように思うが、自分の物じゃないと思うと扱いが粗末になるのだろう。中共で集団農場を始めた時、家畜が全て集団の管理下に置かれる事を知った農民が取り上げられる前に家畜を全部食べてしまった話を思い出す。

考えて見れば補助金のばらまきも多分に共産国家的発想だ。もしかしたら日本はかつてソ連が経済的に行き詰まったのと同じ道を歩んでいるのではあるまいか。

2022年10月11日火曜日

世襲:トライアングル第787回

 人の意見を聞き、よく検討する事を旨とする岸田総理が今度はどうしたのだろう。ご子息の首相秘書官就任では身内の自民党からも異論が出ているらしい。人の意見を聞いて慎重に事を運ぶ事に根回しは入っていないのか。

国葬の時もそうだった。自民党本部に設けた献花台に長い行列が出来たのを見て国葬の実施を決定したのだそうだが、老練な政治家なら公言する前に派閥の若手の口からでも「国葬」を話題に出し、観測気球を上げて世間の反応を見たりしそうなものだ。

果敢に実行すべき事には熟慮検討し、慎重に事を運ぶべき時に猪突猛進するようなそんな感じがなきにしも非ず。「息子を総理秘書官にして経験を積ませようということ」という観測もあるが、修行なら私設秘書官でやって欲しい。国庫から高額の給与を支払うのは十分な職務遂行能力のある人にして欲しいと納税者の一人として思う。

以下は前回と同じ「北条氏の時代」からの受売りになるが、名執権を出し続けた北条氏も単純な世襲ではなかったそうだ。そもそも義時は一時江間義時を名乗り、時政は牧の方との間に生まれた政範に北条家を継がせるつもりだった。泰時は母の出自が悪く名越朝時が本命視されていたし、時頼は次男で、泰時は長男の経時に帝王学を学ばせた、と言った具合。いずれも名執権は実力でのし上がっている。時宗は苦労もなくなるべくしてなった執権だったが、その暗愚さが元寇を招いたのではないかというのが著者の説だった。賢く対応すれば蒙古襲来はなかったはずだと。

中世でも藤原摂関家への道筋を作った良房、基経の二代は実の親子ではなく、良房が優秀な基経をスカウトして養子にしているし、道長は五男で本来なら目のない立場だった。

安易な世襲は危ないと歴史が言っているような気がする。

2022年10月4日火曜日

寄進:トライアングル第786回

鎌倉時代の事をもっと知りたくて手の取った本の中で印象に残っている一つが「北条氏の時代」本郷和人著だ。大河ドラマの方は恐らく北条義時が他界すれば終わるのだろうが、その跡を継いだ泰時も中々の人物だったようだ。その泰時が明恵上人と出会うのは承久の乱がきっかけだが、果たして大河ドラマでその出会いも描かれるのかどうか。

今回敢えてこの本を紹介しようと思ったのは、昨今話題になっている宗教と寄進について興味深い話が沢山載っていたからである。

明恵に帰依する泰時が高山寺に荘園を寄付しようと申し出るが、明恵は「私たちの縁は財や金銭とは無縁です」と断る。短歌でその気持ちを伝えた明恵に泰時も「そう言わずに受け取って下さい」と短歌で返し、最後に明恵が「紙を継ぐ続飯もなにかほしからむ きよき心は空にこそ住め」と返すやり取りが紹介されている。

他にも似たような話が沢山あり、泰時の弟である極楽寺重時が子供たちに残した家訓である極楽寺殿御消息の第62条には「堂塔を建て、親や祖父の仏事をする時に、ほんの少しでも他人から金品を徴収してはならない。仏事の事で間違った事があっては、神仏が喜ばれないのは理の当然である。」とあるとか。内大臣の徳大寺実基は後嵯峨上皇に「神は人の信と徳は受け取って下さいますが、真心のこもっていない供え物は受け取りません」と献策したとか。旧統一教会に聞かせたい話が満載だ。

また地頭の上原敦広と僧の信瑞の問答を集めた広疑瑞決集(広の疑問に瑞が決す)にも民から搾り取った年貢で寺や仏像を作る是非についての問いに「どんな供物も民を苦しめた結果なら仏は喜ばない。まず民をいたわりなさい。それが仏への帰依になる」と書かれているらしい。 

2022年9月27日火曜日

背広:トライアングル第785回

 プーチン大統領がウクライナでの戦闘に予備役の動員も考えていると言った。本人は立派な背広を着て空調の効いている部屋で豪華な調度品を背にしてのたまっている。戦争の現場で泥と埃と汗にまみれ、暑さ寒さを感じる間もない環境で必死に命を繋いでいる人が見たらどう思うのだろうか。これから招集される人達だって釈然としないものがあるのではないか。せめて軍服に身を包み、薄暗い地下壕でここ数日お風呂に入っていないような感じで訴えれば兵士の士気も上がるかも知れないが。

薄暗いと言えば最近のニュースには「省エネのため照明を落として放映しています。」というメッセージが表示される。それでも画面は決して暗い訳ではなく、十分識別できる明るさがあるから、ウクライナ戦争が終わってエネルギー問題が改善した後も、経費節減の観点からこの程度の照明を維持して貰いたいものだ。むしろ「省エネのため」というのなら空調を落としたらどうか。男性アナウンサーは皆長袖の背広を着ている。それでも我慢できるというのは空調の設定温度が相当低くなっているに違いない。照明より空調の方が遥かに省エネ効果は高い。男性は全て半袖のワイシャツかポロシャツで丁度良いくらいの温度にすべきだろう。背広を着ていないからといってそれを不快に思う視聴者はいないと思う。

そもそもニュース番組にアナウンサーが必要なのか。最近時々AIによる合成音声でニュースが読み上げられる時がある。これも殆ど違和感がない。人間が原稿を読む事にどういう意味があるのか。AIなら読み間違えもしないだろう。ニュースのスタジオから人がいなくなれば空調の必要もなくなり、節電効果は一層上がる。今は花形の女子アナもテニスの線審のような宿命にあるのだろうか。

2022年9月20日火曜日

大河ドラマ:トライアングル第784回

 日本の大河ドラマも面白いが、中国にも似たようなものがあるようだ。日本以上に長くて多彩な歴史を持つのだから題材も山ほどあるに違いない。某有料チャネルでは「太秦賦」と題する連続ドラマが毎週放映され先日の最終話第78話で幕を閉じた。秦の始皇帝が天下統一をする話で、彼が趙で人質として過ごした幼少時代から始まって、斉を滅ぼして統一を完成するまでの内容だった。後に秦を破滅に追い込む趙高も既に出ていて、彼がどのように発言権を高めていったのか注目していたが、その前に終わってしまったのは残念だった。

中国の歴史に関しては陳舜臣の本などである程度予備知識があるが、自分の知っている事と違う視点で描かれているとまた新鮮な気持ちになる。例えば韓非が殺されるのは李斯がその才を妬んで始皇帝に陰口を言ったからだと思っていたが、ドラマでの李斯はそんなケチな男ではなかった。自分の国である韓を滅ぼされたくない韓非がスパイまがいの事をやったため、始皇帝はその才を惜しみながら泣く泣く処分した、という描き方だった。民の幸せのためには天下を統一して戦のない世を作る必要があり、韓がどうの趙がどうの魏がどうのなどと言うなという訳だ。

従来なら民を万里の長城の建設に駆り出したり焚書坑儒をやったり残忍な暴君としての側面だけ強調される始皇帝だが、このドラマでは威風堂々とした風格、高邁な志を持ち、凛々しく英明で民を思う名君として描かれる。朝議では臣下に自由に意見を述べさせ、最終決定は英邁な君主が自分の責任で独断する。それが中国式民主主義だとでも言わんばかりだった。民主主義とは意思決定の過程が大事なのではなく、政策が民の為になっているかどうかこそが問題だ、という中国政府の立場を代弁しているのだろう。

2022年9月13日火曜日

鎌倉幕府:トライアングル第783回

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を楽しみに見ている。鎌倉時代については司馬遼太郎があまり書いてくれなかったせいもあり知識が殆どなかったが、色々本を読むと大変スリリングな時代だった事が分かる。魑魅魍魎が跋扈する鎌倉の舞台を無事泳ぎ切るのはさぞ大変な事だったろう。そもそも北条氏は三浦氏、千葉氏、比企氏などに比べてうんと弱小な家だったらしいから、その家から頼朝の妻を出したというだけの縁でのし上がっていくのは相当の力量があった証拠だ。

だがそこで思うのは、もし北条義時が戦国時代に生まれていたら、一国を乗っ取り、さらに国を広げていく事が出来ただろうか、という事だ。戦国時代の大名には軍事力の他に国を治め国を富ます経済的センスが求められた。信玄堤による治水や農地開拓、楽市楽座による経済の活性化など。権謀術数に長けているだけでは戦国時代は生き残れない気がする。

そしてまた思うのは、もし頼朝ではなく甲斐源氏や摂津源氏が勝利し、彼等が朝廷との交渉の窓口を担う事になっていたら、鎌倉であれほど激しい主導権争いが起きていただろうか。自分等が天下の中心にいる立場にはなく、ただ従うだけの存在であったなら、仲間同志で殺し合う事までしなくて済んだのではないか。

そしてそして最後に思うのは、もし岸田首相が鎌倉幕府の一員だったらあの権謀術数の海を泳ぎ切れたのだろうか。とても否定的に思える。もしあの人が鎌倉幕府でトップを目指そうものならすぐにも寝首を掻かれただろう。国葬の問題にしろ、コロナの全数把握にしろ、その意思決定と合意形成は余りに稚拙だ。国民の多数が賛同しない国葬への参加を躊躇う外国要人も出るのではないか。イギリスの国葬との対比において日本の恥となるような事のない事を祈る。

2022年9月6日火曜日

負け方:トライアングル第782回

 セレナ・ウィリアムスの最後の試合になるかも知れない試合を見逃す訳にはいかなかった。今大会第二シードの選手に競り勝った時にはまだまだと思わせたが、やはりもうすぐ満41歳という年齢のせいか、三回戦で力尽きた。それでもセットを一つ奪い、最後も5回のマッチポイントをしのぐ頑張りには心から拍手を送りたかった。最後の最後まで勝利を決して諦めず全力を尽くす執念を見ると、スポーツの世界には潔い負けというのは理論上存在し得ないのかと思う。

というのはその前にNHKの将棋トーナメントで潔い負けを見ていたからだ。最終盤、相手玉が詰むか詰まないかの局面になった。長手数の詰みがあるかどうか、解説者も頭をひねる。王手を続けて相手の間違いを期待するのも一つの戦術であったろうが、それは相手方に失礼だと思ったのか、大長考の末出口六段が指したのは受けの手だった。相手玉に詰みがない事を読み切ったのだろう。そして相手の次の一手で投了したのだった。実に潔い負け方だった。

同じ日に放送された囲碁の方は、潔さそうで疑問が残った。AIの勝率予想では2%と苦戦が続く後手。しかし大きな石が取られた訳でもなく、盤面は微差らしい。AIは間違いをしないという前提で勝率をはじくから数字上2%でも小さなミスで数目程度はひっくり返る。ヨセを打ち進め、後は駄目詰めかと言う段になって突然投了してしまった。プロなら読み切れる一目二目の差だろうが、素人はそれを知りたい。あそこまで打ったのなら恥を忍んで並べて欲しかった。

さて、スポーツは戦争を模擬したものと言われる。スポーツに潔い負けが存在しないなら戦争にも潔い負けは存在しないのだろう。強いて挙げれば日露戦争の時のロシアはどうか。ウクライナでもロシアが潔い負け方をしてくれればよいのに。

2022年8月30日火曜日

宗教とお金:トライアングル第781回

 二人の宗教家がいたとする。一方はきらびやかで贅沢な服装をし、片方は質素で慎ましやかな服装をしていたらどちらをより偉大な宗教家と見なすだろうか。文鮮明とダライ・ラマを見比べて思いついた設問だ。金満家のイメージは宗教家に胡散臭さを感じさせる効果しかないように思える。イエスは粗末な布切れしか身に纏っていなかったろうし、釈迦は大金持ちの裕福な境遇を敢えて捨て苦行に身を投じた。

元々宗教とお金は縁遠いものの筈なのに、大きなお寺の本堂の中に入ると疑問が湧いて来る。そこでは天井から豪華な金の飾り物がぶら下がり、訪れた人を圧倒する。そもそもお寺の建物そのものが相当にお金の必要な規模と仕様で出来ている。そういえばお葬式にいらっしゃるお導師様の服装は決して質素なものばかりではない。時には金の刺繡の入った威風堂々としたお召し物の方もいらっしゃる。確かに乞食のようなみすぼらしい格好でお経を読まれても有難くないのかも知れない。いやいや、もしイエス本人が来てくれて、たとえ服装はみすぼらしくともその威厳に満ちた面持ちで故人の冥福を祈ってくれたなら、それが一番の供養になりそうだ。

要するに外見でごまかすのは自信のなさの表れではないか。教団を組織化し拡大しようとするのも同じメンタリティーによるものに思える。ミラノやケルンの大聖堂はよほど大きな教団組織を形成し、多くの寄進がなければ不可能だが、そういうことをイエスが望んでいたか甚だ疑問ではある。親鸞は教団の組織化には全く興味がなく「弟子は一人も持っていない」とか「私が死んだら遺体は鴨川に捨てて魚の餌にせよ」とか言ったと伝えられ、浄土真宗の今の隆盛は蓮如に負うところが大きい。東西本願寺の大伽藍を見たら恐らく親鸞は腰を抜かすに違いない。

2022年8月23日火曜日

二人の神様:トライアングル第780回

 811日の新聞は「大谷『神様』並んだ」と大谷の二刀流としての偉業達成を喜ぶ記事が紙面を飾った。日本人として仲間が本場で活躍する姿を見るのは嬉しいに決まっている。だがそこで、アメリカ人はどう感じているのかという思いがよぎった。

異国の選手が神様ベーブ・ルースと並ぶのを見るのは、立場を変えれば我々日本人にとって外国人力士が双葉山の記録と並ぶのを見るようなものだろう。狭量な私はそんな事にでもなれば気もそぞろになって、例えば白鵬の連勝記録が69に限りなく近づいたら彼が土俵で怪我をするとか、食当たりにでもなってくれないかと願ったりしたかも知れない。

大谷の10勝目が何度か足踏みしたのも、アメリカ人のそうした心理が影響したのではないかと邪推をしたが、どうやらそれは下衆の勘繰りに過ぎなかったようだ。1918年のルースの記録と、今年の大谷の10勝を上げた時点での記録を比較して面白い事に気が付いた。試合数は95107,勝利数は13勝と10勝、安打数は95102でほぼ同じ。だがホームラン数は11本と25本で倍以上も違う。そしてホームラン数がそれだけ違うにも拘らず、打点は両者とも66で同じだと言う事だ。つまり大谷が打席に立った時、塁が埋まっているケースが少なかった事を意味する。味方の援護の少なさを考えると大谷のより凄さを感じる。

もっとびっくりしたのはルースが盗塁を6個も決めている事だ(大谷は11個)。彼の生涯を描いた映画「夢を生きた男、ザ・ベーブ」では深酒も夜更しも当り前の不摂生で、相手チームからは風船野郎と野次られるほど太って、まともに走る事も出来ない選手として描かれていた。「我未だ木鶏たり得ず」と言った双葉山との対比を思ったが、実際はどうだったのだろうか。

2022年8月16日火曜日

思考停止:トライアングル第779回

「統一教会」のキーワードでグーグル検索をしてみて驚いた。地図が現れそこにおびただしい数の家庭教会の所在が図示される。こんな身近に活動拠点があったのか、と自らの不明を恥じた。そして関係のあった議員達の「そんな組織とは知りませんでした」とする臆面もない言い訳の白々しさを思った。

そもそも誰かが無料で何かをくれると言った時、普通の人ならどうするか。タダ程怖いものはない、とばかりにその申し出の背後を必死に探ろうとする筈だ。そして彼等の情報網を以てすれば容易にその正体は判明する筈だ。彼等は全て分かった上で、安倍さんとつながりのある団体なら大丈夫だろうと思考停止し、喜んで選挙協力を受け入れたと見るのが自然だ。

赤信号皆で渡れば怖くない的な身内優先型思考停止は大変危険だ。「統一教会と関係を持つ事の何が問題か分からない」という発言も出た。そんな事を言えば世間から反発を受ける事くらい分かりそうなものなのに敢えてそれを言ったのは派閥の受けを狙ったものとしか思えない。すなわち当該議員にとって国民の目より派閥の目の方が重要だったという事だ。ここにも身内論理優先の思考停止がある。派閥のトップとつながりがありさえすれば、彼等はオウム真理教であっても支援を受け入れたのだろうか。

それにしても岸さんや安倍さんは統一教会の理念・教義をどこまで知っていたのか。日本はエバ国でサタンの国であり、全てをアダムの国である韓国に捧げて当然なのだ、などという主張を知っていて、なおかつあれだけの関係を保っていたとなると、もうこれは私の理解を越えている。安倍さんがビデオメッセージを出したのはトランプ元大統領と歩調を合わせた結果らしい。とすると安倍さんも身内頼りの思考停止に陥っていたのだろうか。

2022年8月9日火曜日

神の言葉:トライアングル第778回

 人はどんな時に神の存在を意識するのだろうか。何か奇蹟を目の当たりにした時だろうか。神の声を聴いた時だろうか。神の声を聴いてアブラハムは我が子を捧げる決心をし、マホメッドは新しい宗教の開祖となった。山上容疑者の母上が多額の献金を決心したのも神の声を聴いたからだろうか。

私は神に何かお願いをする事はあっても、神から何かをしろと言われた事がない。恐らく「お前なんかに声を掛けても仕様がない」と相手にされていないだけなのだろう。だが、聴いた事はなくとも山上容疑者の母上が聴いたのが神の声ではなかった事だけは朧気ながら分かる。何故ならお金は俗世でしか意味を持たず、神が要求する筈もないからだ。

声を聴いた事はなくとも、神の存在を意識する事はある。数学の美しい式や定理を見た時だ。それは一種の奇蹟を見るに等しい。数学の最も基本となる01iとπとeの五つの数値が簡単な一つの式に納まっているオイラーの等式はその代表だ。映画にもなった「博士の愛した数式」でも紹介された。その単純さと完璧さは奇蹟としか思えない。

その他、全ての自然数を足し算で表した式の値が、全ての素数の掛け算で表した式の値に等しい、なんて言う式も不思議を通り越して感動を呼ぶ。ガウスの作図定理は「素数pがフェルマー素数の時、正p角形が定規とコンパスだけで作図できる。」と言うものだ。数字の議論が図形の議論とつながっているなんて神の仕業としか思えないではないか。

神が何かを語るとしたら屹度それは数学の言葉に違いない。残念ながら私はその言葉を理解するだけの能力がない。世の中には数学の難問に挑戦し数学を極めて、精神を病んだ人が沢山いる。ひょっとしたら彼等は神の声を聴き、自らを神に捧げたのだろうか。

2022年8月2日火曜日

神を信じる:トライアングル第777回

山上容疑者の母上は教団を信じて多額の財産を献金した。神を信じる者ならそんな事は序の口かも知れない。旧約聖書にはアブラハムが神の求めに従って大切な跡取り息子を生贄として捧げる話が書かれている。その息子はアブラハムが百歳にしてようやく授かっており、秀吉にとっての秀頼以上に可愛かったに違いない。因みにアブラハムには本妻サラが許した妾との間に最初の子がいた。子の出来ないサラが家系の維持のためしたことで、その子がアラブ人の起源となる。さて、本妻との間にようやく出来た嫡男イサクは父と一緒に祭壇作りを手伝わされ、まさか自分が生贄になるとは思わず「お父さん、たきぎと火はあるけど、肝心の子羊はどこにいるの?」と尋ねたりする。

アブラハムがそんな事をしたのは神の声を直接聞いたからだ。幸か不幸か、信心の深くない私に神が直接話しかける筈もなく、神を信じるか否かの厳しい試練に遭遇する事もない。ただ、何かを信じるか、と言われれば恐らく私は科学を信じている。各種の気象情報を元に科学が明日は雨になると予言すれば、それを信じて出かける時には傘を持参する。そしてもう一つ信じているものに「お金」がある。「一万円」と書かれた小さな紙切れは物を包むにも、鼻をかむにも、尻を拭くにも、燃やして暖を取るにも、殆ど役に立たないが、その魔力を信じて、それを得るためなら一日中汗水流して働く事を厭わない。実際その紙切れは、それを渡すと美味しい食事をくれたり、体をマッサージしてくれたりする。私以外の周りの人もその魔力を信じているからに違いない。

現代人がお金を信じあんな紙切れの為に右往左往するのを古代人が見たら不思議に思うだろう。丁度我々が人々を神が支配する中世キリスト教世界を不思議に思うように。 

2022年7月26日火曜日

センシュ防衛:トライアングル第776回

 某民放のニュース番組で先の参院選の総括をやっていた。保守的政党が票を伸ばした、としてそれらの党の政策を紹介する中で「この党は国防に関してセンシュ防衛を主張しています」という。ほう、保守系にしては珍しいなと思ってフリップを見るとそこには「先手防衛」と書いてあるではないか。「センシュ防衛」と言えば普通は「専守防衛」だろう。先手必勝とばかりに先に攻撃を仕掛けるような意味合いの「センシュ防衛」があるとは思ってもみなかった。

ウクライナ問題を契機に敵基地攻撃能力とか物騒な言葉が飛び交っている。机上の理想論だと笑われる事を覚悟で持論を言えば、須く軍隊とは自国の防衛に専念すべきで、決して国境を越えた行動はすべきではないと思っている。戦争とはある国の軍隊が他国の軍隊と接触して行われるのだから、軍隊が国境を越えない限り戦争は起こり得ない。

軍隊が国境を越えるのは三つのパターンがあって、自国の領土を拡大しようとする時、他国にいる自国民を保護しようとする時、他国民を圧政から助けようとする時。この内、最初のケースは言語同断で、こんな不埒な国から自国を守るため軍隊は必要だ。最後のケースはもうそういうお節介は止めた方が良い。アメリカがイラクの国民を解放しようとしたが結果は必ずしも好転しなかった。北朝鮮の国民も可哀そうだが自力で頑張ってもらうしかない。

一番やっかいなのは自国民の救済で、過去の戦争を見ると殆どの戦争がそれを口実に始まっている。戦争をなくす事を至上命題にするなら、自国民の保護は現地の警察にお願いするしかないのではないか。現地の警察が信頼できないような国とは付き合うべきではないし、それでも行きたければ各自が自己責任で行き、脱出するのも自己責任で。そうでもしなければ戦争はなくならない。

2022年7月19日火曜日

宗教:トライアングル第775回

 恥ずかしながら特定の宗教に深い敬虔な気持ちを抱いた事がなく、「神を信じる」という事が一体何を意味しているか未だに明解な答えを出せないでいるのだが、それでも一つだけ自らの行動の指針にしている事がある。それは、もし死後の世界があればそこでは屹度自分の人生をビデオに収めたものを繰り返し見せられるのではないか、と。人の道に悖るような事をして自分の醜い行いを何度も見せつけられるのは耐えられないから言動には気を付けよう、と言うのが私の宗教心と言えば言えるのかも知れない。

安倍元首相がもしあの世で犯人の供述を聞いたら、どう思うのだろうか。父と兄を自殺で失い、一番近くにいて欲しい母も宗教団体に盗られ、人生の可能性のかなり大きな部分を毀損してしまった境遇にいささかでも同情の念を持つだろうか。そして自分が旧統一教会との関係を疑われるきっかけとなったビデオレターにいささかでも後悔の気持ちを持つだろうか。我々下々と違ってどんな情報にもアクセスできる立場にいた人だから「まさかそんな団体とは知らなかった」とは言えない筈だ。

勿論、背景がどうあれ殺害は正当化できるはずもない。それは人が他人の人生を奪う事は絶対に許されないからだ。今回の犯人に私が同情してしまうのは、彼も人生を奪われた被害者の一人に見えるからだ。

宗教団体への献金は個人の自由意志でなされる事だから団体側に責任はない、という理屈は一応成り立つ。しかし自由意志には誇りが伴うはずで、堂々と公表されて然るべきだ。出雲大社の遷宮の折には献金者とその額が境内に張り出す形で公表された。自分の名前がその中にある事を献金者はその家族も含めて誇りに思った筈だ。献金の公表と誇りの有無が宗教団体のいかがわしさの有無に関係しているような気がする。

 

2022年7月12日火曜日

民主主義の危機:トライアングル第774回

安倍元首相が凶弾に倒れた。たまたま小杉隆著「世襲議員のからくり」という本を読んでいたのは何かの縁か。安倍氏に対する批判も書かれているが、今それには言及しない。ご冥福をお祈りすると共に、周りにいた人達に累が及ばなかった事をせめてもの救いとしたい。

政治家の暗殺事件と言えば、浅沼稲次郎氏が日比谷公会堂で刺殺された事件を思い出す。ラジオから流れる緊迫した声に大変な事が起きたのだと子供心に思ったものだ。あの時とは違い、万人がカメラマンになって様々な視聴者投稿画像が寄せられるが、しかし決定的瞬間が報じられないのは何故か。浅沼事件では犯人が刃物を脇腹に突き刺すまさにその瞬間が写真で報じられたのに。

今回、犯人が安倍氏の背後から銃を撃つ様子を捉えた動画が流れた。一発目の音に驚いた安倍氏が後ろを振り返り、犯人が再度狙いを定め二発目を撃つ、その瞬間で動画は止まってしまった。別の動画でも銃撃が致命傷を与える瞬間は巧妙にカットされていた。安倍氏が仰向けに横たわる写真も出たが、あちこちボカシだらけだ。まるで「ここまでは下々にも知らせて良い情報。これ以上はダメ」という検閲が入っているかのようだ。警察の会見でも「詳細は差し控えます」が当然のように頻発する。その情報を公にする事で支障が出るとも思えないような事柄でも。当然それらの情報にフルアクセスできる層がいる。

「由らしむべし、知らしむべからず」は民主主義の敵だ。情報の透明性こそ民主主義を支える一番の柱のはず。前述の「世襲議員のからくり」にはテレビ局に子女を入社させている政治家の名前が多数列記され、政界と報道の癒着が懸念されている。その癒着が情報の囲い込みを産んでいるとしたら、それこそ最大の民主主義の危機ではないか。

2022年7月5日火曜日

アンゲラ・メルケル:トライアングル第773回

 先日NHKでメルケルさんのドキュメンタリーを放送していた。トランプ前大統領に言及する時には決して「トランプさん」などとは呼ばないが、一国の前首相をさん付けで呼ぶなんて女性に対する偏見があるからではないか、とウーマン・リブの人達からは非難されそうだ。だが、そういう事に目くじらを立てないところにメルケルさんの真骨頂があると思う。今回は彼女の誠実さに対する親しみと敬愛の印しとしてお許し願う。

番組の白眉は2005年彼女が初めて首相に選ばれた時の記録映像だった。選挙前は野党だったメルケルさんが率いるCDUは第一党にはなったものの過半数は取れず、当時のシュレーダー首相が党首のSPDと連立を組む事になった。その時の交渉の様子が討論会としてテレビで公開されていたのだ。シュレーダー氏はメルケルさん(当時51歳)の経験不足を軽く見て「学校の生徒会じゃないんだから」と、連立政権の首相は俺に決まってるだろう、みたいな発言をした。女性に対する偏見が随所に垣間見られた。

ガラスの天井などを持ち出す人なら、こめかみに青筋を立てていきり立つだろう。だがメルケルさんは冷静に反論した。「まるで選挙で勝ったかのような発言にとても驚いてます。いいですか、選挙で第一党になったのは私たちの政党なんですよ。」と。その発言には「男だから、女だから」という発想は微塵もない。男女平等が当然の前提としてあるのだ。

あの後シュレーダー氏はあの映像が流れる度に赤面し、自己嫌悪に苛まれたに相違ない。

ジェンダー・フリーにしろLGBTQにしろ、差別をなくす一番の近道は、差別撤廃を声高に叫ぶ事より、差別のない事を前提に堂々とした態度で自分の考えを冷静に理路整然と述べる事にあるのではないかと思った次第。

2022年6月28日火曜日

NO MORE GUNS:トライアングル第772回

 ロシアが余計な事をやってくれたお陰で、軍事費を倍増すべしという声が既定路線のように語られる。そんな中、敢えて疑問を呈したい。

先月アメリカテキサス州の小学校で銃の乱射事件が起き、生徒19人と教諭2人が死亡した。世論の多数は銃規制の厳格化を訴え、街には「NO MORE GUNS」と書かれたプラカードが溢れた。だがそこでトランプ前大統領は言う、「学校の教師にも銃を持たせろ、武装させろ」と。力には力で対抗せよ、教師が武装しているとなればそれが抑止力となって乱射事件はなくなるだろう、という訳だ。銃を減らすのではなく、むしろ銃を増やせと。幸いその意見は少数派ではあるようだが。

私が疑問に思うのは、軍事費の倍増を主張する人がこのトランプ発言をどう思うかだ。軍拡による抑止力で敵国からの攻撃を未然に防ごうという発想は、教師に武装させて学外からの侵入を未然に防ごうと言うトランプ氏の発想と全く同じに見える。

人と国とでは違う、という意見もあるだろう。ならば聞きたい。人と国とは何がどう違うのか。人には許されない事が、国に許されるのは何故なのか。「一人を殺せば犯罪者だが百万人を殺せば英雄だ」という事を言われるが、正しくは「人の名で殺すのは犯罪だが国の名で殺せば英雄だ」と言うべきだろう。百万人殺しても人の名で行えば大罪人に変わりない。

本当に平和を希求するなら矢張「NO MORE GUNS」しかないのではないか。どうしても足りない部分を補うため単年度予算の増額ならともかく、毎年毎年GDP2%を軍備費に充てて、使いもしない武器を購入し続けてどうする。まさか、本気で使う気なのか。それでなくとも、いつか使いたくなる人が出てきたら困ってしまうではないか。

2022年6月21日火曜日

手書:トライアングル第772回

 今この原稿はパソコンのワープロソフトで書いている。文章を書く際にワープロを使うようになったのは約40年前の頃、ワープロ専用機が個人でも手の届く値段になり、10万円程度で購入した機械でブラインドタッチの練習をした事を思い出す。

ワープロを使いたいと思ったのは、考えている事を文字にするのにその方がずっと早いからだ。それに文章を組み立てるにしても、まずは言いたい事を思いつくまま箇条書きにして、それらの順番を前後させたり、接続詞を交えたり、コピー&ペーストで推敲できる。こんな芸当が出来るのもワープロならではだ。以後ちょっとしたメモや走り書きをする時以外にはペンや鉛筆を使わなくなった。

ところで標題の文字をどう読まれただろうか。「テガキ」と読んだ方が多いと思うが、実はその言葉は昭和44年(1969年)発行の広辞苑第三版には載っていない。それもそのはず、ワープロが一般化するまでは文章を綴るのは手で書くのが当り前だったのだから。広辞苑に載っている「手書」は「テカキ」と読んで、「巧みに字を書く人」と説明がある。

手元にある辞書を調べてみたら1982年発行の新明解国語辞典には「テカキ」と共に「テガキ」が現れ、2008年発行の三省堂国語辞典では「テガキ」のみで「テカキ」は消えていた。

「テガキ」なる言葉がいつ現れたのか日本国語大辞典で調べると、1970年の曽野綾子「傷ついた葦」と同じく1970年の倉橋由美子「夢の浮橋」の二つの用例が載っていた。一方の「テカキ」は720年の日本書紀に既に現れているというのだから、こちらは随分と由緒正しい。

今ワープロで「テカキ」と入力したら「手書きあれども文書きなし」の慣用句が変換候補の一番上に出た。ワープロを使った文書き目指して精進しようと思う。

2022年6月17日金曜日

聖徳記念絵画館

 聖徳記念絵画館へ行きました。

受付を通ってホールに入ると、そこは天井の高い大空間。誰もいなくて、まるで「ようこそ、お待ちしておりました」とでも言ってるかのよう。凄く気持ち良かった!!
中の展示は明治天皇の誕生から崩御まで、さまざまなシーンを日本画に納めたもの。うち一点は我が故郷雲州平田出身の小村大雲の作もあった。だけど、他の作家の解説には殆ど出身地の説明があったのに、この人だけはない。しかも英語の解説には「Dai-un Komura」とある。ううん、平田では「オムラ」と言ってるけどなあ・・・
日露戦争に勝って、樺太の北緯50度以南を領有した時、国境を示す標石を置いたが、その複製が前庭にあった。
皆さんも是非一度行ってみて下さい。きっと面白いよ。特に明治維新に興味のある方は。








2022年6月14日火曜日

健全なスポーツ:トライアングル第771回

 経済産業省がスポーツ賭博を合法化する方向で検討を進めているらしい。読売新聞は67日の一面トップでそれを報道し、「猛反発は必至」と断固反対の論調で紙面を埋めた。

賭けの対象としては野球やサッカー、バスケットボールなどが想定されているようだが、野球賭博と言えばかつて池永投手が追放された黒い霧事件を思い出してしまう。今ならさしずめ大谷翔平や佐々木朗希が追放されるかのようなショックだった。そんな賭博をどうして今頃また蒸し返そうと言うのか。推進派の言い分を聞いてみると、日本以外のG7先進国では既に合法化されていて、そこで行われている賭けに日本人が参加し相当金額が国外流出していると言う事情もあるらしいが、この議論を進めている経産省の「スポーツ産業室」という名前からして要するにスポーツを通じてなんとか金儲けをしたい、というのが本音のようだ。文科省のToToに対抗する形の金蔓が欲しいのだろう。

スポーツをお金にする事で一番成功したのはオリンピックだと思う。しかし本来スポーツはお金儲けとは縁遠い存在のはずだ。記事を読むと「健全なスポーツの育成」という言葉が出て来る。健全なスポーツとは何か。白血病と戦い、それを克服してメダルを目指す池江璃花子選手の鬼気迫る物語は感動を呼ぶが、しかし健全さとはもっとどこにでもあるような凡庸なすこやかさを持つものであって欲しい。初老の男女が健康と親睦のために週に何回かテニスを楽しむとか、中高生が部活として汗を流しその活動を通じて淡い恋心が芽生える、のような。

万事がお金で価値を測られる昨今の世の中にあって、せめてスポーツくらいはお金と無縁であって欲しいと、テニス愛好家の一人として思う次第であります。

2022年6月7日火曜日

当事者意識

それを見た時は開いた口が塞がらなかった。ワイドショーが山口県阿武町での住民説明会の様子を報じていた。プロジェクターで大きく映された説明資料には4630万円と書くべきところが460万円、520日のはずが420日と誤記されていた。枝葉末節の変換ミスならともかく、一番肝心要の箇所のあり得ないような間違いだ。連日の対応に心身をすり減らしていたと仮にしても、事件の経緯からしても考えられない不注意さだった。

この緊張感のなさはどこに原因があるのだろうか。この事件だけではない、持続化給付金を巡る詐欺事件にしても、コロナワクチンの使用期限が切れて大量の在庫が無駄になった問題にしても、公金を扱う役人の能天気さ無責任さが気になる。どうせ自分のお金ではないのだからと思ってないか。自分のお金なら送金する際に何度も相手の口座番号や金額を確認するだろう、自分のお金で買う薬なら発注に細心の注意を払うだろう。仮に間違っても自分の懐は痛まない、損失は公金で補填すれば良い等という安易な気持ちがミスや無駄を誘発しているとしか思えない。

こんな人達に財政を任せておいて大丈夫なのか。コロナやウクライナ戦争によるインフレ等への対策と称して、箍が外れたように国債が発行され、湯水のように給付金が垂れ流しされる。さらに国防費も国債発行で倍増されるらしい。本当に国家財政は大丈夫なのか。民間企業も先行投資の為に借金をするが、失敗したら首を括らねばならないという危機感が一定の歯止めになっている。国策を担当する人達にも、もし失敗したら職を辞する程度では済まない損を負う事になるという当事者意識を生む仕組みがないと、いつかこの国は破綻するのではないだろうか。

2022年5月31日火曜日

摘蕾

出雲の実家に帰る度に庭の草取りという苦行が待ち受けているが、五月の連休前後の帰郷は躑躅や芍薬の花がやさしく慰みを与えてくれる。今年は特に芍薬が沢山の蕾をつけていた。

十個以上はあったろう、あどけない無垢の少女のような蕾がいつ花開くのか楽しみにしていたが、ある日草刈りに芍薬の植わっている場所の南側に回ってみて驚いた。一つだけ南を向いていた茎の先に大輪の花が咲いていたからだ。他の多くの茎が真っ直ぐ上に、どちらかと言えば北向きに伸びていて、それらに隠れて部屋から眺めていた時には見えなかったのだ。

ほんのわずかの日当たりの違いだけでこんなにも成長に差が出るものなのか不思議に思ったが、よくよく見ると他の茎が複数の蕾をつけているのに対して、その茎は花が一つしかない。ネットで調べてみると「芍薬は1本の茎に1つの花を咲かせるのが一般的です。脇のつぼみは摘み取って頂点の花にエネルギーを集中させます。」との解説があった。そしてその作業を「摘蕾」と呼ぶのだという事もその時知った。

しかし、以下は私の個人的な感想に過ぎないが、折角花を咲かせようと生まれて来た蕾を摘み取ってしまうなんて可哀相でとても出来ない。花が咲くのが少し遅れてもいい、花の大きさが少し小さくてもいい、全ての蕾に公平にチャンスを与えてやるのが人情というものではないか。全体の為に個を犠牲にするという考えにはどうしても同意できない。かつてナチスは優生学を信奉し、より良い社会のためにと称して障害のある人を排除抹殺したが、そんな事は絶対に許してはいけない。

花開いたのを順次お墓にお供えして行ったが、帰省の最後の日には蕾のままのものも切り取ってお墓に供えた。その後立派な花を花立で咲かせてくれたと思う。

2022年5月24日火曜日

4630万円の謎

山口県阿武町の誤送金事件は腑に落ちない事だらけだが、マスコミ報道はそのどれにもまともに応えてくれない。

まずは送金を実行した銀行の過失を問う声がない。町が通常使っているフロッピーディスクではなく、紙の依頼書を送ったのがそもそもの原因だと言われる。紙の依頼書の場合、名簿の一番上の人に送金する事になっている、というのも信じ難い慣行ではある。その依頼書の実態が全然報道されないが、その書類には「生活困窮者に対する特別給付金」だというような標題はついていなかったのだろうか。もしそういう文字があったのなら、一人に送金する額として不自然である事は銀行の担当者ならすぐ分かった筈だ。実際に町は銀行からの指摘によって誤振込に気付いている。銀行から町への問い合わせが振込前に実行されていれば、誤送金は防げた筈だ。

支給対象の名簿も不思議だ。一番上がアイダとかならともかく、タグチが一番上になったのは何故か。よりにもよって最悪の人になってしまった。週刊紙によるとホームセンターの正社員として月25万円の給与を貰っている独身貴族が生活困窮者として支給対象名簿に名を連ねている事も不思議だがマスコミはそれを取り上げてくれない。

弁護士と相談した後も出金を続けているのを見ると弁護士がどんなアドバイスをしたのかも不思議だ。弁護士とは本来依頼者の利益の為に知恵を出す職業の筈だ。だとすれば、高々4630万円のために人生を棒に振るよりも、ホームセンターの正社員として正直に生きる方が遥かに本人の為になるという事を日本の司法制度に照らして説明すべきではなかったか。それともそれだけの常識や倫理感すらない人が弁護士を名乗って仕事しているのか。それがこの事件で一番ショックな事だった。

2022年5月17日火曜日

行進

 国際報道で流れた二つの行進の映像に注目した。

一つはモルドバで行われた対独戦戦勝記念のパレードの様子を報じたもの。吹奏楽の音楽隊が皆それぞれ独自の服装をしている。白いワイシャツ姿でトランペットを吹く人、黒いジャケットを着てトロンボーンを吹く人。その雑多な服装は全員が綺麗に揃った服を身にまとったモスクワでの行進と見事な対照をなしていた。

皆が同じ服装で一斉に同じ行動を取るという事に私はちょっとした恐怖を感じる。ナチスがそうだった、北朝鮮もそうだ。そこには「強制」「動員」といった裏側が透けて見える。全員が自発的に参加したものならその服装はバラバラになって当然だ。

物理学に乱雑さを示す指標としてエントロピーという概念がある。熱力学の第二法則はエントロピー増大の法則と言う。自然は放っておけば乱雑になる、と言うのだ。人間社会にも同じ法則が成り立ちそうだ。自由な社会は乱雑さを好む。民主主義はエントロピーを増大させるのだ。

もう一つの行進はアフガニスタンの政府の方針に抗議する女性のデモだった。タリバン政権の勧善懲悪省(こんな組織があること自体が驚きではあるが)が家族以外の男性の前では女性に顔を覆うことを義務化しようとしている事に対して女性が反対の声を上げた。ここで気になったのはデモ行進をしているのが全員女性で、男性が一人もいなかった事だ。

イスラム教では女性の美しさを公にしてはいけないらしい。イスラム教徒の女性はほとんどがスカーフで髪を隠しているのも髪が美しいからだ。これは女性の性的魅力を覆い控えめな見た目にして、性被害を避けることが目的だそうだが、アラブの男性達は美女の顔を見ただけで劣情を催すような存在であると思われている事に異論はないのだろうか。

2022年5月10日火曜日

進化

NHKのカルチャーラジオで聞いた話。人類こそが進化の最終形態だと思っていたが、実は類人猿はまずオランウータンが枝分かれし、次にゴリラ、次に人類とチンパンジーが分かれ、その後チンパンジーの枝からボノボが枝分かれしたのだそうだ。単純に時間的観点から言えばボノボの方がより新しい事に驚いた。

互いに分かれた後、人類もチンパンジーもそれぞれに進化した。チンパンジーは枝をつかむのに適したように手を進化させ、親指以外の4本を長く強くした。その結果手の甲を下にして歩くようになったのは長い指が歩く際に邪魔にならないためである。人類とチンパンジーの共通の祖先・プロコンスルは手の平を下にして歩いていた。

逆に人類は足の方を進化させた。直立二足歩行する際に、早く歩くためには指が長いと邪魔になる。水泳のひれをつけて歩くことを想像したら良い。人類は歩きやすいように足の指を短くしたのだ

それにしても直立二足歩行とはなんと馬鹿な進化をした事か。移動手段の強力化は動物にとって生存戦略上最も重要な事柄の筈だ。その証拠に過去には何度も空を飛ぶ様に進化した動物がいる。トンボや蝶などの昆虫がまず空を飛び、次に恐竜のうち翼竜が、そして鳥類が、最後に哺乳類の中から蝙蝠が空を飛ぶ様に進化した。しかし直立二足歩行などと言う移動に不便な進化をしたのは人類のみ、空前絶後の事だ。だが幸いそれにより両手が自由になった事が人類の知能を発達させた。

人類が牙を退化させたのは、同種の殺し合いをする必要がなくなったからだと講師は言う。チンパンジーは少なくとも一割が仲間を殺した経験を持つらしい。だが私の素人考えだが牙が必要なくなったのは殺す必要性がなくなったからではなく、知能による武器という別の手段で殺す方法を考え牙が必要なくなったたからではないか。知能を発達させた事が人類にとって良かったかどうか、今ウクライナで試されている。

2022年5月3日火曜日

持てる国

 国連改革の一環として常任理事国の拒否権乱用に歯止めをかけるため、拒否権を行使した場合国連総会を自動的に開き、説明を求めるという決議が採択された。結構な事だと思うのだが、その弊害として「拒否した国の意見をアピールする場として総会が利用される」のを危惧する意見があったのには違和感を禁じえなかった。

国連に限らずあらゆる会議は多種多面的な意見を自由にアピールする場であるべきだと思うのだが、国連ではアピールして良い意見と、してはいけない意見があるとでも言うのだろうか。意見を聞く事と、それを認める事とは別次元の問題だ。まさか英米の思惑に沿った意見なら良いが、そうでないものは封殺されるべきだというわけでもあるまいが。

421日発売の週刊新潮に面白い記事があった。片山杜秀氏のコラムで「世界の周縁で『英米本位を排す』と叫ぶもの」との題だった。それによると第一次大戦が終わった時、まだ20代の近衛文麿公爵が「英米本位の平和主義を排す」という論文を書いたそうだ。勝利者の英米は講和会議を前に民主主義、平和主義、人道主義、自由、平等と御託を並べる。だが、英米は世界の海を制し、広大な植民地を持って富と資源を半ば独占し、自分らの欲望を平和的な手段で追及できるアドバンテージを持っている。彼らは野心を正義の包装紙で包んでいるのだ。先に富んだものが「金持ちは喧嘩せずとも別の方法で相手を黙らせられる」との理屈を平和主義にすりかえ、善を独占している、と。

同じ事が今また国連で行われているのだろうか。高校時代、世界史の授業で「持てる国」と「持たざる国」の対比について習った事を思い出す。あの時は友人と「男の場合は『モテる男』と『モテざる男』に分かれるなあ」と冗談を言ったものだった。

2022年4月26日火曜日

ワクチン

 天然痘対策の種痘に始まって結核予防のBCGや幼児の時に受ける三種混合ワクチンなど、ワクチンは人類に多大な貢献をしてきた。それもあってか今度の新型コロナに対してもワクチンこそ最大の武器で、ワクチンさえ普及すればコロナに打ち勝てると言われてきた。ところがどうだろう、国民の大多数がワクチン接種を完了したというのにコロナ感染の勢いは衰えるどころか更に燃え広がっている。コロナワクチンは本当に効いているのか。そういう疑問はどこからも聞こえて来ず、専門家の中には4回目5回目の接種の必要性を説く人もいる。

ワクチンが本当に有効であるなら、その普及前と後とで明らかな違い、有意差がなければならない筈だ。最初に挙げた種痘などはそれがある。だが少なくとも感染者数に関してはワクチンの効果を示す有意差は認められない。そもそもワクチンは体内に免疫を作る事が目的で感染を予防するものではない、という事か。ならば重症化を予防している事に有意差があるというデータを示して欲しいものだ。

毎日発表される感染者の内、無症状が何割、発症した内、軽い症状で回復した人が何割、重症化したのが何割、というようなデータを示し、それらの値がワクチンの普及後で明らかに改善の傾向があるというのであれば納得するし、接種をためらう人の後押しする事にもなる。そういうデータが出てこないのはさほど効果がないからではないだろうか。ならばワクチン崇拝の見直しも必要だ。

今度のコロナ禍では感染症の専門家と言われる人達に大いに失望した。専門家というからには、現状を説明出来る、将来を予測出来る、対策を立案出来る、の三つが出来ないといけない。しかしそのどれも聞いた事がない。昨年末感染が下火になった時も何の合理的説明もなかったし。

2022年4月19日火曜日

大国の驕り

 A国の大統領がB国の大統領について「この男が権力の座にとどまってはならない」と言った。それに対してB国の大統領報道官が「B国の大統領はB国の国民が決める。A国が決めることではない。」と反論した。A国とB国、どちらの主張が民主的かと問われれば普通はB国の方だろうと思うが、実際はA国が民主的と言われるアメリカで、B国が強権主義と批難されるロシアなのだから訳が分からない。

アメリカは自国の国益のために他国のリーダーの首をすげ替える事を何とも思っていないようだ。キューバでは失敗したが、パナマのノリエガ将軍は自国の軍隊を投入して捕縛してしまった。まるで国内の犯罪を取り締まるかのように。ロッキード事件もアメリカから「あの男が権力の座にとどまってはならない」と思われて起きた事なのかも知れない。ロシアもノリエガ将軍の前例に倣おうとしたが、残念でした。

イギリスのジョンソン首相がキーウを視察した。一体何のために?かつて東日本大震災の時は菅首相が福島第一原発を視察したのがマスコミに叩かれた。懸命に事故対応に追われる現地スタッフの邪魔をするなというのだ。だが、政府の責任者として現地の実態を把握したいと思うのは当たり前だ。あの時菅降ろしの大合唱をしたマスコミが今度の何の役割もない視察をどうして黙認するのか。ゼレンスキー大統領は毎日寝る間もなく対応に追われている。その疲労度は福島原発の現地スタッフに決して劣らないだろう。他国首相にアテンドして被災地を案内する暇があったら、せめてその時間だけでもゆっくり休ませてあげたかった。来てやったとでも言わんばかりのジョンソン首相の振舞いに大国の傲りを感じるのは小国の妬みに過ぎないか。

2022年4月12日火曜日

ダブルスタンダード

NHKのドキュメンタリー番組「映像の世紀」の新しいシリーズが始まった。第一回は「モハメド・アリ 勇気の連鎖」と題してモハメド・アリの活躍がオバマ大統領の誕生につながったという内容だった。

アリは一番油が乗っている二十代後半ボクシング界から追放されていた。ベトナム戦争への徴兵を拒否したためだ。罪もないベトナム人を殺すのは嫌だ、という彼をアメリカ社会は許さなかった。今もし、ロシアの若者の誰かがウクライナで人を殺すのは嫌だと徴兵を拒否して、それを理由にロシア政府が彼を裁判にかけ刑を課したら、それでも世論はロシア政府を擁護しその若者を責めるのだろうか。

アメリカがベトナムで戦争を始めたのは共産主義の拡大を阻止するためだった。ロシアがウクライナで戦争を始めたのはNATOの拡大を阻止するのが一つの目的だ。ウクライナで民間人が多く殺害されたように、ベトナムでも多くの民間人が殺された。ウクライナの路上に残された遺体はおそらくロシア人の仕業と見て99%間違いないと思うが、それでもまだ確たる証拠がある訳ではない。ベトナム戦争ではアメリカ兵がすぐ横にいるベトナム人男性の頭部を銃で打ち抜く動画が出回った。戦争犯罪の動かぬ証拠があった訳だが、あのアメリカ兵は戦争犯罪で然るべき裁きを受けたのだろうか。

アメリカが始めたベトナム戦争をパリの秘密交渉を通じて終わらせたとしてキッシンジャーはノーベル平和賞を貰った。同時受賞を打診されたレ・ドクトはマッチポンプの平和賞はおかしいと受賞を辞退した。まるでロシアが始めた戦争をプーチン大統領がゼレンスキー大統領との直接交渉で終わらせた事に対して、プーチン大統領がノーベル平和賞を受け、ゼレンスキー大統領が辞退したかのような構図ではないか。

2022年4月5日火曜日

忠臣蔵

 アカデミー賞授賞式でのウィル・スミスの平手打ちを見て忠臣蔵を思い出した。嫌がらせを言ったりしたりする人が居て、それに耐えられなかった相手方が暴力で応える構図がそっくりだ。しかもどちらも晴れの舞台で起きた事で、その主催者と大衆世論を入れた四者の立場から事件を視ると色々な考察が出来そうだ。

まず、冗談はどこまで許されるかという問題がある。今度の事件でも司会者のクリス・ロックは軽い冗談で、彼自身の価値観では許される範囲だと思ったのだろう。相手が少しでも傷つくのはダメだとなると、ポリコレのような事になる。ポリティカル・コレクトネスの略で、ちょっとでも人が不愉快に思う言葉を排除しようという思想らしい。性同一性障害に悩む人に失礼だから、父や母、息子や娘、夫や妻、という言葉を使ってはいけないという運動にまで発展しているとか。流石にそれは行き過ぎと思う。

嫌がらせを受けた側の暴力の程度も問題だ。刀で切りつけるのはやり過ぎだとしても、軽く頭をチョンと小突くくらいならどうか。妻の容姿を侮辱された心の痛みと、平手打ちで受けた頬の痛みと、どちらが大きいかと言われれば前者の方がより後まで尾を引きそうだ。

いずれにしても事件が起きた場所の主催者は、その場を汚された事に怒るから暴力という形で表面化させた者を罰する。江戸幕府もそうしたし、映画芸術科学アカデミーもその方向で検討している。

世論で言えば、アメリカで賛否両論と言われるのに対し、忠臣蔵では吉良の擁護論が全くないのが不思議だ。そもそもあの事件はどうやって大衆の知る所になったのか。幕府だって城内の不祥事を公にはしたくなかったろう。もしロシアのクレムリンで何らかの刃傷沙汰が起きたとしたらそれが外に漏れる事はあるのだろうか。

2022年3月29日火曜日

思考実験

人間が犯した刑事事件ならどんな凶悪事件であろうと必ず弁護士がつく。しかし今度ばかりはロシアの弁護をしようという人が現れない。物事を正しく理解するためには双方の主張を聞くべし、という原則に立って、ロシアを、プーチン大統領を弁護したらどうなるだろうかと考えてみた。以下はあくまで一種の思考実験として論じる事であり、プーチンを弁護するなんて玉木はとんでもない奴だ、などと思わないで頂きたい。

学者の中にはNATOの東進を約束違反だと非難するプーチンに対して「一部の政治家の発言をNATOの総意と見なすのは無理がある」と言う人がいる。それはいくら何でもNATOに肩入れし過ぎだろう。民法に表見代理の規定があるように、それなりに地位のある人の約束ならロシアがあてにするのは当然だしNATOにもそれなりに尊重すべきだ。プーチンはNATOの「見下した姿勢」が我慢ならないと言っている。

ウクライナがミンスク合意を軽視した事も問題だ。ゼレンスキー大統領は国内での人気低迷対策として、トルコから買ったドローンでドンバス地方の親ロシア派に攻撃を仕掛けていたようだ。NATOはウクライナにミンスク合意の遵守をもっと強く勧めるべきではなかったか。ロシアの出方を興味本位で眺めていたという事はなかったか。

ロシアはドンバス地方の二つの「人民共和国」と「友好協力相互援助条約」を締結した。「安全を確保する」との名目で、親露派の支配地域にロシアの軍事基地の建設と使用や相互の防衛義務も規定している。有効期間は10年間で自動延長の規定もあるなんてまるで日米安保条約を参考にしたかのようだ。ロシアは当該地方が自分の領域だと思っているから血を流して戦っているが、アメリカは恐らくそこまでしない。それが日米安保との違いかも知れないが。

2022年3月22日火曜日

逃げる

 戦争ほど努力と報酬、過誤と代償の非対称性がひどいものはない。それによって得をする人間は左程の苦労もせず、何の得もしない人間がとてつもない辛苦を強いられる。ウクライナから命からがら隣国に避難した女性や子供達を見ていると、その不合理を痛感する。

テレビに映るのは避難所に到着して一応の安堵を得た人達だけだが、戦場から「逃げる」過程はさぞ大変だった事だろう。第二次大戦末期、満州から「逃げる」様子を描いた、なかにし礼の「赤い月」という小説を読んだ。小説だから多少眉に唾をしないといけないかも知れないが、実体験を書いた藤原ていの「流れる星は生きている」にも似たような事が書かれているからほぼ真実だろう。読んでいると「逃げる」事の悲惨さと、日本軍人のだらしなさに胸が暗くなる。

小説は昭和二十年八月九日に始まる。異変に気付いた日本人が逃げるため列車に乗ろうと駅に集まるとそこでは「群がる市民を相手に憲兵がわめいている。『避難列車に乗る順番は、まず軍総司令部の将校家族、つづいて佐官家族、尉官家族。その次に満鉄社員家族。一般人はそのあとだ。』」なんと!一般人を置き去りにして軍人が真っ先に「逃げる」算段をしているのだ。その論拠が「軍人は国の宝なのだから、最優先に避難して当然なのだ。」だと。こんな事だから日本は負けるべくして負けたのだ。

主人公の家族は関東軍のツテを頼って何とか軍用列車に乗り込む事に成功するが、途中ソ連軍戦闘機による機銃掃射を受けたり、汽車による逃避行も生易しいものではなかった。便所にまで人が詰め込まれているものだから、男も女も小用を窓からやって済ませたとか。男はともかく、女までもがひどい屈辱を強いられる。その様子がどうであったか、その描写もあるので興味ある方はご一読を。

2022年3月15日火曜日

リーダー

 ウクライナがロシアの侵攻になんとか耐えている中、ロシアの軍事力を恐れてか調停に乗り出す国が現れない。アメリカは半分当事者みたいなものだし、中国に期待する向きもあるようだ。結局、米露中の三か国の顔色を窺いながら世界の政治が回っている。その米露中という三つの軍事大国を向こうに回して日本がかつてそれぞれとタイマンでガチンコの戦争をやって21敗と勝ち越した事を思うと昨今の日本の政治家の影の薄さが情けない。

いやいや国際政治の檜舞台で大きな顔をして国民を戦争に巻き込むようなリーダーよりは、片隅でひっそりとしていてひたすら自国民の幸せを念じている方がずっと良いリーダーなのかも知れない。プーチン大統領を見ていると、ああいう人が日本のリーダーでなくて良かったとしみじみ思う。

古代中国ではリーダーを王者と覇者の二つに分類し、徳を以て天下を治める者を王者、力で治める者を覇者と呼んだ。プーチン大統領に王者の風格は全くないし、覇者と呼ぶ事すら憚られる。ボディーガードを沢山引き連れて歩く姿は山口組の親分でも見ているようだ。

ウクライナ侵攻の指令を出した時はちょっと脅せばウクライナの指導者がすぐに尻尾を巻いて逃げるとでも思っていたのだろうか。そういう誤算をするのは彼自身がそういう人間だからだろう。しかしゼレンスキー大統領は逃げなかった。その悲愴な表情を見ると、桶狭間の戦いを前に幸若舞を舞った信長の姿が重なる。「人間五十年、下天のうちを比べれば夢幻の如くなり」ゼレンスキー大統領もそんな心境かも知れない。

翻って日本のリーダーも、普段目立たないのは良いが、いざと言う時には逃げないで毅然とした態度を見せてくれないと困る。スキャンダルの度に秘書の責任にするのを見ると心配だ。

2022年3月8日火曜日

言葉

アメリカに住むウクライナ人が戦争反対のデモをする映像がテレビで流れた。その中に「No Putin No Cry」と書かれたプラカードが写っていた。字幕では「プーチンがいなければ涙は流れない」と説明されていたが、そうかな?と思った。報道は解釈の要素を入れず、出来るだけ客観的であるべきだという原則からすれば「プーチン嫌い、泣くのも嫌」という感じが適切ではないだろうか。

テレビニュースで流れる言葉に注目して見ている。パラリンピックのウクライナ代表は記者会見の席でたどたどしい下手な英語で「Thank you for make decision云々」と言っていたが、これはmakingと言うべきだろう。現地の様子を伝えるニュースではあるウクライナ人が未熟な日本語で「メンタルにあきらませると、そういう怖がりがあります。」と言っていた。字幕にはちゃんと「諦めさせるのではと、そういう恐怖があります。」と出ていたが。動詞の活用はどの言語でも難しい。

ロシア語やウクライナ語が分からないのが残念だが、ゼレンスキー大統領が国民を鼓舞する演説で使っているのは流石にウクライナ語なのだろう。彼の母語はロシア語で、ウクライナ語は一生懸命勉強したとか。時々興奮して我を忘れた時にはポロっとロシア語が出たりしないだろうか。

そう言えばフルシチョフもウクライナ人だったそうで、ロシアが露土戦争でトルコから奪ったクリミア半島をウクライナの帰属にしたのもそれが関係しているらしい。世が世ならゼレンスキー大統領がソ連の書記長になる可能性だってゼロではなかった訳だ。

スターリンはジョージア出身だったし、ヒトラーはオーストリア人でドイツの国籍を取得したのは首相になる数年前だった。欧州での国の概念は日本人が考える以上に複雑で一筋縄ではいかないものなのだろうと思う。

2022年3月1日火曜日

知的生命体

 

恐竜の時代は66百万年前に終わるまで約16千万年間続いた。もし隕石が衝突して来なければもっと続いただろう。一方で人類の時代は新人類の出現からカウントしても20万年、ネアンデルタール人の時代を入れてもせいぜい50万年に過ぎない。ノストラダムスは3797年までの予言を残しているそうだが、それまで本当に人類は生き延びていられるだろうか。知性の暴力的な膨張を理性は押さえられるのだろうか。

人類は他の動物に比べて肉体的身体能力に劣る分、知恵を活かして生き延びて来た。しかしよせばいいのにその知恵を仲間を殺すためにまで使い始めた。それは知性と理性のアンバランスに起因する。人を殺すための機械はどんどん進歩するのに、人を思いやる気持ちは一歩も進歩しない。かつては弓矢や投石器程度であった武器が今や全人類を一瞬に消し去る事が出来るほど進歩したのに、「真偽・善悪を識別する能力」(広辞苑)である理性は孔子やソクラテスの時代から1ミリも進歩していない。領土拡張のエゴは中国の春秋戦国時代からまるで変わらない。知的資産は言葉で次世代に伝えられ際限なく膨張するが、理性は一代毎に振り出しに戻る。これは悲しいかな知的生命体の宿命のようだ。

その証拠に地球以外の星の生命が一向に発見できないではないか。宇宙の広大さを考えれば、地球以外の天体に生命が生まれない筈がない。その中には必ず知性を備えた者もいて、彼等も交信を試みていたかも知れない。ひょっとしてそれは地球が恐竜の時代に届いていたかも知れないのだ。だが彼等は人類と同じように自らの知性の故に絶滅した。互いに時を同じくして存在し交信できる確率はゼロに近い、それ程知的生命体が存続出来る時間はホンの一瞬でしかないという事だ。

2022年2月22日火曜日

ミュンヘン

 18日、ドイツのミュンヘンで各国の安全保障を議論する国際シンポジウムが開幕した。ミュンヘンでの会議と言うとどうしても第二次大戦前の英仏独伊の首脳による会議を思い出してしまう。

19389月に行われたその会議の主題はヒトラーによるチェコのズデーテン地方の割譲要求だった。当時ヒトラーは東方からの脅威を訴え、ズデーテン地方にドイツ系住民が沢山住んでいるという理由で併合を主張した。そして今、ロシアは西方からのNATOの脅威を訴え、ウクライナのルガンスク州やドネツク州にロシア系住民が沢山住んでいるという事実がある。偶然とは思えない類似性が恐ろしい。

前の会議の時にはドイツがそれ以上領土の拡大を求めない事を条件に英仏の首脳がヒトラーの要求を認め、戦争の危機が一時的に回避され、イギリスのチェンバレンは平和を守った英雄として国民に大歓迎されたが、その後の経緯は知っての通り、ヒトラーの領土的野心は留まるところを知らず結果として大惨事を招いた。今チェンバレンの遺骨はウェストミンスター寺院の一角に小さな墓碑と共に眠り、訪れる人は殆どいないらしい。対独強硬路線を主張したチャーチルは大人気だと言うのに。それを見て今の政治家がチェンバレンを反面教師にしないか心配だ。

チェンバレンにとっての不幸はヒトラーが想像以上のワルだった事だ。責められるべきはあくまでヒトラーであってチェンバレンではないはず。対外強硬路線を主張して国民を煽るより、平和への道を誠実に模索する事こそ本来政治家のなすべき事と思う。

ヒトラーが一定の理性を持っていて、ミュンヘン会議の合意が守られ、チェンバレンが平和を守った英雄として末永く敬愛を集めるような、そんな歴史になっていれば人類はどれだけ幸せだった事だろう。

2022年2月15日火曜日

終末時計

 ウクライナ発の第三次世界大戦が原因で人類は絶滅しました、なんて事になってもそれを記録する人は誰もいないし、記録する意味もないのだなあ。

核戦争などによって人類が絶滅するまでの時間が残りどれくらいあるのかを象徴的に表現した世界終末時計が今年も140秒に据え置かれた。この時計1947年に考案され、当初は残り7分とされたそうで、1991年のソ連崩壊の時に17分になったのが最長で、最近は2010年にオバマ大統領の核廃絶運動を理由に6分前まで伸びて以来短くなる一方だ。

140秒という数字にどんな意味があるのか知りたくなって調べてみた。基本的には当初の7分を基準にして、緊張が高まれば短く、緩和すれば長くというように相対的に見直され、数字そのものに特別具体的な意味はないようだ。そもそも当初の7分も考案者のラングズドーフにとって「見た目がよさそうだったから」という理由に過ぎないらしい。

ならば自分なりにその意味を探ってみようと思った。24時間を何と考えるか。色々考えられるが人類が滅亡するまでの時間だと言うのだから、人類が存在した全体の時間を24時間にするのが自然だ。人類の進化は猿人、原人、旧人を経て我らの祖先である新人が現れたのが20万年前だと言われている。20万年を24時間として140秒を評価すると231年になる。

いや待て。核戦争による絶滅という事は自らの知性がその原因なのだから、人類が知の蓄積を始めたのを起点にすべきではないか。文字の発明が約5000年前らしいのでそれを24時間としたら140秒は5.7年になる。ひょっとしてやはりウクライナ発なのか。

それにしても「人類滅亡」という超ウルトラスーパービッグな大ニュースが全く無価値だなんて、なんともまあ皮肉な事ではないか。

 

2022年2月8日火曜日

年齢

 石原慎太郎氏の死を告げるネット記事を見て首を傾げた。そこには石原四兄弟が一列に並んだ写真と共に、四人それぞれのコメントが掲載され、長男の伸晃氏のコメントは以下の通りだった。「(前略)父・石原慎太郎が本日の午前に急逝いたしました。89歳。数えで90歳であります。膵臓がんを(後略)」二月一日現在で満年齢と数え年が一つしか違わないという事は一月生まれだったのか、と同じく一月生まれの私は親近感を持った。

ところが調べてみると石原氏は昭和7930日生まれ、数えは91歳だ。自分の親の年を間違えるとは何たる親不孝。それとも伸晃氏は数え年の仕組みをよく理解しないで、単純に満年齢に1を加えたものだと思っていたのだろうか。日本文化を愛した父を想い敢えて数え年に言及したのなら、よく勉強してからにして欲しかった。

旧弊に思える数え年だが、満年齢より適切だと思うケースが去年の全米オープンテニスであった。新進気鋭の若手の女子選手二人が優勝を争っていた。アナウンサーによると一人は19歳、もう一人は18歳だと言う。そう聞けば片方が一歳年上で結構差があるように思えるが、実際には一方は9月生まれ、片方は同じ年の11月、二か月違いでしかなく大会当時誕生日が来ていたかどうかの違いしかないのだ。数え年で言えば二人とも20歳、そう言った方が二人の関係をより的確に表現しているではないか。

人の長幼を表す際には数え年の方が適していると思った。そう言えば学校の学年も数え年のシステムに似ている。満年齢は違っても同じ学年なら長幼の差はほぼないと考えられる。数え年は正月に一斉に年を取るが、学年の場合は四月に一斉に一つ上がる。数え年は言ってみれば人生何年生かを表す優れたシステムなのだ。

2022年2月1日火曜日

罰則

 これも正月のニュースで知った事だが、イギリスには現代奴隷法という法律があるそうだ。一定以上の規模を持つ企業に対して、その取引先を含めて奴隷労働や人身取引に関与する事を禁止するものだ。ニュースではある企業がその調達先が最低賃金を遥かに下回る時間単価で労働者を雇っていたとして非難を浴びている事を報じていた。そして、今は罰則はないが今後罰則を設ける方向にある、と。

人を奴隷のようにこき使うのは悪い事だからそれに関与した会社を罰するのは当然の事の様にも思えるが、何か違うような気がした。そもそも人が人を罰するのは慎重であるべきなので、どういう場合に罰しても良いかを刑法が規定している。そこに書いてない事は多少眉を顰めるような事でも無暗に人を罰してはいけないと考えるべきだ。最低賃金以下で労働者を雇ったというが、それは労使双方の合意の上ではないのか。もし無理矢理首に縄をつけて強制労働させたというなら、監禁罪、誘拐罪等に問えば済む。

大体、国が偉そうに民間の人や企業にああしろこうしろと指図するのが気に食わない。一番悪い事をしているのは国ではないか。刑法で一番重い罪は恐らく殺人だ。その殺人をやっているのが国なのだから。イスラエルはガザ地区の民間施設を空爆し、いたいけない幼児を何人も殺したし、アメリカは無人爆撃機でアフガニスタンの無辜の民を何人も殺した。それを罰しないでどうして民間企業が罰せられよう。

そのアメリカがウクライナでロシアと向い合っている。アメリカ式の民主主義を広めたいというのがアメリカの大義名分なのだろうが、それも善意の押売りの臭いがする。刑法130条には住居侵入罪が規定されている。よその国に軍隊を派遣する他国侵入は理由がどうあれ禁止すべきではないか。

2022年1月25日火曜日

本物である意味

 絵画の価値はその構図と色彩の妙にあり、それが同じなら本物も偽物もない、と前回書いた。それは暴論だと言われる方も居よう。ならば聞きたい、小説はどうか。小説の価値は言葉のつながりが生む感動にあって、それ以外にない。作者の自筆原稿であろうが、活字になったものであろうが、言葉のつながりが同じなら本物とか偽物とか全く議論にすらならない。最近は電子書籍や朗読などの形式も現れた。

本物でなければ意味がない物とはどんな特徴があるのだろう。

去年三月、米ツイッター社の創業者が最初にツィートした文が約三億円で落札された。「just setting up my twttr」とたった五つの単語からなる文章に過ぎない。ワープロで打たれた物だから同じ物をいくらでもコピー出来るし、それ自体が別に人に感動を与える訳でもない。ブロックチェーン技術を応用したNFT(ノンファンジブル・トークン)として本物であると保証されている、という事以外に価値を見出すのが難しい代物だ。そんな物に三億円も出そうと言う人の気が知れない。

この落札者にしろ、絵画に本物性を求める人にしろ、対象の物の価値そのものよりもその転売性に着目しているのではないかと思えてならない。いつか誰かがもっと高値で買いたいと言うだろうから買っておこう、と。本物志向の向こう側には所有欲や金銭欲という邪な願望が見え隠れする。

本物の価値が絶対だというものもある。前回書いた人との接触もその一つ。五年前大阪の東洋陶磁美術館で見た北宋汝窯青磁水仙盆もそうだった。同じ物をと乾隆帝が作らせた清代の青磁水仙盆も一緒に展示されていたが色合いが微妙に違う。皇帝権力をもってしても再現できなかった天青色の気高さこそ本物の真骨頂だった。人の抱擁の貴さも同じだと思う。

2022年1月18日火曜日

本物と偽物

 

正月気になったのがメタバース(仮想空間)についてのニュースだった。ラスベガスでの展示会CESでは視覚や聴覚だけでなく触覚すらも再現するものが現れたらしい。ゴーグルのような大きな眼鏡を掛けて仮想空間で銃を打ち合うゲームに興じる人が相手の弾が当たると痛みを感じたりもする事が報道された。将来的には特殊な手袋を嵌めてテレビ会議の相手と握手したり、特殊なシャツを着て遠距離恋愛の恋人と抱き合ったする事も出来るようになるかも知れない。しかし人との接触という感動が仮想空間という偽物で代替できるものなのか。

絵画鑑賞なら偽物でも足りる。伊藤若冲の動植綵絵という傑作は上野で公開された時、五時間待ちの大行列になったが、偽物で良いなら京都は相国寺の承天閣美術館で待ち時間ゼロですぐ見れる。偽物と言っても高度な技術で複製した物で、本物と二つ並べて飾ってあればどちらが本物か見分けがつかないだろう。絵画の価値とはそこに描かれた構図や色彩の妙が与える感動や癒しにあるのだから、見分けがつかないのなら本物も偽物も同じだ。むしろどれだけゆっくり時間を掛けて鑑賞できるかの方を私なら重視したい。私が見た時は外国人の老夫婦と他に日本人が一人いただけで心行くまで堪能できた。日本語の解説を読めない外国人が「まあ何て綺麗な桜なの」と言っているので「いや、それはチェリーではなくピーチですよ」と教えたりもした。

絵画なら偽物で満足できても、人との接触だけは本物でなければ意味がないように思える。ミュージカルのキャッツでは孤独に悩む年老いた猫が「Touch me」と悲痛な声で唄う。彼女がメタバースで思い出の人と抱擁出来たらその孤独感がいくらかでも癒されるのだろうか。いやむしろ一層深い孤独に襲われるように思えてならない。

2022年1月11日火曜日

 皆様良い年をお迎えの事と思います。今年も当新聞並びに当コラムをご愛顧の程お願い申し上げます。

関東の元日は風は強いものの気持ち良く晴れた。初詣やその他の用事を早い内に済ませ、お昼からお屠蘇を頂く事にした。父が昔使っていた金杯に大吟醸酒を注いで唇を盃に近づける。盃を持つ親指と中指にお酒がひたひた触れる感触がなんとも言えない。やっぱりお酒は盃で飲むものだと思うのがこの瞬間だ。

しかし世の中を見るとお酒を飲むのはぐい飲みが主流で、中にはコップ酒なんて人もいる。それは多分注ぐ時にその方が便利だからだろう。盃はその形状からしてそっと注意して注がないとすぐに溢れ出てしまう。世界中どの民族もお酒は好きで大切にして、溢れ出させるような事はしたくなかったようだ。その証拠にビールジョッキにしてもワイグラスにしても上からドボドボと乱暴に注いだとしても簡単には溢れ出ないような形をしている。私の知る限り日本の盃だけがこの様な一見不便な形をしている。

愚考するに日本文化は人が行儀良くなる仕組みを内在しているのではないか。将棋の対局姿勢を見てそう思った。昨今NHKの将棋トーナメントはコロナ対策の一環として対局者の間に仕切りを設けてテーブルの上に薄い盤を置いて両者が椅子に座って対峙する形式で行われる。そして時々見かけるのは対局者がテーブルに肘をついて考える姿である。その姿を私はあまり美しくないと思う。和室で座布団に正座して対局する時、そんな姿勢は取れなかった。正座して背筋がピンと伸びている姿は見ていて美しい。お酒だって片手で乱暴に注ぐよりも、両手を添えてお淑やかに想いを込めて注ぐ方がずっと美しいではないか。

正月のお屠蘇を頂きながら日本文化の偉大さに思い至った新年でした。